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第2話 祝福から追放まで、所要時間三分でした

 敏夫の意識は深い水底へゆっくりと沈んでいくように遠のいていった。


(少女を押し出した瞬間……警笛、光、そして衝撃。何も感じる間もなく——そうか、私はあの時、死んだのですね……)


 やがて、遠くから温かな光が静かに広がり、彼の輪郭を優しくなぞった。身体はもうないはずなのに、確かにそこにある——そんな不思議な感覚だった。


(私の身体はどこにもないのに……感触も、重みも、痛みも消えているのに……私は確かにここにいる。考え、感じている……これが"魂"というものでしょうか……)


 この瞬間、敏夫の中に恐怖が湧き上がった。死という現実を目の当たりにして、彼の思考は混乱していた。死を理解しながらも、次に何が起こるのか——その不安が彼を包み込んだ。


「——夫……」 


 遠くから呼ぶような声が聞こえた。声というにはあまりに柔らかく、しかし確かに自分の名前を形づくる音色だった。


(誰かが……私を……? ここは……あの世の入り口なのでしょうか……)


 再び、今度ははっきりと。


「田中敏夫……」


 その響きが水面に波紋を描くように魂に届いた瞬間、光が形を取り始めた。白く輝く姿が浮かび上がり、その中心に銀髪の女性が現れた。凛とした気品を纏いながら、慈しみに満ちた微笑みを浮かべている。


 敏夫は言葉を失った。目の前の現象を理解しようとする意識すら朦朧としていた。


「田中敏夫……私はアルテシミア。生命を司る者です」


 突如現れた女性の言葉に、敏夫は驚愕した。生命を司る者? 神の類いだろうか? そんな存在が実在するとは……。


(アルテシミア……? 生命を司る……?)


 敏夫は混乱を隠せなかった。


(夢ではない……現実でもない……死んだ私の魂が、神のような存在と対話している……いったい、何が起きているのでしょう……)


 だがこの空間は澄みすぎていた。音も重力もなく、まるで世界から浮き上がったような感覚。死を受け入れながらも、この得体の知れない状況に敏夫は戸惑いを隠せなかった。


 目の前の光景は美しく穏やかだったが、それが逆に現実感を奪っていた。透き通るような声が心に直接語りかけてくる。


「あなたの人生は本来、穏やかで幸福なものとなるはずでした。ですが、何者かによってその道は歪められてしまった」


 敏夫は応えられなかったが、女神の言葉は静かに胸に染み込んでいった。理不尽な裏切り、崩れた家庭、あの朝の会話——すべてが音もなく脳裏をよぎる。


(私の人生は……歪められていた……?)


 あの日々の苦しみ、家族と信じてきた者たちの裏切り、そして最期の瞬間——それらは定められていたことではなかったのか。思いがけない言葉に、敏夫の魂は静かに震えた。


「私はあなたに二度目の人生を贈ります。これは、私からのささやかな詫びと希望です」


 敏夫の思考が止まった。


(二度目の……人生……?)


 あまりに突飛な言葉に、敏夫は理解が追いつかなかった。


(これは冗談ですか? そもそも神様が冗談を言うのでしょうか……いや、しかし、二度目の人生とは……)


 疑いと困惑が入り混じる中で、彼は自問した。


(本当に可能なのでしょうか……死者が再び生きるなど……)


 女神の前で言葉にできないまま、彼は葛藤していた。


(もう現世には戻れない……ならば、この神秘的な存在の導きに従うしかないのか……)


 疑うでもなく信じるでもなく、ただ思考がその言葉に追いつかない。その重みに魂の奥底が震えた。


(二度目の人生……あまりにありがたすぎて……現実味がないのですが……本当に私のような者に……?)


 アルテシミアが両手を差し出すと、柔らかな光が広がり、二つの物体が姿を現した。黒いノートパソコンと革製の名刺ホルダー。どちらも敏夫にとって見慣れた日用品だった。


 敏夫は目を見開いた。


(これは……私の……)


「あなたが長年使い慣れてきたものです。異なる世界でも手になじむよう、形ある"力"として授けます」


 敏夫は困惑した。


(職場で使っていた道具が……"力"に……?)


 日用品がなぜここに? そして「力」とは何を意味するのだろう? 理解できない出来事に、敏夫は言葉を失った。


(ありがたいのですが……これはあまりにも……)


 目の前のノートPCは会社で何年も使っていた型とそっくりで、名刺ホルダーも書類棚にあったものと同じだった。"力"だという説明に現実感は伴わなかった。しかし不思議なことに、理解できないながらも「扱える」という感覚がすでに頭の奥に存在していた。


(どうしてだろう……まるで生まれつき知っていたかのような……)


 全てが追いつかないのに、どこか納得している自分に気づき、敏夫は更に混乱した。まるで最初から知っていたかのように、力の構造そのものが脳内に溶け込んでいく奇妙な感覚。


「これはあなたが業務で使い続けてきた情報処理の道具です。異世界でも魔力を糧に稼働し、地名、魔物、物価、気候など、あらゆる知識を検索できます。あなたの経験と知識がそのまま武器となるでしょう」


(魔力? 魔物? 異世界?)


 言葉一つ一つが衝撃的で、敏夫はただ呆然としていた。しかし同時に、その言葉を受け入れられる自分がいることに奇妙な感覚を覚えた。敏夫は頷いたつもりだったが、それすら実感できなかった。


「そしてこちらが名刺ホルダーと名刺入れです。このホルダーには現世と今世の職能が収められています。名刺入れに収納することで、その職業の力を一時的に引き出せます。使い続ければ職は昇格し、より高度な力となるでしょう。どの名刺を選ぶかは、あなた次第です」


 敏夫はようやく理解し始めた。これは単なる日用品ではなく、新しい世界での己の力となるものなのだと。


(選ぶということは責任も伴う……)


 五十八年の人生で培った責任感が、死後の世界でもふたたび芽生えていた。


(贅沢は言えませんが、この機会を与えられただけでも……)


 敏夫の胸に小さな明かりのような感情が灯り始めた。与えられたものを大切に使う責任を感じつつも、失ったはずの何かが自分の掌中にあるような気がしていた。自らの存在意義を、ふたたび見出せるのかもしれない——。


(形はなくとも、確かに受け取ったのでしょう……)


 アルテシミアは穏やかに微笑んだ。


「あなたの魂は私の配下である女神アンブロシアに導かれます。どうか新しい世界で穏やかに歩まれますように」


 その言葉と共に、アルテシミアの姿は光の中に溶けていった。


(待ってください! まだ質問が……)


 しかし、声を出せない。誰もいなくなった空間に静けさだけが残され、敏夫はそれが終わりなのだと理解しかけていた。


 しかしその直後、空気が変わった。


 空間に微かなひびが走り、さっきまでの優しい光が一瞬きしんで温度を失った。圧し掛かるような気配。視界も空気も冷たく歪んでいく。


(何が……起きているのでしょう……)


 肌に触れるはずのない冷気が突き刺さり、魂に圧がかかるような違和感を覚えた。敏夫は不安に包まれた。


(これは先ほどの光とは違う……冷たい拒絶と敵意を感じる……恐ろしい……)


 静寂の中、もう一人の女性が姿を現した。アルテシミアとは正反対の存在で、氷のような瞳と無感情な美貌を持ち、その唇は初めから怒りを宿していた。


 敏夫は本能的な恐怖を覚えた。この存在は、己を害そうとしている——そんな危機感が全身を駆け巡った。


「ようやくゲートが開かれた……この時をずっと待っていたぞ。神々の目を盗み、貴様の魂をここまで導くのに、どれだけの膨大な時間と労力を……!」


 女神アンブロシアは侮蔑の視線で敏夫を見下ろした。


「ふっ、まあいい‥‥…それにしても、くだらない。アルテシミア様も、なんと愚かなことを」


(なぜこのような怒りを……私が何をしたというのでしょう……)


「お前のような薄汚い存在に、幸福と約束された栄光の転生枠を?お前には過ぎたものだ。シルヴァン様こそがふさわしいのに……」


 敏夫は震えた。その声には狂信に近い執着がにじんでいた。彼女が手をかざすと、空間に黄金色の魂が浮かび上がる。ひときわ輝くその魂に、アンブロシアは恍惚とした笑みを向けた。


「シルヴァン様……どうか私と共に。この世界で再び、永遠の幸福を……ああ、待ち遠しい……我が君」


 敏夫は理解し始めた。自分は単なる代替品だったのだと。


(あの魂が"選ばれた者"……?私の終わった人生はこの時のために犠牲になったのか……)


 黄金の魂が輝くほど、自分の輪郭がぼやけていくような気がした。あの光の中にある"希望"に比べ、自分は濁った影のように思えた。かつて家族にも価値を見出されなかった自分が、死後の世界でも同じように不要な存在として扱われる——その絶望感に、敏夫は言葉を失った。


(最初から、この役目に値しなかったのでしょうか……)


 アンブロシアはシルヴァンの魂を優雅に別の門へと送り出し、冷たい目を再び敏夫に向けた。


「これで我が悲願は成った。せめてもの情けだ。せいぜい人も寄り付かぬ禁忌の地にて、短き余生を過ごすがいい」


 その言葉と共に、アンブロシアは無慈悲に手を振り下ろした。ゴミでも払うかのようなその仕草に、敏夫は呼び止める暇も与えられなかった。


(待って……)


 しかし声は届かない。彼の魂は光の奔流に巻き込まれ、何の予告も温もりもなく、異界の深淵へと投げ込まれていった。


 恐怖と絶望が襲い、すべてが思いのままにならない無力感に、敏夫の意識は混乱した。


(ああ、私はまた捨てられたのですね……)


 悲しみでも怒りでもなく、ただ"認識されない"という感覚——世界の誰からも必要とされていないという静かな絶望だけがあった。


 誰も見ていない。誰にも求められていない。この寂しさだけが深い闇の中で彼に付きまとい、その最後の実感だけが、暗闇へと落ちていく彼の魂に焼き付いた。

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