第6話 温泉、そして伝説へ
(はて、考えてみれば人生というものは、不思議なものでございます)
たとえば今この時。
澄み切った空の下、森の奥深くに湧く温泉。
湯から立ち上る湯気。岩肌の隙間から漏れる陽光。頬を撫でていく軽やかな風。心地よい鳥のさえずり。
すべてが完璧に調和した自然の贈り物の中で、トシオは顔だけを湯の外に出し、しみじみと至福を噛みしめていた。
──が。
場面を引いていくと、その光景がいかに異様なものであるかが明らかになる。
湯船の周りには、十数名の女性たちが半円を描くように陣取り、一斉に弓と剣を向けていた。
その中心に立つのは、銀髪に碧眼を持つ絶世の美女。高貴な空気を纏い、威厳に満ちた瞳で、湯に浸かる全裸の男を見下ろしている。
浮かんでいるのはトシオの頭部だけ。残りの体は湯の中にあるが、その「すべて」が丸見えであることは想像に難くない。
トシオは静かに目を開け、湯気の向こうの光景を確かめると、静かに独白した。
(──ただいま、絶賛、ピンチでございます……)
いかにして彼がこのような状況に陥ったのか。それを理解するには、少し時間を巻き戻す必要がある。
――その日の朝、トシオは自分の拠点で静かに朝食を取っていた。
窓から差し込む朝日が小麦パンとハーブティーの上に淡い光を落とし、テーブル上の食材たちが優しく輝いている。
「運動不足も解消せねば……身体が鈍ると仕事にも差し障りますからね」
朝食を終えると、トシオは簡素な装備──ショートソードと簡素な弓と矢筒、小型のナップサックを身につけ、森へと足を向けた。
いつもの散策路から少し外れた場所。魔物の通り道を避けるように、彼は注意深く森の奥へと進んでいく。
この禁忌地の森は、普通の人間が立ち入れる場所ではない。しかし、トシオにとっては散歩コースであった。
「おや、これは……」
道脇に見慣れない形のキノコが生えているのを見つけ、トシオは足を止めた。赤と紫の斑点がある笠、絹のように光る柄。明らかに珍しい品種だ。
彼は丁寧にそれを摘み取り、ナップサックに収めた。
「これは乾燥させれば高値で取引できそうですね……あ、いえ、"拾っただけ"でございます」
そうして散策を続けていると、不意に足元から湯気が立ち上るのに気がついた。
そこは緩やかな窪地になっており、岩の間から温かな湯が湧き出ていた。湯から立ち上る湯気は森の光を通して、まるで幻のような風景を作り出している。
「こ、これは……温泉!? まさか、こんな場所に……」
トシオは周囲を警戒しながら、慎重に湯の温度を確かめた。熱すぎず、ぬるすぎず、絶妙な温度。
あたりに人気はない。魔物の気配もない。
「……いただきます」
彼は丁寧に手を合わせたのち、周囲を再度確認すると、服を脱ぎ始めた。胸当て、シャツ、ズボン、靴下──順に丁寧に畳み、岩の上に並べていく。
全てを脱ぎ終えたトシオは、湯の端に腰を下ろし、足から少しずつ湯に浸かっていった。
鳥のさえずりが響く静かな森の中、温かな湯に身を委ねるというこの上ない贅沢。
「……生きててよかった瞬間でございます」
そう呟いて、湯の温もりに身を委ねるトシオの顔には、人生の達人すら辿り着けない安寧の表情が浮かんでいた。
──が。
その表情の上に、影が落ちた。いや、影ではない。剣である。
気がつけば、周囲を美しい耳長族の女たちが取り囲み、何本もの矢と刃がちょうど股間を中心に集中照準されていた。
(耳が長い……もしや異世界王道の種族様……エルフ様でございましょうか?これはこれは、眼福でございますな。特にその、どこがとはいいませんが……)
悶々とするトシオを他所に、きわどい民族衣装のエルフたちが口々に投げかけた。
「おい……なぜこの者は、全裸で湯に浸かっている?」
「見たことのない儀式だ……」
「魔族か?」
「いや、ただの変態だろ」
「まさか、"捧げ者"……?」
ざわつく中、トシオは静かに目を開けた。
「……ああ、これはご挨拶が遅れました。私はただの、しがない素材屋でございます」
一同。
「嘘をつけえ!!」
森に轟く総ツッコミ。矢の先が震えた。
「人間の素材屋が、この森に一人で入れるはずがないだろうが!」
「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつけ!」
「この変態が!!」
「ち、違います。私は……この泉の、効能を──」
「効能!?」
「えっ、湯の効果?」
「何を言っているのだこの変態は」
「"湯に入る"とか、そんな概念、そもそも我らに無い!」
「変態の妄言と見て間違いないですね」
「死刑で」
殺意が風に乗る。
「アルウェン様、どうなさいますか?」
「……まず、服を着せろ。そして事情を聞く。だが、逃げたら……射て」
アルウェンと呼ばれた銀髪碧眼エルフの一言に、弓が静かに引かれた。
(やばい、これ、非常にやばい流れでございます)
──その時だった。
森の奥から、不気味な音が響いた。
――パキン……バキッ……バキバキバキッ……ドォォン!!
一本、また一本。巨大な木々がまるで紙細工のように、次々と"何か"によってなぎ倒されていく。
それは破壊音の連続でありながら、規則的にリズムを刻む"足音"のようでもあった。
音と共に、風が変わる。空気が震える。何か巨大な"質量"が、確実にこちらへ向かっている。
「この圧……まさか……」
青ざめたエルフが、喉を震わせてつぶやいた。
──そして、現れた。
裂けた樹林の向こうから現れたのは、漆黒の皮膚に覆われた巨体。
鋭い牙。隆起した背。両足で大地を割るほどの重圧を持つ、ティラノ型の魔物。
咆哮。
耳をつんざく咆哮が森を震わせ、鳥が一斉に飛び立ち、空気が爆ぜた。
「"森の暴虐者"──ディアルガ……!」
その名が出た瞬間、場の空気は凍りついた。
誰もが言葉を失い、武器を握る手が震えた。
「やばい……」
「こいつに会ったら、もう終わりだ……」
「逃げられない!」
「死……」
その中で、唯一声を出したのはアルウェンだった。
彼女は明らかに怯えながらも、深く息を吸い──叫んだ。
「全員、武器を構えろッ!!」
その声で、場にかろうじて戦闘態勢が戻る。
だが、それでも誰一人、震えを止めることはできなかった。
トシオは湯から身を乗り出し、思わず呟いた。
「これは悪夢でございますね」
状況は刻一刻と悪化していく。彼は素早く湯から這い上がると、緊急事態に行うべき行動を的確に実行した──そう、ズボンを履くのである。
何とか下半身だけはカバーしたものの、上半身は裸のままだ。それでも今は武器の一つも持っている方が良い。
この魔物──"森の暴虐者"恐竜主ディアルガ、村ではゴールドランク以上の冒険者パーティーでなければ、討伐不可能とされる超危険存在だと聞いていた。
アルウェンが先陣を切り、澄んだ詠唱とともに銀の魔法矢を放つ。
「──貫け、セラフィ・ランサー!」
魔力を帯びた光の槍が音を裂き、ディアルガの胸部を正確に射抜く。が──火花と共に跳ね返された。
「なっ……通らない!?」
続いて弓隊が一斉に矢を放つ。空を覆うような乱れ撃ちが黒き巨体を包み込むも、すべての矢が鱗に当たった瞬間、甲高い音を残して砕け散る。
「魔法障壁……いや、違う。これは"純粋な硬度"……」
副官の少女が呟く。アルウェンの眉が険しくなる。
「ならば──力押ししかないッ!」
エルフたちは距離を詰め、接近戦を仕掛ける。炎の刃、風の矢、雷の槍。多属性の攻撃魔法が次々と放たれるが、いずれもディアルガの漆黒の皮膚を焼くには至らない。
──そして。
遅れて飛び出したのは、ズボンだけを履いた髭もじゃの男だった。
「ええと……私も、失礼いたします」
何故か丁寧に一礼しながら、トシオが矢を番える。
【狩人】発動──魔力を帯びた戦技、狙撃矢をディアルガの目元へ撃ち込むが、目の前で矢が砕けて消える。
「……ッ」
間髪入れず、トシオは短剣──いや、冒険者登録用の安物のショートソードを引き抜き、駆け込む。
「せいっ──とぉ!」
一閃。足元を狙った斬撃。だが、剣が、刃ごと"へし折られた"。
ディアルガは、動いてすらいなかった。
ただ立っているだけで、あらゆる攻撃を寄せ付けない"壁"そのもの。
トシオは剣の残骸を見下ろしながら、静かに呟く。
「……これは、ちょっと想像以上でございますね」
アルウェンがトシオの背に声をかける。
「お前、生きて帰りたいなら、ここから今すぐ離れろ!」
「いえ、私……まだ湯につかり足りないので……」
「黙れ変態!!」
ディアルガの尾がうなり、空気を裂くように地面を薙ぎ払った。
魔法障壁をすり抜けた風圧が、前衛にいたエルフの少女兵を吹き飛ばす。
彼女の小柄な体が宙に投げ出され、回転しながら地面へ叩きつけられようとした──その刹那。
「──っと、こちらでございます!」
トシオが地を蹴って駆けた。滑るような動きで滑り込み、腕を広げて少女を受け止める。
衝撃で二人は草地に転がり込む。風に煽られたトシオの前髪がふわりと持ち上がり、その下からのぞいた目が、少女と真正面でぶつかる。
目が合った瞬間──少女の頬が、ふわっと赤くなった。
「……感謝……します」
「いえいえ。湯の後ですので、体がいつもよりほぐれておりまして」
その直後、少女の腰から落ちた刀のような武器が、草地にキラリと転がった。
柄は細く、刃は美しい反りを描き、異国の鍛冶技術を感じさせる造りだった。
トシオはその武器に視線を落とすと、ふと、初めてこの地に降り立った日の記憶を思い出す。
(……そういえば)
名刺を初めて手にしたあの日、【狩人】を選んで戦技を試そうとした。
だが──弓を装備していなかった。
戦技は、起動しなかった。
(名刺の力は、職業に応じた"武器"が無ければ発動しない……)
あの時は、ただの紙切れになった名刺が風に舞っていったのだった。
トシオはそっと髪をかきあげ、転がる"刀に似た武器"に手を伸ばした。
「……条件は、整いましたね」
トシオは静かに呼吸を整えた。手の中にある刀に似た武器を握り直すと、彼は懐から──ひとつの"札入れ"のようなものを取り出す。
名刺ケース。
それは、異世界に馴染まない異質な質感を放っていた。
表面には見慣れぬ光沢。複雑な機構が折り重なり、金属でも木でも革でもない"何か"で作られている。
「──召喚」
トシオが一言呟くと、ホルダーが自動展開する。音もなく開かれた札入れから、光の粒子が舞い上がり、空中に"二枚"の名刺が浮かび上がった。
【侍】──そして【戦士】。
「……この組み合わせでございますね」
名刺が、トシオの掌にふわりと舞い降りる。空気が震える。
周囲のエルフたちがざわめき出す。
「何だ……あれは?」
「魔法か? いや、見たことがない……」
アルウェンが、目を見開いたまま低く問う。
「……その術具は……?」
トシオは、少し首をかしげた。
「ああ、これですか。これは、名刺と申しまして……」
説明の途中で、再び殺気が走る。
「それも"術"なのか!?」
「どこかの古代遺物……!?」
「……変態かと思ったら、古代兵装使いだったのか」
「やっぱり変態ではなかったのか……!?」
トシオは、名刺をゆっくりと重ねた。
「いえ……もう変態でけっこうでございます……ふう、さて」
場の空気が一瞬固まる。
すぐにトシオの体から、ほんのわずかな"風圧"が広がる。
空気が変わる。戦場の重心が、音を立てて移動する感覚。
「営業部係長、田中敏夫……推して参ります」
トシオの気配が、まるで別人のように研ぎ澄まされていた──
トシオが一歩、静かに踏み出す。
空気が、一瞬で研ぎ澄まされた。
「──侍、戦技。弱点感知」
呟くような声と同時に、視線がディアルガの巨体をなぞる。
骨格、筋肉、鱗の重なり──一見して堅牢な黒鱗の奥に、わずかな脆さが浮かび上がる。
「──戦士、戦技。ウォークライ」
深く息を吸い、短く叫ぶ。声は低く、鋭く、空気を振るわせる。
トシオの背に風が集まり、立ち昇る気配が明確に変わった。
「ふぅ……では、改めて!」
腰を落とし、左足を半歩引く。
刀を静かに鞘に収め、指先が柄にそっと触れた瞬間──
咆哮。
ディアルガの雄叫びが天地を震わせる。
黒き巨体が突進。大地が裂けるほどの質量が一直線にトシオへと迫る。
だが、トシオは一歩も動かない。
風すら止まったかのような静寂の中、
抜き放たれた一閃が、空間を切り裂いた。
「──居合・断空」
鋭く、そして静かに。
斬撃は、突進の軌道を斜めに裂き、ディアルガの巨体がよろめいた。
しかし、暴虐者の猛攻は終わらない。
爪撃、牙の一閃、脚払い。
咆哮とともに繰り出される連撃が、トシオを圧し潰さんと襲いかかる。
それでも彼は、止まらない。
「戦技──雲霄の位」
呼吸と共に剣が舞う。
斬るのではなく、弾く。押すのではなく、逸らす。
まるで攻撃の軌道を知っていたかのように、トシオはすべての猛攻を剣先でいなした。
鋼と鋼がぶつかる音が森に鳴り響く。
そのたびに空が光り、地面が揺れる。
音と光と静寂が交錯する、まさに剣戟の舞。
森の空気が、凍りついた。
誰も、声を発せなかった。
ただ、あまりに"異常"な光景に呑まれていた。
目を見開いたアルウェンが、言葉にならない声を呟く。
弓を握る手がかすかに震えていた。
「た、ただの変態では……なかったのか……」
その呟きに、誰も笑わなかった。
剣戟の残響だけが、静かに森を支配していた。
だが──次の瞬間。
ディアルガの尾が薙ぎ払われる。
強烈な衝撃が空気を砕き、巨大な岩を粉砕する。
爆音の中で、トシオの姿が消えた。
「──っ!」
エルフたちが目を見張った刹那、トシオはもうそこにはいなかった。
「気配断絶──縮地」
森の反対側、ディアルガの背後に滑るように現れるトシオの姿。
眼差しは静かで、鋭い。
「戦技──弱点突破」
息を呑むような沈黙のあと──
「──秘剣・燕二段」
二閃。
×字を描いた斬撃が、黒き鱗の奥にある喉を正確に裂いた。
巨体が、ひときわ低い唸り声を上げ、崩れ落ちる。
『森の暴虐者』──その異名を持つ魔物は、ついに沈黙した。
森に静寂が戻る。
倒れたディアルガの巨体の向こうで、トシオはゆっくりと刀を鞘に収めた。
誰一人として、言葉を発せない。
温泉の湯気が風に揺れ、倒れた魔物の体温が熱を放つ。それでも、場は凍りついたままだった。
やがて、アルウェンが一歩前に進み出る。
彼女の緑の瞳には、戸惑いと驚きと、そして畏怖の色が浮かんでいた。
「お、お前……いや、あなた、貴方様は、一体……何者?」
風が草を撫で、髪と髭を揺らす。
トシオはただ静かに答えた。
「私は……ただの、髭もじゃ素材屋でございます」
その言葉に、誰も反論する者はいなかった。
「さて、では私はこれにて……少々汗をかきましたので、あの湯に戻らせていただきます」
トシオはそう言うと、まるで何事もなかったかのように、温泉に向かって歩き始めた。
まさか、本当に戻るつもりなのか──エルフたちの間でざわめきが起こる。
アルウェンはまだ言葉を見つけられないまま、混乱した表情でトシオの背を見つめていた。
「ひ、髭もじゃ素材屋……」
「あの魔物を倒した……」
「……ひげお……」
囁きが広がる。
どこか遠くで、鳥が鳴いた。
誰も止めることができず、半裸の男は再び湯に浸かっていった。
こうして、一つの神話が静かに生まれた瞬間だった。