第1話 異世界でも、まずは名刺交換から始めます
早朝の森は静寂に包まれていた。朝霧が銀の絨毯のように地表を覆い、木々の隙間から差し込む黄金の光線が神秘的な光景を演出する。露に濡れた草葉が宝石のように煌めき、遠くからは鳥たちの囀りが森に命を吹き込む。時折、風に揺れる葉の囁きだけが、この幻想的な世界の静寂を破っていた。
そんな森の中、一人の男が草の上に跪いていた。
彫刻のように動かない姿勢で、彼は獲物を待ち構えていた。細身だが引き締まった体つき、その表面を覆うのはぼさぼさの髪と眉、そして伸び放題の髭。まるで長年山奥で過酷な修行を重ねてきた隠者のような風貌の田中敏夫——異世界では「トシオ」と名乗る男は、静かに呼吸を整えていた。
彼の鋭敏な感覚が、森のわずかな変化を察知した。風向きの変化、小動物たちの足音の消失、そして——地面を伝う微かな振動。
訪れるのは、インフェリアルにおける最凶の魔獣の一体。
《バリアントボア》。
通常のイノシシの三倍はある巨体に、鋼鉄すら砕く湾曲した双牙。その皮膚は高級の鎧をも凌ぐ硬質を誇り、突進の威力は城壁を破壊する程。伝え聞く話では、この魔獣の突進に五人の騎士が一度に命を落としたという。
しかし、トシオの瞳には恐怖の色はなかった。むしろ、その表情には奇妙な慎み深さが宿っていた。
「ええ……申し訳ない限りですが」
彼の声は、霧に溶けるように静かだった。
「どうか少々、私の狩りにご協力お願いいたします……」
言葉とともに、トシオの右手が一閃した。
空気が裂け、淡い光が星屑のように舞い散る。その光の渦から、黒革の名刺ホルダーと名刺入れが姿を現す。空間の歪みを突き破るように具現化したそれは、トシオだけに与えられた奇跡だった。
名刺ホルダーの中で、無数の職業スキルが記された名刺が神秘的に輝いている。それぞれが固有の魔力を帯び、森の朝靄の中で幻想的な光を放っていた。
トシオの眼差しが名刺群を一瞥する。その視線には、目的のカードを見つけるまで一秒とかからなかった。
「今回は狩人と剣士で参りましょうかね」
彼の手が二枚の名刺を選び抜き、まるで重要な契約書にサインするかのような丁寧さで名刺入れにセットした。
「では、よろしくお願いします」
言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、光と共に変化が起きた。
「ピッ」という電子音のような響きと共に、トシオの体内に魔力の奔流が駆け巡る。神経が研ぎ澄まされ、筋肉が活性化し、感覚が鋭敏になっていく——その感覚は、至高の緊張と解放を同時に味わうかのようだった。
腰にはたった半年だと言うのに、かなり使いこまれたショートソード。背には精巧な彫刻を施された弓と矢筒。そしてシンプルながらも機能的な胸当てと籠手が腕を包む。無駄を省いた軽装備は、トシオの動きの自由を最大限に引き出すための選択だった。
準備完了——その瞬間、森が震動した。
バリアントボアが荒々しく鼻を鳴らす音が、朝霧を震わせる。地面が轟音と共に揺れ、草が飛び散る中、巨大な魔獣のシルエットが、霧の中からハッキリと姿を現した。
「ふむ、いらっしゃいましたね。本当に恐縮です……」
トシオの声は穏やかだったが、その動きは電光石火。弓を引く腕の動きに無駄はなく、矢は風を切り裂いて飛んでいった。
狙いはバリアントボアの後脚関節——その急所を射抜けば、魔獣の機動力を奪えるはずだった。矢は完璧な軌道を描いて命中したが、予想通り、魔獣の鎧のような皮膚に跳ね返された。
「……おやおや、頑丈さが羨ましい限りですね。ええ、本当に……」
トシオの言葉が宙に浮かぶ間に、バリアントボアの巨体が激震と共に動き出した。岩をも砕く双牙を前方に構え、まるで重戦車のような勢いでトシオへと突進してくる。
その速度は目にも止まらぬほど——通常の狩人なら、絶望しか感じない瞬間だった。
しかし、トシオの視界では、すべてが緩やかに動いていた。
時間が引き延ばされたような感覚の中、彼は左足で優雅に踏み出し、同時に短剣を閃光のごとく地面に突き刺した。
——ガギィンッ!
金属が弾けるような鋭い音と共に、地面から突如として鋼鉄の罠が飛び出した。トシオが前夜から緻密に仕掛けていたワイヤートラップが発動し、バリアントボアの右前脚が宙に引き上げられる。
均衡を失った巨大な魔獣が地面を滑っていく姿は、まるで崩れゆく要塞のようだった。地面に深い溝を作りながら、魔獣の巨体が減速する。
チャンスは一瞬——狩人の本能と剣士の感覚が融合し、トシオの全身が共鳴した。
「これぞ好機というやつですね。ええ、失礼いたしますよ!」
台詞とともに、トシオの身体が宙へと舞い上がった。
その跳躍力はもはや人間の域を超え、朝霧が作る銀幕を切り裂く。空中で描く軌道は計算され尽くした放物線——まるで舞踏家のように美しく、ショートソードを抜き放つ所作には無駄が一切なかった。
剣を握る手に魔力が結集し、剣士の戦技《急所一閃》が発動した。
剣身を包む蒼白の魔力が竜巻のように渦を巻き、まるで流星のような軌跡を描く。トシオの身体が魔獣へと迫る姿は、凛とした美しさすら感じさせた。
——ズバァァァン!
一閃の衝撃が大気を震わせ、トシオの剣は寸分の狂いもなくバリアントボアの側頭部——眼と耳の間の神経中枢を貫いた。
刹那の静寂。
時間が止まったかのような瞬間の後、巨大な魔獣の体が痙攣し、地響きを立てて崩れ落ちた。
トシオは華麗に着地し、戦いの振動で乱れた髪をさっと整える。その所作は、まるで会議室で資料を整えるビジネスマンのように落ち着いていた。
「はい……これで一件落着でございます。素材は丁重に使わせていただきますので、何卒ご了承を……」
静かに一礼するトシオの姿は、まるで茶席での作法のように美しかった。
早朝の森は再び静けさを取り戻し、ほんのりと湿った草の香りが鼻腔をくすぐる。遠くで鳥たちが歌い始め、命を賭けた戦いの痕跡が夢だったかのように、世界は穏やかな朝の姿に戻っていった。
トシオは息を整え、巨大な魔獣の亡骸を見下ろした。彼の中で何かが揺れ動いていた。
——こんな空気に、覚えがある。
胸の奥がキュッと締めつけられる感覚。心の底から何かが湧き上がってくる。トシオは目を閉じ、異世界に響く鳥の声と風の音に包まれながら、静かに息を整えた。
——あの日も、こんな風に、穏やかな朝だった。
春の空が透き通るような青さを見せる平凡な月曜日の朝。
完璧に結び上げたネクタイ、隙のないスーツ、艶を帯びた革靴。田中敏夫は三十八年間の会社人生で磨き上げた完璧なビジネスマンの姿で通勤路を進んでいた。
しかし、駅へと向かう道すがら、胸元に何か違和感を覚えた。
立ち止まり、スーツの内ポケットをそっと確かめる。空っぽだった。
「名刺入れを……忘れてしまいましたね。これは、困りました……」
朝の清々しい空気が、彼の周りで一瞬凍りついたように感じられた。
敏夫にとって名刺入れは単なる小物ではなかった。そこには会社員としての自尊心、立場、そして存在意義が詰め込まれていた。長年の営業マンとして、名刺を持たないまま取引先と会うことは、鎧を着けずに戦場に赴くようなものだった。
過去に名刺を忘れて上司から受けた叱責の記憶が、胃の奥を冷たく締めつけた。数年前の商談での失態——あの不快な沈黙と、先方の微妙に引きつった表情が、今でも鮮明に蘇る。
「部長に何を言われるか……いや、それ以前に、今日の取引先にどう顔を向ければ……」
敏夫は空を見上げ、一瞬だけため息をついた。迷いはなかった。時計の針が刻々と進んでいくのを意識しながらも、彼は踵を返した。
ビジネスマンとしての矜持が、遅刻よりも武装なしで臨むことを恐れさせた。急ぎ足で、来た道を戻り始める。
マンションに到着し、エレベーターから降りる。長年住み慣れた廊下を進み、自宅の扉の前へ。カバンから鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとした、その瞬間——
「最近あの人、やけに元気じゃない?薬の効き目、ちょっと弱いんじゃないかしら」
妻の声が、扉越しに聞こえてきた。
敏夫の手が止まる。
何か違和感のある妻の声色。いつもの優しさも、暖かさも感じられない冷たい響き。
鼓動が急速に加速し、耳の奥で血液が流れる音が大きく響き始めた。
「毎朝ちゃんとコーヒーに混ぜてるってば。ネットの掲示板で見た通りの分量だし、副作用も出にくいって……あれ、内臓からじわじわ壊すやつなんだよ?確かに即効性はないけど」
娘の声。かつて膝の上でお話を読んであげた、あの娘の声。
その言葉の内容が、敏夫の脳に遅れて届く。理解した瞬間、世界の色彩が一瞬で失われた。
毎朝のコーヒー——自分の体を蝕む毒が入れられていたというのか。
「それに、あの薬、タカシさんがちゃんと医者からもらってくれたやつだから。安心していいって言ってたし」
タカシ——その名前を聞いた瞬間、敏夫の頭の中で無数のピースが一気に合わさった。
妻の職場で何度か見かけた若い男性。飲み会の席で、妙に妻の隣に座ることが多かった男。クリスマスパーティーで、妻と写っていた写真の男。
「保険金が入るまでもう少しよ。そうしたら、タカシさんと一緒に暮らせるんだから、ね?」
その言葉が、敏夫の心臓を鷲掴みにした。
手の中の鍵が震え、「カチリ」と微かな音を立てる。彼は呼吸ができなくなったような感覚に襲われた。胸が痛み、視界が狭まる。
「てかマジさ、パパの顔見るのもしんどいんだけど。朝とか"おはよう"って言われるたびにイラッとするし。ホストの支払いもあるし、さっさとくたばってほしいよ」
かつて「パパ大好き」と抱きついてきた娘の声が、今は鋭利な刃物となって敏夫の胸を貫いた。
頭痛が襲い、世界が歪み始める。皮膚の下を氷のような感覚が走り、全身から熱が急速に失われていく。
敏夫はどこか遠くから自分を見ているような感覚に陥った。ゆっくりと、彼は鍵をポケットに戻した。そして、既に触れていたドアノブから静かに手を引いた。
三十年の結婚生活。必死に育てた一人娘。そのすべてが幻だったのか。
敏夫は無言で背を向け、よろめく足取りでマンションを後にした。胸の内側が完全に凍りついたようで、何も考えられなかった。
ただ、現実の音だけが無慈悲に彼の耳を打ち続けた——街の喧騒、信号の音、行き交う人々の会話。それらすべてが異質で遠いものに感じられた。
気がつけば、彼の足は自動的に駅へと向かっていた。
朝の通勤ラッシュ。ホームにはスーツ姿の人々が押し寄せ、次々と電車に乗り込んでいく。アナウンスの声、雑踏の中で鳴り響く電子音。あまりにも日常的な光景なのに、敏夫にはすべてが別世界のことのように感じられた。
(……私は……この世界で、何の価値があったのでしょうか……)
虚ろな目でホームの端に立ち、敏夫はただ虚空を見つめていた。
必死に働いてきた会社。愛してきた家族。それらすべてが実は偽りだったのなら、自分の人生はなんだったのか。
その時だった。
「きゃあああっ!!」
鋭い悲鳴がホームの端から上がった。
敏夫は我に返ったように顔を上げる。その視線の先——線路上には小さな少女の姿があった。何かの拍子に転落してしまったのか、怯えたように身を縮め、動けずにいる。
電車の接近を告げるアナウンスが流れ、遠くからは列車の音が迫ってくる。
ホームの人々が凍りついたように静止する中、彼の視界には少女しか映らなかった。
恐怖で固まった少女。その震える肩と怯えた眼差しが、敏夫の記憶の奥で何かを揺り動かした——まだ幼かった頃の娘が、階段から転げ落ちた日、肩を震わせて自分を見つめてきたあの瞬間。
「……!」
その記憶が、彼の体を動かした。
敏夫の足が自然に動き出す。頭で考える前に、体が反応していた。
「失礼します!すみません、通ります!」
人々の間を素早く縫うように進み、一瞬の躊躇もなくホームから飛び降りる。靴底に線路の砂利の感触。
迫り来る電車の警笛が鋭く空気を切り裂く。
敏夫の両腕が少女を抱き寄せる。そして渾身の力でホームへと押し上げた。
最後の力を振り絞り、少女をホームの上に押し上げる。彼女が安全に上がったのを確認し、敏夫は安堵の表情を浮かべた。
(よかった、ご無事で……)
電車の轟音が地響きとなって近づいてくる。
敏夫は微笑んだ。心の底からの、晴れやかな微笑み。長い間忘れていた、純粋な感情だった。
(……本当に、申し訳ありません、こんなおじさんで……)
轟音と共に警笛が鳴り、視界を裂くような閃光が彼の世界を白く染め上げた。
次の瞬間、敏夫の意識は白い光の中へ溶けていった。
音も、痛みも、何もかもが彼から遠ざかっていく。
最後に脳裏に浮かんだのは、空白の名刺のイメージだった。
名前も、肩書きも、会社名も何もない——しかし、無限の可能性を秘めた白紙の名刺。
その白さの中に、彼の新たな物語が始まろうとしていた。