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3組の教室をそっと覗く。
智大の姿がないのを確認して、裕子は小さく息を吐いた。
自分の教室に入って席に着く。
友達と話をしていてもまったく頭に入って来ず、当たり障りない会話と笑顔を撒き散らしながら教室の扉をチラチラと見ている。
しばらくすると智大が入ってくる姿を捉える。
その姿を見ただけで、昨夜の決意が音を立てて崩れて、胸の奥がきゅっと歪んだ。
目が合いそうになり、思わず逸らす。
(あーーん・・もうっ)
(なんで私、あんなこと言っちゃったんだろ)
後悔と、照れと、不安がぐちゃぐちゃに混ざる。
素直になれない。
優しくしたいのに、できない。
裕子は机に向き直り、小さく息を吐いた。
(・・・・私のバカっ)
それでも、胸の奥には残っている。
昨夜、確かに勝った(まさった)気持ちが。
応援したい。
送り出したい。
その想いだけが、まだ言葉にならないまま、裕子の中に静かに残っていた。
昼休み、教室はいつもよりうるさく感じた。
友達とお弁当を広げ、笑っているはずなのに、頭の中はずっと別のところにある。
誰かが近いてくる、顔を上げなくてもわかった。
ともくんだ。
(見ない。今は、見ない)
話しかけられる前に、心の中で距離を作る。
だって今話したら、また変なことを言ってしまいそうだったから。
名前を呼ばれて、胸が跳ねる。
一瞬だけ顔を上げて智大の顔を見るが、すぐに逸らした。
「・・・・今は無理」
それしか言えなかった。
拒絶したかったわけじゃない。
ただ、崩れそうだっただけ。
授業中、休み時間、今日は常に智大からの視線を感じていた。その度になんとも言えない胸の苦しみが襲ってくる。
(ともくんと話しないといけないよ・・ね)
放課後、生徒会室へ向かうが考え事をしているせいか普段と違う所を通っている。
しばらくして、人気が少なくなった廊下で背後から足音が近づくのがわかった。
名前を呼ばれて、立ち止まる。
振り返らない。
振り返ったら、顔に出る。
出た言葉は。
「ともくんは、夢があっていいよね」
(あれ?なんでこんなこと言っちゃったの?)
(本当は応援したいし、すごいと思ってる)
(でも、置いていかれる気がして怖い)
「私だけ、ここに取り残される感じがする」
自分が放った言葉に呼応するかのように
「悲しませたくない」
という言葉が、再び頭をよぎる。
「悲しませないって言ったじゃん」
振り返り、まっすぐに智大を見る。
「それ、嘘だったの?」
「違う」
智大は首を振る。
「悲しませるつもりなんかない。でも俺は俳優を目指すために一刻でも早く東都に行って勉強したいんだ」
「でも、ゆうこと離れてしまうのも嫌だけど・・・・逃げたくもないんだ」
真剣な智大の顔を見ていると責めることも許すことも出来ない気持ちになり視線を落とした。
(なんて言えばいいの? わからないよ・・・・)
絞り出した返答。
「・・・・いいよ。好きにしなよ」
裕子は耐えきれず、振り返って生徒会室へと歩き出した。
次の瞬間、視界が滲み、涙が溢れ出る。
その先の階段を降りながら、さっき自分が言った言葉が、何度も頭の中で響いた。
「好きにしなよ」
あの言葉は、突き放したつもりなんかじゃなかった。
ただ、これ以上ここにいたら壊れてしまいそうで、
逃げるために吐き出しただけだった。
でも――
(もしかして、私・・・・今、ともくんを一番傷つける言葉を言ったんじゃない?)
その考えが浮かんだ瞬間、足が止まりそうになる。
(引き返したい)
(・・・・戻って、呼び止めたい)
けれど、足は動かなかった。
もう、引き返すことは出来なかった。




