オーバー・バッド・コーヒー
「もう春だ」
青年の声が言った。窓の外は暗かった。
「そうだね」
少女は空返事をした。
「桜が綺麗だな」
「今はよく見えないけど」
時刻は夜八時を回っていた。閉店時間を間際に迎えたカフェテリアの客は、この男女の他に、ケーキを啄む年のいった女性と、ほろ酔いの中年男性二人のみだった。店内の照明は昼と比べてやや明るさを控え、静穏な夜の雰囲気を演出していた。
若い女性のウェイターが一人、カップが2つ乗ったトレイを持って、例の男女のテーブルに歩み寄った。
男はスーツを着ていて、いかにも仕事帰りであった。ジャケットはまだ十分に張りがあり、色褪せていない。髪は短く、顔の彫りは深くないが、柔和な目の好青年であった。少女は小柄で、学生服を着ていた。ピンと糊の貼ったシャツが初々しい。髪は黒く、学生らしく髪を1つに結っている。肌は白く、くるりと丸い目が印象的な娘だった。
「ブレンドとミルクティーでございます」
ウェイターは早口で告げて、男にコーヒー、少女にミルクティーのカップを手早く配置して去った。
「入学おめでとう」
「ありがとう」
少女はカップに口をつけて、甘いミルクティーを口に含む。
「リンゴちゃんの学生生活が、上手くいくよう祈ってるよ」
「どうせ何も変わらないよ」
少女の視線は濁った水面に注がれる。右手の指は、カップの持ち手をさする。
「そんなことない」
「私はどこに行っても一緒だもん」
「始まってみなきゃ分からないよ」
「でも怖い」
厨房で店員が食器を片す、甲高い音が店内に響いている。男の視線は自然と厨房の方を向いた。少女は男を見つめて、その左手は小さな小瓶を握りしめていた。
「ぺんたさんにも、悩みがあるの」
「え」
「ここのコーヒーお気に入りでしょ」
カップの中のコーヒーは並々と注がれて、細い湯気を漂わせていた。男の手は取手に添えられたまま動かなかった。男は、細く長い息を吐いてから、
「親が早く彼女作れってうるさい」
と、一口目のコーヒーを口に含んだ。
「あはは」
「自分の老後が心配なんだろ」
「じゃ私とケッコンする?」
「リンゴちゃんがお嫁さんなら、楽しいだろうな」
「でも私、お嫁さんにはなれないかも」
少女はおもむろに小瓶をテーブルに置いた。瓶はざらりと音を立てた。
「先週五十で、救急車呼ばれちゃった」
「前より増えてる」
「うん、もーこれ無しじゃ生きられないかも」
「そっか」
男はコーヒーをぐいっと飲んで、渋味に眉を潜めた。
「ぺんたさん、やっぱり良い人だね」
「そうかな」
「病院行けとか、やめろとか言わない」
「変わらないからね」
「そう、変わりたくないの」
「自分で自分を変えることは難しいよ」
「うん。さすがぺんたさん、分かってる」
男はミルクピッチャーを慎重に持ち上げて、コーヒーに中身を注いだ。白がまだら模様を描いて溶ける様を見届けてから、一口飲んだ。
「意外といけるね、これ」
「ねぇ、やっぱり私の味方はぺんたさんだけだよ」
「ありがとう。僕もリンゴちゃんと友達になれて嬉しいよ」
「本当に?」
「うん。年下の、それも女の子の友達っていないし、話してて面白いよ」
「愚痴ばっかなのに?本当に面白いって思ってる?」
「本当だよ。いつもリンゴちゃんのへのリプライは早いだろ。それが証拠」
「あはは。確かに」
男女は他愛ない会話を続けた。少女が化粧室に行くため席を立ったのは、閉店時間まであと十五分という頃合いで、他の客は年老いた女性一人だった。
取り残された男は、ベージュ色になったコーヒーをぐいと飲み干した。そして潜めた声で呟いた。
「意外といける」
そっとカップを置いて、ポケットから財布を取り出し、千円札を伝票に添えた。男は少女が置き去りにした小瓶を見据え、また細くて長い息を吐いた。彼はゆっくりと立ち上がり、小瓶を素早くスーツのポケットに押し込んだ。
直後、少女は洗面台の前でドアベルの音を聞いた。彼女は嬉しそうに微笑んで、入念にリップを塗り直した。