防衛機能(ファウスト)
「ファウスト、だと……?」
大戦の時代に暗躍した天才魔法師。人型術式アルマ=カルマを作り、世界各国へとばら撒いた男。オルタナの生みの親――――。
ファウストという男についての様々な情報が頭の中に浮かんでは消えていく。だがそのどれを持ってしても、目の前にたたずむ〝黒い影〟がファウストだという確証は持てなかった。
そもそも、こいつは人間なのか……?
よく見れば人間の姿に見えなくもないが、それにしてはあまりにもその存在は異質に思えた。人間という生物の上から黒い絵の具で滅茶苦茶に塗りつぶしたような、そんな姿を彼はしているのだ。
あまりのも突飛な状況に何も言えなくなってしまうクロードとモネ。そんな中、オルタナが一番に黒い影へと話しかけた。
「ファウスト? 本当に、ファウストなの……? 確かに声はそうだけど、なんであんたがここに……」
『君にとっては久しぶりかな、エルドラドよ。しかし私にとってはそうじゃない。私は君の知っているファウストとは別物だ。本当のファウスト、いわばオリジナル・ファウストは君の記憶の通り確かに死んでいる。私は天才だったが、不老不死ではなかったからな』
「じゃあなんで、死んだはずの人間が今更私の前にのこのこ現れているのよ!」
殆ど激怒に近い表情と声でオルタナはファウストに詰め寄る。彼女の感情の昂ぶりにクロードは少しだけ圧倒される。しかしその激情を一身に受けるファウストの方は気にした様子もない。といっても、顔が見えないので細かいことはわからないのだが、ただなんというか気にしていないという感情がこちらに伝わってくるのだ。顔も、仕草もきちんと見ることもできないはずの影の感情をクロードもモネもどうしてだかきちんと読み取れた。
『もう少し頭を使いたまえよ。死んだはずの人間が再び現れる。いないはずの伝承が現れる。それは君のよく知る、君自身の力ではないのかね』
「私の、魔法? じゃあ何よ。あんたはこの城によって再現されたファウストってこと?」
そうだ、と影は呟く。
『件の英雄リチャードを再現してみせたのと同じように、城が私を再現した。この城はあらゆるものを再現する。もっと別の言い方をするならば、このエルドラドという浮遊する城は世界を映す箱庭なのだよ』
滔々と自らが作り出した魔法について語るファウスト。影が知識を語る様に言いようのない違和感を覚えながらも、クロードはなんとか言葉を捻りだす。
「待ってくれ。ファウスト……さん?」
『呼び方は好きにしたまえ。もとより名前にこだわりはない』
「なら、ファウスト。あんたはオルタナの魔法によって再現されて、今この場に出てきたってことか? そうだとするなら、その姿はなんなんだ」
黒い影。顔のない影の姿。
まさかそれが天才魔法師の真の姿だったのだと言われても、クロードには信じられる気がしなかった。それほど、目の前の影は人としての形を失っているように見えたのだ。
『……君は再現された英雄や伝承を指して、空っぽの英雄と表現したな?』
「あ、ああ確かにそう言った」
まさに英雄リチャードを倒した時に、オルタナに向けて言った言葉だ。肯定すると同時に、何故目の前の影がそれを知っているのかという疑問も浮かんだが、まずは彼の話の続きを聞くのが先決だとクロードは判断した。
『エルドラドの魔法は〝心〟とやらを再現できないと。つまり記憶や人格、それらを構成する経験をこの魔法は作り出せないと。その推測は間違いだ。正しくない』
「じゃあ、どうして英雄も伝承も、力だけ再現された空っぽのままだったんだ。心が再現できるのなら防衛機能は必ずそれをするはずだ」
『できるのならばな。しかしいかに防衛機能とはいえできないことはできないのだ』
ファウストのどこか引っかかる言い回しにクロードは思わず顔をしかめる。その様子を見たファウストが笑う。相変わらず、顔は見えないけれど、やはり笑ったことはわかったのだ。
『出力の問題だよ。君が突破した障壁も、完璧ではなかっただろう? それと同じだ。そもそも障壁も英雄の召喚も同じ再現能力なのだからな』
言われ、ほんの数秒だけ考えてクロードは自分なりの答えを出した。
「記憶や人格の再現もできる。だけど、それをするには魔法そのものの出力が足りなかった。英雄の力と心は同時には再現できない。そういうことか?」
『ご名答。オードラン最高の伝説ともなれば、再現するのにもそれなりの力を要する。戦闘力と同時に記憶や経験までも再現するのは、いかに私の造った術式であろうと不可能だった』
「じゃあ、まさか今のあんたは……!」
思いついた可能性。外側の力だけの再現が可能であれば、その逆で内側だけの再現。すなわち人格、記憶、経験だけの再現も可能なのではないか。
黒い影がにやりと笑う。
『理解が早くて助かる。君が考えた通りだ。今の私は人格と記憶と経験、人としての中身だけを再現された〝ファウスト〟だ。この姿は便宜上あてはめられた仮初のものだ。肉体の代わりがなければ話すこともできない』
「それにしたって、もう少しどうにかできなかったのか?」
彼の仮初の肉体だという影を下から上まで眺めてから、クロードは言う。
「その姿は気持ちが悪い」
正直な感想だった。顔もなく、輪郭すら曖昧なのに人だということはわかる。ある程度の感情も伝わってくる。それはなんというかとても滑稽で、気味が悪かった。
『これが一番容量が少ないのだ。必要最低限人だとわかる情報だけを発する姿とでもいうのかな? それに気持ちが悪いなんて酷いことを言う。これはエルドラドの世界でもあるのだぞ?』
その一言にクロードとモネが大きく反応した。黒い影を一瞥したあと、オルタナへと視線を向ける。しかし彼女はなんのことだかわかっていないようで、ただ小首をかしげているだけだった。
いや、わかっていないのも当たり前か……。
彼女の世界。つまり、彼女の視界。もしもファウストの言うことが本当であれば、オルタナには人間がこう見えているということだ。これがオルタナの見ていた人間で、自分もまたそういう風に彼女にとっては見えているのだと知って、クロードは行き場のない怒りを感じた。
これが彼女の世界……。
自然とクロードは黒い影を見つめる。その姿を目に焼き付けようとするかのように。
「あなたが何者なのかは理解しましたわ」
モネがファウストを睨みつけるようにしながら言った。
「なら次はあなたがどうしてここに現れたのかを教えて下さらないかしら?」
『それこそ頭を使いたまえよ、青騎士殿』
そうですの、と言って頷いた後、モネは瞬時に魔法を発動。生成した細身の剣を黒い影の首筋――であると思われる箇所――に突きつけた。
「もう一度だけ言いますわ、あなたがどうしてここに現れたのかを教えて下さらないかしら? のんびりとクイズに付き合っている時間はありませんのよ、とも付け加えておきますわ」
『……やれやれ、つくづく君には思慮や余裕が足りないな。ああ、待ってくれ答える答える。ちゃんと教えてやる、ありがたく思え。だから剣で喉を突くのはやめてくれ』
あくまでも大仰な態度のまま、ファウストはモネの質問に答える。
『私はエルドラドの魔法によって再現されたのだと言った時点で察しがついてもおかしくはないはずなのだがな。防衛機能だよ、青騎士殿。現状、契約者や彼女自身の意思から離れて稼働するこの城が動くとなれば、それは防衛機能の反応に他ならない』
「それはそうでしょうけど、でもどうしてあなたが再現されたのか、という質問への答えにはなっていませんわ」
『ここまで言ってもわからないとは驚きだ。防衛機能はそもそもなんのために存在している? エルドラドの命を守るためだ。私が再現された理由もそれと同じだ』
「つまりあなたはオルタナを守るために防衛機能によって再現された、と?」
しかし、それはおかしいとモネは続ける。
「その割にはあなた、全然強そうではないじゃありませんの」
『それは当然のことだ。私はあくまでもファウストの中身。今の私は魔法すら使えない知識と人格だけの存在だ。それでなくても私は頭脳労働専門だよ。模倣者としての道を究めた現代の騎士に敵う道理はない』
「えっと、つまり……?」
理解が及ばず首を傾げてしまうモネ。ファウストはそんな彼女に対してため息交じりに告げる。
『つまり、何も防衛機能は戦闘力を期待して私を再現したわけではないということだ。私の知識と人格こそを必要としたのだ』
納得はしたのか、モネは何度か頷いて見せたが、警戒そのものを解くつもりはないようで、ファウストに向けられた剣を降ろそうとはしなかった。
「待てよ、ファウスト。オルタナを守るため? そもそもお前は……防衛機能は何からオルタナを守るつもりなんだ?」
既にクロードの中では自分達が防衛機能から敵視されているという可能性は消え去っている。それならばなおのこと、知識と人格だけを模したファウストが再現されるのはおかしいと考えたのだ。魔法の使えない今の彼ならば、クロード一人で勝てるだろう。
「相手にするのが僕たちでないというのなら、お前は何と戦うために再現されたんだ」
『…………あまり時間は残されていない。率直に言おう』
そう前置きして、ファウストはその通り簡潔に事実だけを述べた。
『このままではエルドラドは死ぬ』
「…………」
あまりにも突然語られた現実味のない言葉にクロードもモネもただ黙ってしまう。
『信じられないといった顔だな』
二人の反応は予想の範囲内だったのだろう。ファウストは呆れるわけでもなく、淡々と続けた。
『そうだな、まずは証拠を見せよう。その方が早い』
言って、彼はオルタナに向かって手招きをする。
『エルドラド、少しここまで来てくれないか』
「……わかったわ」
少しだけ嫌そうな顔をしたオルタナがファウストへと近づく。次の瞬間、ファウストが自分の横まで来たオルタナの額を〝とんっ〟と押した。するとどうだろう。まるで軽い木板でも相手にしているかのように、オルタナは押されるがまま、地面へと倒れてしまったのだ。
「姉さん!」
オルタナの名前を飲み込んで、まず姉を呼んだ。モネがファウストの首筋に突き立てた剣を思いっきり振りかぶったからだ。クロードの呼びかけによって制止されたおかげで、振りかぶった剣がファウストの首を落とすことはなかったが、あと少しでも遅かったら彼の顔のない首は無残に切り落とされていただろう。
「オルタナに何をしましたの!?」
敵意を剥きだして、モネはファウストを怒鳴りつける。未だ生殺与奪の権利をモネに握られたままの彼は、それでも余裕ぶった態度を崩さず肩をすくめる。
『特別なことは何もしていないさ。君が見た通り、私はエルドラドの額を軽く押しただけだ』
「嘘をつかないでください! それだけであんな倒れ方をするはずがないでしょう!?」
『そうだ。普通はあり得ない。あの程度の衝撃で倒れるということは、既に彼女の肉体は普通の状態ではなくなっているということになる』
「何を言って……!」
さらに怒りをあらわにするモネ。クロードはそんな姉に近づき、激情で上下する肩に手を置いた。
「落ち着いて、姉さん。多分、そいつの言っていることは嘘じゃない」
こちらを振り向いて、モネは驚きと不可解の入り混じった表情を見せる。そんな姉を一旦放っておき、クロードは倒れたオルタナに駆け寄った。
「オルタナ、立てるか?」
手は貸さなかった。確かめたいことがあったのだ。
「うん、大丈夫。立てるわ」
そのはずよ、と小さく呟いてからオルタナは一人で立ち上がろうとして――――立ち上がることに失敗した。膝をつき、腰を上げようとするのだが、途中でバランスを崩したかのように再び倒れてしまうのだ。そんな失敗を三回繰り返して、オルタナはようやく自身に起こった異常を自覚したようだった。
「どういう、こと……? 上手く立てないなんて」
「やっぱり、そうなんだな」
まだなんとか立とうとするオルタナを座っているように促してから、ファウストへと視線を向ける。
「オルタナの身に、何かが起こっている。それも命に関わる異常が」
『君は本当に理解が早くて助かる』
今オルタナはとても危険な状態なのだと、ファウストは語る。
『もう殆ど限界に近いと言っても過言ではない。このまま何もせずにいれば、この城が王都へ落下するよりも前にオルタナは死亡するだろう』
死の宣告を突きつけられ、オルタナは様々な感情が入り混じった表情を見せる。
「私が、死ぬ?」
『そうだ。君にとっては切望かもしれないが、しかしわかっているだろう。防衛機能はそれを許さない。だから私がここに召喚されたのだ』
「……どうして、私は死ぬの?」
座ったまま、俯いたオルタナは力のない声を出す。いや、もはや大きな声を出す力も残されていないのかもしれない。ファウストの言が正しければ、それほどまでにオルタナは追い詰められているのだから。
「教えて、私は何が理由で死にかけているの?」
『契約者や、君自身の意志を無視した魔法の発動。すなわち防衛機能の暴走……これが君の体になんの影響も与えないと思っていたのか? 今の君は無理矢理に魔法を発動し続けている状態だ。いわゆる代償のような肉体のルーン変換とはまた違うが、しかし強引な魔法の行使は確実に君の体によくない負荷を与えている』
「待ってくださいな!」
モネが再び声を荒げた。
「さも真実のように語っていますけれど、そう簡単にあなたの言うことを信じることはできませんわよ!」
『ほう、何故だ? 理由を聞こうか』
「一つはあなたの親玉である防衛機能が先程までわたくしたちと敵対していたという事実。もう一つ、オルタナには負荷がかかっているような様子は一度も見られなかったはずですわ」
『親玉、とは面白い表現だな。ふむ、ではこちらも反論を述べよう。一つが防衛機能は君達と敵対していたわけでも敵対したかったわけでもないということだ。あくまでもこの機能はエルドラドの命を守るために降りかかる火の粉を払うことしかしない。そしてもう一つ。エルドラドにはそもそも負荷を感じることができないという事実だ』
ファウストの反論にモネはたじろぐ。というより、何も言い返せなくなってしまったのだ。彼の言葉には確かに嘘も偽りも存在していなかった。防衛機能の特徴は勿論、オルタナが痛みや苦しみという人体の不調を訴えるアラートを感じることができない体であることも覆しようのない事実だった。
例えどんな負荷や痛みを抱えていても、オルタナはそれに気づくことができない。最後の最後、自由に身体を動かすことすらままならなくなってしまうまで、彼女は自分の身に起きたことを理解することすらできないのだ。
普段のモネなら、この二つの事実にすぐに思い至っただろう。わざわざファウストに言われるまでもなくだ。それができなかったのは、オルタナが死ぬかもしれないという現実に直面し冷静さを欠いているからだ。
いや、姉さんのこともとやかくは言えない。僕も似たようなものだ……。
さっきから、心臓の音が嫌に大きく聞こえた。段々と速く大きくなっていく鼓動は、まるで体の内側を殴りつけられているようで、どうしようもない不快感を覚える。
落ち着きを失くしていく姉弟の様子を見て、ファウストは仕方ないとでも言うように肩をすくめた。
『落ち着きたまえよ。言っただろう? 私はそんなエルドラドの命を守るためにここへ召喚されたのだ』
「……何をするつもりだ?」
彼の――いや、防衛機能の行動の予測がつかない。一体、アルマ=カルマの生みの親であるファウストの知識と人格が、この窮地を脱するためにどう関わってくるというのだろう。
『…………手を組まないか?』
「は?」
『君達の力を貸してほしい。君達、姉弟二人の力だ』
あまりにも現実感のない提案に、クロードもモネも黙ってしまう。そんな二人に向かって、ファウストはさらに続けた。
『エルドラドの命を守るため、この場は君達の力を借りるのが最善だと、防衛機能は判断した』
「…………」
『ふむ、さすがに突然にすぎたかね? もっとわかりやすく言おう。私は君達にエルドラドを救うために必要な情報を与える。それを君達が実戦する。どうだ、これでわかったかね?』
「つまり、ファウストの知識と人格が再現されたのは、オルタナを救うための情報を引きだす為だったってことか」
『概ね正解。知識の方はそれで問題ない。人格に関してはこの場合、君達との交渉に必要だった。ただ知識を垂れ流すだけでは君達は動いてはくれないと判断したんだ。防衛機能がね』
影が繰り返した。
『君達の力を貸してほしい。エルドラドを死なせないため、私と手を組んでくれ』
どうする、とクロードは思案する。いや、考えるポーズを取っては見るが、答えは既に出ていた。どの道、今は目の前の影が持っているファウストの記憶に頼らざるを得ない。もうクロードたちには他の手段は残されてはいないのだから。
「わかった。お前と手を組もう、ファウスト」
言って、ちらりとモネを見る。意外にも彼女は何も言わなかった。もっと反対するものかと、クロードは思っていたのだが。弟の視線に気づいたモネが口をとがらせてそっぽを向く。
「わたくしは思慮や余裕が足りないそうですから、判断はクロに任せますわっ」
……拗ねているのかな?
子供のような仕種は妙に愛らしかったが和んでいる場合ではない。
『交渉成立、か。よろしく頼むよクロード・ルルー』
そう言って、ファウストは手を差しだした。ただその手もぼやけた輪郭の酷く不気味な〝手のようなもの〟にしか見えなかったため、握手をすることは躊躇われた。
「そういうのはいい。あくまでも、僕らは利害の一致で動いているだけだ」
苦し紛れにそう言うと、ファウストはこちらの心を見透かしたかのように薄く笑った。
『そうだな。利害の一致。現状私たちはエルドラドを死なせないという一点においてのみ協同できる』
「……本題に入ろう。どうやってオルタナを救う? ファウスト、お前はそのための情報を持っているんだろう?」
『無論だな。そもそも彼女は私が作った人型術式だ。知らないことはない』
自信に満ちた声でファウストは言った。そうしてオルタナを救うための情報を語るために口を開こうとした――――その時だ。
「あ!」
少しだけ離れた位置でいじけていたモネが何かに気づいたかのような声を上げる。そして凄い勢いでこちらに走ってきた。
「ストップ! 待って! やっぱりその交渉無しですわ!」
「ど、どういうことだよ姉さん」
モネは興奮した面持ちで腕を振り回しながら叫ぶ。
「だっておかしいですわよ! わたくし、気づいてしまいましたわ! この魔法を発動させているせいでオルタナが死にかけているというのなら、魔法の発動なんてやめてしまえばいいだけではありませんの!」
防衛機能ならそうするはずだ、と息巻くモネ。彼女の勢いに気圧されるクロードの横でファウストが大仰にため息を吐いた。
「な、なんですのそのため息は!?」
『……全く、君は思慮や余裕だけでなく頭の中身まで足りていないようだな。そんな様子では遥かに生きにくい人生を送っていることだろう。同情してやろう』
「な、なんですってー!」
モネは今にも剣を取り出して切りつけてもおかしくないほどの剣幕でファウストに詰め寄る。対するファウストはいたって冷静に状況を説明する。
『いいか、青騎士殿。そもそもこの城はエルドラドの体の一部なのだよ。はあ、この説明も彼女自身がしたはずなのだがね』
「え、えっとそうでしたっけ?」
『この城は魔法の結果ではなく、術式そのもの。だから人型術式である彼女の体の一部とみなされている。そこに封剣が刺さっている……すなわち触れているんだ。封剣にとっての接触が概念的な物である以上、手を〝放す〟という概念を発生させないままにただ魔法の発動やめれば――――どうなるかはわかるだろう?』
「…………」
首を傾げたまま、モネは黙ってしまう。答えに窮す彼女を見てファウストはもう一度大きくため息を吐いた。
『結果としてはもとに戻るのだよ。いかにこの城が消滅しようとも、エルドラドがまだ封剣を握っているという概念を持っている以上、封剣のルーン放出は彼女に向かって放たれる。むしろ今ここで下手に魔法の発動を止めるほうが危険なのだ』
「えっとぉ……」
『…………もういい。とにかく君は、魔法を止めるわけにはいかないということだけわかっておけ』
「そ、その可哀そうな人を相手にするような態度はよろしくありませんわよっ!?」
顔を真っ赤にして怒りをあらわにするモネを放って、ファウストは途端に押し黙ってしまう。どうやら何事かを思案しているようだった。影の姿をしているというのもあるだろうが、それを際退いてもどうにも挙動の読めない男だとクロードは思った。なんというかこの男は、こちらの一歩二歩先を常に歩いているようなのだ。
『ふむ。しかしこれでこの後の説明がしやすくなったな』
唐突に、ファウストは先程の会話の続きを再開させる。
『愚か者もたまには役に立つということか』
「なっ――――」
『ああ、いい怒るな時間の無駄だ。これから本題に入ろうじゃないか』
振り上げた拳を無理矢理止められたようになって、モネは再び口をとがらせてそっぽを向いてしまった。先程よりも随分赤い顔をしている。
『さて今、青騎士殿に話したこと、これはすなわちエルドラドを救うための障害に他ならない。魔法が発動され続けている。そして封剣が未だ彼女に触れている。この二つこそがエルドラドを死に至らしめる原因だ』
「その原因を取り除く方法を、お前は知っているんだろうな?」
防衛機能がファウストを再現させた以上、彼には必ず有用性がある。
方法までとはいかないしにしても、少なくとも何かしらの情報は持っているはずだ……。
「どうなんだ、ファウスト」
『ああ、知っている。知っているとも。何しろ私は優秀な男だからな。エルドラドを助ける方法を私は一つだけ知っている。少し、裏ワザのような方法なのだが』
「つまりそれがお前が僕らにもたらしてくれる〝利〟というわけか。具体的に聞くぞ、それは一体どういう方法なんだ?」
『エルドラドと、この城を切り離す』
「何?」
思わず聞き返す。オルタナの一部であると自らが言ったものを切り離すということに、矛盾を感じたのだ。
『この巨大な術式と今ここにいるエルドラドの本体の接続を切る。全く別の、個々の存在として切り離す』
「待て、そんなことをしてオルタナは平気なのか?」
『無論だよ。そもそも防衛機能の指示のもとに動く今の私ではエルドラドを傷つける選択肢は取れない。それにこれは、君が提案したことでもあるのだぞ、クロード・ルルー』
「僕が……?」
そんな提案をした覚えはない。だが、目の前の男が嘘をついているとも思えなかった。
『君は確かに言ったはずだろう。彼女を人間にする、とね』
「おいまさか! 術式を切り離すってのはつまり……」
ファウストがにやりと笑った。
『何を驚くことがある。人型術式の魔法式を切り離すのだぞ? あとに残るのがただの人型だというのは当たり前のことだろう。術式は消滅し、オルタナの死は回避される。この方法に間違いはない』
アルマ=カルマとしての術式部分を切り離す。そうすることで、オルタナを人間にする。それはつまりクロードがやろうとしていたことと同じだ。
確かに術式部分に封剣が刺さったこの状態で、オルタナ本体とこの城を切り離せば、オルタナは当然魔法を使えなくなるし、彼女へのルーンの放出も回避できるだろう。
だが、
「だけど、それは僕もやろうとしたことだ。やろうとして、失敗したことだ」
オルタナを人間にしようとした。彼女の世界を明確にしようとした。しかし、それは失敗した。あらゆる全てを創造し変革させるはずの創造魔法は発動せず、オルタナの体にはなんの変化も訪れなかった。
力不足。またそれを痛感してしまった。本当に、痛いほどに。かつての賢者と同じはずの魔法を得ても、自分には好きな人を救うことすらできなかったのだ。
『そうだな。失敗した。では何故失敗したのかを考えたか?』
自己嫌悪の闇に沈みかけたクロードに、ファウストの淡々とした言葉が降りかかる。
『言っただろう。トライアル&エラーだ。失敗した原因を究明し、次にこそ成功させる』
「次、に……」
失敗を糧に、確実に成功を掴んでいく。
そんな生き方をし、結果誰よりも高みに上り詰めた人をクロードは知っていた。それはいつだって、自分のそばにいてくれた人だ。
『いいか、クロード・ルルー。最初から天才である人間はいない。最後に成功した者が天才と呼ばれるのだ』
「……天才か、凡人か」
最後に成功したものが天才と呼ばれる。
そんなものは詭弁だと、クロードは考える。人間にはどうしようもない才能というものがあって、あらかじめ最初の位置や限界が決められている。少なくともクロードはそう思っているし、もしも自分が天才と凡人のどちらかと言われれば間違いなく凡人と答えるだろう。クロード・ルルーは凡人か、それ以下の何かでしかない。
ただ、そんな卑屈な思考の中で同時に考えるのだ。
自分の限界はここではないだろうと。
僕は凡人だけど、まだ先へ行ける。ここで終わってはいけない。
なによりオルタナのため、彼女のために自分は立ち止まれないのだ。
『君の間違いは二つだ』
ファウストが腕をこちらへ突きだす。どうも指を二本たてるジェスチャーをしているようっだったが、今の彼の姿ではぼやけてしまってよくわからなかった。
『まず君は一体どんなイメージで持ってエルドラドを人間にしようとしたんだ?』
オルタナを人間にする。
その際にクロードがイメージしたのは彼女の世界を明確にするというもの。色や形の曖昧な彼女の視界を形ある確かなものになるようにイメージしたのだ。それはオルタナの世界の曖昧が彼女の術式に深く関わっていると予想したからだ。それを崩してしまえば自ずと術式は崩壊し、彼女は人間に戻れると、クロードは考えた。
しかし、それを聞いたファウストは顔のない首を横に振った。
『それでは駄目だ。そのイメージではエルドラドを人間にはできない。創造魔法による変革は起こらない』
それが間違いの一つなのだと、ファウストは語る。
『君はエルドラドの世界について大きな勘違いをしている』
「勘違い、だと?」
『確かに彼女の世界は曖昧だ。しかしそれは彼女が正確に世界を確認する機能を持っていない訳ではない。つまり、エルドラドの体、その感覚器官については通常の人間となんら変わりはないのだ。そこに異常はない』
「そんなわけないわっ!」
と、オルタナが感情をあらわにして叫んだ。
「私の世界は確かに曖昧で異常よ! 今ここにいるあんたらの区別がつかないことが何よりの証拠よ!」
オルタナがファウスト、クロード、モネの三人を順番に一瞥していく。今、彼女の瞳に映る世界は自分が見るファウストと同じなのだと考えると、クロードはなんとも言えなくなってしまう。彼女の目には自分はこんな風に映っているのかと、ファウストを見ながら思う。
『これは失言だったかもしれないな。いや、確かにエルドラド、君からしてみれば世界は曖昧で異常なもので間違いはない。正しくは、君の世界が曖昧なのは君の肉体の欠陥故ではない、とそう言うべきだったな』
「なら、つまりオルタナの肉体は正常だと、お前はそう言うんだな?」
『ああ、そうだ。そもそも考えても見給えよ。防衛機能はエルドラドの中に存在する機能だ。そうなると必然的に機能が受け取る外部からの情報もエルドラドが知覚できるものに限られてしまう。…………まともな感覚が音しかない世界で、どうやって防衛機能は彼女を守るというのだ?』
クロードはオルタナと過ごしたあの日々のこと、その中で彼女の防衛機能が発動した瞬間を思い出す。確かに防衛機能の鋭敏すぎる反応は、まともな情報源が音しかないとは思えない。あの的確な反応は世界を正しく認識しているからこそできるものだ。
それに、防衛機能は確実に姉さんを危険視していた。
それはおかしいことだ。もしも防衛機能の情報源が音だけだとすれば、モネと他の誰かの見分けがつくはずがないのだから。
「でも、でも私の世界は……」
オルタナは頭を抱えてしまう。混乱しているのだろう。それも当然だ。彼女のいうことが正しければ、オルタナの世界は未だに曖昧なはずなのだから。
『感覚器官としての五感ははっきりと機能している。だがしかし、君が世界を正しく見ることができないのは感受した情報を正しく認識するための認識機能の方に欠陥があるからなのだよ。まあ、それも私がわざとつけた欠陥なのだがね』
オルタナの体は正常である。ただし、感受する情報を彼女は正しく認識できない。だから世界が曖昧にしか見えないのだ。どれだけ欠陥のない感覚器官を持っていても、彼女はそこから得られる情報を正しく処理できないばかりに、全てを曖昧に見てしまう。ちょうどそう、今クロードの目の前にいる影のように……。
世界がこんな風に見えてしまう。
オルタナの体の秘密を知って、クロードは自分の間違いというやつに気づいた。
「つまり、彼女の世界が明確になる……そのイメージでは創造魔法は発動しないってことか。そもそもオルタナの世界は最初から明確なはずだから、変革が起きる余地がない」
『それが君の間違いの一つ。エルドラドへの理解の不足。イメージの間違い。それでは彼女を人間にすることはできない』
「なら、オルタナの認識能力を普通にする。そういうイメージで創造魔法を使えばいいんじゃないか?」
先程の自分の間違いはもともと欠陥なく機能している〝感覚器官〟を正常にするイメージを持ったことだ。ならば今度は確実に機能していない〝認識能力〟の部分を正常にするイメージを持てばいい。クロードはそう考えたのだが、しかしファウストは難しそうな声を上げる。
『試してみてもいいが、その場合きっと君はもう一度死にかけることだろう。いいや、次は本当に死んでしまうかもしれないな』
「なんでだよ。その認識能力が正常になれば、オルタナは人型術式ではなくなるんだろう!?」
『その通りではある。手段も目的も間違っていない。だが、君はここで二つ目の間違いを持ってしまっている』
二つ目の間違い。
それをファウストから指摘される。
『一つ目の間違いはエルドラドへの理解の不足。二つ目は創造魔法への理解の不足だ』
「僕の、この魔法のことか……」
ファウストの言う通りではある。クロードにとってこの創造魔法というのはいつのまにか使えるようになっていた魔法という位置づけでしかなく、それが賢者の位置へと至りし高度な魔法だと言われても実感すらわかない。
『かつて存在していたと言われる三賢者。その内の一人が使っていたとされる創造魔法。その魔法と君が今使っている魔法は同一であり、同じ結果をもたらすものではあるが、しかしそのプロセスに大きな違いがある』
「過程が違う? 最終的に同じ結果になるはずなのに、そこまでの手段が違うっていうことか」
『手段、と言っていいものかどうか。とにかく三賢者は創造魔法を使い、この大陸を生み出したと言われているだろう。その際に使用した術式について、君はどこまで知っている?』
問われ、すぐさま記憶を洗い出すが、該当するものはでてこない。
「知らない。そんな記述はアルケミアの図書館の蔵書のどこにもでてこない。話にすら聞いたことがないぞ」
『ふむ。この時代では既に文献が消滅しているのか。私の生きていた三百年前の世界ではそれなりに一般的な知識だったのだがな。まあいい、とにかくこの大陸を創造するために使用した術式……実際には様々な形態の術式を組み合わせた多重展開術式によってなされたのだが、それを単純な言語式に換算するとその文字数はいくつになると思う?』
「…………わからない。予想すらつかない」
クロードは思案するが、しかしそもそも創造魔法の術式というものを理解していないのでわかるはずもない。自分の創造魔法を発動する際、クロードは絵画魔法を使う時と同じプロセスしか踏んでいないのだから。
『――――ざっと十の千二百乗。無量大数以上の天文学的数字になるな』
「十の、せんにひゃ――?」
『本来創造魔法とはそれだけ膨大かつ複雑な術式を必要とする魔法なのだ。無から有を生み出す神の奇跡そのものだぞ? それは当然のことだ。無論、生み出す有が大きければ大きいほど術式も巨大となっていくがな』
あまりに実感のわかない巨大さに驚いて、同時に今まで自分が発動させてきた創造魔法を思い出し、疑問を抱く。
それは、おかしい。だって、
「僕はそんな複雑な術式を展開した覚えはない!」
『そうだろうな。君の言動から考えた一つの仮説があるのだが――――それは今はいいだろう。重要なことは君が創造魔法の結果をイメージによって操作しているということだ。本来この魔法の術式には生み出す結果も記号化されて含まれている。だがクロード・ルルー、君の使う創造魔法はその記号化を行わず完全に想像の中のイメージに依存している。膨大なはずの術式の所在など、諸々あるが……君の使う創造魔法と三賢者の使う創造魔法の一番の違いはそこだ』
起こるべき結果の完全な想像依存。そしてそここそがクロードがオルタナを救えない理由になるのだと、ファウストは語る。
『君が創造魔法を絵画魔法としてしか使わなかったのは、君自身の勘違いによるところもあるが、しかし実際のところ君は絵画魔法としてしか創造魔法を行使できないのではないかと、私は考えている』
「それは、僕のルーン収束量が問題ってことか? 僕はキャンパス一つを埋める絵を創造するのがやっとのルーンしか束ねられないから……」
『それもある。だが根本的な原因は君自身の理解の範囲なのだよ。完全なイメージ依存の君の創造魔法はきっと〝完璧なイメージ〟しか創造することはできない。少しでも君の想像が曖昧でぼやけたものになってしまえば、起こりうる結果も同じく曖昧になってしまうだろう。君は魔法使いであると同時に絵描きの顔も持ち合わせているだろう? それも、魔法の道とは違い確かな才能だって持っている。そんな君にとって頭の中で絵を描くという行為はそれほど難しいものではないはずだ。どの色をどれだけ塗り重ねればいいか、どんな強さで色を乗せていけばいいのか、それを君は知っている』
「それは、そうだな……」
絵を描くことは好きだった。もともと絵画魔法を見つける前までは毎日自分の手でスケッチをしていて、気に入ったものをキャンパスの絵に起こす習慣をクロードは持っていた。絵を描くという工程のなかで、クロードにわからないことは確かにないと言えるだろう。
『君にとってのキャンパスとは一つの小さな世界のようなものだ。君はその小さな世界の神として、真っ白な平面を好きなように変革できる。神ように全てを掌握し理解しているからこそ、君は創造魔法を使って絵を描ける。本来なら術式によって細部まで書きこまなければならないそれを、イメージによって補完できる』
だが、とファウストはそこで少しだけ間を置いた。
『――だがあくまでも君の世界はキャンパスの中だけだ。君が神でいられるのはそこだけ。外の世界は君にとって未知のもので溢れている。君はそんな未知を明確に、一変の曇りもなくイメージ化することができるのか? エルドラドの認識能力を明確にするという、その具体的なイメージを頭の中に作り出せるのか?』
「…………」
クロードは何も言えず、黙ってしまう。ファウストの言ったことが、自分にはできないとわかってしまったからだ。冷静に、オルタナを救うためのイメージを作りだしてみればすぐにわかる。自分が創造魔法で絵を描いていた時と、イメージの完成度が桁違いだったからだ。手順から、構造から、何から何まで正確に思い描ける絵画と違って、オルタナを救うというそのイメージはあまりにも脆弱だった。
曖昧で、弱いのだ。
駄目だ。これではオルタナを救えない。
このイメージでは彼女の世界を明確にすることはできない。いやそれだけじゃない。こんな曖昧なイメージで世界を変革した結果、事態が悪化することだって考えられる。そう思えば、先程自分のイメージの違いのせいで魔法が発動しなかったのは幸運なのかもしれなかった。
しかしそこまで考えて、クロードは自分の思考に唾を吐きかける。
何を言ってる。結局、彼女を救えないなら同じことじゃないか……!
よかった、なんて言っている場合ではないのだ。
「今の僕では、創造魔法を使ったとしても彼女を救えない……なら他に方法があるのか?」
『いや、ない。現状、エルドラドを救う唯一の手段は君の創造魔法だけだ。そうでなければ、防衛機能はわざわざ君と手を組もうとなどしない』
「だったら、どうすればいいんだよ!」
思わず叫んでしまう。焦りは確実にクロードを追い立てていた。一方ファウストは余裕の態度を崩さない。
『どうすればいいだと? その答えを出すために、私は君の間違いを指摘したのだぞ』
「僕の、間違い……?」
ファウストが言ったクロードの間違い。それはオルタナへの理解の不足と、創造魔法への理解の不足。この二つのことについての知識不足こそがクロードの間違いだった。だがしかし、それを明らかにしたところで何が変わるというのだろう。
『言っただろう。君の創造魔法は理解の及ぶ範囲、精巧なイメージを作れる事象にしか干渉することができない。ならば簡単なこと、君がエルドラドについて理解すればいい』
ファウストがオルタナへと視線を向けながら言う。
『君が変革すべき事象そのものであるエルドラドを理解する。そうすれば君は創造魔法で彼女の世界を明確にできる。この城と彼女を切り離すことができるだろう?』
オルタナを理解する。その言葉の意味がわからず、クロ―ドは首を傾げた。
「確かにオルタナを理解できれば……僕が絵を理解しているように細部まで知ることが出来れば、創造魔法で彼女の世界を明確にすることだって簡単だろうけど、その方法はどうするんだ? 僕はどうやって彼女を理解すればいい。まさかここで自己紹介でも始める気か?」
皮肉のつもりで返した言葉に、ファウストはより一層皮肉げな笑みを浮かべた。
『それもいいかもしれないが、今は時間がない。より速く、確実性のある方法を取るべきだ。……具体的に言おう。エルドラドの記憶、知識、人格、彼女の持つあらゆる全てを情報化し、君の脳内に直接埋め込む。そうすれば君は否が応にでもアルマ=カルマという私が作り出した神秘を理解することになる』
「情報化、埋め込む……? よく、わからないけれど。それをすれば僕はオルタナを救えるんだな!?」
『この私が保障しよう』
ならば悩むまでもない。すぐにでもクロードはその方法とやらを実践するつもりだったが、しかしそれはオルタナに遮られた。
「駄目よ、クロ」
彼女は座ったまま、クロードのズボンの裾を引っ張って止める。
「オルタナ。僕はもう、止まれないよ。君にとってはこのまま放っておけば死ねる、都合の良い状況かもしれないけれど、僕はそれを黙って見ていることは……」
「違う! そうじゃないの!」
てっきり、このまま放っておいてくれと言うのかと思って先回りした言葉だったが、しかしオルタナはそうじゃないと叫んだ。
「その方法は駄目。それは絶対にやっちゃいけない!」
「何言ってるんだよ。これで君が救えるかもしれないんだぞ」
「いいから! 駄目なんだってば!」
オルタナは必死だった。その眼に冗談の色は感じられない。彼女は本気で自分を止めようとしていた。オルタナは必死な表情のまま、クロードの体に寄りかかるようにして何とか立ち上がる。しかしその両足には殆ど力は入っておらず、クロードが彼女の体重の全てを支えているようなものだった。そこまでされなくては立てないほど、もうオルタナの体は弱っているのだ。
「無理しちゃ駄目だ、オルタナ」
「駄目、駄目よ……その方法は駄目。それじゃあ、クロが死んじゃう!」
自分が死ぬ。そう言われて驚きと共にファウストを睨みつける。影の表情はまるで見えなかった。
『死ぬ、というのは表現として正しくないな』
「同じことでしょう!? 知識と記憶と人格を情報化してクロに直接埋め込む!? それってつまり私の全てが情報としてクロの中に入り込むってことでしょう? 自分の中に他人の全てを埋め込まれて……その結果どうなるかくらいあんたにはわかっているはずよ!」
『…………』
ファウストは何も言わない。オルタナの口からその結果を聞きたいのか、それ以上を自分で語ろうとはしなかった。
絶対に駄目よ、とオルタナがこちらを見つめて言った。
「自分の中に他の誰かが入ってきて、その時クロは本当の自分自身を見失ってしまうわ。私の記憶と自分の記憶の中で、どれが本当の記憶かわからなくなってしまう。記憶も人格も、自分という全てを見失って、クロード・ルルーという人間はこの世からいなくなってしまう!」
「……それは本当か、ファウスト」
影の男は頷いた。
『ああ、本当だ。紛れもない真実だよ。記憶の混合、人格の統合。結果、本来その肉体にあった自我が崩壊する。自身の喪失。エルドラドはそれを〝死〟と形容したようだ』
「つまりお前は、僕を騙そうとしていたのか?」
もっともらしく交渉などという言葉を並べて、その実こちらを出し抜こうとしていたのかと、クロードは問う。ファウストはただ薄く笑って言った。
『あくまでも私はエルドラドを存命させることを目的としている。そのために残された方法はこれしかない。どうあっても、創造魔法の使い手である君に手伝ってもらわなくてはいけなかった。ただ一つ安心して欲しいのは、この方法でエルドラドを救える可能性は確かにあるということ。それだけは信頼してもらいたい』
「何が信頼よ、ふざけないで! クロを殺そうとしたくせに!」
『それは見解の相違だな。私はエルドラドを守ろうとしただけで、クロード・ルルーを殺そうとはしていない。私の目的のため、結果的にクロード・ルルーが死ぬ可能性が生まれただけだ』
「それは詭弁よ……」
『そうだろうな。しかしよく考えてくれたまえ。そもそも私だってクロード・ルルーに死なれては困るのだ。彼には情報化したエルドラドの全てを埋め込んだ後で創造魔法を発動し、この城と君を切り離してもらわなくてはならない。その時に自我が崩壊し廃人同然となってしまっていたら私も困る。それではエルドラドを救えない』
ファウストの言葉にクロードは反応する。
「待てよ、ファウスト。僕に死なれても困るってことは、オルタナの全てを僕の中に叩きこんだとしても、必ず自我が崩壊するってわけじゃないんだな?」
助かる可能性はあるのかとクロードは影に問う。
「その可能性があるからこそ、お前はこの方法を選んだ。そういうことなんだな?」
『ああ。前例がないのではっきりとしたことは言えず、全て憶測になってしまうが……クロード・ルルー、きっと君は自分を見失わない。君は自分自身を失くさずに、エルドラドの全てを受け入れ理解することができるだろう』
それは現代に置いてなお語り継がれる天才魔法師からの支持そのものだった。理由はわからないが、彼はクロード・ルルーという男をそれなりに評価してくれているのだ。
そのことに胸が高鳴った。しかしそれ以上に、オルタナを救える可能性にクロードは飛びついた。
「わかった。可能性があるのなら、やろう」
例えそれが数%の低い可能性だったとしても、決して掴めないわけではないのなら、クロードは止まるつもりはなかった。何が何でも、その小さな可能性を掴むと決意する。
「駄目、駄目よ!」
オルタナはまだ、駄目だと首を振る。クロードに支えられている姿はどこか、縋りつくようにさえ見えた。
「クロ、あんたわかってるの!? 成功する可能性はあっても、それと同じくらい、いいえそれ以上に失敗する可能性だってあるのよ!?」
「ああ、わかっているよ」
「違う、わかってない! あんた何もわかってない! 私があんたの何倍生きてると思ってるの。三百年……それだけの記憶が、人格が、あんたの中に流れ込んでくる。たった二十年も生きていないあんたがその中で自分の記憶だけを確かに認識できるはずないじゃない!」
「できるよ。いや、やってみせる。言っただろう? 僕は、誰も死なせない。全て救って見せる」
それは自分自身ですら死なせないということ。
己を含めた全てを救って見せる。それがクロードの覚悟だった。
「なんで、なんでよ……」
オルタナは俯いて、悔しそうに呻く。もうこれ以上、何を言ってもクロードは止まらないとわかってしまった。自分を助けるためだけに、こんなところまでやってきてしまった馬鹿な男の子は、もうどうあっても自分を救わなければ止まれないのだとわかってしまったのだ。
『もういいかな。出来れば早く始めたい。時間がないんだ』
ファウストの言葉。それは今のオルタナにとってはクロードに早く死ねと言っているのと同じに聞こえたのだろう。オルタナはその顔に激しい怒りを浮かべて叫んだ。
「あんたのせいだ! ファウスト、あんたがクロに変なことを吹き込まなければ!」
『その場合、死ぬのは君だった』
「それでいいのよ! クロが死んじゃうくらいなら、私は自分が死ぬ方がずっとマシなんだから!」
『だが、防衛機能はそれを許さない』
ファウストの声には情も慈悲もない。それと同じくらい、オルタナを貶めようと言う響きもなかった。ただ、淡々と事実を語るロボットのような言葉。自信家で皮肉屋で、大仰な態度の裏に空っぽの空洞のような無感情を持った人間。それが天才魔法師ファウストという人物なのだろう。オルタナはそれを知っているはずだが、知っていて尚、彼の言葉に打ちひしがれる。
「何よ、何が、防衛機能よ。これはあんたがつけたものじゃない! 私のせいで、私の機能のせいでクロが死ぬなんて、そんなの耐えられない。やめてよ……もうあんた死んでるはずでしょう? それなのに今更出てきて、私から大切なものを奪わないで!」
『そんなつもりはないのだがな』
「…………なんで、なんでこんなものを私たちにつけたの? 自分の意志を無視して無理矢理に生かし続ける機能なんて、そんなものをつけて、あんたは私たちをどうしたかったのよ!」
オルタナの声は殆ど泣き声に近かった。彼女は涙を流しもしないで泣いているのだ。ファウストは真っ直ぐに突っ立ったまま何も言わない。二人の間に割って入ることもできず、クロードは黙っていた。今は何も言ってはいけない気がしたのだ。
『……確かに今の私は偽物だ』
ファウストが静かに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『この城が作り出した幻影。贋作だ。しかしファウストという男の知識、記憶、人格はこの城によって完璧に再現されている。そのことを踏まえて聞いてほしい』
影が深く息を吐く音が聞こえた。
『私が君達アルマ=カルマに防衛機能を付けた理由。それは酷く単純だ。防衛機能の目的はなんだ? 君達を守ることだ。私の理由もそれと一緒だよ』
驚く、というよりも呆気にとられて動けなくなっているオルタナに向けてファウストは言った。
『私は君達に死んで欲しくなかった。だから防衛機能を付けた』
「なによ、それ…………」
『アルマ=カルマが俗世の争いに巻き込まれるのはわかっていた。だから私は君達に……』
「もういいわよ!」
オルタナは叫ぶ。だが今度のそれはとても力のない。弱い、叫びだった。
「もういい。例え何があっても、私はあんたを許さない。私という欠陥品を作ったあんたを一生恨んで、そしていつか死んでやる」
恨みと、怒りと、それ以上のわけのわからない感情で一杯になった瞳でオルタナはファウストを見つめる。顔のない、影を見つめる。
『ああ、そうだな。私も贖罪がしたいのではない。今のは、純然たる事実。生前の私が持っていた記憶そのものだ。忘れてしまっても構わない』
それ以上、オルタナはファウストと目を合わせようとも、何か言おうともしなかった。全てを諦めて、しかしまだ何かに縋るように今度はモネへと語りかける。
「ねえ、モネ。あんたはいいの? 大事な弟くんが死んじゃうかもしれないのよ?」
「……わたくし、もう決めましたのよ。これからはクロと二人で、一緒に歩いて行こうって。だからクロが前に進むと言うのであればわたくしも進みます。クロが死ぬかもしれないと言うのであれば、死なせないために全力を尽くす。ただそれだけですわ」
迷いなく発せられた青騎士の覚悟。オルタナは一瞬だけポカーンとして、そのあとに笑った。
「いいわね、あんたはまっすぐで。本当に、羨ましい」
それだけ言うと、彼女はついに全身から本当に力を抜いてしまった。そのまま立たせるているわけにもいかなかったので、クロードは屈んで彼女を床に座らせた。
「いいわ、好きにしなさい。私もう、疲れちゃった。だから早く、助けてよ」
「はは、そうだね」
ああ、助けよう。早く、彼女を助けて。みんなで一緒に帰るのだ。
「その代わり、一つ約束」
オルタナが指を一本立てて言う。
「絶対に死なないで。お願いだから、お願いだから死なないで」
「……わかってるよ」
約束というよりも、それは懇願だった。絶対に死んで欲しくないという願い。死にたがっていた少女の懇願を受け止める。そうしてクロードはもう死ねなくなったのだ。縋るようなその願いを受け止めて、死ぬわけにはいかなくなる。それはクロード自身の覚悟でもあり、オルタナから与えられた呪いでもあった。
不死の呪い。
死んではならない。生きることの強制はまるで、防衛機能そのもののようだと思ってクロードは含むような笑みを見せる。
『何を笑っている』
その笑みに気づいたファウストが怪訝な様子で顔のない首を傾げる。
「いいや、なんでもない。とにかく始めよう。僕はどうすればいい」




