5,MADNESS―狂気―(1)
「嘘よ……嘘……そんな、優しい筈の私の愛するお父様……!! ――たった今からっ、あなたと絶縁します!!」
琴音=カレン・ウィンタースは悲鳴に近い声を上げると、ボーイを引き連れてフレデリック=ユーグ・ウィンタースの側を横切り、地下部屋から出て行ってしまった。
……何が正しいのかなんて、知りたくもなかった。
フレデリックにとって、今の時代こそ正しかった。
いつまで経っても訪れない真の平和に待ちくたびれて、どうせこのまま争いが続くのならいっそうのこと世界を革命したところで、今更別に罪ではないと信じた。
ただ一人の己の娘だけが、自分の託した平和の象徴だった。
その地下部屋に一人残されたフレデリックは無言のまま、無表情でジッと立ち尽くしていたがボソボソと小声で呟いた。
「……真実を語ってどうする……真相を打ち明けていればこうならずに済んでいたと言うのか……?」
そして、カッと目を見開き無表情が怒りに崩れると、毒を含んだ低い声を腹の底から吐き出した。
「心の内を素直に語ったところで、全てが上手くいくとは限らんのだっ!! 私の意欲について来れずに離れる者が多いことは馬鹿でも分かる!! だからこそ人を騙して欲しい物を手に入れなくてはならなかった!! それでも世間の馬鹿共はっ! 人に素直になれないなどと一人前に偉ぶってなめたことを口にする!! 人を騙さずにしていかにして欲望を実現出来ると言うのだぁぁぁーっっ!!」
フレデリックはゆっくりと肩を僅かに上下させながら、息を切らす。
脳裏で、過去に己の愛する女が自分に言った言葉が駆け巡る。
“アナタノ本当ノ思イヲ私ニ話シテ……”
……話せるか。
話せるものか。
私の本心など。
自分は好き勝手な欲望を満たしておきながら、娘には世界を平和にしろなどという矛盾した願望など……。
それを実現させる為に真相を語ったところで、その間私について来る者など脅さぬ限りいやしないだろう。
……もう自分でも自分自身が解らなくなってしまった……。
ただ分かることは、もう自分を偽る必要がなくなったということ。
思う存分、この世を己の野望で満たしてやるということだけだ。
フレデリックの中に、ついに欲望の狂気に満ちた人格が常識ある人格を飲み込み、彼の精神全てを支配してしまった。
――「琴音、どこまで行くの?」
ボーイは琴音に手を引かれながら聞いた。
「そんなの……私にだって分からないわ……! とにかくお父様から、そしてお父様が支配するこの世界から届かない所に行きたいの……っ!!」
琴音は泣きじゃくりながら、ボーイの手を引いたままひたすら大股で前進する。
琴音の受けた心の傷は深かった。
父の告白にはショックが大きすぎて、今にも自分自身が壊れてしまいそうだった。
今では、コンピューターさえも憎んでいた。
二人はネオジェネレーション研究所を抜け、外へ出ると道ある道をひたすら歩き続けた。
「可哀想に。可哀想に。みんなみんな……お父様に殺された人も、この時代の犠牲になっている人達も、そしてお父様も……!!」
ボーイは、琴音にどこまでも手を引かれながら彼女の泣きじゃくる姿を、悲愴な目で見ていた。
「でもボーイ。あなたがきっと一番の犠牲者ね……。満足に死ぬことも出来ず、肉体を改造された挙句嫌なプログラムを植えつけられ、その上更に長年監禁されて……」
ここまで言って琴音は、突然歩み続けていたその足取りが、引き止められた。
ボーイは強引に琴音を引き寄せると、ギュッと彼女を抱きしめる。
突然のことに息を切らしながら、戸惑う琴音。
「確かに琴音の言うことももっともかも知れないよ。でも、僕にとっては、琴音が一番の被害者だよ」
「……ボーイ……」
琴音は今まで以上に、涙が溢れる。
「琴音の涙なんか見たくないよ。僕が琴音を守ってあげる。……戦おう。この時代と。君の優しさこそがこの世界を救えるんだよ。琴音」
そう静かに言うと、ボーイはゆっくりと琴音から体を離し彼女の涙をニコッと笑って拭ってやり、言葉を続けた。
「僕は琴音のことが大好きだから。きっとこの想いは『愛』って言うのと同じ意味だから。琴音には一番幸せになって欲しいんだよ」
ボーイはあどけなく言うと、そっと優しく琴音の口唇に自分の口唇を重ねた……。
フレデリックは自分以外は立ち入りを禁止している司令室の前までやって来て、ドアの前で身動きしなくなっている警護型ロボットに気付いた。
ドアの脇にあるアイロックも破壊されている。
アイロックとは登録した者のみの個人識別を目の網膜で確認してキーを解除するシステムのことで、または網膜スキャン、アイリスパスとも言う。
それを見てすぐに自分以外の何者かが中に入ったことを知り、カツカツと大股でドアへと歩み寄りドアの前に立ってみると、警備システムを失った自動ドアはいとも簡単に開き、まるで不法侵入者を歓迎するかのようだった。
最も、フレデリックはこの部屋の主なのだが。
フレデリックは、正面にあるガラスの壁の前で、こちらを向いて立っている人物に気付き、その者を無言のまま真っ直ぐに睨む。
そしてそのままゆっくりとした足取りで、司令室の中に入ると中にいたスタッフ用の数体のアンドロイドもコンピューターにより回路に手を加えられたのか、動きを封じられ生々しいマネキンと化しているのに気付いた。
背後で自動ドアが閉まるのを感じながら、フレデリックは再びアンドロイドからその相手へと視線を戻す。
夕暮れの太陽が、薄暗い司令室を照らす。
今日一日、普段と比べてそれ程多くはなかった筈なのに、娘に己の過去を知られたせいかいろんな事が多すぎた一日に思えた。
朝は何ら変わることなく目が覚めて、娘が作った朝食を摂り、研究所へと向かい、午後に一度自宅に戻り、再び研究所へと向かう途中で邑瀬要に会い多少の会話をした。
この時に、琴音に会いに行くと言う要を、なぜ止めなかったのだろう。
なぜ『リビングにいなかったら諦めて帰ってくれ』とだけしか言わなかったのか。
琴音には己の与えた個人研究があるから、このまま邪魔をしない為にも引き返して、今日の所は帰ってくれ。
そう言ってあの時、要の帰宅を見送っておけば良かったのに。
本来用心深い彼にしては、甘い態度だったことを、悔いる。
要が22年前のあの時、あの場所にいた幼い子供だと分かっていれば、事前にそう言えていただろう。
そうと分かってさえいれば。
逆光のせいでガラス壁の前で無言で立ち、フレデリックを見つめているその相手の姿は、影が出来て暗くて分かり辛かったがフレデリックは、ドアが開きその相手に気付いた時点ですぐにそれが誰なのかはわかっていた。
「……どういうつもりだムラセ」
閉まったドアの前に立ったまま、距離を置いてフレデリックは低い声で静かに言う。
「それが貴方の本性でしたね。相変わらずの無表情、相手を伺うような警戒的な口調。自分以外の誰一人をも寄せ付けようとしない雰囲気。そういう所は22年前とちっとも変わっていないように思えるのは、気のせいですかね」
「ふん。まだ何の知識も持たないただのガキだと思っていたが、しっかり忘れずに覚えていたんだな。やはりあの時、殺しておくべきだったか?」
「クスクス……今となっては、ね。いけませんね。全科学全ての知識を持つ神をも恐れぬ超天才のあなたが、当時4歳の子供を“何の知識もない”などと侮っては。
人間は早くても2歳後半で物心がつく。あの時私は4歳でしたし、その上あんなショッキングな体験をすれば嫌でも忘れようにも忘れられませんよ。……あの二人をどうしました?」
「……外へと逃げたよ」
「よろしいのですか? 過去の真実を知る人造人間と、最愛のお嬢さんでしょう」
「何を今更なことを言っている。お前が話さなければこうならずに済んだのだ」
フレデリックと要は互いを窺うように目を合わせたまま言葉を交わす。
「……私を殺しますか?」
「……お前の行動次第ではな」
「……私はあなたに協力しますよ」
要は静かに言った。
無言を返すフレデリック。
「私がこの手でナンバーゼロを殺しましょう。その代わり、あなたのお嬢さんを頂きたい」
言いながら要はゆっくりと影のかかる正面を、日にかかる方向へと体を斜にする。
「よほど琴音のことを愛しているのか。だがお前はただでさえ今回の件で傷付いているあの子を、幸せに出来るのか?」
フレデリックは言いながらデスクへとゆっくり歩み寄る。
「ええ。私にはまだ誰にも聞かせた事のない本心がある。その本心で、彼女を幸せに出来ますよ」
要の言葉に、フレデリックは喉を鳴らして笑う。
「“誰にも話した事のない本心”か。……そういう点では君は少しだけ、私に似ている。最も、君の方が愛する女に対して積極的だがな」
フレデリックは背凭れのある大きな執務用の黒い椅子に腰を沈める。
「君は、いくつになる」
「26です」
フレデリックの問いに、要は答える。
「26か……。私がこの世を手に入れたのが、その年だった。
お前は多少私に似た所がありながら、それでいて私には出来なかった事をやすやすとこなしている。私は己のプライドの高さゆえに、大切な物を失った……」
静かに語るフレデリックは、一方で自分自身を責めていた。
大切な物を失った?
大切すぎる者を失ったのだろう。
己のプライドのせいで。
余計なまでに高すぎる、不愉快極まりないプライドのせいで。
そうだとも。
大切すぎたのだ。お前は。
失ってしまった今では、誰よりも、何よりもお前の存在は大切すぎるものになってしまった……。
心の中で呼びかけ、脳裏で嘗て自分のことを愛して付いて来た女の姿が浮かび上がる。
「私が他人で誰かを気に入ったのは、君が初めてだ。もっとも、今となってはこれまでとは気持ちも変わってくるがな」
フレデリックは今の状況を考えて、私情にに浸っている場合ではないと再び現実に戻る。
「お前は私に協力すると言ったが……その前に一つ聞いておこう。お前がこの業界に入ったのも、私に近付きこの世界を滅亡に追いやる為か?」
「過去に見た隠された真実という弱味に付け込んで、とでも?」
「……」
質問に質問を返す要を、黙って見つめるフレデリック。
「そんなことを聞くとはあなたらしくもない。たかがこの男一人の強請りぐらいで動揺するような肝の小さい性質でもないでしょうに。私がこの業界に入ったのもくだらない感情のせいですよ。まぁでも、おかげで偉大なまでの目的が出来ましたがね」
「……答えになっていない気もするが、まぁいいだろう。何であれ例えお前がこの世の滅亡を企んでいようが、私には異存ない。出来るものならするがいい。相手になろう」
「あなたもしつこい人だ」
「だが否定はせんのだろう?」
二人の間にピンと空気が張り詰める。
「……もっとも、“この世を乗っ取ろうという気がない”ことだけは、分かって頂きたい」
要は真顔でフレデリックを真っ直ぐ見据える。
「……ああ。承知しておこう。では、君が言った“協力する”と言うことだが、今回、私の欲望の暴走の為の利用という形になるだろうが、それでも構わないのか?」
そう静かに言うフレデリックの野望に満ちたその双眸を、要はしっかりと受け止めると平然と言葉を返した。
「ええ。私こそ言い方を変えれば、あなたを利用する形になるでしょうからね」
――要は研究所を後にすると、帰宅する為に駐車場へと向かった。
すると一体の警察型アンドロイドが、要の元に駆け寄って来た。
「ドクター・ムラセ様。怪しい者があなたとの対面を要求してきております」
「怪しい者?」
「どうやら地下住民のようですが」
アンドロイドの言葉に、要は忘れかけてた記憶を辿る。
「何でもムラセ様の母親だと名乗っているようです」
「何だと……!?」
要は目を見開いた。
8年前、己の愛を受け入れない母親を憎み、戒めの為に地下へと追放した自分の母親。
今更何の為にこの俺に……?
要は疑問を覚えながらも、幼い頃、母親の愛情を求め続けた悲痛な記憶の中、密かな期待が要の心の中に蘇った。




