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デートの約束を踏みにじられる話

『じゃあ、明日の正午、ファリス通りの噴水の前で』


 何度思い出しても顔がにやける。あのラムズから、冷淡でニヒルなラムズから、店の客でいちばんハンサムだと噂のラムズから、ようやくデートの約束を取りつけた。

 そう言った彼の顔は横から半分しか見えていなかったけれど、たしかにちらりと視線がこちらにずれて、目を合わせてくれた。店のオーナーである継父としかほとんど会話をしない彼が、初めて私とまともに取り合ってくれたのだ。

 今まで一生懸命もてなしていた甲斐があった。まだ好感度は地から芽が生えた程度だけれど、明日のデートで少しずつ仲良くなればいい。


 誕生日に買ってもらった特別なメイク道具を引っ張りだし、予行練習も兼ねて鏡とにらめっこする。


「私はかわいい。私はかわいい。よし!」


 寝不足は美容の大敵だ。それに寝坊なんてしたら目も当てられない。明日の準備をばっちり終わらせたあと、いつもより一時間も早くベッドに入った。そわそわと落ちつかない心を、ベルガモットのルームフレグランスが癒していく。

 大丈夫。きっと上手くいく。




 念のため、待ち合わせの三十分前には着くように出かけた。

 薄桃の絹糸を上品にあしらった白のワンピース。小ぶりのファーが付いた丈の短いコートを羽織り、華奢な花柄模様が彫られたシルバーのパンプスを履く。ヒールは五センチル足を長く見せ、括れを引き立てるようにコルセットベルトを巻く。

 ハーフアップにした髪からピアスが揺れて、いちばん高級なネックレスも付けてきた。淡い紅色のチークをほんのり零して、目元には柔らかな藍の曲線が覗く。

 メイクもヘアアレンジもファッションも完璧だ。ラムズが贔屓にしている服屋の娘だもの。これくらいできなきゃ、デート早々帰ってしまうかもしれない。


 それから、一時間待った。

 彼が三十分くらい遅刻することは想定内だった。一時間遅刻するのも、あの冷たい眼光の持ち主だ、少し意地悪されたって諦めるつもりはない。

 二時間待って、馬鹿げてしゃんと伸びていた背筋が不格好に曲がった。でもまだ二時間だ。彼が目を合わせてくれるまで一ヵ月かかった。話をするのに二ヵ月、話しかけられるようになるまで三カ月。このデートまで五ヶ月かかった。たかが二時間待つくらいどうってことない。だってデートの相手はあのラムズだもの。



 快晴だった空が曇りはじめていたころ、私はとうに時計を見るのをやめていた。時間を気にするから長く待っているような気分になるのだ。まだ四時間、いや、きっと三時間しか経っていないだろう。

 夜のデートをするつもりなのかもしれない。そうじゃなきゃ、ちょっとしたお遊びだ。いつまで私が待ってるか試しているだけ……きっとほら、次にあの道角から現れる人が──。



 数時間前に見かけた親子が、買い物を終えた袋を抱えて私の前を通った。若い男性がフードを被り、急ぎ足で噴水のそばを通り過ぎていく。

 雨雫が頬に染みを作る。立ちっぱなしだった足の痛みが熱い目頭に拍車をかける。脹脛が引き攣ってジンジンする。狭まっている爪先が痛い。喉が乾いて呼吸がしづらい。

 もう帰るべきだろうか。雨も酷くなるかもしれない。だけどここまで待っていたのに、それでいいんだろうか。

 ここで帰ったら、もう二度と会ってくれないだろう。それに、もしかしたら急に仕事が入ってしまったのかもしれない。あと十分、あと二十分待ってみて──。

 首元のファーがしっとりと濡れはじめ、セットした髪が項垂れるように崩れた。雨が目元に落ち、拭おうと手で擦ると、メイクの跡が手の甲についた。

 ワンピースの裾が重い。背中を伝う水が冷たい。冬でもないのに雨が降るなんて、今日は運が悪いな。へら、と無意識に唇が歪む。顔が強ばってうまく笑えなかった。



 小粒だった雨は、一時間もすれば視界をびっしりと覆いはじめた。何度涙を零しても、鋭い雨雫がなかったことにした。

 脳内で繰り返していた「帰るべきか。待っているべきか」の問答は、とっくに押し黙り、粛々(しゅくしゅく)とうすぼんやりした闇を広げているばかりだった。


 ただ立っているだけだ。服もメイクも髪も、すべて雨に流されてみすぼらしく萎れている。

 そもそも何しに来たんだっけ。ほとんど人通りもなくなった冷雨の中で、何を期待して立っていたんだっけ。


 ずっしりと濡れた髪。頭皮が冷え、靴の底から体の芯が凍み入る。頭痛が止まない。びしょ濡れの服の下で鳥肌が立っている。棒のように固まっていた腕をおもむろに持ちあげ、気持ちばかり髪を絞った。雨音より大きな流音が地面を叩く。

 知らぬ間に俯いていた顔を上げる。街灯の橙の光が雨の幕でぼやけている。


「もう……、帰ろ」


 呟いた言葉は、掠れてほとんど声にならなかった。地面を見つめる。

 ラムズが来るわけなかった。オーナーの言うことを聞いておけばよかった。しがない服屋の娘が相手にされるわけがない。

 雨が降る前に帰っておけば、一時間くらいで帰っておけば、最初から嘘だと見抜いていれば。──そもそも、彼のことなんて好きにならなければ。


「へえ」


 耳慣れない声が耳をついた。激しい雨音の隙間を縫うように、澄んだ音が通った。

 重石みたいな頭をゆっくりと持ち上げる。


「まだ待ってたんだ」


 冷たい笑みが滲む。私は目を疑った。

 ラフに流れるプラチナの髪。冥々(めいめい)と光るコバルトブルーの眼球。雫大の感情を紡ぐ薄い唇。瞳と同じ青いコートを着て、傘という珍しい魔道具を持ち、彼が立っていた。


 ラムズだ。


 彼はひとつの雨粒にも侵されていない。皮肉にもきちんと正面で見たのは初めてだった。正午の私とでさえ比較にならないくらい、ラムズは完璧だった。

 街灯を逆光に立つ彼の瞳に、反射した光が宿っている。でもそこにはどんな想念も見えない。ただ眼という役目を全うするだけの、宝石みたいな硝子玉。それが長い睫毛と一緒にこちらを見下ろし、(しお)れたわたしの影を瞳孔に(たた)えて笑っている。


「……ら。らむ、ず」


 喉から絞りだした声が雨音にかき消される。


「じゃあ、また明日。同じ場所に正午で」


 ラムズは背を向ける。高いヒールブーツが水溜まりの箔を破る。地面で跳ね返る雨水は、見えない魔法に失せて消えた。

 さっきまで脳を支配していた静かな虚無感が嘘のように、 さまざまな感情でないまぜになってふつふつと沸いては弾けた。

 今更何しに来たの? こんな時間に来たってもう無意味だし、謝罪も言い訳もなしで……ただ待っていた私を嘲笑いに来ただけ? それに次の約束って、なんで、どうして。なんのために。


「ッて、ま。待って」


 力を振り絞って足を踏みだし、おもむろに腕を伸ばす。

 数歩歩いて手が届きそうになったところで、前を歩くラムズの背中から声がした。


「触んな」


 びくと肩が震える。冷ややかな声に体が痺れる。あと数センチルを残して手を下ろした。


「あの。なんのためにこんな、いったいどうして……」


 消え入りそうな声のあと、フードを被った男がラムズに近づき声をかけた。


「なぁラムズ。まだ?」


 ラムズは傘を少しばかり傾けて、男に言葉を返す。


「なんか言いたいことがあるらしい」


 男がこちらを見た。鋭く赤い瞳に捕えられる。


「……だろうな」


 彼は嗤うと、「さっさとしろよ」と背を向け手を振って去っていく。

 この男と出かけている途中で、待ち合わせ場所にたまたま立ち寄ったんだろうか。最初から、デートには来るつもりなんてなかったんだろうか。


「俺が聞きたいよ」


 ラムズは私に向きなおりそう答えた。

 何を尋ねたんだっけ。


「だから。私はラムズ……」


 継父には『様』を付けろと言われていた。でも本人は『貴族じゃねえしふつうでいい』と言っている。継父曰くそれはお忍びというだけで、洗練された仕草や会話から垣間見える教養からも、明らかに彼は貴族だという。

 私は好意に甘えていたけど、今はどっちがいいんだろう。


「ラムズ、様と出かけたいと思っていて。だから先日お誘いしたんです。待ち合わせ時間はもうとっくに……過ぎてます」

「待ち合わせって? んなつもりねえけど」


 言葉の節々に意地悪な艶笑がのぞいている。


「じゃあさっきのは? 明日同じ時間に行ったら会えるの?」


 思わず砕けた言葉遣いで返してしまった。


「お前は好きなときまで待ってればいい。俺も好きな時間に行くから」


 そんな話、聞いたことない。


「なら行きたくないです」

「じゃあ来なきゃいいだろ。もうい?」


 ラムズが帰ろうとするので、慌てて「いえ」と引き止める。


「待ってたら……ちゃんとデートしてくれるんですか?」

「さあ」わずかに首を傾げ、形のいい瞳が細まる。

「わ、私が今回のことオーナーに言ってもいいんですか?」


 ラムズは少しだけ目を瞬いて、さらに首を傾けた。口角が曲がる。


「好きにしたら?」


 冷たい雨に腕を摩る。

 彼は私と継父の関係も、継父の性格もよく知っているんだろう。今回の話をしたところで、継父は「だから言っただろ」と一蹴するだけだ。お得意さんのラムズを足蹴にすることはない。


「さ。寒いんです。今日はこれでさよならですか?」

「俺にどうしろと?」


 それは、ほら。ふつう目の前で女の人がずぶ濡れになっていたらまずその傘を貸すとか、どこか店に入ってタオルで拭くとか、コートをかけるとか……。


「ずっと待ってたのに……」


 ぐす、と鼻をすする。髪もメイクもぐちゃぐちゃだ。服だって、こんなに雨に打たれたらもう着ていけないかもしれない。謎の多い男ではあったけど、こんなに酷い人だなんて思わなかった。


「お前が勝手に待ってたんだろ」

「だって、時間言われたから。仕事で遅くなってるのかもしれないなって……」

「花でも食って生きてんのか?」


 彼はくつくつと笑い、持っていた傘を揺らした。雫が落ち私の足にかかる。


「こ……恋人はいないんですか? 婚約者は?」

「いたらこねえだろ」


 どきりとして目を合わせる。意味深な表情に心臓が脈打った。

 それは何か意味があってここに立ち寄ってくれたってこと?


「誰かを恋人にする気は……あるんですか」

「……まあ、気に入った子がいたら?」

「気に入った子には、こんなことしないですよね」


 ワントーン沈んだ声に、彼はからかいを含んだ声で返した。


「どうかな、人による」

「……恋人には?」

「優しくするよ」


 彼は目を柔らかく細めて微笑んだ。打って変わって穏やかで優しい微笑に、喉が乾いた音を立てる。──恋人なら、こんなふうに笑って愛してもらえるってこと?

 でもそれは幻想だったかのように儚く消え、すぐに色のない表情を被った。


「あの! 無理なら無理ってきっぱり言ってください。そうしたらちゃんと──」

「じゃあ無理」


 息が詰まる。傘を叩く雨音がいっそう激しくなり、雫の槍が肌に打ちつける。


「……わかりました。じゃあ、さっき言ってた明日の時間は、もう無効ってことですね」

「好きにして」


 のっぴきならない返答に唇を噛む。無理と言われたんだ、もう彼の言葉に惑わされる必要はない。


「……はい。ごめん、なさい。迷惑かけて」


 雨で伸びきった髪を耳にかける。私は彼の元から離れた。



 これでいい。恋はお終い。明日出かけても、どうせ今日のように待たされるだけだ。

 かっこいいけど、好きな人だったけど、冷たい人だ。酷い人だ。もうやめよう。


 ……だけど、待ち合わせ場所に行けば──。行けば、何か始まるかもしれない。いつか本当にまともに取り合ってくれるときが来るかも。

 びしょびしょの靴が水溜まりを破っていく。首を振った。

 ……いいんだ。もう彼のことは諦めるんだ。彼の恋人になったって、きっとあんな風に虐められるばっかりで──途中で見た幻のような微笑みを思い出した。


 わからない。どうしたらいいのかわからない。

 冷たい雨がジクジクと体温を奪っていく。明日は晴れればいいなと、胸の底が囁いた。


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