4,PAST―過去―(1)in琴音
「聞いてお母様!!」
琴音=カレン・ウィンタースはキッチンに立つ母親の瑠璃=カミーユ・ウィンタースに、はしゃぎながら声をかけた。
「なぁに?」
瑠璃は優しく微笑んで見せる。
「私、大きくなったらお父様やお母様みたいに偉い学者になるわ!」
「まぁ、期待してるわよ」
嬉しそうに語る娘に、母親は穏やかな口調で答えを返す。
「そして、お父様の為にネオジェネレーション研究所の後を継ぐの!」
そう琴音は楽しそうに言うと、更にはしゃぎながら奥にあるリビングへと駆けて行った。
「早くお父様のお仕事終わらないかしら! 早くこの事を報告したいわ!」
「……ネオ……ジェネレーションの、所長に……」
一人呟く瑠璃の表情は、重苦しかった。
12歳になる琴音の両親は電子工学及びロボット工学を専門にする科学者だった。
その上、世界の中心になっているネオジェネレーションの所長を父親に持つ琴音には、既に将来が約束されているようなものだった。
温かな母親と優しい父親の元で育てられている琴音にとって、毎日が幸せ且つ平和であった。
だからこそ、何の疑いもなく心から両親を愛していた。
やがて、ようやく待ち望んだ父親が帰って来た。
「ただいま」
琴音は父親の声に、飛びつかんばかりに駆けて行き、とびきりの笑顔で仕事を終えたフレデリック=ユーグ・ウィンタースを出迎える。
「お帰りなさいお父様!!」
「やぁ、ただいま琴音。何だかとても嬉しそうだね。何かいいことでもあったのかい?」
フレデリックは琴音の頭に、優しく手を置いて訊ねる。
「ええ、とても素敵な決心をしたのよ! 一刻も早くお父様に報告したくて!!」
「ほぉう。それは楽しみだな」
フレデリックはただでさえ細い目を、更に糸のように細めて微笑んだ。
……果たして本当にその目で何か見えているのか、疑問である。
琴音は急かすようにフレデリックをリビングルームへと連れて行き、食事を取りながら母親に話して聞かせたことを同じように父親へ、繰り返し聞かせるのだった。
――夜の9時をまわり、まだ幼い琴音が寝る時間になった。
「おやすみお父様、お母様。明日も素晴らしい日でありますように」
琴音はベッドの中で両親のキスを受けると、静かに寝入った……。
――次の日、琴音はいつものように朝食を摂り、いつものように登校した。
琴音にとって理科ほど面白い科目はなかった。
また一つ、また一つと新しいことを学ぶにつれ、琴音の胸は高鳴るのであった。
勿論、琴音がそれほどまでにサイエンスに執着するのは、両親の影響が大きい。
もし、全然違う普通の両親の元に生まれていたならば、琴音のサイエンスに対する考え方も違ったものになっていたかも知れないだろう。
そして、ようやく全ての授業を終えて友人と他愛ない会話を交わしながら、放課後の短い時間を楽しみ、運転手ロボットに車で自宅まで送ってもらう。
大抵普段と何ら変わることのない、いつも通りの帰宅だった。
降車すると、ウィンタース邸を繋ぐネオジェネレーション研究所の正門の周囲を、やけに多くの研究所職員が集まっているのに気付いた。
その中から、一人の中年の男の職員が琴音が近付いて来るのに気付く。
「お帰りなさいませカレンお嬢様……」
彼は沈んだ声で彼女の帰宅を出迎えた。
その異常な騒ぎに、琴音はそっとその男に訊ねてみる。
「何か、あったんですか……?」
「その……お気の毒なことに……実は午後一時頃、ウィンタース夫人が……」
男がそこまで言った時、低音で静かな厳しい口調がそれを遮った。
「琴音」
「お父様……」
琴音は厳しい表情で立っているフレデリックに気付いて、歩み寄った。
「何かあったの? お母様がどうかしたの?」
琴音は募る不安を堪えながら、父親に訊ねる。
フレデリックはしばらく無言のまま幼い琴音を見つめていたが、意を決したように重々しく口を開いた。
「瑠璃が……――死んだんだ」
琴音は耳を疑ったが、心に受けた反響は大きく、たちまち大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
「ウソ……ウソでしょ、お父様。お母様が死んだなんて……」
泣き縋る娘の涙に、フレデリックは物思いげにボソボソと、言い聞かせた。
「R-03研究室の……感電事故に巻き込まれて……」
父親の言葉とともに脱兎の如く研究所の中に駆け込んで行く琴音に、しばらく気付かないままフレデリックは虚ろな目で地面を眺めていた。
「所長! お嬢様を追いかけなくて良いのですか!?」
研究員の言葉にようやく我に返ったフレデリックは、大慌てで娘の後を追った。
――「琴音! 見てはいけない!! 止まるんだ琴音っっ!!」
先を走る娘に叫びながら、ようやく琴音を捕まえる。
「お母様っ! お母様っっ!! お母様ー!!」
泣きながら父親の肩越しからR-03ラボがある方向に手を伸ばす娘に、フレデリックは悲痛の声で謝罪しながら抱きしめた。
「すまない……っ、本当にすまない琴音!!」
一週間後、母親の瑠璃の葬儀を終えてからも、琴音の気持ちは沈んでいた。
「琴音。食事だよ。家政婦のアンドロイドに作らせたから、瑠璃の料理の味とは多少異なるだろうが、少しでも口にした方がいい」
リビングのソファーで蹲っている琴音に、フレデリックはそっと声をかける。
「……お母様のお料理が食べたい。お母様のお料理が食べたいよぉ……」
泣きじゃくる琴音を、フレデリックは悲愴な光を宿した双眸で見つめると、トレイに乗せた食事をテーブルに静かに置いて言った。
「私の愛する可愛い娘……。どうかそんなに悲しまないでくれ。私はお前の笑顔が見たい。それまで……一体私はどうしたらいいのだろうね」
そうしてゆっくり琴音に背を向けると、そのままリビングを出て行った。
父親の言い残した言葉に、この瞬間でも涙に暮れていた琴音は少しずつ、現実に引き戻された。
“それまで……一体私はどうしたらいいのだろうね”
父親の最後の言葉が何度も頭の中で繰り返される中、琴音は思った。
お父様だって悲しいんだ。
お父様は悲しむ私を励ましてくれているのに、私ったら泣いてばかりで、お父様の気持ちを考えてもやらないで。
このままじゃいけないのに。
何も変わらないのに。
お母様の代わりにならなくちゃ。
お父様をお母様の代わりに助けてあげなくちゃ。
せっかく優しいお父様を、もっと悲しませない為にも。
私が、お父様の力になるわ!!
「お父様!!」
琴音はソファーから飛び降りると、玄関にいるフレデリックの背後から、腰に飛びついた。
「ごめんなさいお父様!! 私もう泣かないわ! お父様の為にいつも笑顔でいるわ! お父様が愛したお母様と同じ味のお料理が作れるように、努力するわ! お父様が仕事から帰って来ても安心できるような、そんな家族になるわ! だからどこにも行かないで!!」
琴音は去り行こうとする己の父親の腰にしがみつくと同時に、必死にそう捲くし立てる。
すると、フレデリックは自分の腰にしがみついている琴音の手に、そっと手を重ねると優しく囁いた。
「ずっとお前の傍にいるよ」
そして自分に向き直った父親の首に、笑顔で飛びつくと琴音は心から愛を込めて言った。
「お父様、大好き!!」