[107]
夏休みまで、あと1週間。
カレンダーを見なくても分かっていた。
教室の空気が、どこか浮き足立ち始めているからだ。
この1週間を耐えれば、当分この地獄から抜け出せる。
そう思うことで、俺は自分を保っていた。
・・・・あと1週間だ。
昼休み。
俺は自分の席で、1人、弁当を広げていた。
周囲の視線にはもう慣れていた。
話し声が止まることも、
ひそひそとした笑いが起きることも、
今では日常の一部だ。
そんな中、足音が近づいてくる。
顔を上げる前に、嫌な予感がした。
次の瞬間——
頭上から、冷たい水が一気に降り注いだ。
ペットボトルの中身が、容赦なく頭から顔へ、制服へと流れ落ちる。
視界が歪み、息が詰まる。
「・・・・っ」
声は出なかった。
「あっ、のーもと。のど、乾いてるかとおもってさー」
優斗だった。
空になったペットボトルを逆さにしながら、笑っている。
「水、与えてやったけど、いらなかったか?」
その言葉を合図に、周囲から笑い声が上がる。
大きな声じゃない。
抑えている・・でも確実に悪意のこもった笑い。
俺は、ずぶ濡れのまま動けなかった。
弁当も、机も、膝の上も、水でぐちゃぐちゃになっている。
(遂に、俺にも、来たか・・・・)
しかし、何も言えなかった。
言えば、もっとひどくなることを、もう知っている。
笑い声の渦の中で、
ふと、視界の端に動く影が見えた。
晴美だった。
俯いたまま、ゆっくりと席を立ち、
教室の出口へ向かって歩いていく。
ーーーー
昼休みが終わり、授業が始まる。
数学教師が教室に入ってきて、
いつものように出席を取り始める。
「・・吉田。吉田は、いないのか?」
その名前が呼ばれた瞬間、
教室の空気がわずかに揺れた。
誰も答えない。
俺は、晴美の席を見る。
——空席。
その時、昼休みの光景が、頭の中で一気に蘇る。
笑い声の渦の中、教室を出ていく晴美の姿、
あのときの横顔、
その背中、
まるで何かを決めてしまった人間のように、静かだった。
その映像が頭に流れ込んだ時、
嫌な予感が、胸の奥に沈んだ。
そして血の気が引く。
(・・・・まさか)
椅子が音を立てて後ろに倒れる。
気づいたときには、俺は立ち上がっていた。
何も言わず、教室を飛び出す。
「野元、どうした? 待ちなさい!」
背後から声が飛んでくるが、
耳には入らなかった。
俺は走る。
ただ走る。
晴美が行きそうな場所。
行ってはいけない場所。
——間に合え。
残酷は、
もう始まっていた。




