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第5話 ワインと髪留めと、猫耳と

 村の石畳を三十度ほど前傾姿勢で歩きながら、トシオは深いため息をついた。


「ふう、危うかったですね……それにしてもやはり、ガラハム様の眼光は、五寸釘より痛うございます……」


 ぼさぼさ髪を掻き上げれば、小雨に濡れたモップのような反動が生じる。視界が一瞬歪むのを気にしつつ、トシオは小声で呟いた。朝の村は人影もまばら。石畳の街路には朝霧が立ち込め、まるで霊安室のような静謐さを醸し出していた。


(……私の言い訳、いろいろと矛盾が露呈しつつありますね。「偶然見つけた」が三度目となると、神の奇跡というより詐欺罪が成立しかねません。ええ、このままでは58年無事故の"社会的信用"が崩れ落ちる……)


 脳内で昭和型サラリーマンの責任感がうずく中、トシオの足は村の商店街へと向かっていた。村とは言っても、実質「商店が三軒立っている通り」である。通りの片側には朝食の匂いを漂わせる民家が並び、時折カーテンの隙間から覗く人影が「あれ、髭オがまた独り言言ってる」と囁くのが聞こえないフリをしながら、彼は前進した。


 やがて足を止めたのは、くたびれた看板を掲げた雑貨屋の前。「ブロウズ雑貨店」と刻まれた木の看板は、おそらく開店以来一度も掃除されていない鳥の糞で部分的に装飾されていた。店先の棚には色とりどりの小瓶や乾燥食材、日用品が崩れ落ちそうな均衡を保ちながら積み上げられている。


 トシオは肩を回し、襟元を正すと、まるで社長室に入るかのような緊張感で背筋を伸ばした。


「失礼いたします」


 声の大きさと姿勢の良さは見事に比例し、近隣の眠りかけていた犬が一匹驚いて吠え始めた。


「おぉ、トシオ! もうそろそろ来る頃だと思ってたよ」


 カウンターの奥から、頭頂部の毛髪密度が「散村」レベルの中年男性が姿を現した。ブロウズ店主のオリバーだ。彼は八の字眉をさらに八の字に曲げて笑顔を見せると、カウンターの下から小さな包みを取り出した。


「いつものワイン、取り置きしておいたよ。霧巡の新酒だ。今年は出来が良いって評判さ」


 トシオは軽く頭を下げ、包みを受け取る準備をした。


「毎度あり!今日はこいつで一杯やるのかい?それとも料理に?」


 オリバーが、いつもの調子で手を差し出す。


「ええ、本日は神の信託によりまして……ワイン煮込みで運気の改善を図る所存でございます」


 トシオが真顔で応じ、深々と頭を下げる。


「しんた……はい?」


 店主が思わず首を傾げる。心なしか、袋を渡す手が一瞬止まった。


「ええ、霊感式の献立でして……最近、少々巡りが悪く……」


 トシオはフォローのつもりで続けるが、オリバーは無言でワインを差し出した。その表情には、困惑と心配が入り混じっている。


(ハッっ……!私は何を……このままでは"常連"から"要注意"に格下げされかねません)


 トシオはぺこぺこと頭を下げながら、硬貨をカウンターに置き、急いで包みを受け取った。


「あの、その……大変失礼いたしました。昨晩、山菜を摘んでおりまして、幻覚症状が……いや、冗談でございます。大変申し訳ございません」


 オリバーの表情がさらに複雑になる。


「い、いや、気にするな。それより、頭……体は大丈夫か? 最近また髭が伸びたようだが……」


「ええ、まったく問題ございません。髭は……精神修養の一環でして」


 トシオは小さく会釈すると、いそいそと店先から離れようとした。そのとき、ふと目に留まったのは、軒先の小さな棚に並ぶ雑貨の数々。中でも、わずかな陽光を受けて煌めく小さな髪留め。翡翠のような深緑の石が、透き通るような美しさで輝いていた。


 思わず、彼の手が止まる。


「……ああ、似合いそうですね……」


 独り言のような囁き。記憶の奥に浮かぶ娘の背中。髪。朝の洗面所。

 

 ──たった半年。それでも、ずいぶん昔のことのように思えた。


 あの朝まで、彼にとって髪留めとは、毎朝娘の髪を整える手伝いをする時間を意味していた。「パパ、上手くできないよ」と言われて、黙々と髪を結ぶ。会社にはもう遅刻だと分かっていても、それでも時間を割いていた小さな日常。


 今となっては、それすらも嘘だったのかもしれない。


「それ……ずっと見てる……気に入った?」


 静かな声に、トシオは我に返った。振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 ワーキャットの少女だ。歳は十七~十八。艶のある黒髪のボブカットに、ピクリと動く獣耳。水色の瞳はガラスのように冷たく澄み、無表情で立ち尽くす姿には独特の静けさがある。言葉は少ないが、その佇まいには不思議な存在感があった。ギルドの受付として淡々と職務をこなす可愛らしい彼女を、トシオは何度か目にしていた。クーナ。メリアと同じくギルドで働く少女だ。


「え?ええ、少々……手が止まってしまいました」


 クーナは言葉を続けず、ただ棚の髪留めを一瞥した。その視線には計算されたように気のない素振りがあった。


「綺麗」


 ただそれだけの言葉。まるで天気予報を伝えるような平坦な口調。しかし、その目には確かに何かが宿っていた。


 トシオは微笑を浮かべ、棚から髪留めを取り上げると店内へと戻った。オリバーは「なんでまた戻ってきたんだ」という表情で彼を見つめていたが、クーナの存在に気づくと、妙に納得したような顔で頷いていた。追加の会計を済ませると、再び店を出る。


「買うの……?」


 クーナの顔には変化がなかったが、耳がわずかに動いた。アンテナのような両耳は、彼女の表情が語らない微妙な感情を察することができる貴重な手掛かりだった。


「ええ……何となく、似合うだろうなと思いまして……」


 トシオの言葉に、クーナは視線をわずかにそらした。その耳がほんの少し、上下に揺れた。猫背気味の彼女は、背の高いトシオを見上げるために首を傾けなければならず、その仕草にはどこか警戒と期待が入り混じっていた。


 無言のまま、トシオは彼女のそばに立ち、髪留めをそっと掲げた。


「もし、ご迷惑でなければ……」


 クーナの耳がぴくりと跳ねた。けれど何も言わず、身をかがめるようにして視線を落とした。その姿勢はまるで「何かが降ってくるのを避ける」時のようで、トシオは一瞬たじろいだが、やはり髪留めを差し出した。


 トシオは静かに手を伸ばし、彼女の髪に髪留めを差し込んだ。手元が少し震え、最初は上手く留まらず、再度挑戦することになった。昔娘の髪を結んでいた技術はどこへ行ったのか。長年のオフィスワークで指先が鈍ったのかもしれない。二度目で何とか留まった髪留めは、黒髪に緑の点として美しく映えていた。


「……とても、お似合いです」


 そう言って、かすかに微笑んだ。


 クーナはゆっくりと顔を上げた。表情は無いままだが、耳だけがぴょこんと跳ねていた。それは彼女なりの喜びの表現なのだろうかと、トシオは勝手に想像した。


「……これ、私に……?もらっていいの?」


 声は小さく、戸惑いと照れが入り混じっていた。「本当に?」と言いたげな猜疑心と、「嬉しい」という感情が同居する複雑な声音。


「ええ、むしろ、お納めいただければ……私の方が救われます」


 クーナはほんのわずか頬を赤らめ、トシオの胸元を見つめながら呟いた。


「……ありがと」


 トシオはゆっくりと手を振った。


「では、また──ご縁があれば」


 クーナは小さく頷き、ほんの一瞬だけ目を伏せた。そして小さく会釈した。その耳は、わずかに嬉しそうに揺れていた。


 トシオも静かに頭を下げ、今度こそ何かを落とさぬよう細心の注意を払いながら、踵を返した。


 村を出て、トシオは森の中の小道をたどる。朝の陽光が木々の間から差し込み、道を照らしている。散り始めた落ち葉を踏む足音だけが、静かな森に響いていた。たまに体勢を崩しそうになりながらも、なんとか林道を進む。


(……あの子も、ひとり暮らしをしているようですね。確か、マルダ婆さんの孫娘……というわけでもなさそうですね。マルだ婆さんは人族……何か事情があるのでしょう)


 人を気遣う年長者の心が、自然とそんな思いを抱かせる。


 しばらく歩き小道を抜けていくと、やがて森はその姿を変え、開けた場所が見えてきた。斜面にたたずむ一軒の家。日が落ちかける中に浮かび上がるそのシルエットは、まるで絵本から抜け出したような佇まいだった。


 大きな切妻屋根、煙突、石造りの基礎。整備されたアプローチ、磨かれた木製の外壁、手作りのベンチ。まさに"異世界の別荘"。庭には薬草と季節の野菜が整然と植えられ、垣根には野の花が咲いている。


 そして、どういうわけか建物の前には小さな鳥居があった。いつの間にか作ったものだが、もはや自分でもなぜ作ったのか記憶が曖昧だった。


(名刺スキル──大工と建築士の合わせ技。努力と多少の無謀、そして……ええ、趣味全開でございます。こういうのは一度凝りだすとキリがありませんからね……)


 トシオは自分の住まいを眺め、小さな満足と共に頷いた。


(ですが、この仕上がり。やはり早急に露天風呂計画を推し進めねば……温泉の掘削、石組みの配置、目隠しの竹林……ああ、週末はまた寝不足になりそうですね)


 木製の扉を開けると、そこにはトシオの第二の人生が詰まった空間が広がっていた。室内は磨き上げられた床と、丁寧に組まれた家具が整然と並び、どこか懐かしさを感じさせる居心地の良さがあった。壁には異世界の地図と図鑑が貼られ、棚には一つ一つが分類整理された素材瓶が並んでいる。


 一見すると「凝り性の独身男性の部屋」そのものだが、よく見ると隅々まで掃除が行き届き、どこか「教科書通りの模範的な家」でもあった。


 トシオはワインを棚に置き、溜息をひとつついた。


「……はぁ、本日もなんとか"拾っただけ"の建前で押し通しましたが……」


 誰もいない部屋で、彼は独り言を続ける。テーブルに座り、肩の力を抜くと、突然自分が全身を強張らせていたことに気づいた。緊張が緩み、どっと疲れが押し寄せる。


「メリアさんの視線がですね……ええ、"次はない"と、そう語っておられました。文字通り仏の顔も三度までってやつですね」


 空気に向かって頭を下げながら、トシオは話を続けた。


「そしてガラハム様の無言の圧力……決算前の部長の顔に似てきましたね、ええ……あの方が怒りを言葉にしない時が一番危険ですからね。私は本当に綱渡りをしております」


 トシオは棚の上のワインを見下ろし、肩を落とした。ガラスの瓶は夕陽を受けて琥珀色に輝いている。ふと顔を上げた瞬間、視線の端に鏡が入り込んだ。


 目が合った。いや、自分自身と。映っていたのは、あまりにも"他人のような顔"。


「……これは、どなた様で……?」


 ぼさぼさの前髪をかき上げると、その下から現れたのは――白く滑らかな肌、驚くほど整った輪郭。目尻がすっと切れ上がり、まっすぐ光を捉える大きな瞳。鼻筋も形も崩れがなく、口元まで無駄のない造形。


 かつての自分の記憶に、こんな"顔"は存在しない。昭和生まれの五十八歳男性が鏡の中で二十代前半の美青年に変わっている。


「詐欺。これはもう、国家レベルの詐欺です……」


 トシオは思わず鏡から顔を背けたが、数秒後、また見てしまう。まるで交通事故の現場から目が離せないように。


「ああ……こんなの、自分でも直視できませんよ……かつての私は、シワとたるみのコレクターだったというのに……」


 眉間を指で押さえながら、視線はそれでも鏡から離れなかった。何度目かの転生チェックなのに、慣れることはない。会社のトイレで頭髪の後退を確認していた日々が嘘のよう。


「……この髭は盾です。魂の安全装置です。こんな顔、野に放ってはいけません」


 そっとつぶやいて、トシオは鏡を閉じた。もし村人に素顔を見られでもしたら、きっと大騒ぎになる。そんな注目は御免こうむりたい。彼はただ静かに暮らしたいだけなのだ。


 静かに椅子に腰を下ろしたトシオの口元に、苦笑いが浮かんだ。


「……今日はワイン煮込みですかね。神の啓示とやらを実行せねば……」


 小声で冗談を言いながら、トシオは窓の外に目をやった。朝霧が徐々に晴れ始め、陽光が林々の間から差し込んでいる。一日はまだ始まったばかり。これから薬草を集め、昼食を準備し、午後には名刺スキルの修練も欠かせない。


「とはいえ、まずは朝食からですね……ワイン煮込みは夕食に取っておきましょう」


 彼は朝の光の中で軽く伸びをすると、台所へと向かった。忙しない音が部屋に響き始め、トシオの静かな異世界での朝が始まるのだった。

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