衣川自刃の段
源義経は死の瞬間を迎えていた。
そこに乱入する異物。
そこから義経の運命が明後日の方向に変わって行く。
文治五年閏四月、衣川館は持仏堂。
仏像を前に小柄な武者が一人崩れるように座っている。ボロボロになった大鎧は打ち捨てられ、血まみれの装束姿だ。
名は源九郎義経。
かつては清盛党を壇ノ浦で滅ぼした一軍の将であったが、其の面影はもう無い。都落ちした一党は奥州藤原家の庇護を受けていたが、藤原家の代が変わると様相は一変した。藤原秀衡は義経の指図に従えとの遺訓を残していたが、跡を継いだ泰衡はそうはしなかった。
鎌倉方の圧力に屈した彼は、義経とその郎党へと襲い掛かった。数の上で敵わない彼らは次々と討ち取られ、今頃は武蔵坊も弓矢の前で斃れている頃だろう。
何が間違っていたのか? 苦しげな顔で義経は思った。
(平三めが兄上の寵を受けていなければ斯様にはならなんだか?)
梶原景時とは馬が合わなかったのは間違いない。何度斬り捨ててやろうかとも思った程だ。
義経は所謂天才型の将であり、戦場の定石にとらわれないところがあった。そこが配下となっていた武将との確執に繋がったのだが、義経には理解できなかった。
運命に翻弄されたと言えばそうとも言える。
平治の乱で源義朝が敗死した時から、彼の人生は波乱万丈であった。
鞍馬に逃れて兵法を学び、奥州藤原氏の下で郎党を得た。そして、兄頼朝の挙兵に応じて義経も馳せ参じた。
兄に代わって平家打倒の軍勢を率い、壇ノ浦にて滅ぼすことに成功した。
義経は従五位下・左衛門少尉・検非違使少尉・伊予守まで昇進し、鼻が高かった。これで兄頼朝も功績を認めてくれるものだと信じていた。
しかし、結果はそう上手くはいかなかった。
平宗盛親子の護送の時、彼だけが鎌倉入りを許されず、腰越に留め置かれた。
反意など無いと書状を大江広元に託したのだが、義経は帰京するしかなく、後には反徒として奥州藤原へと逃れるしかなくなっていた。
文治三年に奥州に辿り着くと、藤原秀衡は彼と郎党たちを保護し、館を与えた。無論、秀衡公にも思惑はあったのだろうが、落ち着けたのは間違いなかった。
だが、それも今日限りだ。
衣川館は兵に囲まれ、郎党達も皆倒れた。
手に持っているのは一振りの小刀。
戦って首を取られるのも悪くはなかったが、泰衡の兵などに功を与える気にもならなかった。
「無念なり」
細い首に刃を当てる。
栄光と挫折の日々が脳裏に浮かぶ。それももう終わりにしなくてはならない。
そうしていると、館がけたたましい音を響かせた。
木の砕かる音に加え、獣の鳴き声まで聞こえてきた。雰囲気がぶち壊しになって顔をしかめる義経だったが、音はドンドン近付いてくる。
「武士の情けも知らぬか」
太刀に手を掛けた瞬間、板戸が砕け散った。
「ぶもももももぉー!」
それが朱色の牛車だと気付いた瞬間、義経の意識は刈り取られた。
癌で胃の一部を切除してからの再出発です。
よろしくお願いいたします。