現実と戦うための劣等意識
「クロ! しっかりして、クロ!」
浮遊城エルドラド。その内部、最上階にある大きな広間の中に、少女の必死な叫びが響く。
「クロ! クロ!」
オルタナは、何度もクロードの名前を呼ぶ。だが、返事が返ってくる様子はない。目の前の黒い影――――少年クロード・ルルーはピクリとも動かず、反応もせず、ただまっさらになってしまった感情を垂れ流していた。
「駄目、こんなの駄目よ! お願い、返事をしてクロ!」
ついに耐えられなくなったオルタナは彼の肩を掴んで乱暴に揺すった。それでも、少年からまともな反応が返ってくる気配はない。
まるで、心が死んでしまったようだ。
まるで、クロード・ルルーという人間の中身が死んでしまっているかのような……。
「駄目ぇ!」
オルタナは叫ぶ。動かないクロードと、その心の生存を諦めかけた己に向かって駄目だと叫ぶ。
諦めてはいけない。負けてはいけない。
目の前の彼は決して諦めず、その命の全てを賭けてここまで来てくれたのだ。自分を助けに来てくれたのだ。
だから私が諦めちゃいけないんだ。こいつの心を私は信じなきゃいけない。
それでも、まるで人間らしい反応を返さない彼を見ると、絶望が内側からふつふつと湧き上がってくる。追いかけてくるのだ。
「クロ、クロぉ……」
その時、オルタナの声にクロードの体が少しだけ反応した。虚ろなまま下に向けられていた瞳がオルタナの方へ向けられたのだ。生気の宿らない瞳だが、しかし確実にオルタナを見つめている。
「クロ、わかる? 私がわかる!?」
「く……お……」
最初、その半開きになった口から漏れたのは意味の成さない音に思えたが、しかしそれらは徐々に言葉として形になっていった。
「クロ……私……わかる……クロ……クロ…………」
「クロ? どうしたの……?」
嫌な予感がした。オルタナの頭の中で誰かが警報を鳴らしている。それは己の内側から発せられた最悪の事態を知らせる合図だった。
「クロ……私、僕、俺、わたし、わたしわたし、わたし…………私はエルドラド?」
虚ろな目で、ぼんやりとした口調で、しかし確かにクロードは「私はエルドラド」だと、そう呟いたのだ。
「ちが、違う……!」
「私はエルドラド。イリムを殺して、生き残った。彼が壊れてアレイスターになってしまった。リチャードはよく私に会いに来て、でもそれは段々減ってきて。それで――――」
「違う! それは私の記憶よ! あんたの、クロード・ルルーの記憶じゃない!」
クロードが一層強い反応を示した。それがどういう意味なのか、オルタナには理解できてしまった。
「違う? そんなはずはない。これは私の記憶。私はエルドラド。私は人型術式の……」
「違う違う違う違う違う違う! エルドラドは私よ! 人型術式の、不老の道具。ファウストが作り上げた禁忌の力。アルマ=カルマ・代替型は私なの! あんたは私じゃないでしょう!? あんたはクロード・ルルーのはずでしょう!?」
クロードは首を傾げる。ゆっくりとした動作は徐々に洗練され人らしい動きが彼に戻ってきている。しかしそれはおそらく、クロードの中に入り込んだ『エルドラド』という人格の定着を意味しているのだろう。
私の記憶がクロを殺している……?
その事実をようやくオルタナも飲み込めた。自分の生きてきた三百年以上の記憶。その中で蓄積され、濃縮された人格がクロード・ルルーという小さな存在を飲み込んでしまっているのだ。巨大な記憶の奔流にクロードは今、殺されかけている。
「クロード・ルルー」
クロードが己の名前を呟く。だが今の彼にとってその名は他人のものだ。己の名前を呼んでいるという感覚は彼の中から感じられない。
「私がクロード・ルルー? そんなはずはない。私はエルドラド。クロは……私を助けてくれた人。私のために私と戦ってくれた人。私が初めて……好きになれたかもしれない人間」
「そうよ……そうよ! クロは私の大事な人。そしてそれはあんたなのよ! あんたは私じゃない、クロなのよ!? 思い出してよ、負けないでよ! 私の記憶なんかに殺されないで……あんな救いようもない地獄に飲み込まれないで!」
「何言って、私はエルドラド……私は……」
クロードが混乱を見せ始めた。定着しかけた記憶がはがれ始めているのか、目の前の〝自分であるはずの存在〟に気づいたのか、彼は頭を抱えて狼狽する。
「ちが、なんで? 目の前にいるのは私……? なんで私がもう一人? でも――――違う。そうじゃない。どうして私は〝私の姿を知っているの?〟」
埋め込まれた記憶と、現実との齟齬にクロードは明らかな動揺を見せる。オルタナの記憶の中では、彼女の曖昧な世界の中では見えないはずの自分の姿が目の前にあって、それを自分が知っているという確実な矛盾は彼の中の疑惑を膨れ上がらせる。
「そうよ。おかしいのよ、あんたがエルドラドであることはあり得ない。私にはわからないけど、あんたならすぐに気づくはずよ。他にもおかしな点がいくつもあるってことを」
「おかしな、点。でも、私はエルドラドで、だからこの記憶は……」
再び頭を抱え始めてしまうクロードの両手を取って、オルタナは無理やり彼の瞳をこちらに向けた。
「ねえ、聞いて。あんたはクロード・ルルーよ。ずば抜けて優秀で、でも魔法だけは満足に使えなくて、そのせいでたくさん辛い思いをしてきた人。いつも何かに怯えていて、劣等感を持っていて、だけどどこかで誰かに認められることも恐れていて…………それで、それで私を助けに来てくれた。好きだから、なんて笑っちゃうような理由でこんなところまでやってきて、ぼろぼろになって、泣きそうな顔しながら前へ進んで、それで…………」
それでなんだっけ?
いつの間にか伝えたいことが、言いたいことが溢れて言葉が滅茶苦茶になってしまう。感覚のない空っぽなはずの心に何か温かい物が溢れてくるのだ。それがなんなのかわからずに、ただオルタナは溢れるままに言葉を紡ぐ。
「お願い。お願いだから死なないで。私の記憶になんか殺されないで。今更私を置いていくなんて、許さないんだから。戻ってきてよ、お願いだから――――一緒に帰ろうよ」
「わた……ぼく……でも……きみ、は?」
「私はオルタナ。あんたが助けてくれた女。そしてあんたはクロード・ルルーよ。世界から見放された者。賢者の器。神の位置へと至りし者。思い出しなさい! 私との約束、自分のこと、全部全部よ! それで私を救ってよ。また私を助けてよ、クロぉ!」
「あ……あ…………?」
言葉にならない音を最後に、クロードは頭を垂れて意識を失う。
彼は再び己の中の記憶の奔流へと帰って行ったのだ。
+
モネの視界の先、動かなくなったクロードと彼を支えるようにして抱きしめるオルタナの姿があった。
「戻ったようだな。もう一度、自らの記憶の中に」
隣に立つ黒い影、ファウストが呟く。
クロードは一度、オルタナの記憶に負けた。彼女の三百年という重みに殺されかけ、その人格が定着しかけてしまった。しかしそれは本物の彼女、オルタナの必死な抵抗によって防がれた。そしてクロードは再び自らの記憶の中に潜っていったのだ。今度こそ、己という存在を見極めるためにだ。
「本当に、大丈夫ですの……?」
モネは不安げな様子でファウストに尋ねる。
オルタナのおかげで最悪の事態は免れたのかもしれない。しかしまたクロードが彼女の記憶に飲み込まれてしまったら、己の中でクロード・ルルーという人物を確立できなければ、結局同じことだ。再びオルタナになって戻ってきたクロードが、今度は先程の矛盾を記憶の中で解決してしまわないとも限らない。そうなったらもう、二度とクロードは自分がオルタナではないと言うことに気づけないのではないかと、モネはそんな風に思ってしまうのだ。
クロを信じると言った手前恥ずかしいのですが、やはり不安は拭えませんの。
弟の心が死んでしまう。そのことを考えるだけで、モネは身が裂かれるような思いだった。
『問題はない。クロード・ルルーは負けはしない』
ファウストはさも当然のように言った。それが確定した結果だとでも言うようにだ。
「ですが、もうすでに一度負けていますのよ!?」
『数度の敗北は許容の範囲内だ。そのためにエルドラドという、彼に埋め込まれた記憶にとっては排除しきれない大きな矛盾を近くに置いたのだ。例え彼が記憶の中でその矛盾を解消したとしても、再び現実に戻ってくれば新たな矛盾が生まれることだろう。彼の思考力ならば、ほんの小さな齟齬でさえも見逃すまい』
言いながらも、ファウストはクロードから視線を外さない。そのまま、こちらへ語りかけるのだ。
『もしもの時は青騎士殿。君にも応援を頼むだろう。今、エルドラドが行ったようにとにかく彼と話をするのだ。そうすれば彼の方が勝手に矛盾を拾ってくれる』
「……本当に、勝てますの?」
例え数度の敗北は許されても、その中で勝てなければ意味がない。いつかは矛盾は潰されつくしてしまうだろうし、なによりその前にオルタナの体に限界が来てしまえばそれまでなのだ。
だが、ファウストはその態度を崩さない。己に対する自信を隠すこともなく、彼は言う。
『勝てる。そもそも私は可能性のない勝負はしない。勝てる可能性が高いと踏んだからこその行動だ。クロード・ルルーならば数度の敗北の内のどこかで必ず勝つだろう。必ず、己を見つけて戻ってくる』
「随分と、クロに対して肩入れするような評価をしますのね」
すると、ファウストは笑った。それはどこか自嘲するような、とても不思議な笑みだ。
『真なる劣等感とは自身への理解から生まれるものだ。そして彼はそれを持っている。気休めでも、逃げる理由を作るための卑劣な劣等感でもない。前へと進むため、己の不足を見つめ続けなければ決して生まれない、現実と戦うための劣等意識。彼が持っているのはそれだ。だから勝てる。クロード・ルルーにとってそれはもはや、誇りのようなものなのだからな』
驚いて固まってしまったモネの表情を横目に見て、ファウストは続ける。
『どうしてそんなことがわかるのか、と聞きたそうな顔をしているな。ははは、わかるとも。わからないはずがない。かつて私もそうだったからな』
それだけ言って、ファウストは再びクロードの方へ視線を向ける。そして小さく呟いた。
『なあ、そうだろう? クロード・ルルーよ。たかだか三百年生きた程度の小娘の記憶に、我らの劣等感は払拭できないはずだ。それは我らにとって必要なもののはずなのだから』
その小さな呟きはまるで自分自身へと語りかけるようだった。




