ニッチ
「いやー、やっぱり穴場スポットは人もいなくて、この素晴らしい空気を独占できる感じがしていいよね」
僕が彼女にそう言うと、彼女は水たまりができそうなくらい大きなえくぼを作って微笑みながら頷いた。
僕たちは旅行が好きで、月に二回ほどのペースで国内のいろいろなところに行くのが共通の趣味であり最大の楽しみだった。
普通のカップルの旅行と少し違うのは、旅行雑誌やインターネットに載っている、いわゆる有名な観光地に行くのではなく、メジャーな観光スポットから少し離れたところにある穴場スポットを好んで行くところだ。
もしここで人が亡くなってもしばらく誰にも気づかれないような、人の気配が全くなくて不気味な感じの空気が漂うマイナーなスポットに訪れるのが好きだった。
インターネットであらゆるサイトを調べに調べつくして、お互いに良さそうなところをピックアップしてプレゼンをし、合意をもって次の旅行先を決定する。今回の旅行もいつもと同じ流れで決定した。
さわやかな新緑に包まれ、蝉が合唱をはじめる八月のころ。
早朝の気温も三十五度を超える猛暑日。ビルが乱立する都会のコンクリートジャングルを抜け、新幹線とバスを乗り継いで、そこから三十分ほど歩いたところにある目的地に到着した。
日中でもほとんど交通量のない山奥で、あたり一面に背の高い木々が生い茂っているために昼なのに夜のような暗さで、街灯の明るさがないと歩くのが少し心細くなるくらいだった。おまけに、標高が高いこともあり、今が夏であることを忘れさせるくらいに涼しく、薄手のシャツ一枚では少し肌寒く感じるくらいだった。
「今回のスポットも最高だね」
僕が彼女にそう言うと、彼女はいつもと同じように大きなえくぼを作って微笑みながら頷いた。辺りを一通り散策し、お互いに満喫したところで宿泊予定の旅館に向かうため、来た道を戻る。けもの道を抜けて舗装されたコンクリートまで出たところで、眼下に驚くべき光景を目の当たりにした。
なんと、坂道の中程にぱっと見、十数人もの人が恍惚な表情を浮かべゴロゴロと寝転んでいるのだ。それも、何か地面に落ちているものを探しているような素振りはなく、うつ伏せになっている人や仰向けになって宙を眺めている人など様々だった。
あまりの異様な光景に何が起きているのか理解ができず、僕と彼女はあんぐりと口を開けたまま目を見合わせて立ち尽くした。二人しておかしな幻覚でも見ているかのような感覚に陥ったが、次第に落ち着きを取り戻し、木陰に隠れて冷静に観察するようにした。
その集団は老若男女様々で、親子もいれば老夫婦もおり、自分たちと同じくらいの年齢のカップルもいた。よく見ると、ガイドツアーのような手旗を持った添乗員さんが傍に控えており、寝転んでいる人に対して身振り手振りを交えて、何かを説明しているような様子が見えた。
しばらくすると、添乗員さんが寝転がっている人全員に聞こえるように少し大きめの声でアナウンスをした。
「皆様、満喫できましたでしょうか。予定の時間になりましたので、そろそろ次の目的地に向けて出発いたします」
寝転がっていた人たちは添乗員さんのアナウンスを聞くと、一斉にそろりと身を起こし、何事もなかったかのように添乗員さんの後について歩いて行った。
謎の集団が去ったのを確認し、寝転がっていた辺りを彼女と二人で注意深く確認したが、何も変わったものはなかった。
突然の異様な出来事に驚き、何か見てはいけないものを見てしまったような後ろめたい気持ちと、本当に現実に起きた出来事なのか信じられない気持ちが混じり、なんとも言えない気味の悪い後味だけが残った。
そして、一年ほど経ったころ。
僕たちは相変わらず穴場スポットを巡る旅を続けていた。
去年に遭遇した謎の集団にはあれ以来出会うことがなかったが、それでもなお、あの時の光景が二人の頭の片隅に残っており、謎の集団に対する興味は日を追うごとに大きくなっていた。旅を続けていればいつかまたどこかで遭遇できると思っていたが、なかなか出会えない日々に、二人は本当に幻を見ていたのではないかと思い始めていたころだった。
その日は彼女のプレゼンが採択され、レンタカーを運転して穴場スポットに向かっていた。もう少しで目的地に到着するかというところで、大きな川を隔てて向こう側の山道にあの集団を見つけた。
今度は好奇心が勝り、少し離れた駐車スペースに車を停めて急ぎ足でその集団のもとに向かった。そして一番手前にうつ伏せになって寝転んでいた男性に近寄って声をかけた。
「あのぉ、すみません」
すると、声をかけた男性だけでなく近くにいた数人が一斉に顔だけをこちらに向けて、大きな黒目をギロリと動かして無表情でこちらを見た。一瞬にして、心臓がギューッとなり、背筋が凍る不気味さを感じた。それと同時に、この人たちに近寄ってはいけないという強い逃走本能を感じ、後ずさりして距離を取りながら逃げる理由を取り繕った。
「ちょっと道に迷ってしまったみたいで困っていまして、あの、携帯で探してみます。すみませんでした」
そう言い放ち、横で小さく震える彼女の手を取って振り返らずに早足で車に戻った。
お互いの心臓の鼓動が聞こえるくらいに心拍数が上がり、あの一瞬の恐怖を共有するのに言葉はいらなかった。
それから五分ほど経ち、ようやく冷静さを取り戻して落ち着いてきたころ。
先ほど僕が声をかけた男性が柔和な表情で軽く会釈をしながらこちらに近寄ってくるのが見えた。先ほど声をかけた時と全く違う様子に警戒感を抱きながらも、運転席の窓ガラスを開けて話を聞いた。
話を聞くと、あの集団は「勾配マニア」という人たちで、全国の勾配がキツいスポットに赴き、そこで勾配を感じることが快感だという特殊性癖を持つ人たちだった。
人里離れていて滅多に人が通らない場所であったこと、かつエクスタシーを感じていた最中に突然声をかけられたため、あのような反応をしてしまったとのことだった。
このツアーは特殊性癖を持つ人々の間で有名な、一見さんお断り、完全紹介制の個人経営の旅行事業者が特殊なマニア向けに企画しているパッケージツアーの一つだった。そして、もし興味があれば今度こちらに立ち寄ってみてください、と住所が書かれた一枚の名刺大の紙を手渡された。
後日、手紙に書かれた住所に向かう。都心の一等地から一本中に入ったところにある古く寂れた外観の雑居ビルだった。三階まで上がり入り口のドアを開けると、牛乳瓶の底のような厚さの眼鏡をかけたおじいさんが新聞紙を広げながら葉巻をふかしてカウンターに座っていた。
「お兄ちゃん、見ない顔だね」
ドアを開けて入ってきた僕に気づくと、眼鏡越しに鋭い視線でこちらを覗く。先日勾配マニアの男性にもらった紙をポケットから取り出して見せると、なるほどそういうことかと合点がいったかのように頷き、後ろにあるキャビネットからパンフレットをいくつか取り出してきた。
「お兄ちゃんはどういうのが好きかね」
そう言うと「地獄の長時間渋滞満喫ツアー」、「バードウォッチングマンウォッチングツアー」というような、かなりニッチなパッケージツアーが書かれているパンフレットをテーブルに広げた。
一通り眺めていると「自殺スポットツアー」というパッケージを見つけ、背筋が強烈にぞくぞくするのを感じた。