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とんとん、と、音が聞こえた、ような気がした。
唯は目をこする。
いつの間にか、眠ってしまっていたようである。腕時計を見ると、もう夜の十二時になろうかというところであった。
家の中は暗い。電気もつけずにうたた寝とは、自分も疲れがたまっていたのであろう。
立ち上がり、電気の紐に手を伸ばした、そのときである。
とん、と、また。
聞こえた。
どうやら、来訪者のようだ。
唯は身構える。
すでに深夜だ。
弔問客だろうか。にしては、時間がおかしい。人の家を訪ねるには遅すぎる。
それとも、こういう田舎では、この時間の弔問でも普通のことなのだろうか。
そう言えば、母にもそう言われていたような気がする。
ゆっくりと、玄関に近付いた。
土間に降りる。玄関は曇り硝子の引き戸である。
その奥に、誰かが、いた。白い手の甲が、もう一度、引き戸を打ち鳴らしている。
「……はい?」
意を決して、声をかけた。
「こんばんは」
低く、かすれた声。あからさまにほっとしたような、安堵の響きを帯びている。
女性のようであった。唯は幾分安心する。いくら治安のいい田舎とはいえ、この時間に家にあげるには、同性の方がいい。
土間の明かりをつけ、引き戸を開けた。
そこにいたのは、思った以上に若い、綺麗な女性の人であった。
葉子、と名乗った女性は、白木の箱の前にきっちりと正座をした。丁寧にお辞儀をし、お焼香をする。
唯は一歩下がり、その後ろ姿を見つめていた。
明かりの下で見ても、美しい人である。
長い黒髪。体にぴったりとした、黒い礼服。その黒と相まって、肌の白さが際だっている。
丁寧な手つきであった。ひとつひとつを噛みしめるように、葉子は死者に挨拶をする。
「……美智」
葉子が、親しげに祖母の名を呼んだ。
「美智、今まで、ありがとう」
涙混じりの声である。微かに聞こえるのは、嗚咽であろうか。
聞いている方も、胸が締め付けられるような声であった。
予想外の麗人を前にして、唯は首を傾げたものだ。
彼女は、随分と若いように見える。おそらく、自分の五つ、六つは下であろう。もしかしたらまだ学生なのかもしれない。
だから、最初は義務での訪問かと思ったのだ。
誰かの代理か、それか、なにか役所の関係で、弔問せざるを得ない立場の人か……。
けれど、彼女の所作は丁寧である。義務感は感じられない。心の底から祖母の死を悼み、悲しみを覚えているように見えた。
「ありがとう」
お焼香がすむと、葉子は目尻をハンカチで拭い、赤くなった目を細めて、改めて、と言った風情でお礼をのべた。
「どうぞ」
唯は用意のお茶をグラスに入れて差し出した。冷えた緑茶である。暑い中、弔問に訪れる人用に、と、昼に用意していたものだ。
もう一度お礼を言って、葉子はそれを受け取った。冷やしていたためであろう、グラスに付着した水滴が、ほたり、と葉子の黒服に吸い込まれていった。
唯は、しまった、と心の中で呟く。何か、コースターなどを準備するべきだったか。それとも一度、グラスを拭いてから渡せばよかったのか。
こういった形での弔問を受けるのは、初めてであった。作法も何も分からない。
「君は、お孫さんの……?」
「ええ」
「美智に、よく似ている」
「そうでしょうか」
「うん、そっくりだ」
落ちた雫を拭こうともせず、葉子は唯に微笑みかけた。どうやら、彼女は細かいことにあまり頓着しないタイプのようである。
「あの、失礼ですが」
唯は思い切って、声をかける。
「祖母とは、どちらで」
「え?」
「ああ、いえ、住所を、お聞きしてもよろしいでしょうか? のちほどお礼をと思いまして。その……」
嘘ではない。
母からも、名前と住所を聞くようにと厳命されている。
しかし、それ以上に、興味があった。祖母は、この人と、いったいどういうところで知り合ったのであろうか。
「美智は、私の友人なんだ」
「友人……?」
「そう。長いつきあいだった」
葉子は、グラスの縁を、つ、となぞった。そのままそっと口をつけ、美味しそうに喉に流し込む。
「何か、役場の行事かなにかで」
祖母はほとんど自給自足の生活を送っていたことは知っていた。だから、なにかそういう、村関係の知り合いであるのだろうか。以前は農業体験などで、役所に協力したこともあったと聞いているし、もしかしたら、そういったボランティアなどで知り合ったのかもしれない。
葉子はグラスを机に置くと、首を静かに振って顔を上げた。切なげに眉をよせ、祖母の遺影を見つめている。
唯も、同じようにする。
遺影の中の祖母は、しわしわの顔を更にしわくちゃにして笑っていた。その祖母と、目の前の人が友人であるという。
どうにも解せない。
「それ……」
つ、と葉子が小首を傾げた。
視線の先を追って、唯はああ、と頷いた。パソコンと資料を出しっぱなしにしていたのを忘れていたのである。
「すみません、散らかっていて」
「いや。……そうか、美智が言っていた。君が、作家の」
瞬間、顔に血が集まるのを感じた。祖母は、いったいこの人に何を言ったかは知らないが、大体想像がつく。
「読んだよ。どの話も、面白かった。君は妖怪が好きなんだね」
「……ええ、まあ」
やめてほしい。特に今、この話題には触れてほしくない。
きっと祖母は、この麗人に自慢げに話したのだろう。孫が作家であるということを、近所の人にも言っていたのを、唯は知っている。きっとそのパターンだ。
前は、それが誇らしいと思っていた。
でも、今は。
唯の表情に、何を思ったのであろうか。葉子はそっと目を細め、唯をじいっと見つめている。
柔らかな表情である。黒々とした瞳に、唯の顔が写り込んでいる。
どきりとした。
「君のことは、美智からよく聞いていたよ」
そう言って、葉子は微笑む。
「見える、と。そう言って、私に嬉しそうに報告してきたんだ。見えた物を書いているのだと。立派な仕事だと、君のことをほめていた」
「え」
耳を疑った。
見える、と。
まさか、話したというのか、祖母が、この女性に。
「待ってください。……見えるって、何が」
「君が見てきたものは、美智にも見えていた。そして、私も」
余程、驚いた顔をしていたのだろう。葉子は唯の顔をまじまじと見て、ややあって、くすりと笑みを零す。
「ねえ、美智と私が、同じ時代を生きていた。って言ったら、信じる?」
笑いながら、ことりと首を傾げて、葉子はそう言った。
「同じ、時代?」
「そう。美智と私は、この村で、同じ学校に通って、同じように暮らして……」
「ちょ、っと待って」
唯は混乱する頭を抱えた。
「あの、あなた、だって、まだ若いですよね?」
祖母は少なくとも、八十は越えていたはずだ。その祖母と、学生のような風貌のこの女性が、同じ学校に通っていただなんて、そんなはずがない。
「うん、だから、信じる? って聞いたんだ」
この人は、どこかおかしいのかもしれない。唯がそう思ったのも、無理はないだろう。
――どうしよう。
母に連絡するべきか。でも、こんなことで連絡しても。
「唯さん」
突然名を呼ばれる。唯は目を瞬かせた。自分は、この人に名を名乗ったであろうか。
葉子は、もう一度、首を傾げ、そして、こう言った。
「今も、見える?」
「え?」
「……だいだらほうし」
唯は、目を見開いた。
***
祖母の思い出は、いつだって夏に起因する。
それは、唯が夏休みを利用してこの家に来ていたからなのかもしれない。
燦々と照りつける太陽。
白くまばゆい、陽の当たる縁側と、家の暗さ。光と影のコントラストに目がくらむ。
「昔はみいんな知ってたんになあ」
縁側で、サヤエンドウの筋をとりながら、祖母はそう呟いたものだ。
「だいだらほうし。今はみいんな見えんようになった」
「見えないの?」
「そうさ。ゆんのお父さんもお母さんも見えん。兄ちゃんもそう」
「でも、わたしは見えるよ」
「そう。だから、ばあちゃんはうれしい」
祖母は目を細めた。
「昔はみいんな知ってた。だいだらほうしがいることも、ほれ、あいつも」
そう言って、祖母はサヤエンドウの筋を庭の片隅に放り投げる。
ちい、と小さく声が聞こえ、茂みがガサガサと音を立てる。
「今のは?」
「家鳴り」
「家鳴り?」
「そう。なあんもないときに、家がぎしぎし言うときがあるんよ。あれはみいんな家鳴りのしわざ」
「悪いものなの?」
「いいや」
祖母は首を振る。
「いいも悪いもないん。家鳴りは、そういうものってだけ」
唯は首を傾げた。
家がぎしぎし鳴るのは、怖い。それに、その家鳴りのせいで、もし家が倒れたら困るではないか。そう訴えたら、祖母はくしゃりと笑ったものだ。
「ゆん、覚えておきな。この世には、いいも悪いもいっさい、ないんよ。あるんは、人様の都合だけ」
祖母はいつもそうであった。
唯の見える不思議な物を、決して悪くは言わなかった。
「なあ、ゆん、もしなあ」
祖母の話し方はいつもゆったりと、耳に優しく響く。
「もし、ばあちゃんが、いんだら……」
青の巨人が、見下ろしていた。
とても優しい、青い色。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。
緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように……。
***
時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
唯は小さく喘いだ。
今、目の前の人は、なんと言った?
今も見える、と聞いた。
何故知っているのだろうか、唯が見えなくなったことを。
目の前の麗人は、姿勢を崩さない。背筋を伸ばして、唯を見つめている。
その瞳が、ふいに和らいだ。
「いい顔してるね、美智」
どうやら、遺影のことのようである。唯は頷いた。
「……これ、わたしが撮った写真なんです」
懐かしい。
あれは、確か自分の本が初めて手元に届いたとき。真っ先に報告したのが祖母であった。
――ゆん、おめでとう。
祖母は、目に涙をためて、そう言った。
「すごいんなあ。ゆん、本当におめでとう」
「ばあちゃん、ありがとう」
「な、写真、撮ってくれんか」
「え?」
「この本といっしょに」
「なんで」
「なんでも」
「まあ……いいけど」
承諾すると、祖母は心底嬉しいと言った顔で笑った。
そのときに撮った写真が、あまりにも幸せそうだったので、唯も誇らしく思ったものだ。
「ほら、見てみい」
祖母が、空に手を伸ばす。そこにはあの、青い巨人。
「ゆんは、こんなに立派な仕事をしてるんよ」
「やめて、ばあちゃん。恥ずかしい」
「何が恥ずかしいもんか。ゆんはすごい。すごいことをしてるんよ」
誇らしげに笑う、祖母の顔。
「なあ、ゆん、もしな、もしばあちゃんがいんだら」
あのときはまだ、見えていた。青い巨人。祖母と一緒に見上げて……。
――立派なんかじゃないよ、ばあちゃん。
唯は心の中で呟く。
結局自分は、自分に見える物しか書けない。
だから、見えなくなったらそれで終わりだ。
「ねえ唯さん」
葉子がことりと首を傾げる。
「いつから」
「……え?」
「見えなくなったの。だいだらほうし」
どきりとする。
この人は、自分の心が読めるのではないだろうか。
――ばあちゃん、長く、生きすぎた。
覚悟をしてほしい、と、医師に言われたときには、祖母の意識は既になかった。
年寄りの一人暮らしで、訪ねる人もほとんどいない。だから、気づくのが遅れたのだと、救急隊からは連絡を受けた。
「数日前から風邪を引いたと言っていたそうです。近所の方が医者に行くように薦めたとのことだったのですが」
年輩の医師は、眉を寄せながらそう言った。
「夏ですから。この時期は、体力のない老人はどうしても。……残念ですが」
母も、父も、兄も、大急ぎで向かっていると聞いた。
自分が間に合ったのは偶然だ。
たまたま自由業で、たまたま仕事がない時期で。そんな状況であったから、時間の都合がつきやすかっただけ。
白いベッドの上の祖母は、随分と小さく見えた。
体中に繋がれたチューブが痛々しい。
枕元に近寄った。
大きな窓からは、日の光が射し込んでいる。
抜けるような青空に、もくもくと入道雲が湧いている。
祖母は、意識がないようであった。呼吸器の人工的な音。規則正しい機械音を聞きながら、唯は。
手を、握ったのである。
「ばあちゃん」
声をかけた。
反応はない。
「ばあちゃん、やだよ」
唯は握りしめた手に力を込めた。そのとき、うっすらと聞こえたのである。
――だいだら、ほうし。
祖母の声。
慌てて顔を見やる。うっすらとだが、祖母の目は開いていた。
「ばあちゃん!」
――ようやく、あっちに行けるんなあ。
「何言ってるの、ばあちゃん」
早く、医者を呼ばなければ。
ナースコールに手をかけた、その手を、祖母がつかんだ。
驚くほど強い力であった。
――ゆん。
――ばあちゃん、長く生きすぎた。
「……え?」
ふと、視界が陰った。
窓の外いっぱいに、青が広がっている。
「だいだら、ほうし」
青の巨人が、その大きな手を広げて、どんどん近付いてくるのである。
「やめて」
呟いた。
――いんだあとは、だいだらほうしの中に……。
あの巨人は、きっと祖母を迎えにきたにちがいない。あの大きな手で祖母の魂を持って行ってしまうのだ。
「やめて!」
――ゆん、ばあちゃんが、いんだらな。
何度も言っていた。祖母の言葉。
夏の日の縁側で。
事切れた猫の傍で。
――もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか。
――書く?
――そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って。書いてほしい。
「いやだ」
あんなもの、見たくない。自分には見えない。
だいだらほうしなんて嘘っぱちだ。そんなものはこの世に存在しないのだ。
だから、祖母は死んだりなんかしない。
するものか……。
唯は愕然とする。
思わず喉に手を当てた。
もしかして。
あれから、なのだろうか。
記憶を反芻する。
確かに、そうだ。あのとき、見えた。だいだらほうし。それを唯は否定した。
自分から、拒否をしたその日から、唯は見えなくなってしまった。
「君は、優しいね」
葉子は静かに微笑んでいる。黒々とした瞳が、ゆったりと細められている。
「……美智は、公平な人だった」
そう言って、葉子は再び遺影を見上げた。
「決して否定することもなく、悪だと決めつけることもない。本当にすばらしい人だったんだ。だから、私のことも、美智は受け入れてくれたんだろう」
確かに、祖母は公平な人であった。唯の見えていたものを一切否定もしなければ、悪いものだとも決めつけなかった。
改めて、唯は葉子を見る。
綺麗な人だ。やはり若い。この人が、祖母と同じ時を過ごしていたなど、とてもではないが信じられない。けれど、と唯は思い直す。
きっと、この世にはそういうことがあるのではないだろうか。自分にだいだらほうしが見え、他の人には見えなかったように。
「葉子さん」
初めて、名前を呼んだ。
「改めて、ありがとうございました。葉子さんに会えて……祖母もきっと、喜んでいると思います」
葉子は驚いたように目を見開き、ややあって、花が綻ぶように、微笑んだ。




