一つの物語の終わりと、これからの全てのためのプロローグ
かーん、かーんと石材を打ち鳴らす音が響く。石や木を運んでくる人間の足音と、声と、言葉と、その他全てのざわめき。
ここはオードラン城の内庭。アルフレッドは地面の上、ざわめきの方を向くようにして座っていた。
あれから一ヶ月がたった。国内の全てを騒がせた騒動はそろそろ収束を向かえ、ようやくオードラン城の修繕も始まったほどの時期だ。十番隊の戦艦が起こした破壊は存外に大きく、修繕には時間がかかるものと見越していたのだが、腕のいい大工を雇ったおかげか、二週間ほどで元のように直る見込みらしい。見つめる先では時折魔法も使われながら、急ピッチで修繕は行われていく。
工事の様子をぼんやりと眺めるアルフレッド。一応、王の証として王冠は被っているものの、来ている服は長年着古した部屋着であり、豪奢なマントも邪魔になるので置いてきてしまったため、威厳も何も感じられない姿をしている。にやにやとした軽薄な笑みを浮かべる姿は近所の悪ガキが王様ごっこで遊んでいるようにさえ見える。
そんな彼の両腕は不自然にだらりと横に垂らされている。外傷も、骨も治癒したが、肝心の神経がぼろぼろになってしまったため、魔法でもどうすることもできなかったのだ。ただアルフレッドとしては当初の予測通り、使い物にならなくなっただけだったので、あまり気にしていなかった。気にしてはいないけれども、さすがに両腕ともいきなり使えなくなると色々と不便だった。
食事とか、トイレとか。
特にトイレが辛い。ほんと色々と。
そろそろこの腕もどうするか考えないとなぁ……。
どうにかこうにか動かすための方法は考えているものの、そのどれも実行に移すこともなくだらだらとしている内に一ヶ月も経ってしまった。
一ヶ月。長かったような気もするし、短かったような気もする。
「おやおや、国王様。こんなところにいらしたのですかい」
いつの間にか、隣に座っていたのは大臣のネルバだ。近づかれたことにも気づかないとは、随分とぼんやりしてたものだと自分を分析しながら、アルフレッドは答えた。
「なんだ婆さんか。なんだよ、何か用でもあるのか?」
「いえいえ。ただ、最近国王様をお部屋で見ないと思い捜し歩いていたら、こんなところに座り込んでおったので、とりあえず気がつかれないように足音と気配を消して近づいたまでですよ」
「さすがネル婆さん。とりあえず、のレベルが高いぜ」
ほっほっほ、とネルバはしわくちゃの顔を歪ませて笑う。こうしていると、ほんとにただのお婆ちゃんのように見えるのだから、この人は凄いとアルフレッドは思う。
「しかし国王様。一国の王がこんなところで工事現場を見つめていると、職人たちもやりにくいのではないですかな?」
「心配はいらねぇよ。最初はぎこちなかったが、ほぼ毎日こうしてあしげく通って行くうちに背景と化すことに成功したからな。さっきなんか足を踏まれて痛っ! て声あげたのに謝られもしなかったぜ!」
「それは王様的にどうなのかと思いますがのう」
ほっほっほ、と笑いつつ、ネルバは別の話を切り出した。
「ところで、最近はどうですかな? あの事件以降、こうして話をするのも久しぶりですが」
「どうもこうも、てんてこ舞いだよ。ほんと参っちまうぜ」
一ヶ月前、国中を巻き込んだ騒動は三百年前と合わせて二度目の王都襲撃事件と語られるようになってしまった。一応、事件の収束後は即座に国民に向けて謝罪と説明をし、幻影魔法の大規模実験における暴走が原因だと発表はしたものの、城が破壊される、騎士団隊長格が怪我を負うなど事情が事情なだけに、やはり何者かによる襲撃だと見る国民も多いのだ。
「どっちにしろ批判は免れないし、支持率は大きく減ることになるだろうよ」
「しかし、あれ以上の対応はあるまいて。国王様は充分にやっておられるよ」
それでも、批判は批判だ。国民の非難は王政にこそ向けられる。
ただありがたかったのは、そう言ったマイナスイメージが語られる一方で、あの日を世界中の空に花が咲いためでたい日だとする動きも大きいことだ。あんな綺麗なものが見れたんだから、他のことなんてどうでもいいじゃないかと、極論だがそう言う層が大きいことも事実だ。
まあ、確かに綺麗だったんだけど。あれ空に咲いた花が全部散って落ちてきて……世界中で滅茶苦茶掃除が大変だったってオチがあるんだよなぁ…………。
それに合わせてあの日を《全世界掃除の日》という祝日にしようとかいう計画も一瞬上がったが、多分余計に支持率を下げることになるのでやめておいた。
「まあ、問題は支持率の低下よりも国が受けたダメージの方だろうよ」
浮遊城の姿は他国にも見られている。その結果、今三国間の情勢は少し緊迫してしまっている。城を壊されたという実害も出ているし、モネやリリィは未だに前線に出てこれないほど疲弊している。
それでいて、国としては得るものは何もなかったのだ。
アルマ=カルマを武力として使う計画も、オルタナが普通の少女になってしまった時点で焼失した。人型術式でなくなる過程で、彼女は防衛機能を失っている。それどころかおそらく、不老性すらも失くしているのだ。そうなってしまった以上、彼女を表に出すことで他の人型術式をあぶりだすこともできなくなってしまった。
国として得たものはない。ただただ、爪痕だけが残されたのだ。
「今更言ってもしょうがねぇけどさ。もっと上手い方法があったんじゃないかって。俺様は王様としては判断誤ったんじゃねぇかって、今ちょっとブルーなわけよ」
こんなことを言う相手は、モネを覗けばこの婆さんだけだろうなと思いながら、アルフレッドは弱音を吐いた。それを受けて、ネルバは途端に、にやりと愉快そうに笑った。
「しかし男としては、間違っていなかったと、そう思いますよ」
「おいおい……」
「確かに国として得るものはなかった。しかしその他の部分では多いに得るものがあった。そんな顔をしておるよ、アル坊」
「いつの呼び名だよ。このタイミングで子ども扱いはやめてくれよ。俺様超泣いちゃう」
敵わねぇなぁ、と素直に思った。昔から、この飄々とした老婆の前では子ども扱いだった。
「少しは自分も成長していたと思ったんだがよ。また再出発かねぇ」
「何度でもやり直すのがいいでしょうよ。あなたはまだ若いのだから」
「いいからさっさと前を向けって、そう言ってる?」
「わかっているなら、動いてくだされ」
ほんとに敵わねぇなと吐息しながら、アルフレッドは立ち上がる。そろそろ自分も動きだそうと、そう決めながら。
「おや、これはなんですかな?」
アルフレッドが立ち上がったあとに残されていた一枚の紙をネルバが拾い上げる。それはアルフレッドが尻に敷いていた用紙だった。
「ああ、それな。俺様今両手使えないし、風に飛ばされないようにケツの下に置いておいたんだよ。ま、もういらない書類だから捨てて構わなかったんだがよ」
「…………右の者、クロード・ルルーを騎士団への入団を例外的に認めるものとする……ほほう。これはあの知られざる英雄のための……」
ネルバが読み上げる。内容はそのまま、クロードの騎士団への入団を認めるための書類だった。あとは彼のサインがあればクロードの騎士団入団が確定する――――はずだったのだ。
「しかし、もういらないということはつまり……」
「断られたよ。にべもなくあっさりとな。説得する隙さえなかったぜ。それも二回だぜ、二回」
大きくため息を吐きながら、国王は苦笑する。
「あいつもあいつで、モネとは違う意味で大物だよ、まったく」
「やはり姉弟、ということなのでありましょうなぁ……」
「そんなところは似ないでくれていいんだけどなぁ……」
重ねるように、お互いため息をついて笑いあう。すると、アルフレッドよりも先にネルバがとある人物を視界に収める。
「おや、あれは……?」
老婆が首を傾げる先にアルフレッドも視線を寄こす。内庭から見える城の一階。窓の向こう側の廊下に金と赤の色を見たのだ。
それはいつかクロードに買ってもらったという真っ赤な服を着たオルタナの姿だった。
「なんだぁ、あいつ。こんなところで何してやがる」
彼女がこの城にいること自体は、まあいい。もともと門番たちにもオルタナとクロードの二人は例外的に城に入れてもいいと通達してある。しかし彼女が一体ここになんの用なのだ。
まさか俺様に会いに来たってわけでもあるまいし。
あの事件から一ヶ月たった今でも、結局アルフレッドはオルタナと一言も会話をしないでいた。自分から彼女のことを避けているところがあるのだということは、わかっていた。ただ、なんとなく、どうすればいいのかわからなかったのだ。
恋する乙女かと、自分自身を的確に評価しながらも、やはり行動は起こせない。これもまた、停滞というものなのだろうか。
「……いかないのですかな?」
ネルバがニヤついた笑みで、彼女のもとへと促してくる。この婆さん楽しんでやがるな、と思いつつも強く反撃にはでれない。よく見ればオルタナは風呂敷に包まれた箱のような荷物を持ちながらきょろきょろとしきりに首を動かしている。迷っている、というのはすぐに見てわかった。彼女の目的も手に持った荷物によって推測できる。
遠目に彼女を見て、近くの老婆も見て、それを交互に繰り返してからようやくアルフレッドは駆け出した。内庭を走り抜け、空いている窓から城内へ侵入。そこから右に進んだ角を曲がれば、彼女のいた廊下へ出れるだろう。
今度は呼吸を整えながらゆっくり歩く。角まで五歩、四歩、三歩――――
ついた。そして見えた。角を曲がった瞬間に、オルタナと鉢合わせる。
「よう、オルタナ」
声が上ずっていないだろうかと、そんなことを気にしながら言葉を畳みかけた。
「久しぶりか? 最近時間の感覚が曖昧でよぉ。でも、あの事件以来全くあってねぇよな?」
彼女は言葉を作ることなく頷いて応じる。そしてそれ以上は何も言わず、沈黙が二人の間に訪れた。彼女が何も言わない。言おうとしない。そのことを知ると、アルフレッドの中の逸る気持ちが消え、どうしてか凄く冷静になれた。
「…………その荷物、弁当かなにかだろ?」
落ち着いた声には軽薄さが辛うじて残っている程度で、アルフレッドにしてみれば随分と誠実な声とも言えた。
「クロードを探しているのか? あいつだったら俺様の書斎にいるよ」
なんでも、創造魔法や三賢者についてもっと知りたいというので、特別に王家の書斎を貸しているのだ。一学生に対しては異例の処置だが、大臣からも騎士たちからも反対の声は上がらなかった。
「場所はわかるか?」
そう聞くと、彼女はこくりと頷く。そして一度、大きく頭を下げる。感謝の意を示しているのだ。頭を上げた後はこちらの顔を見ることもせず、オルタナは足早にアルフレッドを通り抜け、クロードのもとへと歩いて行った。
彼女の方へ、アルフレッドは振り返らない。ただ言葉を作ることも、動くこともなくその場に立ち尽くした。
これでいい。これでいいんだ。
そう、自分に言い聞かせる。
何を期待していた。あいつを救ったのも、手に入れたのもクロードだ。全部全部、あの諦めの悪い馬鹿が必死になって命を懸けたことだ。俺様は何もしていない。俺様はあいつのために動くこともできなかったただの愚王だぜ。
だから、これでいいのだと自分に言い聞かせた。自分たちの関係は変わらず、今までのように彼女は何も言ってくれず、そしてこれからは自分さえも彼女に対してなにも言わず――――
「アルフレッド」
混濁していく思考の中、聞くことはできないと思っていた少女の声を青年は聞いた。
驚き、振り返る。するとその視線の先、オルタナもこちらを振り返っていた。
オルタナはアルフレッドを見ている。
「腕、大丈夫?」
それが自分に投げかけられた言葉だと理解するのに、数秒を要した。そしてまともに言葉を口にすることができるまで、さらに数秒。
「あ、ああ……大丈夫。大丈夫だ、これくらい」
腕を上げて見せようかとも思ったが、それすらままならない。その時点で大丈夫だとは言いがたいのだが、痛みはないので平気なことは確かだった。
オルタナは「そう……」と軽く頷くと、さらに続けた。
「あんたがモネを助けてくれたんでしょう?」
「え……?」
「モネだけじゃない。クロも、私も、あんたがいなかったら助からなかった。だから、ありがとう」
少女から、突然告げられた感謝の言葉に、上手く反応もできないままアルフレッドは固まってしまう。そんなこちらの様子を見て、オルタナは微笑んだ。
「ねえ、アルフレッド。あんたの未来に、今でも私は必要なのかしら?」
瞬間的に、その質問には答えねばならないと思った。だから、固まる喉を必死に動かして言う。
「当たり前だ」
告げたのはたった一言。それだけでも、彼女は満足したように頷いて、何度も頷いて――
「そう。よかったわ。ここが、あんたの国で、本当によかった」
またね、と彼女はそう言い残して再び振り返ると、もうこちらを向くこともなく真っ直ぐ目的の場所へと向かって行った。
彼女の姿が見えなくなってから、アルフレッドは熱くなった額を壁に押し付けた。ひんやりとした大理石の感触は、否が応にもこちらの熱を冷ましてくれる。
「……なんて言うべきなんだろうなぁ」
よかった、と思うべきではないのだろう。自分は彼女を閉じ込めていた国の王なのだ。だけど、それでも、彼女がこちらに振り向いてくれたことが嬉しくて、ただ名前を呼んでくれたことが嬉しくて、こんなにも救われた気になっている。許された気に、なってしまうのだ。
「…………進むか」
しばらく壁の冷たさを感じてから、王は不意に呟いた。そうして颯爽と歩きだす。
「俺様も再出発だな」
彼女の存在を望んだ己のために、そしてあの二人の未来のためにも。もう誰も失わない国を作る。そのために王は歩み始める。前へ、前へと。やはりその顔には軽薄な笑みを湛えて。
+
「こんなところにいたのね」
クロードは自分が良く知る少女の声を聞いた。
場所はオードラン城、王家の書斎。アルフレッドに頼み込んで特例として入れてもらい、創造魔法や三賢者の資料を探していたところ、かなり詳細にそれらの記述が乗っている書物を見つけたので、それに没頭していたところだった。
顔をあげると、既に声の主は自分の隣に座っていた。
「オルタナこそ、こんなところで何してるんだよ」
自分の隣に座る、金色の美しい少女――――オルタナにクロードは疑問する。オルタナは机の上に置かれた荷物を指さして答えた。
「お昼。何も持って行っていないようだったから、作ってきたの」
「オルタナが? 弁当を?」
赤い風呂敷に包まれた弁当箱を見つめて、クロードは感嘆の声を上げる。その少々オーバーなリアクションにオルタナは恥ずかしそうにしながら言った。
「別に私だって料理くらいはしたことあったわよ。苦手だったけど、でもそれは味覚がなかったからで……むしろ味覚を手に入れてからはこんなに簡単なことはないわ」
「……それ、姉さんの前で言わないでよ?」
多分、モネは拗ねる。拗ねるだけならともかく、対抗して料理の修行なんか初めてしまえば食卓が大参事になることは間違いない。
「別に馬鹿にしてるわけじゃないのよ? 人には向き不向きがあるもの。洗濯すらまともにできなくても、それはきっと向いていないだけなのよ」
「この場にいない人のことをよくそこまで煽れるなぁ……」
いや、いたらいたで面倒なことになるのは確実なので、ごめんだが。
でもそっかぁ、オルタナの手料理かぁ。
思わずニヤついてしまいそうになるのを必死で抑え、弁当箱を手に取りながら言った。
「ありがとうオルタナ」
彼女はまた少しだけ恥ずかしそうにしながら、どういたしましてと返してくれた。その姿がたまらなく愛おしい。
「あ、それで何作ってきたのか、聞いてもいいかな?」
こういうのは蓋を空けてからのお楽しみの方がいいのかとも思ったが、気になってしまったのだ。オルタナも特にこだわりを持っているわけじゃないのか、素直に答えた。
「たまご焼きよ。ほら、この前クロ、たまご焼きが好きなんだって言ってたじゃない」
自分の好みを覚えてくれていたことに、いよいよクロードは笑顔が隠せなくなる。
「へー! それで、他には?」
「え? たまご焼きだけだけど?」
隠せなくなったはずの笑顔が一瞬にして引きつった。最初は何かの嫌がらせかとも思ったが、どうにもオルタナは良かれと思ってやったことのようで、むしろ「一品じゃ駄目なの?」とキョトンとしていた。
そういえばオルタナ、微妙に偏食のきらいがあるんだよなぁ……。
味覚を手に入れて美味しい食事、というのを覚えたものの、三百年間無味無臭の食事をしていたという事実は大きく、まだ食事の作法やスタイルに慣れていない所があるのだ。今でこそマシになったが、最初はパンとバターを分けて食べているほどだったのだ。
多分彼女はまだ、好きな物とはいえ同じ味のものを食べ続けるという苦痛を理解していないのだろう。
そのあたりも教えてあげていかなくちゃなぁ……。
そんなことを思いつつ、手にした弁当箱いっぱいに詰められたたまご焼きを想像してしまい――――そっとそれを机の上に置き直した。
こちらの葛藤に気づいていないのか、オルタナは不思議そうに首を傾げる?
「食べないの?」
その純粋さに少し胸が痛む思いをしながらも、クロードはしどろもどろになって続ける。
「あ、いや……本とか、汚すわけにはいかないし。どうせならもっと綺麗なところで食べようよ」
多少の罪悪感はあるものの、本を汚すわけにはいかないというのは本当だった。それに綺麗なところで食べたいと思ったのも本当だ。
この弁当は気持ちだけでも盛り上げてかからないと……。
恐らく味は悪くはないとは思うので、それだけは救いなのかもしれなかった。
「もう少しで、これも読み終わっちゃうから、お昼はそれからにしよう」
そう提案すると、オルタナは素直にわかったといって頷いた。そんな彼女を視界の隅に置きながら、クロードは再び書物に没頭する。ほんの数秒で、ページはすぐにめくられた。思考力を糧にした無理矢理な速読のようなものだ。
「ねえ、クロ」
オルタナが机に肘をついて暇そうにしながら、話しかけてくる。
「どうしたの?」
それに応じる。邪魔だとは思わない。本を読んでいるだけなのだ。クロードにしてみれば、。会話くらいの余分な思考は充分に可能だった。
「良い本見つかった?」
「うん。さすがは王家の蔵書だ。かなり古いものまで揃ってて助かったよ」
「そっか……」
再び沈黙が訪れた。こつ、こつ、とオルタナは爪で机を叩いてから、また口を開いた。
「さっきね、アルフレッドに会ったわ」
……そこで、クロードがページをめくる手を止めた。そのことにオルタナは驚いて、どうしたの? と尋ねてくる。
「あ、いや。さっきもここにきてたからさ。国王様」
「アルフレッドが? どうしてか、聞いていいこと?」
「例の件だよ。また誘われた。また断ったけど」
それだけでアルフレッドの用事がわかったのか、オルタナは合点がいったと頷くと同時に笑みを見せる。その笑顔を確認してから、クロードは再びページをめくる手を進めた。
「それで、オルタナの方は国王様と会ってどうしたのさ?」
「ありがとう、って言ってきた。助けてくれて、ありがとうって」
「……ああ、言えたんだ」
アルフレッドと話したい。
そんな旨の相談を、クロードはオルタナから受けたことがある。ずっとずっと話もせず、意図して無視を決め込んできた相手に、今更どう接していいのかわからないと言うのだ。その時は一応、それなりの受け答えをしたが、実際クロードにはどうにもできない問題だと思っていた。きっと当人たちでなければどうにもできない問題だろうと。そう思う傍ら、しかし当人たちでどうにかなる問題だとも思っていた。
だってあの王様はオルタナのことを悪く思っていない。
それに、オルタナが「気まずい」と言ったのが大きかった。それはすなわち、相手の気持ちを考えているからこその感情。アルフレッドのことを気遣っているからこそ、心苦しく思っているのだから。それでもなお、近づきたいと思うならば、きっと大丈夫だとクロードは考えていた。
そして、その通りになったらしい。オルタナは少しだけほっとしたような笑みを見せた。
「すっごい緊張したわ。人と話すのって、あんなに緊張するものなのね。びっくりしちゃったわ」
「後ろめたさがあれば尚更そうなんだろうね。それで、王様の方はどんな反応だった?」
「ちゃんと、答えてくれたわ。私が必要かどうかも聞いたら、当たり前だって言ってくれた」
「そっか……」
心配はしていなかったけれど、それでも彼女が望む結果が得られたことにクロードも安堵する。
「それは本当に、よかったね」
「うん。本当、よかったんだけどねぇ……」
そう言いながら、オルタナは上半身を折り、机の上に乗せ、頬を擦りつけるようにした。その姿はまるで拗ねた子供のようで、面白くてクロードは少しだけ笑ってしまう。そんなこちらの反応に気づいていないのか、オルタナはため息を吐きながら続けた。
「ちょっと、心残りかなーって」
「それは、どうして?」
「うーん。〝ありがとう〟は言えたけど。〝ごめんなさい〟は言えなかったから」
それを少しだけ後悔しているのだと、彼女は言う。
「無視してごめんなさいって、言いたかったの。でも言えなかった。逃げてきちゃった。本当はもっと色々言いたかったのに。無視してたけど、反応はしなかったけれど、あんたの言葉はちゃんと聞いてたのよって、言いたかったんだけどなぁ…………」
はあ、と二度大きくオルタナはため息を吐いた。わかりやすく落ち込む彼女の様子にクロードは微笑ましい思いを抱きながら、オルタナの綺麗な金色の細い髪を梳くようにして頭を撫でた。
「平気だよ。王様は怒っていなかったんだろ? だったら大丈夫。また今度あった時、謝ればいいさ」
「大丈夫、かな……?」
「大丈夫。あの人はなんだかんだ甘いから、きっと三百年くらいは平気で待ってくれるよ」
クロードが発した慣れない冗談に、オルタナは微笑むような笑いを作った。その笑顔に、クロードはまた安堵して、名残惜しみながら彼女の頭から手を離した。
すると、オルタナは身体を起こして、椅子ごと体をこちらに寄せてくる。殆ど密着するような距離感に心臓が恥ずかしさを訴える。
なんだよ、と尋ねると。彼女はなんでもない、と意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
敵わないな、苦笑するクロードの胸をオルタナはつんつんと指で突いた。
「それで、あんたの方は本当に、あれでよかったの?」
突飛な質問に、なんのことかと思い眉を立てると「あれよ、あれ」と空中で指を回して彼女は続けた。
「騎士団の入団のやつ。本当に蹴っちゃってよかったの?」
それは昨日のことだった。オルタナと共にクロードは、アルフレッドに城へと呼ばれた。多くの騎士や王族の集まる祝賀会に招かれたのだ。国民に対してはその発表の形もあってクロードの活躍は知られていない。だが、騎士団や王族内部では話は別だった。クロードは国を救った英雄としてほめたたえられ、その場で円卓の採決も取られ、騎士団入団を正式に認める流れになったのだ。こうなることを予想していたのか、アルフレッドが事前に用意していた契約書を……しかし、クロードは受け取らなかった。騎士団への入団を、その場で拒否したのだった。
さらに今日も、オルタナがここへくる少し前に、国王直々に考え直さないかと説得されたが、やはりそれもクロードは断ったのだった。
「私はよくわからないけれど、あんなチャンス中々ないんじゃないの? そこまで認められて、どうして騎士にならなかったのよ」
「あの時言ったことと理由は変わらないよ」
祝賀会。多くの者が驚く中、クロードは堂々と一国の王に対して進言したのだ。
僕には騎士になるだけの力がありません。だから今、騎士になることはできません。
「あの時の会場の静まり返った空気は思い返すだけでも震えてくるけどね……」
「そりゃ当たり前でしょう。連中からしたら騎士団に入って下さい、っていうより入ってもいいですよーっていう譲歩だったんだから。それが褒美のつもりだったんでしょう。それを全力で拒否されて不快に思った人もいたんじゃないの? 王族とか、プライド高そうだし」
「だよなぁ……」
「でもま、そうなるってわかってても拒否するつもりだったんでしょう?」
言われ、頷く。自分のことをわかってくれているのが嬉しくもあり、少し気恥ずかしくもあった。図星を突かれたようで、そのこともなんだか、顔を熱くさせる。
「どうしたって、実力は足りていないからね。オルタナが人型術式で無くなった以上、その力を頼ることもできないし――ああ、別にそのことを後悔しているわけじゃないよ」
慌てて言い直すクロードの様子を見て微笑みながら、オルタナは更に聞く。
「でも、創造魔法だってクロにはあるじゃない。あれはどうなのよ」
「ファウストも言ってたように、現代の騎士にとっては魔法の優劣とか技術よりも、どれだけ強いか弱いかの方が重要だから、創造魔法はむしろデメリットしかないんだよ」
いかに消えない火や剣を作れても、それで敵を倒せなければ意味はないのだ。特に通常の魔法と同じ結果を出そうとすると、どうしてもルーン量が通常のものと比べて膨大となってしまう創造魔法は、ただでさえルーンを束ねる才能のないクロードにとっては最悪の相性だったのだ。
そう考えると、本当にあの瞬間のためだけにあったような力だよなぁ、これって。
ほんの一ヶ月前のことをしみじみと、遠い過去のように振り返る。振り返るだけだ。浸りはしない。過去は過去であり、過ぎ去った時間でしかない。積み上げてきたものを忘れてはならないが、しかし大事な物は常に自身の前にあるのだと、クロードはあの時学んだのだ。
だから、後悔はしない。
騎士団の入団は拒否した。だけどそれは、今は駄目だという意味でしかない。
「別に、騎士になることをそのものを諦めたわけじゃないよ。それはいずれ、自分の実力で勝ち取ってみせる」
「へえ、そうなんだ」
にやり、と笑うオルタナにこちらも笑いかけてやる。
「姉さんのような、とはまださすがに言えないけれど。でも騎士にはなるよ。絶対に」
ああ、やっぱり自分はこの夢を諦めきれないのだ。ただ前と違うことは、その理由をはっきりと答えられるようになったところか。
だって、仕方ないだろう。僕はそれに憧れてしまったんだから。
夢を見てしまった。ならもう仕方ないのだ。あとはその夢に進むことしかできないのだから。
「そっかそっか。前向きなのはいいことね」
「前を向いているのは気持ちだけじゃないよ。少しづつだけど、僕だって進んでいるんだ」
見ててごらん、とクロードは本から手を離し、離した手の平を上向きに水平にかざした。そして世界に向かって語りかける。ここに集まってくれ、と。それは命令ではない。何より必死な懇願だ。
世界はその懇願をどれほど聞き入れたのか。
クロードの手の平には小さな、しかし確かな緑の発光体が姿を現したのだ。
「これって……!」
オルタナが驚いた風に目を見開いた。その反応も当然だろう。クロードが発光体を出現させることもできないほど微量のルーンしか束ねることができなかったのを、彼女も知っていたのだから。だが確かに、クロードの手の平には緑の発光体が浮かんでいる。
「神様も少しは僕を認めてくれたってことなのかな」
世界から見放された者。
神から愛されなかった者。
だが、そんな自分でも少しは神様も気にかけてくれるようになったのならば、この世界だってまだまだ捨てたもんじゃないのだろう。自分の努力を、積み上げてきたものを、神様だって見ててくれていると言えるのだから。
クロードは得意げに発光体を揺らして見せる。それを真っ直ぐに見つながら、オルタナはぽつりと呟いた。
「綺麗ね……」
瞬間、クロードの視界の裏にあの光景がフラッシュバックする。いつか、モネが見せてくれたいくつもの緑の光。その美しさに憧れ、今でもずっと目の奥に焼き付いて離れないあの光景。
あの時の自分がオルタナと重なったのだ。まるで子供のように目を輝かせる彼女の瞳を見ていると、クロードは頬に熱い何かが伝うのを感じた。
「え、ちょ、ちょっとクロ!?」
オルタナは慌てて、こちらの頬に触れた。
「ど、どうしたの? 痛いとか? それとも苦しい? なんで急に……!」
クロードは泣いていた。どうしてか涙がぽろぽろと溢れてくるのだ。
「ち、違う……ごめん。違うんだ……」
「違うって……じゃあどうして?」
痛いや苦しい、というわけではないのだと知ったオルタナは少しだけ安心したように表情を緩めて、涙を拭うように頬を何度か撫でてくれた。
「ごめん。ごめん。ただ、なんか、嬉しかったんだ」
あの時の自分と今のオルタナが、同じものを見て、同じように綺麗だと思ったことが、どうしてか凄く嬉しかったのだ。本当に、涙が出るほど嬉しかったのだ。
涙は止まらず、嗚咽まで漏れ始めた。オルタナは仕方ないわね、と微笑むとクロードの頭を自分の胸に抱き寄せた。
「わかったわ。今度はクロが泣く番なのね」
「ごめん……ごめん……」
「なんで謝るの? 私なんかもっとみっともなく泣き喚いたんだから。謝んなくたっていいの。それよりもクロが私の前で泣いてくれたことが、私は凄く嬉しいわ」
その言葉に精一杯の優しさをたたえて、彼女は言った。オルタナはクロードの頭を抱きながら、撫でるようにぽんぽんと何度も背中を叩いた。それはまるであの日のお返しのようで。そのことがとても嬉しくて、涙は遂に止められなくなった。
とめどなく溢れる涙。それと一緒にクロードはずっと言おうと思っていたことを溢れるように口にした。
「オルタナ、僕は強くなる。君を守れるくらい強い騎士になる」
もう二度と彼女を泣かせないために。
この幸せを失わせないために。
「僕が君を守るから」
今すぐに、とは言えない。クロード・ルルーは弱い人間で、実力だってないのだ。だから今はまだ多くの人に支えられ、守られていく。それでもいつか支え守ってくれた人たちまで守れるくらいに強くなる。もう二度と、オルタナが悲しみを得ないように。
強く、強く。
「だから、待ってて」
いつかきっと強くなる。だからそれまでは待っていて欲しい。
オルタナは驚いたように手を止めた。
彼女の胸の中、一体どんな言葉が返ってくるのかとクロードは怯える。
だけど、そんな心中の不安すら見透かされているのか、オルタナはとびきり強く、優しくこちらを抱きしめ、その黒髪に頬を寄せながら言った。
「わかったわ。待っててあげる。三百年も、あなたに会えるまで待ったんだもの。今更ちょっとくらいどうってことないわ」
だから強くなって、私を守って。
「お願いよ。私の騎士様」
少年は少女に抱かれている。
少女は少年を抱いている。
少年の涙が止まるまで、二人は時が止まったかのような穏やかな空間でお互いの存在を確かめ合った。
少年は強くなる。
少女はそれを待っている。
そのお願いが果たされるまで――――――。




