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人質に取られた女の子の話

 ギィと錆びついた閂の音がする。ジョベラス子爵はこわごわと顔を出した。


「おと、お父様ッッ!」


 紅のドレスを着た女が走りだした。鎖を引く重い金属音がして、子爵に飛びつく前に彼女の膝が床にぶつかった。倒れ伏し痛みに呻いている。

 足首に周るくすんだ銀の足枷。それに繋がった鎖の先を、銀髪の若い男が細い指で摘み持っていた。彼は木彫りの椅子に腰掛け、足を組んで座っている。細身の肢体からは、こうして女を軽い力で引っ張ることができるようには見えなかった。


 怪しい酒屋の奥、ひっそりと暗色の部屋があった。石造りの黒壁が空間を圧迫するように囲っている。窓はない。飴色のカンテラが天井に吊るされ、風もないのにゆっくりと揺れた。

 父と呼ばれた男──ジョベラス子爵は、倒れた女に手を伸ばす。だがその前に銀髪の青年が鎖を引き寄せ、ずるずると女の体を床に擦らせた。


「った、た。たいッ」


 豪著なドレスの裾は破け、露出された足に擦り傷ができている。強引に攫ったのだろう。いったい自分がここに来るまでに何をしたのだと、子爵は眼をいからせた。


「娘を……! レガディアを、放してくれ」


 ジョベラス子爵はなるべく重々しい口ぶりを装った。


「金は?」


 冷徹な鎖とは似合わぬ、軽やかな口跡で言う。

 子爵は襟を正し、金貨を入れた上質な巾着袋を懐から取りだした。


「用意した」


 銀髪の男が椅子から立ち上がる様子はない。

 品のいい顔だ。均等に配置された上乗の目鼻立ちに怜悧な目遣い。血の巡りの失せた石のような肌には、真意の読めない淡い微笑が添えられている。

 だがいくら容貌が整っていても、着崩した服装から貴族ではないと踏んだ。くっきりと彫られた鎖骨の見える深紫のシャツに、緩いパーカーを羽織っている。下のスキニーも高価な生地ではなさそうだ。首に下がるネックレス、ピアス、指輪、ちらりと覗くベルトは白金製にも思えたが、麻薬を売るような狡い連中だ、本物の宝石ではないだろう。


「ラムズ、と言ったか? お前がここまで取りにこい。下民の分際で」


 子爵は吐き捨てるように言う。

 ラムズは嗤い、右手をわずかに上げる。天上に向けた指先が手招きよろしく丸く曲がると、子爵の持っていた巾着袋が引き寄せられた。瞬きの間に彼の手にそれは渡り、もう中を開いて金貨の数を確かめている。


 子爵は喉の奥へ唾を押しこんだ。

 ──詠唱をしなかった。今の魔法は……魔石を使ったのか? 流れるような仕草、あまりに素早い魔法で何もわからなかった。

 ラムズはそばにあった机に巾着の袋を乗せる。静かに言った。


「足りねえな」

「いや、それで十分だ。こっちは娘が薬に侵されているんだぞ!? お前が唆したんだろう!」


 子爵が詰めよろうとすると、娘を繋げた鎖がさらに引っ張られた。慌てて子爵は動きを止める。ラムズは椅子から立ち上がり、床に転がる彼女の前でしゃがむ。体を起こしてやり、近くの壁に背中を凭れかからせた。


「ら。らむず、お願、い……。おね」


 ラムズは自身の唇に人差し指を当てた。銀の睫毛を少し青眼にかぶせ、「しぃ」と囁き声を送る。レガディアはこくこくと震えるように首肯をして、彼の促すままに腕を持ちあげた。

 ラムズが黒塗りの壁に手を当てると、みしみしと音を立てて壁から鎖が生えてくる。子爵は目を見開いたが、首を振った。壁に強力な魔法がかかっているのだ。

 短い鎖の先には手枷が付いており、ラムズはもったいぶった仕草でレガディアの手首に装着しようとしている。


「何をして──」


 子爵が踏みだす前に、背中を向けているはずのラムズの声が耳元で聞こえた。


「死んでもいいのか?」


 ぴたと足が止まる。左右を見渡した。どこから声が聞こえたんだ? 部屋から? 後ろの扉から?

 気味の悪い魔法ばかり使う男だ。麻薬を売った金であちこちに細工をしているのか。はぁ、と肺の底から息を吐き首を回す。ラムズの口舌は娘を殺すという脅しだろう。子爵は一度高ぶった動悸を落ちつけ、低い声で唸った。


「今の二倍やろう」


 ラムズが立ち上がる。閑やかに唇を曲げる。


「足りねえな」

「貴様ッ!」


 娘とラムズと、見定めるように交互に視界に入れる。荒い息で言った。


「これ以上不遜な口を叩けばどうなるか、わかっているんだろうな!」

「どうなるんだ?」


 いくら声色を尖らせても、目の前のラムズという男はどこ吹く風でさらりと返事をするばかりだ。子爵に苛立ちが募った。


「貴様の家族や友人を握りつぶすのは簡単なことだ。もちろん、貴様自身も衛兵に捕まるだろう」

「ああ、そっか」


 ラムズはようやくわかった、とでも言いたげに軽く頷き、腰に下げていた短剣を取りだした。きら、と何かが目を穿つ。ガーネットに似た色石が鞘に飾られている。

 抜いた剣先が閃く。下民が持つにしては随分美しい輝きを見せる得物だ。すらりと尖った刀身を、ラムズは左手首に添えた。子爵がなんの真似かと咳払いをすると、剣がたちまちに手首を切り落とした。

 ぼた、と鈍い音が鳴る。

 骨ごと断ち切った掌が床に落ちている。五指が生き物のように緩く曲がり、また徐々に開く。


 気持ち悪い。思わず肩が上がり、こめかみを押さえた。

 何をしている?

 ラムズはまったくの無表情で剣を洗い、もう一度腰元に戻している。そのうちに、数滴赤黒い血を流した手首がみるみる伸びて、初めと同じ手が生えた。


「おま。お前、……お前ッ!」


 尋常でない治癒能力だ。明らかに人間ではない。どこかの獣人か? 人間に擬態できる獣人?

 ラムズが人間でないならば話は別だ。獣人(ジューマ)ごときが麻薬を売るなど、ここまでして金をせびるなどにわかに信じがたいが、人間社会の脅しを使っても仕様がない。

 子爵は大きく肩をそびやかした。


「い、いくらほしいんだ」

「純金貨千枚」

「なっ!」


 鎖に繋がれたレガディアが叫ぶ。


「そんなのおかしい! 規定の金額より高いわ!」


 ラムズの眼が冷ややかに落ちる。


「延滞料」


 子爵は大きく舌を打つ。


「五、五百だ。それ以上は出せん。家が潰れる」

「知らねえよ」


 嘲笑う声が言った。

 子爵の体が強ばる。ポケットに手を突っ込んでは出して、服で汗を拭った。そんな大金は持っていない。使用人や家族を養えなくなってしまう。


「七百までなら。だが数ヶ月待ってくれないと……本当にないんだ」


 ラムズは机上の缶の中から煙草を摘んだ。指先に青炎を灯し、煙草の先に撫でつける。光が仄暗い宙で滲み耀う。薄い唇で咥え、息をしっとりと漏らす。


「充分待った」

「本当にないんだ。家族がいるんだ。本当に、用意できない」


 だらりとラムズの腕が下がる。


「飽きたな」


 視線が右上に寄り、おもむろに娘のほうへ近づく。腰を屈め、彼女と目を合わせた。


「レガディア。かわいそうに」


 骨細の冷たい指先が頬をするりとなぞる。レガディアは体をひねってがちゃがちゃと鎖を鳴らした。


「娘には何もするな!」

「……黙って見てろ」


 心の底を震わせるような声が貫く。一瞬で体が硬直し、瞬きすらままならないほど全身が痺れて動かなくなった。


「お父様は金が用意できないらしい」


 いくぶんか甘い声だった。


「ほ、本当にないのよ! そんなにたくさん、そんなにお家にはないの!」

「さて、どうかな」


 ラムズは右手に持った煙草を持ち上げる。


「飽きたんだ、もう」

「な……なにが、なにが?」


 冷ややかに見下ろすラムズの顔に、レガディアは目が離せなくなった。彼は優しく目元に指を添え、人差し指で瞼を持ちあげる。


「なに、ねえ、なに。ねえ」


 彼は首を傾げ、蠱惑的な笑みを繕う。


「消させて? 火」

「は? は?」


 左手が肩を壁に押しつける。ついさっき吸いはじめたのに飽きたと、そう言いたいらしい。


「ね、あ、ね。あ、」


 注がれる彼の目線の先は自分の左目だ。ラムズはレガディアの瞳で、この瞳の粘膜で煙草の炎を消すと言っているのだ。


「いやだ。いやだ! いやだ、いやだ! いやだ!」

「お前もうるせえな」


 ラムズはわずかに眉を歪めると、押さえていた肩を外した。ドレスを破り、赤い布を口に無理やり詰めこむ。


「っん、んーー! んぅ、んー!」

「大丈夫だよ。片方だけだから」


 右の眼に煙草の先が迫る。ちりちりと焦げつく炎の匂いがする。虹彩が左右に忙しく行き来をして、荒々しい呼吸で胸が締まっていく。


「んんんん! んっ! んんん!」


 体を動かし足をばたつかせようとするも、足に付いた枷で思ったようにならない。


「やめろ! わかった! すぐに用意する!」


 子爵が叫んだ。

 近づけていた煙草を外し、ラムズが振り返る。


「いくら?」

「七……」娘に視線を走らせる。「はっ、八百でどうだ」


 子爵は冷や汗が止まらなかった。人間ではないのだ。何をするのかわかったものではない。

 ラムズは目を細める。


「俺さっき千って言わなかったか? 八百? 舐めてんな」


 すぐに背を向けてレガディアに向きなおる。


「本当にないんだ! し、子爵だぞ。そんな大金持っているわけがない!」

「持ってるか持ってないかじゃねえよ。集めてくるんだよ」


 レガディアの肩に再び手が添えられる。


「泣いてんのか?」


 目尻の涙を拭う。いたく柔らかな眼差しを湛え、目の際をやわやわとなぞる。だがラムズはそのまま、やはり煙草の先を右目に近づけた。


「おと、さま……ぁ」


 青の先が近づいて、瞳が充血したように熱くなる。レガディアの両目は潤み、いくつもの涙が零れていく。


「やめろ! 頼む! やめてくれ!」


 子爵は何度も瞬きをする。彼を止めたくても魔法で体が動かない。口に粘っこい唾液が溜まりはじめる。

 今家にある純金貨はかき集めても八百まで。だがこれを使ったら、来月からは使用人を雇うことができず、貴族として最低限の暮らしさえままならなくなる。だがそれでも足りないのだ。あとは──。亡き祖父母が遺した高級な家具や、代々継がれてきた宝飾品を片っ端から売るしかない。


「千枚だ! わかった! 一週間で用意する!」


 ラムズは微笑んで手を止める。


「あるんじゃん」


 腰を上げようとして、脱力して俯くレガディアを流し目に映した。頬に手を添えると、息をつく間もなく彼女の眼球へ煙草を押しつけた。


「んんんんんんんんんんッ!?」


 ジュッと炎の滲む音がする。淡い桃色の眼が爛れ、角膜が溶けていく。あまりの激痛に頭が割れそうになり、目元がずきずきと疼いて異様に脈打ちはじめた。レガディアは絶叫して体を振りまわしている。


「なっ!? 千枚やると言っただろう!?」


 子爵が大声で叫ぶ。ラムズはようやく腰を上げた。


「いや、なんとなく」

「は?」口がぽかんと開く。

「期待させておいて、やらずに帰るはねえだろ?」


 ラムズはくつくつと笑い、血涙を流す娘を見下ろした。

 子爵は途方に暮れて浅い息を繰り返した。

 意味がわからない。脅すためにやったのではないのか? なんのために目を焦がしたんだ? たった今金は渡すと言ったのに?


「お、お前。俺は……俺は、レガディアの目を守るために言ったんだぞ!? それなのに、それなのに! 金はもう──」

「治してやるよ」


 子爵は首を振って尋ねた。


「どういう、ことだ?」

「お前が一週間以内に金を持ってくるなら、治してやるって言ってんの」


 息が上手く吸えない。この男は狂っている。そんなことをせずとも、初めから娘は人質になっているのに。


「も、もし持ってこなかったら」

「とりあえず両目失うことになるな?」


 喉が重く唸った。レガディアはまだ呻いている。


「わかった。わかった……持ってくる。大丈夫だ」

「あ、そうだ」


 彼はもう一度煙草に火をつけた。薄い煙が上り、甘露と苦杯を混ぜたような香りが鼻腔を掠める。


「お前の家、けっこうな宝飾品があるよな」

「そ、それがどうした」

「換金する前に持ってこい。純金貨の代わりにしてやるから」


 疑問符ばかりが脳を覆っていくが、子爵はなんとか頷いた。


「それなら有難い。手間が省ける」


 娘に意識を移す。


「これ以上レガディアを傷つけるなよ? 薬も与えるな。頼むから」

「大丈夫。かわいがってやるよ」


 青眼は甘く曲がり、煙草を持つ手元の影で唇が嗤う。


「何もするなよ!?」

「──だってさ、レガディア」


 咳きこんでいた彼女が顔を上げる。悲惨な右眼だ。膿んだ眼球はもはや円形を成しておらず、歪に潰れ膨らみ、赤黒く焦げたところもある。眼の際から濁った血が滴り落ちる。瞼を閉じられないのか、眼だったものが小刻みに震えている。レガディアは泣きながら頷いた。

 子爵はラムズの様子を伺いつつ、ゆっくりと彼女へ近づいた。許されているようなので、少し足を早めレガディアを抱きしめる。口元の布を外した。


「すぐに戻ってくるから。大丈夫だからな」

「いらい、いらいの……。いらい……」


 体が項垂れるように曲がる。


「大丈夫だ。治してもらおう」

「ごめ、ごめんらさい……おとお、さま……」

「いいんだ。いいんだよ」


 痛ましい娘の姿に、強ばっていた体の緊張が解けてしまった。同じように涙を零し、何度も優しく髪を撫でつける。


「待っていられるか? あいつは何もしないのか?」

「……だいじょ、ぶ。ほ、ほんろはッ」


 嗚咽が止まらないらしい。


「やっ。やらりかったから」

「何を言っているんだ? 優しくないだろ」


 レガディアは父の腕を摩る。


「わ、わらしがお金を払えらい、から。おんとは……もっと、やらい、い」


 低い笑い声が聞こえる。

 子爵が振り返ると、彼が細めた眼つきで愉快そうに唇を曲げている。


「本当おかしいよな。お父様も何か言ってやってよ」

「娘を洗脳したのか? 魔法を使ったのか? 頼むから、金は渡すから全部解いてくれ。元通りにしてくれ……お願いだ」


 ラムズはくつくつと嗤う。


「知らねえよ。勝手に惚れたんだろ」

「頼むから……」

「まあ、家に連れ帰ったら鎖にでも繋いでおくんだな。ちゃんと泣かしてやっただろ。それでもなお好きというなら俺も打つ手がねえわ」


 低めた笑い声を漏らす。嘲るようにちらりと舌を見せ、唇を舐めて仕舞った。

 子爵は不安そうにラムズを見つめ、そのあと娘に向きなおった。


「何もするなよ。この男と会話をするな。なるべく早く戻るからな」

「……ん、ん…………」


 体を起こして娘から離れる。彼女を最後に一目見たあと、鬱屈した部屋をようやく後にした。

 金を集めつつ、あの男の正体を探ろう。エルフでも雇えれば彼を殺すこともできるやも──子爵は首を振った。よそう。あいつは狂人だ、おかしい。得体の知れない男だ。金を払えばもう関わらずにすむというのなら──。


 子爵はコートをかき抱いた。肌寒い風に身が震える。月明かりを頼りに、足早に帰路へついた。

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