1
ここのところいつもそうだ。
俺はドブの様な臭いがする側溝の脇、道路の建物側に沿って歩く時、おセンチな気分になってしまう。
この俺がだぜ?自分でもちゃんちゃらオカシイ。
おセンチって・・・。ププっ。
俺のすぐ前には装飾がほとんどないランプが丸いだけの街灯が点っている。
日本特有の細い路地。アメ車なら車同士のすれ違いが無理なほど狭い。
裏通りから出て大通りになると、ビルの横壁にいくつも連なる様にして縦に並んだ看板。
路面にも置くタイプのネオンがビルの入り口付近に所狭しと並んでいる。
これ、めっちゃ邪魔なんだよなぁ。歩きづらい。
今歩いている道は俺の知っている道ではある。
う~~ん、知ってはいる道なんだけど実際には知らない道なんだ。
全体的な印象は俺が幼い頃母ちゃんと住んでいて、母ちゃんが仕事場へ通う時、利用する駅までの道と似ているんだけど、小さな違いがいくつかあるんだ。
まず、現在の俺が知っている令和の新橋とは違う。
現代でも残っている駅の向こう側にある青色のガラスビルがまだ真新しく、広場には今ではなくなってしまった噴水がある。
俺の子供の頃って言えば平成になる数年前、昭和の高度成長期が落ち着いて、バブルが起きる前の話だな。
俺は、母子家庭で育った。親父の事なんて知らねぇ。
下手したら母ちゃんもどいつが俺の父親なのか知らない可能性すらあると思う。
母ちゃんは、クラブのホステスだった。
そしてもう一つの違いは、微妙に当時の景色と違う事だ。大人になったんだから、子供の頃と当然身長が違うので、街を見る視点の高さが違うのは当たり前。それを踏まえても、いろんな物が当時見ていた印象とは違って見える。
最後に違いではなく奇妙な点なのだが、俺の頭は悪いのに、幼い頃の記憶がはっきりよみがえって来て、些細な違いに一々気づくんだ。これが一番違和感を感じさせる点だ。俺の頭のキャパ的にそんな事は土台無理なはずなのに、ちゃんと違いが分かるんだ。
例えば、看板。新橋のビルの壁に小さな看板が縦にズラッと並んでいるんだが、店名だったり、看板の色や大きさ、字体まで当時と違いがあれば分かるんだ。
看板みたいな無機物だけじゃなくって、当時そこに住んでいた人にも多少違いがあったりする。
そこの角を曲がればあるのはシミだらけのしわくちゃ婆がやっている陰気なたばこ屋のはずなのに、実際にそこへ行くと駄菓子屋になっている。
しかし、そこにはしわくちゃ婆の店には違いなく、夕方の店じまいをしている婆は、俺の子供時代の婆と同一人物だと分かる。
こんな風に色んな事が記憶と少しズレているんだ。
16日前、気づくとこの世界にいた。
最初は子供の頃の夢を見ているんだと思っていた。
夢って割と自分では意図してない突拍子もない場面転換があったりすることが多いのに、こっちに来てからは場面転換などなく普通に時間の経過にそって話が進んでいる感じだ。
つまり夢だったら、新橋駅にさっきまでいたと思ったらあっという間に銀座の店の前に立っているという流れでも全然おかしくないというか、そういう時間短縮や無理矢理な場面転換がある方が普通の夢ではないだろうか?だけど、それが無いのである。
そして、お腹も空けば排泄もする。そしてこの状態になってから16日間、目が覚める事がない。これはどう考えたって夢なんかじゃない。
じゃあ、何だと言われても困るが、恐らく別の世界線に来てしまったのか、異世界なのか?過去へのタイムスリップなのか、何れにしても俺にはよぉ分からん。
分からんが、俺は大人の俺のまま、ここにいる。
そんなこんなでこの16日間、俺は令和では既に鬼籍に入ってしまっている母ちゃんを思い出させる懐かしい街並みにおセンチな気分になっちゃうんだよなぁ。
俺らしくないけど、母ちゃんには女手一つで育ててもらった事に対する感謝を一度も伝える事なく逝かれてしまったので、大きな後悔が残っているのだ。
俺はこの世界に来る前は東京の立川のボロアパートに住む派遣社員だった。
派遣社員といっても営業や事務員じゃない。若い頃は営業もやってたんだけど、数年経験してみて、俺に営業職は合わないと思ったんだ。だから、それ以降は派遣会社を通して派遣先の寮に住み、工場で工員として働く派遣社員をやってた。
ただついこの前、小平の工場での長期の契約が終わり寮を出ねばならなかったのに、次の仕事がまだ見つかっていない状況で、派遣会社の伝手で取り壊し前の様なボロアパートを敷金礼金なしで借りていた状態だった。
派遣社員なんて景気の煽りをもろに食らうから、不景気になると即失業ってのも珍しくない。不景気だと次の仕事ってのもなかなか見つけづらいのは当たり前。
小さな派遣会社の社長に真面目な奴と信頼されているのが救いで、そのお陰で住む所は手配してもらう事ができたんだ。社長!ありがとう。
もちろん結婚なんてしてない。というか結婚できていないって言った方が正確かな・・・。
かと言って、今まで女の人と付き合ったこともないなんて消極的な人生は送ってきてないが、結婚するには相手も金もないといった感じだ。
まぁ、寮住まいで派遣社員なんて、女性からは結婚相手には見えんだろうな。
同じ様な条件にも拘わらず、そうじゃない幸運の持ち主って奴もいるのかもしれないが、俺に限っては、女から火遊びの相手としては見られても、結婚相手として見られた事はない。
そんなある日、気づくとこの世界にいたのだ。
それからは元の世界に戻れた事はないし、戻る方法も知らない。
まぁ、まだ16日間だから戻れないなんて慌てて結論付けるのはまだ早いかもしれん。
何はともあれ、今は母ちゃんの働いてる店に急いで行かないとな・・・。