第3話 カッパーさんは語りたい
──あの日、異界の光に包まれ、全てを失ったはずの男は、今、この森で生きていた。
目を覚ましたとき、トシオの足元に広がっていたのは、湿り気を含んだ深い苔と、見知らぬ巨大な木々だった。頭上に広がる空はどこまでも白く、風は静かに枝葉を揺らしていた。東京の喧騒、通勤電車の人混み、オフィスの空調音、そのどれもが遠い記憶のように感じられた。
そこが神に見放された地──"禁忌地"と呼ばれる未開の森であること、そして女神アルテシミアに「第二の人生」を約束された直後、なぜか女神アンブロシアに裏切られ、異世界の端っこに"ゴミ"のように投げ捨てられたのだと詳しく理解するには、時間が必要だった。
それでも、彼は立ち上がった。何もかもを奪われ、見知らぬ世界に放り出されたというのに、長年のサラリーマン根性はそう簡単には折れなかった。
「仕方ありませんね。あちらの世界の上司も理不尽なことを言いましたし……これも、まあ、強制転勤の一種と思えば」
右手には黒いノートパソコン──まるで会社支給品を模したような機種だが、異世界仕様なのか、画面がわずかに発光している。左手には茶色い革の名刺ホルダー──ハードカバーの重厚感は彼が過去世界で愛用していたものと同じ手触りだった。
女神の気まぐれか、あるいは前世の仕事道具への執着を買われたのか。何はともあれ、これが新生活の始まりだった。
「……さて、では……できるところから、始めてまいりましょうか……」
──そしてあれから半年後の今。女神暦5千輪環、霧巡9日目。
朝霧の残る森の道を、ひとりの男が荷車を引いて歩いていた。
ぼさぼさの髪と無精髭に覆われたその顔を、村の者たちはこう呼ぶ──“髭オ”と。
木製の門がぎぃ、と小さな音を立てて開き、男が荷車を引いて村へ入る。前輪の軋む音が静かな朝にやや場違いに響いたが、男は気に留める様子もない。
その姿を見かけた子供たちが、どこからともなく現れてはしゃぎ出す。
「見て見て、髭オが来たぞー!」
「もじゃもじゃだー!荷車でかっ!」
「えっ、今日の荷物……なんか……においが……」
トシオは苦笑とも困惑ともつかぬ表情を浮かべ、子供たちに軽く頭を下げる。
「……ええ、いつもお騒がせしております。お鼻に障りましたら、誠に申し訳ございません……」
通りの端では、干し野菜の世話をしていた老婆がにょきっと首を伸ばし、顔をほころばせた。
「髭オさん、今日も精が出るねえ。うちの孫が、あんたの干し肉ばっか食べたがるんだよ。あたしの煮豆は見向きもしないのにさ」
「それは恐縮です。素材の香りが強すぎたかもしれません……お孫さんの味覚をおかしくしていないことを祈ります……」
一方そのころ、軒先で世間話をしていた村人たちが、ささやき声で会話を始めた。
「おいまた来たぞ、あいつ……今日も荷車一台分大量に積んでやがる」
「毎度毎度、髭オの奴、どこから仕入れてくるんだか……」
「おい見ろ、荷車の端っこ。あれ……バリアントボアの干し肉じゃねえか?」
「はあ!? あんなの狩れるやつ、村に何人いると思ってんだよ……」
「いや、毎回拾ってくるんだって本人が言ってたぞ……?」
ささやき声は雪玉のように膨れ上がり、すれ違うたびに「髭オ」という名がどこかしこで囁かれる。
(……いえ、私はただ生活のために素材を拾っているだけでして……皆さんの目に余るようなことをしているつもりは……ええ……)
──ここは、アルベルト辺境伯管轄のペルオ村。
大陸西端、凶悪な魔物がひしめく女神禁忌地の外縁に位置し、王国からも見放された辺境の集落。
危険地帯として指定されているため、税は一部免除されており、それを目当てに移り住む者も少なくない。
人口はおよそ八十。猟師や放浪者、生活に困窮した者たちに加え、一攫千金を狙う流れ者の冒険者も後を絶たない。
討伐依頼や護衛任務の報酬は高額だが、それに見合うだけの危険が常に隣り合わせにある。
それでも、自給自足と交易の知恵で何とか生活を維持し、王都から派遣された数名の警備兵と結界石によって、最低限の安全だけは確保されていた。
村の中心に近づくと、木造の立派な建物が見えてきた。
看板は古びた木板に手彫りで描かれており、風雨に晒された文字はすでに読みづらくなっていた。かろうじて「王都支部」や「ギルド支所」といった単語が確認できるが、その隣に添えられた小さな絵──盃と剣を交差させた印が、この建物が冒険者ギルドと酒場を兼ねていることを物語っていた。
中からは賑やかな声が漏れ、酒と肉の匂いが鼻をくすぐる。朝から飲んでいる者もいるのだろう。木製の扉には引っ掻き傷や古い掲示が貼られたままになっていた。
トシオは静かに息を吐き、荷車の取っ手を握ったまま、ゆっくりと大きな木扉の前に立った。
ギルドの入り口は荷車ごと通れるように幅広く作られており、材は厚く、長年の風雪に耐えてきた重厚な造りだ。
片手で慎重に押し開けると、きしむ音とともに、暖かい空気とにぎやかな声が外へと漏れ出してくる。
「……失礼いたします」
開いた扉の先には、粗削りだが温かみのある空間が広がっていた。
中央には石造りの暖炉、数本の大きな柱が天井を支え、木造の梁には乾燥中のハーブや獣の骨が吊るされている。左手は酒場のカウンターと簡素なテーブル席、右奥がギルド業務を扱うカウンターだった。
騒がしさはあるが、どこか家庭的で、汗と焚き火と獣の皮の匂いが混ざり合った空間。
その一角、帳簿と羊皮紙に囲まれた受付のカウンターで、ひとりの女性が顔を上げた。
「……あっ、髭……じゃなくて、トシオさん。おはようございます」
受付嬢メリア。十八かそこらの年頃で、柔らかく巻かれた金髪がふわりと肩に揺れる。白い肌に、ぱっちりと大きな緑の瞳。笑顔を浮かべていると、まるで春先の花のように場を明るくしてしまう。
快活で人当たりがよく、誰に対しても物怖じせずに接する──そんな彼女の姿に、トシオは時折、かつて会社にいた新人のアルバイトの女の子を思い出す。
(……ええ、あの子もよく話しかけてくれましたね……お昼は毎回、コンビニの冷やし中華……ああ、あと箸袋をメモ帳にする癖が……“紙質がちょうどいいんですよ”とか言ってましたね……)
そんな記憶がふと胸をかすめ、思わず口元に苦笑が浮かびそうになるが、ぐっと堪えてトシオは頭を下げた。
彼女は荷車の存在に気づいた瞬間、目をしばたたかせた。
「え、これ……またすごい量ですね? バリアントボア干し肉に……霧草の燻製、って、透明スライムのゼラチン液まで?」
メリアは、ぎょっとしたように瞬きをしながら荷車をのぞき込み、その中身を順に追ううちに目を見開いた。素材のひとつひとつが信じがたいほど高品質で、その迫力に思わず息をのむ。
「トシオさん、これ……ぜ、ぜんぶ本当にお一人で?」
驚きの色を隠せない彼女の視線を受けながら、トシオはやや居心地悪そうに頷いた。
「はい、なんとか……途中、クリアスライムに巻きつかれてしまいまして……ですが素材の確保には、幸い支障はございませんでした……」
彼は視線を少し逸らしながらも、どこか申し訳なさそうに語る。胸元のシャツの一部がわずかに湿っており、どうやらその“戦い”は割と最近だったようだ。
メリアは一瞬、言葉を失ったかのように口を開けたまま荷車とトシオを見比べていた。額にはぴくりと不穏な笑み。
「……いや、それ、普通に言うことじゃないですよ? 巻きつかれて無事って……」
声には笑いが混じっていたが、その笑いはどこか引きつっていた。
……目の端がピクピクしている。理性が顔面の端から反乱を起こしているようだった。
「ほんと……なんなんですか、トシオさんって……」
呆れと困惑、そして若干の恐怖。彼女の表情には、常識の壁を破壊していく素材屋への複雑な感情が滲んでいた。
苦笑しながら帳簿をめくっていたメリアは、ふとペンを持つ手を止めて首をかしげた。目線は帳簿からトシオへと移る。
「それでいて、依頼達成記録ゼロで、ランクはカッパーのまま……」
彼女の口調はあくまで事務的だったが、どこか釈然としないものが混ざっていた。
トシオは姿勢を正すように背筋を伸ばし、わずかに顔を伏せた。
「ええ、依頼はまだ受けておりませんが、登録だけでも身分証になると伺いましたので」
語尾がややかすれる。本人としてはそれが精一杯の“正当性”だった。
メリアはそれを聞くと、今度は肩を落とし、苦笑いしながらペンを帳簿に戻した。
「いやもう……ギルド長も『記録だけで別格だ』って、書類見るたびに首ひねってましたよ。髭オ伝説、また一章追加ですね……」
口にしてから、メリアの肩がぴくりと揺れた。自分の言葉にハッとして、急いで手を振る。
「……あっ、いえ、今の“髭オ”ってのは、えっと、その、村の通称で……ごめんなさい、トシオさん。つい癖で……」
慌てて帳簿に目を落とす彼女の頬が、ほんのり赤く染まっていた。ぎこちない笑みとともに、照れ隠しのようにペンの端をくるくると回す。
そんなやりとりをよそに、周囲の冒険者たちはざわつきを見せ始めていた。中にはこそこそとトシオの荷車を覗き込む者もいる。
「……あいつソロでどうやってあの量の素材を?」
「ていうかいつもどこから来てるんだ……?」
「実は凄腕の冒険者とか?」
「バカ言え、あの髭オだぞ?カッパーに何ができるって言うんだ。あんなの運がいいだけだろ」
「みろよあの見た目、背が高いドワーフみたいだな」
トシオはそれに気づくと、またも軽く頭を下げ、荷車から素材を一つずつ丁寧におろし始めた。
(……目立つつもりは……ございませんが……どうにも、静かに暮らすのは難しゅうございますね……)