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深淵の歌

 突如現れたオルタナ。モネからクロードを守るように立つ彼女の姿に、姉弟は驚きを隠せない。

「オルタナ!?」

「オルタナ!?」

 揃って名を口にする二人に彼女は苦笑で返した。

「はいはい。全く同じ反応しちゃって。本当に姉弟よね、あんたら。だけどもう仲良し姉弟喧嘩は終わりにさせてもらうわよ」

 変わらぬ調子で、オルタナは言う。

「オルタナ、どうしてここにいるんだよ!」

 驚きと動揺。揺れる声でクロードが彼女に問う。

「なんで逃げなかったんだ!」

「逃げるつもりだったわよ。だからこうして迎えにきたんじゃない」

「迎え……?」

 彼女の言っている意味がわからず。クロードは首を傾げる。その顔を愉快そうに見つめながら、オルタナは答えた。

「術式の弱点を見つけたわ。あとはもうそこを突いて、この空間から抜け出して、あんたと一緒に逃げるだけ」

「一緒、って」

「あら? 私は一度も一人で逃げるなんて言ってないわよ」

 してやったりと言わんばかりのオルタナの顔を見て、クロードは何故だか気が抜けてしまう。張りつめていた神経がゆっくりとほぐされるような感覚。自然と笑みまで浮かんでくる。

「僕は一人で逃げろって言って、君はそれに頷いたと思うんだけど」

「細かいことはいいのよ。こういう時は、素直に感動してなさいな」

 得意げに、ふふんと鼻を鳴らすオルタナ。

 感動かどうかはわからないが、素直に嬉しいとは思う。本当に彼女のことを考えるなら、戻ってなんて来ずに一人で逃げてしまった方がいいはずだ。だけどクロードはまた彼女に会えたことが嬉しくてたまらないのだ。どんな結果になるにせよ、オルタナとはもう会うことはないと覚悟を決めていたから、その分本当に嬉しかった。

「ありがとう、オルタナ」

 色んな意味のこもった感謝の言葉。それを受け取ったオルタナは少しだけ照れくさそうに顔をそむけて手をひらひらと振った。そして、そのままモネと向き合う。

「ハロー、モネ。昨日ぶりね。冷蔵庫にぶつけた頭は大丈夫?」

「おかげ様で、治癒魔法でこぶを消すのに一時間かかりましたわ」

 笑みを消した表情でモネは皮肉っぽく口にした。それを受けてオルタナは余計に愉快そうだ。

「今まで一体、どこに隠れていたんですの?」

「あら、私は意外とあんたの近くにいたのよ。あんたが弟の絵が載った雑誌を何冊も何冊も買っていることがばれて顔を真っ赤にしているのもちゃんと見ていたわ」

「そ、そんな何冊も買っていませんわ! それぞれ三冊だけです!」

 三冊は買ったんだ……。とクロードが小さな声で呟くとモネにキッと睨まれる。

「と、とにかく! あの場にあなたはいなかったはずです!」

 モネは顔を真っ赤にさせる。オルタナはふふん、と声に出してから答えた。

「あの場に私はずっといたのよ。あんたの弟さんのおかげで気づかなかっただけで」

「クロのおかげ?」

 疑問するモネ。

「クロが何をしたっていうんです?」

「絵画魔法よ」

 なんでもないように答えるオルタナ。それにモネはますます首を傾げた。

「絵画、魔法? それはあの。絵を描くというあの絵画魔法ですか?」

「ええそうよ。それ以外に何があるのよ。あんたの弟がその絵画魔法を使って、私の姿を隠してくれていたの」

「クロが使った? 絵画魔法を……?」

 モネにとってはオルタナがあの場にいたという事実よりも驚愕を受けたようで、表情をそのままに固まってしまう。

「何よ。あんた知らなかったの? まあ、いいわ。とにかくその絵画魔法を使って、こんな絵を描いてくれたのよ」

 そう言って、オルタナが取り出したのはベッドに敷く用の白のシーツ。その裏側には住宅の壁らしきものが描かれている。しかしオルタナがシーツを広げて見せるが、その絵はどこか歪んでいて全体のバランスがおかしい。

「馬鹿なことを。こんなものでわたくしの目が誤魔化せるわけありませんわ」

「実際誤魔化された馬鹿が何言ってんのよ。それに、これはそう見るんじゃなく、こう見るものよ」

 言葉と共にオルタナがモネに向けたシーツの角度を変える。すると、モネの表情が一変する。その表情の変化の意味がわかっているオルタナは上機嫌な様子だ。

「ふふん。驚いた? 本当に壁があるかのように見えるでしょう? トリックアートってやつよ。平面の絵にも関わらず、ある特定の角度から見れば実際にそこにあるように立体的に見えるっていうあれよ」

 シーツに描かれていたのは丁度オルタナが隠れていた位置の背景に沿って書かれた立体的に見える絵だった。クロードが急ごしらえで製作したものだ。

「私はこれで身を隠してその場に突っ立っていただけよ。最も、見る角度を変えられたり、あんまり注視されると気付かれちゃう程度の策。いくらあんたに勝つためとはいえ、弟が不意打ちなんて真似をしたのに疑問を抱かなかった? あんたの可愛い聡明な弟くんが、敵を目の前にして背を向けるのは不思議じゃなかったのかしら?」

「全て、あなたを逃がす為だったと……」

「あんたみたいな堅物を見て育った子よ? それにあんたのお得意の騎士道説法も私より聞いてるだろうしね」

 モネは一瞬悔しそうに顔を歪めたが、すぐに目を瞑った無表情となってため息を吐いた。

「クロ。あのシーツは宿から拝借したものですの?」

「そう、だよ」

「だったら、部下の襲撃の時点でそこまで想定していたと」

「……別にそこで全部考えたわけじゃない。宿に泊まった時から、色んなパターンで襲撃の想定をしていただけだよ」

「あなたの臆病な性格はこういうところで役に立ちますわね。あとは少しだけ自信を持ってくれたら、姉としては安心なのですけど」

 そう言って、またため息を吐いた。

「なんにせよ、最初からオルタナの味方をしてオルタナを守るつもりだったと。…………全くよくもわたくしの弟をたぶらかしてくれましたわね、この年増女」

「ふん。男なんてちょっと目を離した隙にあっという間に成長しているものなのよ。いつまでも子供だと思ってると、その内痛い目みるわよ」

「もう結構見ちゃったあとなんですわよね……」

 モネは三度ため息を吐いて――そしてその顔を途端に険しくさせる。

「それで、一緒に逃げるなんて仰ってましたけど、まさかわたくしを前にして逃げ切れるだなんて思っていませんわよね」

 彼女の周囲にルーンの発光体が現れる。逃がす気はないという宣告。彼女から発せられる迫力にクロードは額から汗をかく。先程の魔法の凄まじさを見てしまったあとだからこそ、恐怖は簡単に芽生えた。

 しかしそんな彼女を前にしてもオルタナは顔色一つ変えやしない。

「ふふん。確かにあんたは強いわよ。だけど、この場合に限っては私がこの場にいた方がお互い逃げれる確率があがるのよ」

 どういうことですの、と怪訝な顔を見せるモネ。そんな彼女にオルタナがしたり顔で告げた。

「だって、あんたは私を殺せないでしょう?」

「…………」

「国からは私を生かして捕まえるように言われているはずよ。あのアホどもは私を生きたまま捕らえておきたいはずだもの」

 どんな理由があるかはわからない。しかしオルタナは王家が三百年間殺すことなく拘束し続けた存在だ。脱走は予想外だったろうが、それを理由にオルタナを殺すとは考えにくい。生きて捕まえて、今度はもう二度と逃げることのできないように拘束するはずだ。

「……確かにわたくしはあなたを決して傷つけることのないように、厳重な命令を受けていますわ。しかし、それがあなたが逃げ切れる可能性に繋がるとは考えにくいのですわ」

「隠さなくてもいいのよ。本当はあんただってわかっているんでしょう? 今ここに傷つけることのできない私がいることは、あんたの唯一とも言える弱点を突くことになる」

 弱点。

 その言葉に首を傾げたのはクロードだった。王国最強の騎士。誇り高き青騎士レヴァンテイン。その強さはクロードがよく知っている。幼い頃から、彼女の力をクロードは間近で見てきたのだ。だらこそ、彼女に弱点なんてものがあるのが信じられなかった。

「それが、あるのよ。この場合に限ってだけどね」

 困惑するクロードにオルタナは言った。

「クロ。あの子が他の魔法師よりも特に優れている点って、どこだったかしら」

「え? そりゃあ……ルーンの収集、じゃないの?」

 王国最強の騎士と呼ばれるモネ。その肩書きに相応しく、魔法剣術体術を含めた総合的な戦闘力は騎士団の誰よりも高い。しかし魔法師としての彼女の実力は実はそこまで高くはないのである。術式の構成や理解に関してはまだまだ同年代の学園生徒たちと肩を並べる程度だ。そんな彼女が王国最強足りえているのは、彼女の類い稀なるルーン収集の才能が要因だ。

 騎士団員ともなればルーンの収集も他の魔法師よりも優秀な場合が多いが、しかしモネの実力はそれとは一線を画していた。彼女は騎士団の誰よりも――――この国の誰よりも、多量のルーンを束ねることができる。それも驚異的なスピードで。

 その規格外のルーンはモネのまだ未熟な術式を力技で騎士団員に匹敵、それ以上の魔法に仕上げてしまうのだ。常に彼女の術式はエネルギー過多により本来の百パーセント以上の力を発揮することになるのだ。

 まるで神を統べるかのごとく、彼女は自在にルーンを束ねて見せる。だから誰もが彼女に憧れ、見上げ、そして言うのだ。

 彼女こそ、真に世界から愛された者だ。

「ええ、まさしくその通り。モネ、あんたの才能はたいしたものよ。三百年生きた私でもあんたほどのルーンの使い手は見たことがないわ。だけど、それでも弱点はあるのよ。――――あんたが唯一苦手としていること、それは手加減よ」

 手加減。それは手を抜くこと、できることをやらないことだ。

「あんたは大量のルーンを集めることは得意だけど、逆に少量のルーンを集めることを苦手としている。あんたの得意分野は広域殲滅型の魔法だって話だけれど、それは得意というより、それしか使えないと言った方が正しいんでしょう? 戦う相手が魔物や敵国とかならそれでも別にいいんでしょうけど、殺したくない弟と殺しちゃいけない私が相手じゃ、あんたの強力すぎる魔法は使えないわ」

 先程の戦いでモネはクロードに対して魔法を使わなかったのは、クロードの実力を図ろうとしたことや、最初から説得するつもりで戦っていたことなどの理由もあるが、それ以前に彼女は魔法を使う訳にはいかなかったのだ。それを使ってしまえば、弟はただでは済まないから。

「さらにさらに、あんたにとって不利なことがもう一つ。それはこの空間魔法そのものよ。これもまた、あんたが即興で作った魔法。術式構成とかは私にはわからないけれど、クロも言ってた通りあんた不完全な術式を多量のルーンで無理矢理形にしている。それが原因でこの空間魔法はとても脆くなってしまっているのよ。術式の矛盾というよりは根本的な欠陥ね。本来なら術者の意思でなければ解けないはずの魔法が、ちょっとした衝撃で簡単に解けてしまう。そう例えば、あんたの魔法とか」

 モネの魔法は常に多量のルーンを使う。その大量のエネルギーの集約にこの擬似空間は耐え切れないのだという。

「あんたが魔法を使えるのは精々あと二回かそこらってところでしょう?」

 そういって、オルタナは指を二本たててこれ見よがしにモネに見せつける。

「あんたは魔法を使えず、回数も限られている。そしてこちらには生身の肉体だけであんたと張り合ったクロがいる。この状況、むしろ逃げられない方がおかしいくらいだと、そう思わない?」

 次々とオルタナが並べたのは全てモネの不利を示す言葉。しかし対するモネは意外にも冷静だった。焦ることも戸惑うこともしない。その顔に表情というものを出すことなく、モネはゆっくりと口を開いた。

「…………確かにあなたの言う通りですわ。わたくしがルーンを束ねようとすれば、まるで彼らの方からわたくしに集まってくるかのように大量のルーンが集まってきてしまう。そのためどんな些細な術式でもわたくしが使えばそれは多大な破壊をもたらす広域殲滅型の術になってしまう。制圧用の水流魔法も、わたくしの手にかかれば人を殺めることができるだけの力を得る事でしょうね。そしてこの空間の術式構成が未熟で、わたくしが魔法を発動するごとに崩壊していくのも正解ですわ。――――ですが、それが一体なんだというのですか」

 モネは毅然とした態度を崩さない。その対応が予想外だったのか、オルタナがわずかにたじろぐ。

「わたくしはあなたのことを殺せないし殺したくない。わたくしは友人を傷つけたくはありませんの。けど、弟は別ですわ。姉は弟を殺しませんが、しかし傷つけはするのですわよ」

 言って、手にした剣の切っ先をクロードに向けた。

「恥ずかしながら、わたくしの魔法はまだまだ未熟。ですが、わたくしが本気で魔法をコントロールすれば、例えこの辺り一帯を焼き尽くす破壊の中でも人一人くらいなら無傷で生かしておくことも可能ですわ。そしてこの空間もあと二度くらいはわたくしのルーンにも耐えてくれるでしょう。つまりわたくしはあとたった二回だけですが、あなたを傷つけずに魔法を発動することができるのですわ」

「ちょ、ちょと待ちなさいよ。それなら、クロはどうなるのよ。その理屈だと私一人は無事でも、あんたの弟くんは無事じゃあ済まないわよ」

 モネは一度目を伏せて、そして続けた。

「そうでしょうね。ですがまあ、手足の一本くらい駄目にしてあげた方が魔法師になることへの諦めもつくでしょう。いえ、手を駄目にするのはいけませんね。そうしたら、絵を描けなくなってしまいますから」

「…………あんた、本気で言ってんの?」

「ええ本気ですわよ。――――クロ、そんな心配そうな顔をしないでください。例え歩けなくなっても、わたくしがきちんと看病してさしあげますわ。きちんと、一生」

 迷いのない言葉。モネが本気で言っていることはすぐにわかった。クロードは思わず笑ってしまう。笑うしか、なかった。彼女は本気で、クロードの未練を断ち切ろうというのだ。

「愛が重いよ。姉さん」

「あら、知らなかったんですの? わたくしはクロのことを愛していますのよ」

「あんの馬鹿女! 本気でぶっ放しやがったわ!」

 頭が揺れる。意識は朦朧としてはっきりしない。回る視界の中で、クロードは綺麗な金色を目にして――

「起きろ馬鹿男!」

 思いっきり頬をつねられた。瞬間覚醒した意識と視界で自分が仰向けに倒れていることと、倒れた自分のお腹の辺りにオルタナが乗っていることを確認した。

「オルタナ、痛い」

「うるさい」

「オルタナ、重い」

「う・る・さ・い!」

 頬を両側からぐにーっと引っ張られる。勢いよくぱっと手を離して、オルタナはクロードのお腹からも降りた。体を起こし、ひりひりする頬をさする。オルタナは怒ったような顔でクロードをじっと見ていた。

「えっと、今の状況がよくわかんないんだけど……」

「はぁ? あんたまさか頭ぶつけて記憶喪失とか、そんなベタベタなこと抜かすんじゃないでしょうね。脛蹴るわよ」

「あー、ごめんちょっと待って。今思い出す」

 とにかく記憶を遡る。まずは昨日の……いやそれは遡り過ぎだ。まずは今朝、襲撃を受けて、オルタナと逃げて、姉さんがやって来て、喧嘩して、それから――――

「うん。おっけ、思い出した。ってことは――」

 クロードは辺りを見渡す。家や何かの店だったはずの建物はただの瓦礫にかわり、火のつくものは残らず灰になり、火のつかないものまで灰にして、辺りはまるで巨大な炎の嵐が通った後のようだった。

「――――これは全部、姉さんの魔法による破壊か」

 オルタナがクロードを助けるために現れ、自身の存在やモネの弱点、空間魔法の欠陥など様々な状況をあげることでモネが魔法を使えないようにしようしたが、結局最後にはモネは魔法を発動させた。

「だけど、それにしたら僕の負傷が少なすぎるような」

 モネはクロードの手足を一本犠牲にするくらいの覚悟を持って魔法を発動させたはずだった。にもかかわらず現在のクロードの体は打ち身や擦り傷こそあれど致命的な傷は一つとしてない。これだけの破壊をもたらした中で、自分が五体満足でいることはおかしいことだ。

「あんたそこは思い出さなかったわけ? ……ああ、でもあの土壇場じゃそもそも認識してたかどうかも怪しいか」

「土壇場って、何があったの?」

「私があんたを庇ったのよ。あの子が魔法を発動する直前に、あんたに抱き着いてね。それを見たあの子が反射的に私たちを避けるように魔法を放ったから、こうして軽い怪我で済んでるのよ」

「そ、そうだったんだ。ありがとう」

 女の子に助けられるなんて情けないな、と思いながら口にした礼。オルタナはどうってことないわ、と冷たく言い放ち髪をかきあげる。モネの魔法の衝撃でおさげを結んでいた紐が切れてしまったようで、彼女の髪はまとめられることなく垂らされている。これはこれで可愛いな、と呑気にもそんなことを考えた瞬間、クロードの目に赤色が写る。

「お、オルタナ! 血! 血が出てる!」

 彼女の頭頂部から頬を伝うように一本の赤い線。それは生暖かく、ぬめっとした人の血だ。彼女は自分の頭をまさぐるように触って、次に頬に触れて、手に着いた血を目視してようやくクロードの言っている意味を理解したようだった。

「ああ、確かに出ているわね。血が」

「出ているわねって、そんな…………ぼ、僕のせいだ。オルタナが、僕をか、庇ってくれたから!」

 傷つけてしまった。自分のせいで、己の未熟さのせいで、彼女のことを。その事実はとてつもない後悔となってクロードを襲う。

「ご、ごめ……僕、ぼく――――」

「狼狽えないでよ、めんどくさい」

 どうしていいかわからず泣きそうになるクロードにオルタナは冷静に告げた。

「今、この程度の傷を心配している場合?」

 彼女はまるで自分の傷のことなど気にもとめておらず、頬を流れる血を拭い取ろうともしない。

「痛く、ないの?」

 クロードの問いにオルタナは少しだけ目を伏せるようにして答えた。

「……それを、気にしている場合じゃないでしょ。今の状況わかってる? モネのたった一発の魔法であたり一面こんな風にされちゃったのよ。その上、あの子はもう一度同じことができる」

 周りの被害を顧みずに魔法を放てる。

「だけど、姉さんはオルタナを傷つけることはできない。さっき抱き着いてやり過ごすことができたんだろう? だったらもう一度同じことをすれば擬似空間も壊れるし、その隙に――――」

 楽観的なクロードの意見はオルタナの「無理よ」という強い否定で却下された。

「ど、どうして?」

「クロ。あんた忘れたわけじゃないでしょう? 私の、アルマ=カルマの防衛機能のこと」

 防衛機能。人型術式アルマ=カルマに取り付けられた防衛本能の強制化機能。

「人を庇うっていうのは、自ら傷つきに行くってことよ。それを、私の機能は許さない」

「でも、さっきは大丈夫だったんだろう?」

「さっきのは、あの子が魔法を発動する前にあんたに抱き着いて、結果あの子が攻撃を自分から逸らしてくれたから庇うことができたの。もし、あの子が攻撃を逸らさずに放ってたなら……私は私の意志に関係なく、あんたを見捨てて一人で生き残ろうとする方向に動くはずよ」

 さっきは運が良かっただけだと、オルタナは繰り返す。

「本当に運が良かったのよ。あの子がとっさに魔法を逸らさなかったら、今頃あんたの足は一本まるまる灰になっててもおかしくないんだから」

 クロードは周囲に散らばる瓦礫や灰を目にしてしまい、思わず振るえた。あの中のどれかに自分がなっていたかもしれない。想像しない方がいい光景が頭の中に反射的に生まれてしまう。

「そして、きっとあの子は自分の失敗に気づいている。二回目はこうはいかないわ。例え私があんたを庇おうとしたところで、躊躇わずに攻撃してくるわよ。そうすれば私の体は勝手にクロから離れて安全な位置にいってしまう」

 酷い奴よね、とオルタナが自嘲するような笑みを浮かべた。そんなことはない、とクロードが言うよりも先にオルタナがだから、と言葉を続けた。

「今の状況はかなり深刻よ。もう一度モネと遭遇したら、クロは足を焼かれて私は城に連れ戻される。まさに最悪の最後ってやつね」

 どうしたものかと、オルタナは頭を捻る。彼女の頬にはまだ赤い血がつたっていて、クロードはついに耐え切れなくなって服の袖で彼女の頬の血を拭った。突然、頬に手を伸ばされてオルタナは最初驚いていたが、その意味を悟ると「ふんっ」と不服そうに鼻を鳴らす。

「いいって言ってるのに、変なやつね」

「姉さんの弟だから」

「それは結構納得の理由かもしれないわね……」

 そういえば、こんな風に自分からオルタナに触れるなんて初めてだと今更ながらにクロードが恥ずかしくなった時だ。

「ちょっと、人の弟とイチャイチャしないでくださらない?」

 クロードとオルタナが二人同時に声の方向を向いた。そこには重なる瓦礫の上を姿勢を崩すことなく歩くモネの姿。彼女はルーンの発光体を煌めかせながら、二人とは少し距離をとったところで睨んできていた。

「全く、油断も隙もあったもんじゃありませんわ」

「げ、来たわよ変な姉が」

「誰が変ですか!」

 冗談のような台詞を吐いて見せるオルタナだったが、彼女の内心の動揺は見て取れた。もう一度モネと遭遇したら終わりだと言った矢先にこれだ。動揺どころかクロードは絶望しかけている。

「魔法自体は外れたはずですが、結構遠くまで飛びましたわね。やはり個人を避けて放つ魔法にしては無駄な破壊が多い……。術式の見直しを行うべきですわ」

 モネは二人に構うことなくぶつぶつと何やら呟き始める。

「炎に青の属性付加。それを風の竜巻に見立て力の凝縮を行い破壊をもたらすものですが、力の凝縮と最終的な方向にもう一説加えたほうがいいかもしれませんわ。長くなってしまうので実戦的とはいえませんが、この場に限っては気にすることでもないでしょう」

 モネは先程、この破壊をもたらした術式に改良を加えているのだ。さらに強化させ、今度は絶対に逃がさないように。

 まずいわね、とオルタナが焦ったように呟いた。

「結局あの子の一番厄介なところってこういうのなのよね。ルーンの収集とかその才能もそうだけど、何より吸収良すぎるのよあいつ。要領がいいっていうか、最初から間違えないような天才ではないんだけど、モネは間違えたことを確実に力にしていく。成長早すぎっていうか、成長上手すぎるでしょう」

 そうだ。モネの最も優れた点はオルタナの言う通り『確実な成長』だ。成功したことも失敗したことも、できたこともできなかったことも、全て自分のものとして着実に前へ進んでいく。

 その立ち姿に迷いはない。

 その姿に憂いはない。

 ただ誇りに満ち溢れた胸を張り、彼女は前へと進むのだ。

 眩しいよ。眩しすぎるよ。

 クロードの弱い心では直視することすら敵わない。彼女は優秀で、輝き、誇り高く、無能で惨めで矮小な自分とは比較にもならない。胸の内に抱く劣等感でさえ、酷く醜いものに思えてしまう。

 あまりにも遠い。

「――――さて、術式構成の見直しも終わりましたわ」

 あっけからんとした様子でモネは告げる。

「どうしますの? 大人しく投降するというのなら、お互い無傷で済むのですけれど」

「大人しく投降? 冗談でしょ。私、そういう妥協みたいな終わり方が一番嫌いなの。ここまで来たからには最後まで抵抗させてもらうわ」

「……それで、私の弟を巻き込むのですか!」

「巻き込むわよ。だってこの子は人質だもの。そういう関係なの」

 言って、オルタナは懐から包丁を取り出した。昨日、クロードの家から拝借した銀の刃。まだ持っていたのかと驚くクロードの喉元にそれが突きつけられる。反射的に体をピクリとさせたモネに向かってオルタナは愉快そうな笑みと共に言った。

「はいはいはーい、動かないでね。動いたら弟くんの首が大変なことになるわよ。姉ってのは弟の手足の一本くらいは切り落とせても、殺すことはできない生き物でしょう?」

「なっ、あなた……!」

「全く本当に、あんたは騎士の鑑だけれど、兵士としては失格よね。いつだってあんたは相手が正々堂々戦ってくれることを前提に動いているじゃない。自分が対峙した相手が誇りの欠片もない人物だなんて考えたこともないでしょう? そんなんだからこうなるし、そんなんだから甘いって言ってんのよ」

 年上の言うことは聞いときなさいな、と意地の悪そうにオルタナは言った。

 モネは悔しそうな顔して動かない。クロードは喉元に突きつけられた刃物の冷たさを感じながらも、しかし昨日のような恐怖を感じたりはしなかった。この期に及んで、オルタナが自分を殺すとは考えられなかったからだ。ここで殺すようなら、わざわざ助けに戻ってきたりなどしない。確かに彼女の言う通り二人でいた方が安全になるだろう。しかしそれはクロードの安全であって、オルタナの安全ではない。あのまま、逃げていた方が彼女いとっては都合がよかったはずだ。

 それは安い信頼かもしれない。昨日会ったばかりの女の子に刃物を向けられて平然としているのはおかしなことかもしれない。それでもクロードには彼女が誰かを殺すなんて想像もつかないのだ。

 恐怖しようにも、恐怖できない。

「さて、それじゃあクロ」

 オルタナに名前を呼ばれた。クロードはドキリとしながら、彼女の目を見る。金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめてきている。そして彼女は口を開いた。

「私と契約しなさい」

「はぁ!?」

「はぁ!?」

 姉弟二人が揃って、驚きの声をあげた。それをいかにもうるさそうな顔で受け止めてから、オルタナは続ける。

「何驚いてんのよ。こうやって合いまみえちゃった以上、対抗策なんてないんだから、一か八かの賭けに出るのは当然でしょう」

 当然、なのだろうか。驚いたまま言葉のないクロードにオルタナが得気な声で告げる。

「なんてったって、私はアルマ=カルマ・代替型タイプオルタナティブ。扱う人間によって無限に姿を変える代替のカルマ。もしかしたら、あのモネでさえも圧倒できる魔法があんたに発動できるかもしれないわよ」

 姉さんを圧倒できる。その言葉の甘美な響きにクロードは思わず生唾をのんだ。そのまま、承諾してしまいそうな勢いだったが、モネが必死な声で「いけませんわ!」と叫んだ。

「それは罠ですわよ! 契約をしたら最後、あなたは決してこの件から逃れられない!」

 逃れられない、という言葉に引っかかりクロードは首を傾げる。

「それは、どういうことなの?」

「昨日話したでしょう。アルマ=カルマとの契約は適切な契約破棄か、契約者の死亡によってでしか解除されない。つまり、あんたがここで契約をすれば私たちが国に捕まるようなことになった場合、あんたもまた決して解放されることはないっていうこと」

 オルタナとの契約。それは力を得ると同時に彼女と一蓮托生の関係となることでもある。契約が破棄されない限りは、国は決してクロードを逃がしはしないだろう。

「その時、私が契約破棄を拒んだとしたら、国は最悪クロを殺すでしょうね」

 意地の悪い笑み。

「それをモネ、あんたは黙って見ていることができるのかしら?」

 揺さぶりだ。同時に脅迫的な意味も持っている。オルタナはクロードと契約することでクロードを完全な国家の敵にし、モネをこちら側へ引き込もうというのだ。まだ助かる余地のあるクロードの退路を完全に断つことでモネを強制的にこちらに協力させようというのだ。

 勝てないのなら引き込んでしまえと、そんな作戦。どんな状況だろうと、モネがクロードの味方をすることが前提の作戦だが揺さぶりとしての効果は確かにあったようだ。モネは何も言えずに悔しそうに奥歯を噛んだ。

「じゃ、そういうわけだから。契約、するわよ」

 言って、オルタナは包丁をクロードの喉元ではなく腹部にあてがえた。彼女の金色の大きな瞳に見つめられて、クロードはそのまま時間と一緒に心臓まで止まってしまうのではないのかという感覚に襲われた。モネが駄目だと叫んでいるが、それはたんなる音としてクロードの鼓膜を響かせるだけで言葉としての意味を持たない。

 アルマ=カルマとの契約。そんなこと、考えたこともなかった。

 アルマ=カルマが普遍性を持つ術式ならば、それはクロードにも扱えるはずだ。だがその契約は自身の命を懸けるものだ。希望、そして代償。拒否しようと思えば、拒否できるだろう。このままオルタナを突き飛ばして姉のもとへ走ればいい。簡単なことだ。

 しかし意外なほどあっさりと天秤は希望へと傾けられた。

 恐怖はある。だがそれを上回るだけの希望――羨望をクロードは抱いてしまった。捨てたはずの希望をまた拾い直す。

 オルタナの顔がクロードへと近づけられた。そして彼女はぎりぎりクロードに聞こえるか聞こえないかのような小さな声で囁いた。

「大丈夫。悪いようには絶対にしない。あんたはちゃんと、幸せにしてあげる」

 瞬間、オルタナの唇とクロードの唇が重ねられる。

 唐突な接吻。混乱する脳内。意味がわからない。理解できるところが一つとしてない。頭の中は真っ白になり、体は神経から切り離されたかのごとく動かない。

 彼女の唇が離れる頃にはクロードの混乱は一周して殆ど冷静になれていた。なったところで、結局意味はわからないのだが。

 ふふん、と愉快そうに笑うオルタナ。理由を聞いて、とりあえず形だけでも文句を言っておこうとしたが、クロードよりも先にモネが叫びをあげた。

「な、なななななななななな何してやがるんですのぉー!?」

 はた目から見てもわかりやすい激しい動揺と混乱に襲われているモネは手にした剣をブンブンと振り回しながら、抗議の声をあげる。

「わた、わたくしのクロにあなた! き、きききききキッス!?」

「キスくらいで動揺しちゃって、あんたまさかその歳で処女とかじゃないでしょうね?」

「しょっ…………」

 それっきりモネはフリーズ。許容範囲を超えたのだろう。顔の筋肉までピクリともしないところを見るに相当な衝撃だったようだ。

 それを横目に見ながら、オルタナは勝ち誇り顔。

「たかだか初ちゅーくらいで何をそんなに。これから死ぬほど経験していくんだからいいじゃない」

「うん? オルタナ。僕、別に今のが初めてってわけじゃないんだけど」

 初めてはモネとだったはずだ。とはいってもそれは小等部の子供の頃の、おままごとの延長での話であり、厳密には数えるほどではないのかもしれないが。

「へーんだ! クロの初めてはわたくしが既に頂いておりますのよ! 残念でしたわね!」

 いつの間にか回復していたモネがオルタナを指さし叫んだ。その顔にはまだ動揺が残っているが、まあ平気そうだ。オルタナは不機嫌そうな顔を見せる。

「ふん。威張るな変態。別に初めてを狙ったわけじゃないわよ」

「……というか、これ契約のために必要なものだったんだよね?」

「いや、全然」

 なんてこそなさそうに即答するオルタナ。クロードは脛を蹴るか頬をつねるかくらいはしてやっても罰は当たらないのではないかと考えたが、悩んだ末やめておいた。別に悪い気はしていないのが、本音だったからだ。

「いやでも、契約に必要ないならなんでこんなこと……」

「なんとなくよ」

「なんとなくって……」

「でも、嬉しかったでしょう?」

 問い。クロードはそれに答えられず、真っ赤になっていく顔を隠すように俯いた。オルタナはくすくす笑っている。からかわれているのはわかっているが、わかったところでどうしようもなかった。

「ま、今のは先払いの報酬ってことで。これから色々働いてもらうからね」

 舌を出しなさい。

 途端、彼女が真面目な顔になってそう言った。

「舌?」

「舌よ舌。べろ。こう、んべーって」

 自ら実演してみせるオルタナ。彼女に倣って、クロードもめいっぱい舌を「んべーっ」と出す。すると再びオルタナの顔が自分の顔に近づいたかと思うと、舌先を彼女の歯で噛まれた。かりっ、という音と同時に舌の先端に鈍い痛みが走る。痛みに思わず顔を引こうとするが、オルタナに顎を掴まれ引き寄せられ、彼女は自分で噛んで傷つけたクロードの舌先を「ちゅ~」と吸った。これにはさすがのクロードも驚いて、先程のモネがそうなったように許容範囲を超えてフリーズしてしまう。口を開いてべろを出したまま固まったクロードを気にすることもなく、オルタナはおもむろに頭をまさぐり、血が出ていた箇所に触れて指に自分の血を付けると、

「えいっ」

 その指をクロードの口の中に突っ込んだ。一本ではない。親指を除いた四本を口内に突っ込まれて、フリーズから回復する。彼女の指に付着していた血が舌に触れる。それは自分の血と混ざり合い、クロードの口内を侵食。赤い、鉄の味。脳まで響くような味覚。

 クロードが混乱の中、何も言えずにいるとオルタナはクロードの口から手を引き抜く。唾液で汚れているはずだが、それをふき取ることもせず、彼女はそのまままるで祈りをささげるかのように手を合わせて指を組んだ。

 そうして言葉を紡ぐ。

「我が名はアルマ=カルマ。人にして人にあらず、されど人なるもの。我が肉体は虚空の天、虚構の大地。流れる血は魂の礎。我が魂を口にし、汝の魂を口にして、ここに絆は紡がれん――――汝に問おう。我が深淵を覗く覚悟があるか?」

 突然の問いかけ。それは術式の詠唱における返し歌だ。なんの説明もなしに返しを問われたクロードだったが、驚くことも動揺することもなかった。何故だか、問われることも、それに対する返しも頭の中に自然と浮かんできた。

 まるでずっと昔からこうなることがわかっていたかのように、少年の心には応えるべき言葉があったのだ。

「否、我は深淵と共にある者。その深淵に触れる者。汝の魂を口にし、我が魂を口にし、二つは同じ場所へと至る!」

「――――認めよう。汝はこの場所へ至る者。今ここに、契約の完遂を告げる!」

 最後にオルタナはふっと微笑んだ。

「受け取りなさい。これがあんたのカルマよ」

 そしてオルタナはクロードの胸に手を当てた。途端、オルタナの手が触れた部分が熱を受けたような痛みを得る。痛みから逃れるように条件反射で数歩後ろへと下がる。シャツを引っ張り中を覗き、胸の部分を確認。するとそこには謎の刺青のようなものが刻まれていた。

「なんだ、これ……?」

 それは見たこともない図形だった。その形式から術式のようなものだというのはわかったが、しかし法則性が全く見えない。どんな術式なのか全く見当もつかないのだ。座学に置いては優秀な成績を持つクロードにとってはそれはとても驚くべきことだった。

「それはアルマ=カルマとの契約の証で、あんたと私の繋がり。魂レベルでのリンクって言えばいいのかしら」

「リンク……?」

「要はアルマ=カルマに対する命令術式よ。それを使うことで、あんたは私という術式を行使することが出来る」

 オルタナの説明を聞きながら、クロードは胸の術式を指でなぞる。感触に変化はない。

「どうして……クロ…………」

 モネがこちらを見ながら呟いた。その眼は以前にオルタナに「どうして」と尋ねたときと同じだった。置いて行かれる子犬のような、騎士とは思えない寂しく弱い視線。

 クロードは誰にも聞こえないようにごめんと呟いた。

 ごめん。だけど、だけど――

「――――僕だって、このままは嫌なんだよ!」

 同時に、モネに正面から向き合い彼女に向かって右手をかざす。同時にルーンを束ねる。ありったけの集中を注ぎ込んで生まれたのは蛍よりも小さな発光体。先程までのモネのものとは比べ物にならない極小の光。それを自嘲じみた笑みで見つめながら、クロードは口を開いた。

「ルーンは束ねた! オルタナ、あとはどうすればいい!?」

 オルタナはクロードの背中に手をついて、体を寄せる。ドキリ、と心臓が跳ね上がるが、集中は崩さない。

「アルマ=カルマの発動条件はアルマ=カルマ本体と契約者の距離が三メートル以内であること、あとはルーンと発動の意思さえあればいいわ」

「その意志はどう示せばいい?」

「胸の術式にルーンを送りなさい。それが発動の意志となるわ!」

 言われた通りにクロードは胸の術式に先程束ねたルーンの全てを送り込んだ。瞬間、胸の術式は熱を持ち、同時にクロードは自分の体の重さが消えたような感覚に襲われた。地面を踏みしめているはずの足が今にもふわりと浮かび上がってしまいそうだ。溺れるようなその感覚の中でクロードは叫ぶ。

「――――頼む、オルタナぁ!」

 瞬間、クロードのかざした手の先の虚空に、光で描かれた巨大な円形の術式が現れた。自身の胸に刻まれたそれと同じで見たことのない記号で作られたその術式は眩しいほどの発光と共に円形の中心に細長い光の矢を形成した。

 初めての発動、初めて見る術式。しかしクロードにはどうしてかこの魔法の使い方が直感で理解できた。

 かざした手と反対の手で光の矢の矢尻を掴む。体を半身にし、見えない弓の弦を引くように、水平を保ったまま矢を真っ直ぐに自身の胸の辺りまで持ってくる。そうして円形術式の中心を呆然とするモネに向けて、引き絞った矢を放った。

 騎士を穿たんと放たれた光の矢。それは〝キィィィ″という甲高い音と共に空を駆ける。殆ど光速と言ってもいいほどの速さを持った一撃だが、モネの反応も早かった。咄嗟の判断で彼女は横に飛び出す。モネが受け身も取れずに地面に激突する一瞬前に光の矢は背後の住宅に当たり、直撃した住宅を跡形も無く吹き飛ばした。

 遅れてやってくるのは爆風と爆音。耳をざわめかすその音を聞きながら、クロードはその場に立ち尽くした。

「なんて威力……!」

 モネがさっきまで家が建っていたはずの場所を見つめて驚きの声をあげる。そこにはもう何かが焼け焦げたような跡しか残されていない。瓦礫や残骸すらも、消し飛んでいるのだ。

「極限まで凝縮された光の矢――いい魔法じゃない。続けていくわよ、クロ!」

 オルタナが背中を押すが、クロードは返事をすることもできず、突然その場で膝をついてしまった。

「クロ!?」

 オルタナが声をあげる。モネはただ、何も言わずにクロードを見つめていた。

 ――――光の矢を放った瞬間、クロードは放たれる矢と一緒に自分の中から何かが吸い取られるような感覚に襲われた。見えない力に無理矢理に意識を引っ張られるような、そんな感覚。

 息が苦しい。手が震えている。立っていられない。錯綜する思考の中、冷静な自分が思い至る。この症状は……

「ま、そうなりますわよね」

 モネが立ち上がり、スカートについた土をはらいながら言った。

「だからやめなさいと、そう言いましたのに」

「どういうことよ!」

 モネに噛み付くようにオルタナが叫んだ。

「どういうことも何も、これはあなたの責任ですのよ」

「私の、責任?」

「厳しいことを言うようですが、オルタナ。あなたが思っている以上に、クロはルーンを束ねることが難しいのですわ」

 モネが多量のルーンしか束ねられないように、クロードはほんの極小のルーンしか束ねられない。

「アルマ=カルマとしてのあなたの魔法はなるほど確かに強力でしょう。しかし、だからといって魔法としての威力や効果は素晴らしくても、ルーンの使用効率が特別に優れているというわけではありませんわ。強力な魔法にはそれ相応のルーンが必要とされますわ。一般の魔法師ならともかく、今のクロにまともな魔法を発動させるだけのルーンを収集できるはずありませんの」

 クロードの実力ではアルマ=カルマを発動させるだけのルーンを束ねることはできない。

 魔法は発動した。しかし、ルーンは足りていない。

 ならば、足りないルーンはどこから調達したのか。

「ルーンは万物を形成するエネルギーですわ―――ならば人体もまた、ルーンの集合体と言えるでしょう」

 そこまで言われれば、オルタナも勘付く。膝をついたまま動けないクロードに視線を送ってから、オルタナはらしくもなく焦った声をはる。

「そんな、だけど大気に四散したルーンと、人体として物質的に固定化されたルーンじゃ全くの別物よ。流動するルーンは束ねられても、固定化されたルーンは魔法のエネルギーとしては使えないはずでしょう!?」

「ええ、ですからこれは技術ではなく代償なのですわ。身に余る魔法を無理矢理発動させることで受ける代償ですのよ」

 今のクロードの疲労や体の異常はそのためだ。束ねたルーンではエネルギー不足の魔法を無理矢理発動させるために体の中の血液や細胞をルーンに変換して不足分を補う。まさに身を削ってクロードは光の矢を放ったのだ。

「魔法師にとって、魔法の行使は遊びではありませんの。身に余る魔法は、術者に代償を与える……それは時に命をも失う結果を招きますわ。あの魔法で今のクロの実力なら死ぬことはないでしょうが、しかし二発三発と続ければどうなるかくらいは――本人が一番よくわかりますわよね」

 そう言われて、クロードは強がった苦笑を浮かべることしかできなかった。

 まいった、本当に姉さんの言う通りだ。

 二発、三発とあの魔法を使えば確実にクロードは死ぬだろう。はっきりとわかる。たった一発発動させただけで、もう動く事もままならないのだ。

「くっ……」

 自然と、声が漏れた。呼吸が正常な状態ならば叫んでいたことだろう。

 オルタナの、アルマ=カルマの魔法は強力だ。だが、それをクロードではたった一発発動させるだけで精一杯なのだ。

 悔しい。情けない。クロードにとってアルマ=カルマはまさに宝の持ち腐れでしかないのだ。

 手にした希望は、あっさりと指の隙間から零れ落ちていった。

「これでわかったでしょう。もう打つ手などないのですわ」

 告げられる騎士からの宣告。クロードは何も言い返すことができなかった。

「ふん。王国最強の騎士のスカートに土を被せただけでも、十分な成果でしょうに」

 オルタナは強がりのような台詞を口にしながら、膝をつくクロードの肩に手を置いた。

「諦めるもんですか……絶対に、諦めないわよ!」

 諦めない。まだ終わらないとオルタナは繰り返した。

 肩から伝わるのは彼女の体温。まだオルタナは諦めていない。その事実だけがクロードの意志を保つ。

 そうだ、まだ終わらせるわけにはいかないのだ。考えろ、なんとか突破口をだ。

 閃きはすぐに訪れた。

「そうだ、オルタナ! 術符は!?」

「な、なんの術符よ」

「音楽の、昨日買った奴だよ! 今、持ってないの!?」

「あんな大きな荷物逃げるのに邪魔だから途中で捨てちゃったわよ!」

 捨てたと言われ、クロードは絶望しかけたが直後にオルタナは、

「で、でも鞄に入るだけは持ってきてるけど……」

 そう言って、何枚かの音楽術符を鞄から取り出した。クロードはそれを少しばかり乱暴に受け取って数える。数は五枚。それだけでも十分だ。

「どうしたのよ、クロ」

「オルタナ! 確認するけど、アルマ=カルマ発動の条件は契約者がそばにいることと、必要なだけのルーンと意志だけでいいんだよね!?」

「そうよ。それがどうしたっていうのよ!」

「だったら、いける! まだ終わってない……!」

 困惑するオルタナ。クロードは一人確信する。

「アルマ=カルマは普遍性を持った術式なんだろう? 誰にでも発動できる普遍術式。ファウストが君に付けた枷は契約者への発動権限の委譲のみ。つまり僕の役目は発動の意志を示すだけでいい」

 言って、クロードは手にした術符をオルタナに差し出した。

「発動に必要なルーンが誰が束ねたものかは関係ないはずだ」

「……あんた、まさか術符に込められたルーンを使う気!?」

 驚きつつも、オルタナは思考を巡らす。そしてすぐに答えを出した。

「確かに、使用するルーンに関する制限はない。それならいけるかもしれない!」

 クロードは頷く。

 胸の術式に送るルーンは最小限でも構わない。それによって発動の意志を示したあと、発動に必要なルーンは術符に込められたものを使えば、不足分を十分に補うことができる。

 こちらの意図に気づいたのか、モネは切っ先をクロードに向けて構えをとった。

 迷っている余裕はない。

「オルタナ!」

「わかってるわよ! でも、術符のルーンを使うなんて初めてだし、成功する保証はないわよ!」

 術符からルーンを使用するのに失敗した場合、不足した分のルーンは当然クロードの身を削ることで補われる。相応の代償だ。

「保障はいらない。僕はオルタナを信じてる」

 どの道、今の状況ではモネから逃げ切ることはできない。選択肢など、残されていないのだ。

「オッケー、最高よあんた!」

 五枚の術符の内三枚を口にくわえる。録音再生術式はそれなりに高度な魔法だ。込められているルーンも相応のはず。

 右手を正面にかざし、ルーンを束ねる。限界まで溜める必要はない。ほんの少しでも、発動の意思が示さればいいのだ。

 構えを取っていたモネがクロードたちに向かって駆けだす。この空間がモネの魔法に耐えきれるのはあと一回。最後の一回は自分達を倒すための攻撃魔法を使うはず。つまり今の彼女は移動魔法を使用しない。あの高速移動さえなければ、クロードが先手を取ることが出来る。

 胸の術式にルーンを送る。熱と共にクロードのかざした手の先に術式が現れた。

「……!?」

 その瞬間、クロードは驚愕する。手の先に現れた術式が先程光の矢を放ったものと違うのだ。刻まれた記号は先程の円形術式のものと酷似しているが、全体の形は円形ではなく六芒星。

 そしてまた次の瞬間には、クロードを含めたその場の全員が驚きを叩きつけられた。

 六芒星術式の中心から竜――ドラゴンの頭が飛び出したのだ。

 勢いよく飛び出したドラゴンの頭は口を大きく開き、その牙と咢でモネを食いつぶさんと迫る。モネは驚きと竜の咢の迫力で一瞬動きを止めたが、すぐに手にした剣でドラゴンの牙を受け止めた。しかし彼女の細身の直剣は衝撃であっさりと砕けてしまう。瞬間モネは体を捻り、衝撃を受け止めるのではなく受け流すように体を回転させ、直撃を避けた。

 ドラゴンの頭はモネの機転によって逸らされ、地面を噛み砕くとルーンとなって消滅した。

 一連の動きによって、クロードとモネの距離はまた離される。だが今度はモネは近づこうとせずにその場で砕けた直剣の柄を掲げた。

 接近は危険だと判断したのか。だとしたら次に行うのは魔法攻撃。結果はどうであれ、モネの一撃によって勝敗は決まるだろう。

 クロードは再びルーンを束ねる。光の矢を放った時のような体の異常はない。術符からルーンを吸い出す工程は成功したのだ。しかし今発動した魔法は先程とは全く違うものだった。そのことに疑問は感じていたが、集中の邪魔だと思考は頭の隅に追いやった。

「火、火、重ねて炎。蒼天の紅。螺旋は風となり目を埋め尽くす。全ては繰り返す動きによって束ねられ、力は正しき方向へ放たれる!」

 モネの術式が組まれた。砕けた刃を補うかのように直剣の先には渦巻く青の炎が生み出される。バチバチと雷鳴の如く音を立てる炎の剣をモネは上段に構えた。

 それとほぼ同時にクロードもルーンを束ね終わり発動の意思を示した。クロードの手の先に再び術式が現れる。――――なんとそれは一回目の光の矢でも、二回目の竜の咢とも違う形の術式だった。そのことに再び誰もが衝撃を受けた瞬間、広場は渦巻く青と、それをかき消す黄金の色に包まれた。


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