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秘湯ハンター温井愛泉(ぬくいまなみ)の冒険

作者: 倉名まさ

 東京駅から新幹線で二時間。

 そこから在来線に乗ってもう二時間。

 さらにバスに揺られること一時間弱。


 とうとうあたしは目的の場所に辿り着いた。


「うっしゃあー」


 腰に手をあて、無意味に叫ぶ。

 座りっぱなしでガチガチになった体を、ラジオ体操第一の動きでほぐした。


 そんなことをしても白い目で見てくる人はいない。

 そもそもバス停には、あたしの他に誰もいなかった。

 お店も家も山小屋すらない。

 よくバスが通れたもんだと感心する細い道路の両脇には、山々が連なるばかりだ。

 ぽつねんと立つバス停すら、自然の造形物のように風景に溶けこんでいる。

 大きな葉っぱを手にしたずぶ濡れお化けがでてきそうだ。

 その時は雨傘をさしてあげよう。


 人がいない代わりに、深山の光景は素晴らしかった。

 色鮮やかな黄や赤。燃えるように鮮烈に色づいた広葉樹の葉。

 紅葉シーズン真っ只中なのだ。

 それも当然といえば当然のことだ。

 わざわざベストシーズンをネットで調べ、有給を取って来たのだから。


 けれどもあたしは、ただの紅葉狩りのためにやってきたのではない。

 街から遠く離れた無人の駅。

 深山の向こうの、さらに山の上。


 そこにあるというのだ。

 あたしが愛してやまないアレが。


 いまのあたしは完全武装だ。

 頭には登山用の帽子を被り、靴もゴツいトレッキングシューズだ。

 30リットルのザックには、水筒や寝袋、雨合羽、ヘッドライト、万一遭難した時のための非常食までぎっしり詰めこまれている。

 山ガールなどという、ゆるふわな生き物とは違うのだ。


 早朝に出立したおかげで、陽はまだ高い。

 準備は万端。

 気合いも入りまくりだ。


「待ってろよ、温泉。いまいくからなー!」


 無人の山里にテンションの上がったあたしは、再び一人叫ぶのだった……。


 ―――


 あたしの温泉好きは間違いなく両親の影響だ。

 ウソかホントウか、あたしは病院ではなく、とある温泉郷の宿で生まれたらしい。

 臨月の大変な時期に温泉旅行なんて行くなよ、とツッコみたくなるが、それくらい重度の温泉好きなのだ。父も母も。

 我が家では家族旅行といえば温泉と決まっていた。

 草津に箱根、伊豆に伊香保に那須、鬼怒川。

 都内から気軽に行ける有名な温泉処には、毎年といわず月一くらいで何度も旅行した。


 あたしもまた温泉好きの血を受け継ぎ、友人を連れてや一人で温泉旅に出るようになった。

 某温泉口コミサイトで常にレビュアー上位を誇る、温泉大名武田ハルコとは、なにを隠そうこのあたしだ。

 や、本名は全然違うけど。

 温井愛泉(ぬくいまなみ)だけど。


 けれども、大学を卒業した頃からだろうか。

 あたしは普通の温泉宿では満足できなくなった。

 できる限り辿り着きにくい、人に知られていない、マニアックな温泉を求めるようになった。


 秘湯ハンター温井愛泉の誕生である。


 秘湯の魅力を言葉で伝えるのは難しい。

 山奥を何時間もかけて辿り着く達成感。

 それまでの労力を全て溶かしてくれる熱い湯の心地良さ。

 野生味あふれる露天風呂の解放感。

 秘湯のほとんどは混浴だが、気にしない。

 誰かいても地元のじっちゃんばっちゃんくらいで、気の良い人ばかりだ。

 稀に若いカップルと鉢合わせすることもあるけど、そういう人達も皆マナーを心得ている。

 女一人の秘湯めぐりでも怖い目に合ったことなんて一度もない。

 秘湯好きに悪人はいないのだ!

 温かな湯と、解放感ある露天の景観は人の心をほぐす。

 性別や年齢に関係なく、秘湯で出会った人とはいつも笑顔でお話した。

 ハダカの付き合いというやつだ。

 そんな時、あたしは心の底から思うのだ。

 ああ、日本人に生まれて良かった、と。


 ―――


 そんなあたしが今回ターゲットに選んだのは、とある旅行エッセイに描かれていた温泉だ。

 あたしがその温泉の存在を確認できたのは、そのエッセイ小説の中だけだ。

 どれだけネットで調べてみても地図を開いてみても、温泉の「お」の字もでてこない。

 バスのおっちゃんに聞いても「うーん、そういえばこの辺にあるって聞いた気もするねぇ」なんていう、なんともふわふわした情報しか得られなかった。

 今回、温泉があるという確証はない。

 あたしの秘湯ハンターのキャリアの中でも、特A級に難易度の高いミッションといえるだろう。

 けれども、バス停と山の名前は文中に出てくるのと一致している。

 信じるしかあるまい。


 コロンブスだって、大西洋を西に西に進んでアメリカ大陸を発見した。

 モーセだって、神様との約束を信じてカナンに辿り着いた。

 偉業を成し遂げるためには、時には無謀とも思える信念を貫かねばならないのだ。

 まあ、ぶっちゃけ目当ての温泉が発見できなかった時は、近場の確実な温泉宿という第二プランは用意しているのだが。

 てへっ。

 転んでもタダで起きてはいけない、というのも秘湯ハンターの心得なのだ。


 ―――


 温泉の情報は皆無でも、登山道はしっかりしていた。

 基本的に尾根道を登ってゆけばよく、迷う心配はない。

 登山が趣味の人にとっては、中級程度の道、といったところか。

 秘湯の多くは山の中にある。

 最近は温泉の情報サイトよりも、登山家向けの口コミサイトで秘湯を探しているくらいだ。

 山奥の温泉でも辿り着けるよう、週二日ジムに通い体力作りもしてる。

 ……のだが。


「はぁ、はぁ、はぁ、思ったよりもしんどひ……かも」


 登山を始めて一時間弱。

 早くも軽い疲れを感じる。

 どうやら、テンションが上がりすぎてペース配分を間違えたようだ。

 尾根道はアップダウンを繰り返す道だった。

 三歩登っては二歩下る、みたいな感じでなかなか高度が上がらない。

 この登っては下りの連続がボディーブローのようにじわじわとあたしの体力を奪っていったのだ。


「はぁ、ちょっと休憩」


 誰に言うでもなく宣言し、道端の土だまりに腰を下ろす。

 ザックから取り出した水筒の水を舐めるように含み、飴をひとつ口に放る。

 がぶ飲みすると余計にバテる。

 まだまだ、本気でバテきったわけじゃない。

 けれど、バテる手前くらいで休憩しておいた方が、効率が良い。

 そして、休むと決めたら、水分補給が終わっても十分くらいは動かない。

 あたしは登山家じゃないけど、こういった知識を仕入れるのには余念がなかった。

 山の一人歩きは危険なものだからだ。

 混浴の秘湯なんかより、よっぽど危険だ。

 いざとなった時、誰も助けてはくれない。

 だからこそ、いざとならない準備は怠るべきではない。


 よし、今度こそきっちりペースを守って山歩きを再開しよう。

 エッセイによれば秘湯は山頂よりやや手前、中腹のあたりにあるようだ。

 けれど、この辺の記述は情緒優先でやや曖昧だ。

 見落とさないよう、周囲に気を配りながら歩く。


 不意に、ぽつん、と額にしずくが滴った。


「え?」


 よもやと上を見上げると、ぽつりぽつりと水滴が落ちる。

 その頻度は急速に増していく。

 最初はぽつり、ぽつりだったのが、見上げる間にもぽつぽつになる。


「わわっ」


 慌てて道端にザックを降ろし、雨合羽を取り出した。

 もちろん、ジャケットとパンツに分かれた登山用の品だ。

 それとザックにもレインカバーを被せる。

 ちょうど着終わった頃には、雨はサアーッと静かな音を立てて本降りになった。

 間一髪、ギリギリセーフだった。

 秋の雨特有の、激しくはないけど、辺り一帯に雨のカーテンを降ろすような、しのつく雨だった。

 当然視界も狭まるし、足元もぬかるみ、滑りやすくなる。

 山の天気は変わりやすい、というけどさっきまで陽の光がガンガン照りつけていたのが遠い幻のようだ。

 女心と秋の空なんて言い回しもある。

 シツレイな言葉だ。

 あたしの温泉愛は、この天気のように移ろったりはしないというのに。

 なんにせよ、ツイてない。


 ……いや、逆に考えよう。

 辿り着くのが困難であればあるほど、秘湯(ごほうび)の悦びもまた増すというものだ。

 時雨にけぶる紅葉を眺めながら、湯に浸かり軽く一献。

 なんとも風流な話ではないか。

 よし、それでいこう。

 裸の肩に降り注ぐ冷たい雨を少しくすぐったく感じながら、露天の湯に浸かり、水面に映る波紋に風情を感じたりするのだ。

 そんな湯けむり美人にあたしはなっちゃる!


「ふふふふふ、楽しませてくれるじゃないか。秘湯さんよぉ」


 我ながら少々不気味な含み笑いとともに天に向けてつぶやく。

 ―――と、自己完結したものの……


「はぁ……」


 思わずため息が漏れた。

 レインウェアは透湿性も兼ね備えたものだけど、まったく蒸れないわけじゃない。

 フードで髪を守っても、ぱらぱらと雨が顔を叩くのはどうしようもない。

 どうやら山合いの谷間にさしかかったみたいで、視界も悪い。

 道の両側には土が盛り上がり、土手の下みたいな閉塞感があった。

 開けた展望はおろか、紅葉に染まる木々すら見えなかった。

 昨夜はわくわくであまり寝つけず、今朝は始発に乗るため早起きした。

 一度意識してしまうと、無性に眠い。


 あれこれの悪条件下で、バス停を降りた時の高揚感はすっかり雲散霧消してしまった。

 女心と秋の空、と言い出した人間を責められたもんじゃない。


 ―――なにやってんだろ、あたし。


 胸中でそんなネガティブなつぶやきがもれた。

 いくらなんでも、今回は無謀が過ぎたのではないか。

 もし登山道に温泉が存在するなら、少なくとも地図記号くらいあるはずじゃないか。

 作者のフィクションか、とうに湯は枯れてしまったのかもしれない。

 冷静になればなるほど、温泉なんてない可能性の方が高い気がしてきた。


「戻ろっかな……」


 ローカル線沿線にも、ひなびた温泉宿の目星はつけてる。

 いますぐそっちに行って、疲れと悲しい気分を洗い流してしまいたかった。

 と言ったものの、日に数本しかない戻りのバスが来るのはまだだいぶ先だ。

 無人のバス停ですることもなく数時間過ごすのも虚しい。

 これは秘湯ハンター温井愛泉の無残なる敗北かもしれない。


 ―――そんなマニアックな温泉ばっか追っかけてるから、男ができないんっスよ。


 そう言ってへらへら笑った、会社の後輩の顔が脳裏をよぎった。

 いますぐここに呼びつけて、はったおしてやりたい。

 まあ、その時も思いっきりヒールでつま先を踏みつけてやったのだが、それはそれだ。

 あたしの温泉愛をあざわらった罰は定期的に受けてしかるべきだ。

 いつか、うちの両親みたいに、温泉旅行を重ねることで愛を深めあう、そんなステキな彼氏をつかまえて見返してやるから覚悟するがいい。


 ふぅ。

 後輩に憤りを募らせたら、少し元気がでてきた。

 ともかくも、もう少し登ってみるか。

 まだ温泉があるともないとも決まったわけではないのだ。

 エッセイの記述を信じるなら、もう少し上のはずだ。

 がんばろう。


 そんなあたしの決意に温泉の神様が報いてくれたのか、降った時と同じ唐突さで雨は止んでしまった。

 風流を感じる間もなかったけど、やっぱり雨なんてない方が楽でいい。

 景色も少しはよくなってきた。

 展望がきかないのは相変わらずだけど、左手が広い雑木林になってきて、紅葉は楽しめる。

 レインウェアをしまうためにザックをおろし、ついでにもう一度休憩しようかと考えた、その時だった。


 あたりに立ちこめる不思議な匂いに気づいたのは。


 花の香りにも似ているけど、なんだろう、それよりも……甘くて……そう、色っぽい感じだ。

 女のあたしでもこんな香りのする女性とすれ違ったら思わずどきりとしてしまうような、そんな匂いだ。


「……香水?」


 推測があっているのかは分からない。

 どうも山道の上からではなくて、雑木林の中から漂ってくる気がする。

 気になる。めちゃくちゃ気になる。

 でも以前、山で遭難した人の体験談をまとめたサイトで読んだことがある。

 幻聴や幻視につられて山道を外れて道に迷う、なんて昔話みたいなことが山ではけっこう起こるらしいのだ。


 どうしよう。

 物の怪の仕業だったりするんだろうか。

 視界のきかない雑木林を前に、あたしはぽつねんと逡巡する。

 けど結局、好奇心には勝てなかった。

 匂いの正体を確かめよう、と決断するまでにさしたる時間はかからなかった。


 意を決してザックを背負いなおし、雑木林の中に分け入っていく。

 思った通り、雑木林を進むほど匂いもよりはっきりしてきた。

 どうやら香水ではない気がする。

 甘く、どこか官能的な香りだけど、香水よりも清潔感が漂っている。

 石けん。

 そう、石けんの匂い、というのが一番近い。

 今度はさっきよりも確信に近い。


 早く答えが知りたくて、焦ってはいけないと自分に言い聞かせながらも、林の中をいそいそと分け入っていく。

 そして、あたしはその光景を目にした。


 樹齢百年くらいはありそうな大きな切り株だった。

 三人分くらいならティーセットを置けそうな面積だ。

 けれど、驚くべきはその切り株じゃない。

 その前に座って一心不乱になにかの作業をしている存在だ。

 一見、その姿は人のようにも見えた。

 けれど、その身長はあたしの腰までもなく、たぶん一メートルにも満たない。

 そしてもっと不思議なのが、リスみたいな茶色い毛で覆われた大きくて丸い耳と尻尾を生やしていることだ。


 それも二人だ。

 切り株の前に仲良く身を寄せ、コトコトカタカタと何かの音をさせていた。

 片一方は赤いチョッキとズボン姿。

 もう一方は青いスカート状のワンピース姿だ。

 たぶん、男の子と女の子だろう。


 その光景に、夢でも見ているのだろうかと呆然とする。

 と、葉ずれの音で気づいたのだろう。

 二人は同時にこっちを向いた。


 ―――か、可愛い!


 目が合った瞬間、あたしの心は奪われた。

 キュン、と胸のあたりで効果音が鳴った気がする。

 くるりと丸い瞳に、チークをさしたみたいにほんのり赤く、艶やかな丸いほっぺ。

 鼻や口は平均的な日本人のものよりも小ぶりだ。

 月並みな表現だけど、お人形さんみたいだった。

 だけど、そのまなざしは知的で、大人の雰囲気を醸している。

 そのギャップがまた無性に萌える。

 しかも、その頭とお尻には大きな耳と尻尾が付いているのだ。

 それが作り物でない証拠を示すように、ぴょこぴょこと根元から動いている。


 ―――た、たまらん……。


 思わずよだれが出そうになる。

 あたしにショタっ気があるなんて、本人すらいまのいままで知らなかった。

 どうしよう。

 これから、親子連れの小さな子どもが裸で入浴しているのをちらちら見たりするようになってしまったら……。

 あたしの邪念が温泉という名の聖地を穢してしまうのではないだろうか。

 ……いや、きっと大丈夫。

 この小人さん達が特別可愛いだけだ。

 あたしは正常(ノーマル)

 うん、大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ。


 女の子(だと思う)の方は、あたしを見ると「わわっ」と口に手を当てて、驚きあわてた様子だった。

 けど、男の子の方はちらりと一瞥しただけで、手元の作業に戻ってしまった。


「こ、こんにちは」


 あたしは片手をあげて、そろそろと近づく。

 だらしなく顔がにやけそうになるのを懸命にこらえ、普通の、友好的な笑顔を浮かべようと努める。


 でも、待てよ。

 と、かろうじて残っていた冷静な部分が警鐘を鳴らした。

 小人さんに近づく手前でぴたりと止まった。

 この小人さんの可愛さ。

 人間をおびき寄せるワナなのかもしれない。


 綺麗な歌声でおびき寄せて船乗りを座礁させるセイレーン。

 美しい姿で男を迷わせ凍え死にさせる雪女。


 そういう類の妖怪変化なのかもしれない。

 そこまで危ないものじゃなくても、キツネやタヌキが化けているとか。

 耳と尻尾はリスだけど……。


「えっと、あなた達は人を化かす妖怪ですか?」


 とりあえずあたしはそう訊いてみた。

 我ながらおバカな質問だ。

 もし違うならずいぶんシツレイな問いかけだし、本当に化かそうというなら「はい、そうです」なんて素直に答えるわけがない。


「ヒトを化かす?」


 男の子がもう一度ちらりとこっちを向いて、あたしの言葉を繰り返した。


「そんなことするほど、ヒマそうに見えるか?」


 吐き捨てるように言う。

 けどそれも、子どものような高い声で、あたしの耳にはかわいく響く。

 眉間にしわが寄っていて、なんだかイライラした様子だ。

 男の子はまた、切り株の上の作業に戻ってしまった。


「え~っと、それなにをしてるの?」


 男の子は横目であたしを見た。

「見れば分かるだろう」と言いたいけど、そう口にするのも面倒くさい。

 そんな内心が手に取るように伝わる目線だった。

 代わりに答えてくれたのは女の子の方だ。

 自分の作業の手をとめて、話してくれた。


「わたし達、シャンプーを作っているところなんです」

「ほぅ」


 “手作りシャンプー”か。

 女子力の高そうな響きだ。


 あらためて切り株の上の様子を眺めてみる。

 男の子がさっきからトントン刻んでいるのは、たぶん何かのハーブだ。

 いい香りがする。

 それに液体の入った木のお椀がたくさん。

 こっちはたぶん、オイルとかミルクとかだ。

 あとは、花か蜂の蜜らしき、とろりとした液体もある。

 それに切り株の横にはビン詰めされた液体がたくさん。

 これが完成品のシャンプーなんだろう。

 さっきから漂っている良い匂いの正体がこれだ。

 石けんだと思ったあたしの鼻は、だいたい合ってたわけだ。


「ミュー、手が止まってるぞ」


 男の子が叱るように言う。

 たぶん、女の子の名前なんだろうけど、彼女は叱られてもあまり気にしてないふうだ。


「その……納期が近くて、でもさっきの雨で作りかけてたのがダメになっちゃって……それで、彼、ちょっと苛立っているんです。気を悪くしないでくださいね」

「の、納期……」


 いやな言葉にちょっと立ちくらみがして、あたしはよろける。

 有給を取った時に周囲に押しつけた……もとい、引き継いでもらった仕事のことを一瞬だけ思い出してしまった。

 しかしなるほど、小人さんの世界にも仕事とか納品とかあるのか……。

 せちがらいのぅ。


「……えっと、それ、あたし手伝おうか?」


 なんの気なしに申し出てみると、二人は同時に期待にキラキラ光る目であたしを見た。

 猫の手も借りたい、まさしくそんな心情がひしひしと伝わってくる。

 けれど、男の子の方が逡巡するように目を伏せた。


「いや、しかし、ニンゲンの手を借りるのは禁忌だったはず……。そもそも、姿を見られたこと自体……」


 ぶつぶつつぶやきながら考えこんでしまう。

 あ、やっぱこの子達人間じゃないんだ。

 禁忌って、山の掟とかそういうのがあるんだろうか。


「細かいことはいいじゃない。良い人そうだし、わたし達のこと話さないでいてくれたらそれで」


 女の子の方がそう説得してくれる。


「まっかせて。誰にも喋らないから。ここで見たことは全部秘密にする」


 男の子はまだためらっていたけど、たぶん、よっぽど切羽詰まってたんだろう。

 最終的にはあたしに向かって、深々と頭を下げた。


「分かった。大したお礼はできない。それでもよければ、是非力を貸してほしい」

「よっしゃ。じゃあ、決まりね。あたしは温井愛泉。よろしくね」

「ツゥだ。感謝する」

「ミューです。よろしくお願いします、温井さん」


 二人そろってミューとツゥか。

 マスターボールを投げても惜しくなさそうな名前だ。

 かくして、あたしは小人さん二人とシャンプ―作りをすることになった。


 あたしはあまり手先が器用な方ではない。

 いわゆる女子力も高いほうではないだろう。

 一人暮らしだから一応自炊はしてるけど、誰に食わせるでもない飯はひどく適当なものだ。

 それでも、サイズが小人さんとは全然違うあたしが加わることで、作業はぐんとはかどった。

 小人さんは見た目通り力も弱いみたいで、二人がかりでようやく持ちあげられるような荷物も、あたしなら片手でひょいっと運べた。


「すまん。このローズマリーの葉を刻んでほしい」

「分かった。これ全部?」

「温井さん。この香油の入った袋、しぼっていただけますか」

「オッケー。全力でやっていいの?」

「香草と花蜜が足りない。場所はミューが分かるから一緒に採ってきてくれ」

「あいよっ。かごはあたしが持つから案内して」

「作ったビンのラッピング、手伝ってもらえるかしら」

「まっかせて。それならあたし得意」


 こんな感じで、あたしは二人の指示を聞いて簡単な作業を手伝う。

 ばたばたわたわたと。

 なにか考える間もなく指示を聞いては動き、どうにかこうにか日が傾く前に必要な量のシャンプーを作り終えられたようだ。


「っしゃあー、できたぁー」


 まっさきにはしゃいだのが、お手伝いのあたしだった。


「君がいてくれてよかった」

「本当になんとお礼をしていいか。ありがとうございました。温井さん」


 ミューとツゥの二人もほっとしたような朗らかな笑顔だった。

 最初はちょっととげとげしかったツゥも、遠慮がちだったミューも、ともに危機を乗り越えた仲間みたいな目を向けてくれる。

 職場でも繁忙期を越えるとこういう空気になったりする。

 普段は生意気な後輩も、クソ偉そうな上司も、共に死線を生き延びた仲間のように思えて「とりあえず呑みいくか?」みたいなノリになるのだ。

 いま、あたしは種族の垣根を越えて小人さん達とそんな連帯感を覚えていた。


「お礼はいいから。あたしのことはマナって呼んで。古い友だちはそう呼んでるから」

「はい、マナさん。あの、これ、よければどうぞ」


 そう言って差しだしてくれたのは、作ったばかりのシャンプーのビンだ。


「いいの?」

「はい、もちろんです。少し余分に作った予備の品ですから」

「いやあ。もう少したくさん作っておけばよかった。すまん」


 ツゥも最初のイライラした雰囲気とは別人みたいだ。

 たしかに人間のあたしにとっては、ビンは試供品サイズだ。

 でもその気持ちが嬉しい。

 大切に使わせてもらおう。

 そういえば、二人ともお人形みたいに顔立ちもかわいいけど、髪も耳や尻尾の毛もふわふわでつやつやだ。

 これを使えばあたしもこんな髪になれるのだろうか。

 デートの前日とかにこんな良い匂いのシャンプーを使ったりなんかしたら、好感度が15%くらいは上昇しそうだ。

 や、でも、そんな予定もトンとないし、普通に使うか。

 どこか温泉に行った時にでも……


「―――温泉!?」


 あたしははっと叫んだ。

 突然の絶叫に、ミューとツゥがそろってぎょっとこっちを見ている。

 けど、それどころじゃなかった。


 あたしとしたことが。

 秘湯ハンター温井愛泉としたことが。

 当初の目的を忘れるなんて……!


「ね、ねえ、ツゥ。お礼代わりに教えてほしいんだけとも!」


 あたしはずずいっとツゥに迫り、鼻息も荒く問う。


「え、えっと、ああ。ボクに答えられることなら……」


 ツゥはその勢いにのけぞりながら、ぎこちなくうなずいた。

 ミューでさえも、じゃっかん引き気味にこっちを見てる。


「このあたりに温泉ってない?」


 ―――


 そして、あたしはこの世の楽園に辿り着いた。


「君は変わってるね。こんな岩肌剥き出しの湯では人間はあまり楽しめないだろうに」

「い~の! こういうのがいいの! 文句なし! 一切なし! 星五つつけたげる!」

「ほ、ホシ……?」


 上から降ってきたツゥの声にあたしはハイテンションで答えた。

 確かに温泉場は岩が剥き出しで、人工のものか天然のものかも判然としない。

 当然、脱衣場も目隠しも存在しない。

 けれど、温泉の中の石は裸足でも痛くないくらいすべすべだし、湯加減もちょうどいい。

 お湯は無色透明で感触もぬめぬめしてない。

 少しミネラルの匂いがするかなっていうくらいだ。

 でも、だてに温泉歴=年齢のあたしじゃない。

 これが源泉かけ流しの、まごうことなき天然温泉であることは、浸かってみれば分かる。

 これだけ人里離れた山の中なら野趣あふれまくる造りでも気にならなかった。

 なにより、その絶景だ。

 紅葉に色づく山々が一望できる、断崖にほど近いところに温泉はあったのだ。

 まさしくエッセイで読んだ通りの風情だ。


 ちなみに、なんでツゥの声が上からしたかというと、ミューとツゥが浸かっているのが、あたしがいる湯の上方の、小人さんでも入れるサイズの小さな岩場だからだ。

 それにしてもあの二人、ごく自然に同じ湯に浸かってるけど、夫婦なのか、兄妹なのか、カップルなのか、関係聞きそびれたな。

 ま、いっか。

 温泉にいる時に些細な詮索は無粋だ。


 はぁ、それにしても極楽だ。

 なんか色々あったけど、温泉に辿り着けて本当に良かった。

 湯船の中にいると、これまでのことも、これからのことも全部どうでもよくなる。

 おまけに小人さんにもらったシャンプーのおかげで、自分で触っても気持ちいいくらいあたしの髪はふわふわだ。


 ああ、幸せだ。

 これだから秘湯ハンターはやめられない。

 あたしは心の底からしみじみそう思うのだった。


 うん、めでたしめでたし。

《次回予告》

再び秘湯のうわさを聞きつけて、旅に出たあたし。

だけど、目の前に現れたのは異世界に通じる扉だった!?

あー、もう。

どこの世界に通じてんだかしんないけど、その向こうに温泉がある限り、このあたし秘湯ハンター温井愛泉が引くわけにはいかないでしょ。

これはもう、行くっきゃない!


ネクスト・エピソード・イズ

『いきなり異世界!? 日帰り温泉旅行(クエスト)も楽じゃない!』

書いてくんないと、暴れちゃうぞ!

※(たぶん)書きません


《本当のあとがき》

こちらはミクシイ内コミュニティ「半蔵門かきもの倶楽部」に投稿したものを改稿した作品です。

元URLはこちら

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comment_count=0&comm_id=6226350&_from=subscribed_bbs_feed&id=80993110

次回予告は小説家になろうサイトのみに掲載いたしました。

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