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広場に焚かれた炎が、夜の闇に吸い込まれていくようであった。巨大な火柱である。まるで生きているかのように、天へ伸びていく。
ばちり、ばちりと爆ぜる音に引き寄せられ、明は炎に近づいた。
さながら赤い蛇であった。鎌首をもたげて蠢いている。その蛇に絡みつかれるようにして、 それは、いた。
黒の人影。赤く燃え盛る炎の中で黒い手足を振り回し、まるで踊っているかのようであった。
夏祭の夜。
日は落ちても蒸し暑く、まだ宵の口と言わんばかりに、蝉がじわじわと鳴いていた。
高台を上り、赤い鳥居を何度もくぐればもうそこは別世界で、明は心を躍らせたものだ。細く高く響く笛、腹に響く太鼓の音。普段はしんとした人気のない神社である。しかし、今日は違う。赤い提灯、舞う火の粉。境内に立ち並ぶ夜店の数々。風に運ばれるソースや醤油の香りに、明はぐうと腹の虫を鳴らしたものだ。
夜祭に来るのは初めてであった。
家の方針で、夜に外出するときは、家族と一緒にでないと許されなかった。しかし、明も来年から中学生である。家族と仲良く、というよりも、友人たちとの付き合いに重きを置きたい年齢である。今年こそは夜祭に行きたいと何度も母に頭を下げて、皿洗いと肩たたきの約束を向こうひと月ばかりして、それで、ようやく許してもらえたのだ。
「あっちで、いか焼き百円だって!」
幼馴染の勝也が、駆け出した。明も千円札を握り締める。それは聞き逃せない情報だ。腹が空ききっていた明は、勝也の後を猛然と追いかける。
そして、お社の前。広場の中央の、大きく立ち昇る炎の前に差し掛かった時のことであった。
ばちり、と、耳の奥で、弾ける音が聞こえたのである。
大きな炎であった。渦を巻きながら天へと手を伸ばしていた。
気づけば、足を止めていた。
炎が明の顔を赤く染める。その熱すら心地よく、たらりと伝う汗が頬をすべり、首元へ、そしてTシャツに吸い込まれていった。
祭囃子が遠のいていく。
ばちり。
ばちり、と炎が、弾けた。
その炎の中に、人影が、ゆらりと現れたのである。
踊っている。楽しそうに。
炎の中心に、手足を跳ねさせて踊る、人影。
男のようであった。
顔の凹凸は分かるものの、表情までは読み取れない。手足を振り回す様は地団太を踏むようでもあった。あるいは救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。ばちり。ばちり。爆ぜる音が近づいていく。手足を振り回し。
ばちり。
こちらを、見ていた。
黒に落ち窪んだ眼と思しき窪み。その果てしない闇が、ひた、とこちらを、見つめていた。
炎が、燃えている。
男が、見ている。
――あちいよお。
つい、と、男は手を差し出し、ゆっくりと。
ゆっくりと。
手招きを、した。
「いけない!」
がしり、と腕を掴まれ、明は振り返った。女性である。すらりとした佇まいの、若い女が、明の腕を掴んでいる。力の込められた指が、明のまだやわらかな腕にじわりと食いこんだ。
「……痛!」
思わず顔を顰める。女は明の様子をじいと見つめ、やがて、ほう、と息を吐いた。
「炎の顔を見るのは、毒だよ。気をつけて」
踵を返す女の、赤に照らされた長い黒髪が、左右に揺れて遠のいていく。
明はもう一度振り返り、炎を見た。
もうそこに、あの人影は、いなかった。
***
「明! いい加減に起きなさい!」
寝ぼけ眼をこすると、朝も八時になろうとしているところであった。
明は慌ててベッドから飛び起きる。手早く着替えて階段を駆け下り、息せき切って、明るい日の光が降り注ぐリビングへと飛び込んだ。
「なんでもっと早く起こしてくんないんだよ!」
「何度も起こしたでしょう。まったくあんたはいつもいつも!」
母親の明美が柳眉を逆立てるのを見て、明は頬を膨らませる。
今日は大切な日であった。それは新学期だから、という訳ではない。二学期の一大イベント、修学旅行の班決めの日なのである。
明には、憎からず思っている女の子がいる。同じクラスの、愛子、という子であった。
愛子は、可愛い。学校で一番の美少女だと思っている。にっこり笑うと八重歯がのぞく、そこがまた、いい。最後の学年で一緒のクラスになれたのは明に取って幸運だった。修学旅行で、一緒の班になれたら、ちょっと頑張ってみようか。何といっても来年からは中学生になるわけだし、仲良くしておくにこしたことはない。
だから、今日は早く起きて、何もかも完璧にしておこうと思ったのに、出鼻を挫かれた気分である。
父親の聡が、飲みかけであろう珈琲をかたりと置いて笑った。
「まあまあ。ほら明。急いで食べちゃいなさい」
声が掠れている。また徹夜をしていたのだろう。父親の特殊な職業の事を考え、明は軽く肩を竦めた。
言われるままに食卓に着く。既に用意されていた、純和風の料理たち。ごくりと唾を飲みこみ、白米をかきこんだ。添えられていたお漬物は胡瓜と茄子。キャベツと油揚げの味噌汁が胃に染み渡る。一気に流し込んで、咀嚼する。
「こら、落ち着いて食べなさい」
聡志の声に、明はまた肩を竦める。無茶を言うものだ。急ぐ、と、落ち着く、は対極にあると言ってもいいだろう。
明美も食卓につきながら、苦笑した。
「あんたもね、もうあと少しで中学生なんだから。起こされる前に起きなさいよ」
「無理だって」
口いっぱい頬張りながら、明は抗議する。とはいえ、今日の寝坊は自業自得と言えるだろう。そのくらいは明だって分かっている。何せ昨日は。
そこまで考えて、明は首を傾げた。
昨日は、どうしたのだろう。
確かお祭に行ったはずだ。勝也が迎えに来て、二人で神社に向かって、それから。
ちり、とした頭の痛みと共に、明の脳裏に赤の色が蘇る。赤い、炎。鎌首をもたげた蛇のようであった。確か自分は、炎の前で。
「おい、明!」
聡の声に、明は目を瞬かせた。手に持っていた味噌汁椀から、中身がだらだらと零れている。
「ああ、もう、何やっているの!」
明美は慌てた様子で台所へ走った。布巾を取りにいったのだろう。明は味噌汁まみれの服を呆然と見下ろした。灰色のパーカーに、油揚げが芋虫のように張り付いている。
「体調でも悪い?」
聡はかたりと立ち上がると、明の額に手を置いた。
「熱はないね」
ばたばたと明美が戻ってきて、明の襟ぐりを乱暴に拭った。
「ほら、ぼっとしてないで着替えてきなさいよ! 出汁の匂いぷんぷんさせて学校行きたくないでしょ?」
「ねえ、明、ちょっと体調悪いみたい」
「えっ?」
明美もとっさに明の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど」
「……平気」
心配そうにこちらを見る両親に、明は笑顔で答える。ちくりと不安がよぎったが、そんなもの、気にしなければなんのことはない。今日は何としても学校に行かなければいけないのだ。
「あまり、無理はするなよ」
そう言って、聡は煙草を取り出して火をつけた。
赤い、炎。
――あちいよお。
「明?」
問われて、明は目を瞬かせた。どうにも頭がもやもやとしていけない。
「なんでもない」
心配そうにこちらを窺う両親を安心させるように、明は笑った。自室に戻ってもう一度着替え、ランドセルを背負い、再び階段を駆け下りる。
リビングに戻ると、聡が明美に叱られていた。
「あんたね、子どもの前で煙草はやめてっていつも言ってるでしょ!」
「ごめんごめん、つい癖で」
ソファの上で正座をさせられている聡を見て、明はくすりと笑った。ああ見えて、じゃれ合っているだけなのだ。あの二人は。
明は肩を竦めて、取り込み中の両親に声をかける。
「行ってきます!」
ばたり、と扉を開けて駆け出した。いい天気である。幸先のよさに、先ほど感じた不安が薄れるのを感じながら、明は学校への道を猛然と走り出した。
***
「ねえ、大丈夫なの?」
そう勝也に話しかけられて、明は目をぱちくりさせた。
「なにが?」
ランドセルを机の横にひっかけ、教科書と筆箱を取り出したところであった。
明は勝也を振り仰ぐ。ひょろりと長い姿を認めると、ことりと首を傾げた。勝也はいつもにこにこと笑っている、気の良いやつである。明とは幼稚園から家族ぐるみの付き合いだ。その勝也が、眉をよせて心配そうに、顔を覗きこんでいる。
「いや、明さ、昨日の夜変だったから」
「昨日?」
「ほら、お祭のとき」
ちり、と頭が痛くなった。目の奥にちらりと赤い炎が見える。あれは昨日のお祭りの、大きな炎だ。赤い色をして、じりじりと熱い――。
「明?」
目を瞬かせた。今、何か思い出そうとしていた。大切な事だったはずだ。忘れてはいけないこと。喉の奥に引っかかって、取れない小骨のような、もどかしい思い出があったような気がする。
「保健室行く? やっぱ体調悪いんでしょ」
「……だいじょぶ」
勝也は明らかにほっとした顔で笑った。
「ところでさ」
勝也が指さした。
「それ、なに?」
机の上に乱雑に置かれた教科書。紺色の筆箱、その隣の、銀色のジッポ。
「……父さんのだ」
明は目を見張った。何でここに。何かと間違えて持ってきてしまったのだろうか。
チャイムがなる。勝也は心配そうに明に眼をくべると、自分の席へと戻っていった。
あわててジッポをポケットに突っ込む。きっと、何かの拍子に混じってしまったのに違いない。帰宅したら、リビングの上にでも置いておこう。
がらり、と扉が開き、担任の佐藤が教室に入ってくる。にやにやとしながら箱を携え、それを教卓に置いた。
あれこそが、本日のメインイベント。班決めの籤に違いない。明は大きく息を吸って、手に『人』の文字を書いた。
それを見ていた勝也がぽそっと。
「それ、ちがうおまじないだよ」
と、教えてくれた。
祭の日に見かけた女の人に再び出会ったのは、その日の学校帰りのことである。
班決めの結果は散々であった。気合を入れて引いた籤は大いに外れ、愛子と離れてしまったのである。
明は友人が多い。どの班になっても話し相手に困るとか、そういったことの心配はまったくしていなかった。しかし、学校生活最後のチャンスで、想い人と一緒の班になれなかった。そのことが意外なほど、気落ちの原因となっていたのである。
同じ班になれなかったくらい、なんてことない。そう思うようにしても、なかなか胸中は複雑だ。くさくさとした思いを振り切るように、明は頭を軽く振った。
しかし憎らしいのは勝也だ。
彼は、ちゃっかり愛子と同じ班を引き当てたのだ。こちらをちらと見て、ごめん、と言わんばかりの顔に、無性に腹が立った。恐らく勝也は、自分が愛子の事を憎からず思っていることに気づいているのだ。そのこともまた、明を苛立たせる原因になっていた。
愛子は、勝也の事をどう思っているのだろうか。
勝也は、女子に人気がある。優しいところが、いい、と、以前女子が話していた。その中に愛子もいたはずだ。
「あー、やめやめ!」
我ながら、女々しい。終わったことを、ぐちぐちと考えていても仕方がないだろう。
まっすぐ家に帰る気にもならず、かといって行くあてもなく、ぶらぶらと道を歩いていたその視界に、神社の赤い鳥居が目に入ってきたのである。こんもりとした緑が生い茂る、小高い丘の上にちょこなんと見える赤に何となく惹かれて、明は足をそちらに向けた。
石畳の階段を駆け上ると、町が一望できる境内に辿り着いた。もう日も落ちかけている。傾きかけた陽光が、鳥居の影を長く引き伸ばしていた。
吹き抜ける風が心地よく、明はうんと伸びをし、境内をぐるりと歩く。
そこは確かにお祭りの後であった。片付けの途中なのだろう、屋台の骨組みが残っていて、なんとなく、物寂しい。境内の中心には、燃え尽きた焚火の残骸がこんもりと小山になっていた。そっと近づくと、かすかに焦げ臭く、思わず眉を顰める。
ふと、その黒い残骸の中に違和感を覚え、明は目を瞬かせた。
つきん、と頭が痛くなる。
――あちいよお。
その時であった。そっと後ろから、ひやりとしたものが目に覆いかぶさってきたのである。
人の手だ。目隠しをされている。ふわりと微かな、花の香りがした。
「見ちゃだめ」
低い、掠れた声。
ふっくらとした、それでいてひんやりした手の平の感触に、明はどきりと心臓が跳ねる。
「炎の顔を見るのは、毒だよ」
そう言って、手はゆっくりと離れていった。
振り返ると、そこには女が立っている。
背の高い、すらりとした人であった。黒い革のジャンパーと、ぴったりとしたジーンズがよく似合っている。長い黒髪は夕日を浴びてきらきら輝いていた。
あの時の女性だ。祭の夜、炎の前で、同じように声をかけられた。女はゆっくりと言い含める様に、もう一度言葉を口にする。
「炎の顔を見てはいけないよ」
そのまま踵を返す彼女に、明は辛うじて声をかけた。
「……だれ」
女は振り返る。
夕日を背に受けたその姿は、一枚の影絵のようであった。
「葉子」
夕焼けの赤に、鳥居の影が溶け込んで、明を飲み込んでいく。
烏の鳴く声が、遠く木霊した。