1,CHAOS―カオス―(3)
そして、琴音=カレン・ウィンタースのバースデーの夜は明け、次の日の朝。
「昨夜のパーティーでアルコールをたらふく飲んだ人がいたとしたら、今日が平日であることをきっと憎んでいるはずだわ」
琴音は朝食の用意を済ませると、テーブルに着いて父親にそう話しかけた。
「いつの時代にも二日酔いの治療薬だけは開発されないからな」
フレデリック=ユーグ・ウィンタースは愉快そうに新聞をたたむと、愛娘特製の朝食に在り付いた。
「ところでお父様。なぜ失敗作なら22年前に処分しなかったの?」
「No,ZEROのことか……」
フレデリックは苦虫を噛み潰したような表情をする。
「……一度この手で助けたんだ。殺せるわけがなかろう」
まさか、あの人造人間を利用出来る日が来るかも知れないからなど、心優しい琴音に言える訳がない。
せっかくこれまで琴音の理想の父親像を演じてきたんだ。
今ここでそんなことを白状すれば、全てが無駄になってしまう。
フレデリックは内心、密かに思った。
しかし、突然の歓喜の声。
「まぁ! お父様はあの人の命の恩人なのね!?」
琴音の予想違いの言葉に、フレデリックは動揺した。
「う、む……ああ」
フレデリックはミルクをガブリと飲んで落ち着くと、口を開く。
「あいつが事故に遭い瀕死のところを……」
「そこをお父様が見つけ出して救い出し、もう病院に連れて行っても間に合わないと研究所に運び込んだのね! そして死にゆく彼を何とか助けたい一心で、やむを得ずに人造人間という形で命を救ったと言うことね?」
こう語る琴音の表情は嬉々としている。
「私、てっきり科学実験の為に彼を利用したのかしらって夜も眠れなかったの。でも、もしそうだとしたら人造人間がまだ一人だけというのは変だし……私お父様があの史上最悪の実験リーダーと知った時凄くショックだったけど、ごめんなさい。少しでも優しいお父様を疑うなんて、私ったらバカね」
ズラズラと琴音が勝手に自己解釈し、話を進めてしまった。
「……」
フレデリックは唖然とそんな琴音を見ていたが、おかしくなって笑い出してしまった。
私も随分と伝説的のように美化されたものだな。
そうフレデリックは自分に対する皮肉を思う。
琴音も、そんな父親につられてクスクス笑う。
「私ったら酷いことを……あの人造人間を処分しなかったのかだなんて……お父様を困らせてしまったわね」
「いや、いいのだよ。お前としても22年間あいつが監禁された苦しみを比較して言ったことなのだろう」
フレデリックはスープを口にして言った。
「彼……その苦しみに耐え切れず死にたがっていたわ……。私、あの人に生きる喜びを教えてあげてもいいかしら?」
琴音は父親に訊ねる。
「そうだな。そもそも私がこの22年間誰一人あの地下に入れなかったのに、お前だけは許せたのだ。お前ならば欲を出してあいつをどうにか利用する筈はないからな」
自由思考のコンピューターほど恐ろしい敵はいないだろう。
もし、他の誰かが己の知能に自惚れてあいつを新たに改造したとて、必ず自我を取り戻す時が来る。
人間の思考能力は、未知なまでに果てしない。
だから全てを解明出来る事が不可能なのだ。
そんな頭脳を我々人間がどうこうしようなど、無理に等しい。
そして神さえも。
ともあれ、琴音ならば安心出来るだろう。
あの子は己の為より、他人の為という想いが強い娘だから。
それより……。
なぜ暗殺者のプログラムにしたのかまで聞かれなくて良かった……。
フレデリックは更に内心、密かに思いながら朝食を摂る手を進めた。
大学のカフェテラスで、一人カフェオレを飲んでいる琴音に声をかけたのは、その大学教授でもある科学電子工学者の邑瀬要だった。
「せっかくの美しい花も陰の下だと、誰にもその美しさを気付いてもらえないものだよ」
「……でも気付いてくれた人が嫌な人であったら、その美しさも意味なく壊されるものよ。放っといて頂戴」
琴音は要に素っ気なく言い放った。
何ともキザ臭い上品な会話である。
こんな会話がこの世界では日常的に交わされているのだろうか。
まずそうではない人だったら、付いて行けずに引き攣った笑いを飛ばすのがオチだろう。
「君が私の前に姿を現してからもう6年経つ……。あの頃の君はもっと優しかったはずだ」
要は琴音のライトブラウンの長い髪に手に掬い取ると、それに口づけをした。
「やめて!!」
琴音は要の手をバシッと払う。
「あなたが私の前に現れたんじゃない! お父様のアシスタントとしてね! まだあなたをよく知らないうちは確かに今より優しく接したわ!!」
彼女は厳しい口調で言い返す。
「一体いつからこうなったのだろう」
「あなたの性格を知った時からよ!!」
静かに言葉を返す要に、琴音は言って立ち上がった。
「君は私に相応しいし、私も君に相応しい」
「自惚れないで! 学校で生徒を口説くだなんてモラルに反した教師だわ!!」
琴音は言い残してさっさとカフェテラスを出て行った。
そんな彼女を眺めながら、要は思った。
今の世の中にモラルなど存在しちゃいないさ。
大半のコンピューターが地上に住み、それらに支配された弱い人間は地下で戦慄な生活を送る。
ロボットの質問に答えられぬ怪しい者は、即座に殺されていることを君は知らないだろう。
利口な者のみに与えられた生殺与奪の権利。
カオスこそが今の世の中のシステムさ。
「……愛しているよ、琴音……」
要は小さく呟いた……。
――家に戻った琴音は、地下部屋にいる人造人間を訪ねた。
「私は琴音よ。琴音=カレン・ウィンタース。昨日19歳になったの。それでお父様からのバースデープレゼントのつもりだか知らないけれど、あなたの面倒を任せられたのよ。世話好きの私にはピッタリで喜んでいるの」
琴音は愉快そうに、クスクス笑う。
それまで両膝を抱えて口元まで顔を埋めていたボーイは、そんな琴音に静かに言葉を返した。
「君が僕を殺してくれるんだね……」
そんなボーイの言葉に琴音は怒りを覚えると、彼を強引に立ち上がらせてその顔を引っ叩いた。
「私がそんなこと出来ると思っているの!?」
ボーイは琴音に頬を叩かれたことに驚いて、その赤い瞳をいっぱいに見開いた。
「あなたのその苦しみを和らげてあげたいのよ。だからあなたも幸せに生きる努力をして」
琴音は優しい口調で言った。
ボーイは、そんな琴音を見つめると多少の悲愴感をその顔に残してはいたものの、フワリと嬉しそうに微笑んだ。