判官殿と天界修練の段
「拙をこれからどうするのでござるか?」
眉間に浅い皺を寄せ、義経は言った。
「まあ、そう思うのも無理はない。先ずは言っておくが、あの世界で其方が成せることはない。九郎義経は平泉にて死したものと思うがよい。本来の肉体は滅び、この世界で新たな肉体を得たのじゃからな。とは言え、いきなり下界に降ろすほど我は冷酷ではない。世界の有様と生きるための術は授けようぞ」
エスタリアは椅子に腰かけると微笑んだ。
「ま、最低限じゃがな。いきなり万能無敵など面白くもない」
成長の無い人など人などではないなどと呟きながら、彼女は首を振った。
「分かってはおらぬじゃろうが、最低限の一つは既に与えておる」
人差し指を一本立て、エスタリアは言った。
「一つ?」
「言葉じゃ。其方の国とこのウインダリアとは言葉も文字も異なる。相手と会話も成り立たんのでは話にもならんじゃろ。ま、ありふれた転生特典じゃ」
言われてみれば、エスタリアは日ノ本の言葉を話してはいない。
なのに、義経には苦も無く理解できていた。
神。
日ノ本では散々祈っても役に立たなった存在。信ずるにはまだ足りない気もするが、今の義経にはエスタリアしか頼りになる存在は居ないのは間違いない。
「拙に何をさせたい?」
「別に何も。下界で何をしようと構わぬ。我はそれを見物するだけじゃ」
善にも悪にもどちらになろうと構わない様子だ。
「下界に過度に干渉するのは天界協定に反する。我も神である以上は逆らうことはできぬ」
「どう生きるのも自由か……」
義経の人生のほとんどは伊勢平氏清盛党の打倒に費やされてきた。自由など僅かにも無かったと言っても過言ではない。
「拙は武士だ。それ以外の生き方なぞ考えられぬ」
「ならば、そうすれば良い」
「では、修練でもするかの。武は我の権能ではない故に、武神の力を借りねばならんが」
「八幡伸がおいでになられるのか?」
「ガイウス。マッチョで汗臭い神じゃ。我の趣味ではないが、妙に絡んでくるのでな。この際に利用するとしよう」
苦々しくエスタリアが名前を告げると、一転してニヤリと微笑んだ。
「久しぶりに忙しくなるわ」
「エスタリア女神よ」
「何じゃ?」
どこかに行こうとしていたエスタリアを義経が呼び止めた。
「生きるための修練に異存は特にないが、此のひらひらとした装束はどうにかならぬのか?」
それはローマ時代のトーガに似ていたが、平安時代末期の日本人が知る由もない。
「ふっむ……まあ、下界では古臭いとされておるようじゃし……ミズホという国がある故、それが良いか」
「ミズホ?」
「其方のような風俗の者が住む国じゃ。黒髪黒目、身に着けている装束も日本とさして変わらん。おう、下界ではミズホの出と答えれば良いな」
「ほう」
「ま、経歴は追々考えればよい。先ずは知識と鍛錬じゃ。今の其方の体は十代のものになっておるし、体格も僅かに異なっておる」
浅黄色の直垂を与えられ、義経の修練が始まった。
靴を履くことが違っていたが、ヒラヒラよりは落ち着かせる。太刀は無いのかと尋ねたが、「鍛冶のウイーゼルに任せてある」と言って渡してはもらえなかった。
午前中は武神ガイウスによる鍛錬。
古今東西の武術を知るだけあり、ミズホの剣術も彼は知っていた。その術技は義経がいた日ノ本よりも洗練されたものであり、大いに驚かせた。
「せっかくだ、体格を生かしたものがいいだろう」
イイ笑顔でガイウスが教えたのは、体術と速さを組み合わせたものだ。真っ向勝負とはいかない剣術だったが、天才的な資質が技を体にしみ込ませていく。
「視界を広く、相手の間合いを極めなさい」
彼が教えようとしたのは、徹底的に相手を見切る剣だ。
剛力に優れていようとも、当たらなければどうとでもなる。切っ先が頬を掠めるぐらいまで見切るのが彼が出した課題だ。
ガイウスの修練が終わると、昼食を挟んで講義の時間となる。
一番苦労するのが名前だ。
人の名前も地名も長い。国の数も多くて覚えきれない。「全部覚えんでもよい」と言われていなければとっくに投げ出していたことだろう。
ミズホ出身というカバーのため、ミズホの主だった地名や名だけは徹底的に叩き込まれた。
「まあ、こんなところかの」
そう言われるまでに半年を要した。
すると、礫が三つ虚空に現れ、義経に向かって放たれた。それを素早くかわすと、エスタリアの隣に立っていたガイウスが頷く。
「そうだね」
「これを授ける」
手をかざすと、光の魔法陣が浮かび上がった。
すると、蛭巻の太刀脇差と上下が非対称の弓鎧等の品々が姿を現した。武具の他には革袋が幾つもあり、淡い光を放つ物も有る。
「神術の素養はサッパリじゃったが、他は問題あるまい」
「クラマ刀術って名付けた剣術もなかなかだよ」
「まだまだこれからでござる」
義経は深々と頭を下げた。