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「どうしたんだ、明」
聡の問いに、明は首を振る。自分でもよく分からないのだ。
食事が終わって、明美が後片付けに席を立った時のことである。
今日の食卓は、玄米ご飯にアジの開き、かぼちゃの煮つけ、ホウレンソウの白和え。根菜たっぷり、具だくさんの味噌汁。和食好きの明としては、まさに夢のような光景であった。普段の彼なら目を輝かせて、かき込む勢いで食べていただろう。しかし、今は全くと言っていいほど、箸が、進まなかった。好物であるアジの開きすら喉を通らず、ただいたずらに身を解しただけである。
聡は心配そうに瞬いて、周囲を憚るようにひそひそと囁いた。
「母さんに言いにくいことなら、ぼくが聞くよ」
ひそひそと、声を潜めて落とされるその言葉に、明は俯く。
「後で、書斎においで」
そう言って、聡はかたんと席を立った。
台所に向かったのは、明美の手伝いと、フォローに行く為だろう。仲の良い夫婦である。
明は並んで台所に立つ両親二人を、座ったままじっと見つめた。
あの後、神社からどう帰ってきたのか、明は覚えていなかった。気づいたら家の前にいて、明美が怒り狂いながら出迎えたのだ。
「こんな時間まで、なにしてたの!」
既に夕闇が辺りを包み込んでいた。
明美は怒りながらも明の手を引き、家の中に連れていってくれた。食卓には聡がいて、心配そうにこちらを見ていた。
明の様子に、何を感じたのかは分からない。しかし、明美は何も聞かなかった。もしかしたらまだその時ではないと思ったのかもしれないし、聡が何とかする、と考えたのかもしれない。
おそらくは後者だろう。
現に今、こうして明は聡と向かい合っている。
聡の書斎は、家の一番奥にひっそりと存在している。
壁一面には本棚。そのどの段にも隙間なくぎっしりと本が詰まり、入りきらなかった本は床にうず高く積まれていた。
窓一つないその場所の、中央にでんと置かれた大きな机と、ふかふかの椅子。古ぼけたソファセット、ガラス製のローテーブル。埃の香りがするソファに腰かけ、明は父親をちらりと盗み見た。
聡は何も言わなかった。向かいのソファに座り、足を組んで頬杖を突き、待ちの姿勢である。こうなった時の父親は、とても頑固だ。理由を離さなければ解放もされないのだろう。そんなことはとうに分かっているのだが、明には話すべき言葉が見つからない。
聡は足を組み直し、ポケットから煙草を取り出した。そしてもう片方のポケットに手を突っ込み、怪訝そうな顔をする。
明は思わず自分のポケットを抑えた。そこには金属の冷たい感触がある。ジッポを入れたままにしていたのを、今、思い出した。どうするか。今返すか。しかし、問い詰められたらどうする。
返さなければ。でも、疑われたら。
――疑う? 何を。
もし、明が取ったと思われたら。いや、取っていない。気づいたら持っていたのだ。それにしても、いつ手にしたのだろう。朝、父が煙草を吸っていた時には、彼の手元にあったはずである。家を出る直前に、リビングに寄ったときであろうか。あの時父は、母に叱られていたはずだ。その時に……。
ばちり。と火が弾けて。
「明?」
そう、父が煙草に火を点けた。その先の揺らめく赤い炎の中で、男が踊っていた。
――あちぃよう。
ばちり。
炎が弾ける音がした。
「明! どこに行くんだ!!」
明は書斎を跳び出した。息せき切って走る。廊下を曲がり、玄関の扉を叩きつけるように開け、靴下のまま、外へと飛び出した。
「明!」
遠くから明美の声が聞こえる。
明は走ることをやめなかった。
自分には為すべきことがあったのだ。
「――そうだ、全て思い出した!」
小高い丘の石畳の階段を登り切り、明は神社にたどり着いた。
月が綺麗な夜であった。人影のない神社の中央。あの燃え滓の上に、男が立っていた。
黒の男はざわりと動き、手足を振り回す。地団太を踏むようでもあった。救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。
生き物のように炎が動く。男の手足に纏わりついて、黒と赤とが、祝福するかのように絡み合った。
ジッポを取り出す手に、躊躇はなかった。
男は踊るのをやめ、ゆらりと明に近づいた。愉悦に歪む明の顔を、男は底知れぬ黒い眼窩でじっくりと眺めていた。
かちり、と火がともる。
――あのときも、そうだった。
それは仄かな、あの炎と比べたら子供のような火であった。
――あんまり熱かったものだから。
指の先から手の先へ、腕を伝って、炎が絡みつく様を思い浮かべて、明は身震いした。
「今度こそ」
明はその火を、ゆっくりと。
自分の服に。
「やめなさい」
手を掴まれた。ぽとりとジッポが落ちる。不服気に振り返った明の目に、女が映る。あの時の女性だ。葉子と言ったか。
長い髪の毛がさらりと靡き、黒の夜に吸い込まれるように、揺らめいていた。
「邪魔をするな……」
しわがれた声だ。まるで明の声ではないような、もっと年齢を重ねた類の声であった。
明はぼろりと涙を零す。
「今度こそうまくやるんだ」
葉子はゆっくりと明に笑いかけた。得も言われぬ、慈悲の微笑みであった。
「大丈夫」
葉子は、囁くように言葉を落とす。
「あなたは、立派だった」
「……何が分かる」
明はぼろぼろと涙を流す。
「お前に、何が分かる」
明の胸を占めていたのは、やりきれなさであった。殆ど一生をかけて、修行してきた。いよいよだった。大願叶うその時を、待ち望んでいたはずなのに。
――あちぃ。
焔が、墨染の衣に移った。
――あちぃよお。
衣を舐めるかのように。まるで蛇のように、業火が肌を焼いていく。目の前が赤く染まっていく。それは、初めて感じる種類の恐怖であった。
ほんの一瞬。
一瞬差し込んだ思考だったのだ。
――死にたくねえよお……!
流れ落ちる涙の熱さに、明は喘いだ。
もう一度やり直したかったのだ。次こそはきっと上手くやる。もうあんな恐怖には負けやしない。
「今度こそ……今度こそ」
明がそう呟いた時であった。
葉子が、笑った。まるで厳しい冬の日に、寒さがふと和らいだかのような、花が綻ぶような笑みであった。
「大丈夫だよ」
滂沱する明を励ますように、葉子は彼の体を抱いた。ふわり、と花のような香りが明を包む。
「目を閉じてごらん」
逆らえず、明は素直に目を閉じた。花の香りが一層強くなる。
「君が立派だったから。迎えが来たよ」
そうして、葉子は唇に歌を乗せたのである。
不思議な旋律であった。
低く、高く響く声に、明はしばし、胸の痛みを忘れた。
彼の脳裏に光がよぎる。暖かな、春の陽だまりのような光であった。
幽かに聞こえるのは鈴の音と、笛の音だ。葉子の声と重なり合い、響き合い、近づいてくるその音に、明は陶然と耳を奪われた。耐えようもなく、美しい調べであった。
体が軽くなっていく。あれほど心を支配していた、黒々とした感情が、炎に照らされた雪のように消えていく。
――光が。
がくん、と明の体が崩れ落ちるのを、葉子が両手で受け止めた。二人の前には、黒の男が立っている。天を仰いでいた。その顔がかすかに微笑んだように見えた。
そして、男は、風にほどける様に。
ゆっくりと、ゆっくりと、消えていった。
***
大きく弧を描き、放り投げられたジュースの缶を、明は慌てて受け取った。
「あっぶね!」
「ナイスキャッチ」
葉子が軽やかに笑った。オレンジジュースだ。おごってくれるということなのだろう。ありがたくいただくことにする。
二人は境内の入り口の、石階段に腰を掛けていた。
虫の鳴き声が、境内に響いている。眼下に広がる家々の明かりが、まるで星空のようである。
葉子も缶ジュースに無言で口をつけている。いちごミルク、と書かれた缶が、葉子の見た目とミスマッチで、明は思わず笑ってしまう。
「なに?」
黒々とした目を向けられて、明はしまったと目をそらした。何となく気まずくて、明は話題を探すことにする。
「……おねーさん」
「葉子」
「葉子さん、いくつ?」
「いくつに見える?」
「何してる人?」
「内緒」
ふーん、と、明は呟いた。
「あのさ。……さっきの、あれ」
明は俯く。先程まで感じていた胸の痛みや、やりきれなさはとうに消えていた。しかし、あの時目の前で起こったことは、何だったのであろうか。
黒い男。まるで救いを仰ぐかのように、炎の中で踊っていた。
「あの人はね」
葉子がほそりと言葉を落とす。
「一生懸命に修行して、修行して、あの場所に行くことだけを考えていた人なんだよ」
「あの場所?」
「苦しみから解き放たれる場所。その場所があることを、心から信じて……それで、自分で自分に火を点けた」
「自分で……?」
「そう。そうすることで、あの場所に行ける、生きた肉体を捨てれば幸せになれると教えられていたんだ。でもね」
そこまで言うと、葉子は一度言葉を区切った。
「最後の瞬間、彼は生に執着した。死にたくない、と思ってしまった。それが後悔となり、焼き付いてしまったんだね」
ちくり、と明の胸に、先程とは違う胸の痛みが走った。
「ねえ、おねーさん」
「葉子」
「葉子さん。あの人は、自分で自分を殺そうとしたってこと? 火を点けて? そんで幸せになれるって信じてたってこと?」
「そうだね」
「そんで、死ぬ瞬間に後悔した……?」
「そうなるね」
明はオレンジジュースの缶を握り締めた。
「そんなん、ばかだよ……」
呟いて、またちくりと胸が痛んだ。あの男の声。
――あちぃよう。
――死にたくねえよお。
男の悲痛な声と、やるせない胸の痛み。あの男は、本当に悔いていたのだ。自分が火に包まれた瞬間に、生に執着したことを。それだけを後悔して、だからもう一度、今度こそきちんとやろうと。
「そうかもしれないね。けど」
ふわり、と花の香りが強くなる。葉子は眼下に広がる街に目を向けていた。
「人の数だけ、幸せがある」
そうして、葉子はゆっくりと明に顔を向け、微笑んだ。
黒々と濡れた瞳が細められる。その唇からすうと歌が零れた。高く、低く響く音。紡がれている言葉は分からない。けれど、温かな光に包まれるような、柔らかな響きであった。
明は昔、聡に聞かされた話を思い出す。
――言祝ぎって、知ってるかい?
「あのさ……おれ、葉子さんのこと、知ってるかもしれない」
そういうと、葉子は歌を止め、不思議そうに目を瞬かせた。
「言祝、って知っているかい?」
確か、その話が出たのは、どうしてその職業に就いたのかを親に訊ねる、という、学校の宿題の為に、話を聞いていたときのことであった。
聡は、作家だ。
そう言うと、大抵の同級生たちは羨ましそうな視線を向けてくるのだが、そうは問屋が卸さない。彼は一筋縄ではいかないのだ。今回も、きっと訳の分からないことを言われるのだろうと思っていたが、案の定である。
今まで耳にしなかった言葉の響きに、明は首を大いに傾げたものだ。
「ことほぎ?」
書斎の、でんとした椅子に腰かけて、聡は微笑んだ。
「言葉で祝福すること。それを『言祝ぎ』というんだけれどね」
早くも聞く気がなくなってしまう。勝也も連れてくればよかった。あいつは、こういう話がめっぽう好きなのだ。
「お父さんが若い頃にね、言葉を操る人に出会ったんだ」
黒髪の、長身で、大層な美人。名前を、『葉子』と言ったのだ、と目を輝かせて語る聡に、明は不審な目を向けた。
聡は声を上げて笑ったものだ。
「お父さんはね、あの人みたいに。言葉を祝福に使う人になりたいんだ。それで、この仕事を選んだというわけさ」
「なにそれ。しゅーきょーとか、そういうのなの?」
眉に皺を寄せる明の頭を撫でて、聡はこう言ったものだ。
「その人は、言葉を歌に乗せるんだぞ。明にも聞かせてやりたいなあ」
そう懐かしむように呟いて、微笑んだ父の顔を、明はよく覚えている。
「おねーさんって、その『葉子さん』なんじゃねえの?」
葉子はざっくりと笑った。酷く乾燥した笑い方であった。
「そっか」
どこか遠くを眺めるような目つきで、葉子は呟いた。
「運命という言葉は好きではないけれど。時たま、そうとしか思えない出来事が起こる」
「運命?」
「そう。長く生きていても、それがとても不思議で、愛おしくて」
「……葉子さん?」
「そのたびに私は、有限に憧れ、無限を恨まずにはいられないんだ……」
そう言って、葉子は目を細めた。月の光が葉子の顔をきらきらと染めている。
明はひょいと肩を竦めた。
「葉子さんさ、あんまそういうこと、言わない方がいいよ」
「そうかな」
「うん。やべー人だって思われるよ」
「そっか」
明はジュースをぐいと飲みほした。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
「あと、ありがとう」
おや、と葉子は目を見開く。
「何に対する、ありがとう?」
「おれ、何となく分かったよ。葉子さん、……助けてくれたんでしょ」
葉子は静かに首を振った。
「君を助けたんじゃない」
「分かってるよ。だから、ありがとうって言ってんの」
そう言うと、葉子は驚いたように目を見張り、ややあって、ゆったりと微笑んだ。
――……ら!
――明!
両親の声が風に乗って幽かに聞こえる。どうやら探してくれていたようである。境内の下から届く声に、明は冷汗をたらりと流した。
「やっべぇ……」
絶対に、本気で怒られる。明は首をひょいと竦めた。その様子を見て葉子は大きく破顔する。
「さて、君の両親に御挨拶、をしたいところだけれど。私を見たら、御両親はびっくりされるだろうから」
立ち上がり、葉子はくるりと踵を返す。月を背負ったその後ろ姿は、壮絶に美しかった。
「葉子さん」
思わず呼び止める。
「また会えるかな」
振り返った葉子は、笑っていた。世にも優しい笑顔であった。
「ねえ、君にお願いがあるんだ」
明の問いには答えずに、葉子は目をゆっくりと細めた。
「人として生まれたのだから」
彼女は、唇に指をあてる。そのまま囁くように、言葉を落とした。
「幸せに、なりなさい」
葉子はそう言って、ゆっくりとその場を去った。遠のいていく背中の、長い黒髪がゆらゆらと月光を弾く。明の耳に、葉子の歌が聞こえた。高く、低く響く声。不思議な旋律が、夜の空に、すうと消えていくようであった。
さて。その後のことは、想像に難くないだろう。
明は散々怒られ、怒り狂った明美に初めて頬を張られたり、外出禁止令を言い渡されたりする。勝也はそんな明を見て肩を竦め、聡は相変わらずの微笑みで、ふて腐れた明をなだめるのだ。そして、修学旅行で女子の部屋に忍び込んで、担任の佐藤に大目玉をくらったりして。
中学に進学し、高校生になり、大学進学、そして社会に出て、結婚して、あの日の事は次第に思い出になり、夢か現かもあやふやになっていくのだが。
長い黒髪、少し低い声。
優しげな笑み。
花の香り。
月を背負った姿。
そして、あの旋律。
そういったチリチリとしたものが、頭に焼き付いて。
幸せに、なりなさい
あの言葉が、色を持って存在し続けたのは、言うまでもない。




