人質と、術式と
オードランは温暖な大地と寒冷な海を持つ国だ。内陸部は一年を通して温かく気候も安定している。しかし海に面した沿岸部の王都などは夏と冬の温度差が激しく、特に明け方ともなると冷え込みは辛く、手指の先は針を刺すような冷たさに包まれていた。吐く息は白く、呼吸の度に冷気は朝の匂いと共に鼻の中をつんと突き刺した。
もうすでに市場の方は賑わっているだろうが、住宅街はまだ活動は本格化しておらず、人の姿は殆どなかった。
そんな住宅街をクロードはオルタナと歩いている。可愛い女の子と二人で街を歩くという言葉だけ聞けば心躍るシチュエーションだが、しかしクロードは別の意味で心臓の高鳴りが止まなかった。ついでに冷や汗も止まらない。緊張、動揺、動悸。手や足や顔、体の末端は酷く冷たくなっているが、体の中心はまるで熱を受けたかのように熱い。その熱は背中に突きつけられた冷たい銀色から与えられるものだった。
モネをバタートラップで撃退した後、オルタナと共に住宅街へ飛び出したクロードは彼女に包丁を突きつけられながら歩いていた。他人に生死を握られる感覚。生まれて初めて経験するそれは、しかし今のクロードには重圧になり得なかった。確かに体の熱は背中に突きつけられた包丁による恐怖によって生まれているが、だがクロードの心の中はそれ以外のことで一杯で、重圧を感じる余裕なんてなかったのだ。
「そこの路地を曲がりなさい」
背中から声。オルタナのものだ。それこそ少女の、どこか耳に響く可愛らしい声だが、だからこそ酷く冷たい調子で語られる彼女の言葉はクロードの胸に突き刺さる。
今朝喋った時はここまでの冷たさを感じさせるような口調ではなかった。丁寧とは言いがたいが、それでもまだ親しみのある言葉だったはずなのだが――――
「ちょ、ちょっと止まりなさい!」
と、余計なことを考えながら歩いているとオルタナに後ろから呼び止められる。反射的に振り返ってしまい、しまったと後悔。反撃と見なされ刺されるかもと思ったが、そんなことはなく。むしろオルタナは包丁をクロードから離していた。
「路地を曲がりなさいって言ったでしょう? 何当然のように通り過ぎてんのよ!」
「えっと、路地だよね? あれのことじゃないの……?」
と言って、クロードはさっきまで自分が向いていた方向を指さす。そこには確かに広くはないが狭くもない路地がある。しかしオルタナは違う、と言って持っていた包丁で別の方向を指さした。
「あれよ、あれ」
彼女があれという場所に合ったのは路地と言えなくもないが、それにしては随分と狭苦しい家と家の間のただの隙間のような場所だった。
「全く、ボケッとしてないでよね。あんたは人質なんだから」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
というか、そもそも後ろに張り付き表情もうかがえないような体勢で「そこ」と言われても正確な場所などわからないはずだ。せめて狭い路地だと言ってくれれば通り過ぎることもなかった。
「何よ、文句でもあるの?」
色々と言いたいことは浮かぶが、彼女の金の瞳にぎろりと睨まれてしまえばとてもじゃないがクロードには言いだすことなどできない。「いや、あの……」と小声でどもるとオルタナは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃない。うじうじしちゃって、気持ち悪い」
可愛い女の子に気持ち悪いと面と向かって言われて素直に死にたくなる。肩を落とすクロードを気にかけもしないオルタナ。むしろ言い返すこともしないその態度が気に障ったのか、彼女がこちらの脛をげしげしと蹴りつける。
「ほら、さっさと入りなさい。人が来たらどうするのよ」
人質であるクロードにしてみれば、ここでうじうじして誰かに見つかった方が都合はいいはずだった。そんなことをするまでもなく大声の一つでも出してやればきっと誰かが窓から顔でも覗かせてこちらの状況をくみ取ってくれるだろう。
だけどクロードはそういうことをしようと思えなかった。むしろ彼女に言われるがまま、確かに人が来たら大変だとか考えていたりもした。間違っているようにも思えるが、実際その通りなのだ。クロードに逃げるつもりはないのだから。
人が二人並ぶだけでも一杯になってしまう路地をクロードが先頭に歩く。基本的には向こう側に抜けるだけの隙間道でしかないが、不自然な曲がり角が一つだけ存在していた。オルタナの指示でそこを曲がると、また不自然な空間が現れた。
「なんだ、これ……?」
思わずクロードは声に出す。それもそうだ。家と家の間の隙間道。そこに存在する曲がり角を曲がってみて着いた場所は白い空間だった。左右は背の高い真っ白な壁に挟まれており、奥は何かの建物の壁面により行き止まりになっている。上は右と左にある建物の屋根が交互に覆いかぶさっており、太陽の光を遮ってこの空間全体を薄暗いものにしている。
路地ではない。隙間道でもない。不自然な空間。
「この白い壁。隣の建物とは関係のないもの、だよね。どうして壁だけが作られているんだ」
クロードが口にした疑問。それに後から着いてきたオルタナが答えた。
「元々、何かの建設予定地だったんでしょ。それが途中で頓挫して、取り壊されることもなく壁だけ取り残されたとか、そんなところよ」
まるで興味なさそうにオルタナは言う。
「ここ、きたことあるの?」
恐る恐るクロードが口にした問いに彼女は答える。
「ないわよ。あるわけないじゃない。私は一昨日まで、お城の地下にいたんだから。ここは……ただ、逃亡前にいい隠れ場所になりそうって思っていたとこ」
「でもどうして。君はずっと城に監禁されていたって……」
「監禁と言っても四六時中鎖に繋がれているわけじゃないわ。ご飯もちゃんと出るし、嗜好品や本、映画だって頼めば持ってきてくれた。逃亡のための資料を集めるのはそう難しいことじゃなかったわ。ばれないように考えはしたけどね」
ここは地図に載っていない場所よ、とオルタナが白い壁に手をつきながら言った。
「この辺りの住宅街は国の監修のもとに区画整備されて作られた。だけどだからこそ、口だけの国のお偉いさまと実際に現場で動く人たちの間で色々情報に齟齬があって、割とずさんなのよ、色々と。今の地図は矛盾だらけ。土地の広さや区画の範囲、それに家の大きさなんかをきちんと照らし合わせれば、こういうあるはずのない空間がすぐに浮かび上がってくるわ」
「へぇ」
「といっても、私が見つけたわけじゃないんだけどね。世話役のメイドが、こういうの好きだっただけ」
「ああ、そういうこと」
ただどっちにしろ面白い発見ではあるよなぁ。
感心したように呟きながら、クロードはじっとこの不思議な空間を見つめていた。そんなクロードに向かって、どうしたのよとオルタナが眉をひそめながら尋ねる。クロードははっとして言い訳のように言葉を紡いだ。
「いや、ただ……凄い不思議な空間だなぁって」
「はぁ? ま、確かにここまで周りから死角になってる場所なんてそうそうないけどね。隣の家も空き家だから、尚更よ」
「えーっと、そうじゃなくてさ」
自信なさげに頭を掻きながら、続ける。
「凄い神秘的というか、幻想的というか……人工と幻想って反対のものだけど、共存しないわけじゃないんだなって」
上手く言葉にできていないなぁ、とクロードは内心呆れる。やはりオルタナには伝わらなかったのか彼女は怪訝そうな顔でこちらを睨みつける。
「ああ、いや……そ、そんなことはどうでもいいから本題に入ろうよ! 僕をここに連れてきて、どうするつもりなの?」
スイッチが入ったのか、オルタナは険しい顔をしてクロードに向き合う。
狭い空間。人目の付かない場所。女の子とはいえ、相手は武器を持っている。いや、違うとクロードは心の中で異を唱える。女の子だが、しかし違う。彼女はアルマ=カルマ。伝説の人型術式だ。何が起こるか、わからない。
オルタナに合わせてクロードもまた表情を険しくさせて緊張を高める。最悪の事態だって想定できる。警戒は十分に必要だ。
「どうするつもり、ねぇ」
彼女の声。その冷徹な響きはクロードの体を熱くする。
「どうするつもりかと聞かれれば、それは勿論人質にするつもりよ。でもま、あんたに包丁突き立てたままずっといるわけにはいかないし、拘束するための道具もない」
状況はオルタナに優位なようで、しかしその実クロードにも分はある。現状オルタナが彼に勝っている点は包丁という武器一本だ。
だがそれでクロードは油断を得たりはしない。何故なら彼女はアルマ=カルマ。一筋縄でいく相手なはずがない。
「だけど私には秘策がある。……あんたにはしばらく寝ていてもらうわよ!」
そう叫び、オルタナは腕を思いっきり後ろに振りかぶる。その手は包丁を持った手ではない、空いた方の右腕だ。振りかぶった拳は硬く握りしめられている。
何かの術式か。それとも毒か、もっと別の何かか。
様々な可能性が頭をよぎるが、しかしこの狭い空間で何をすればよいのだろう。迷っている内にオルタナの拳がクロードのお腹に目がけて放たれた。
ぽふん、という音と共に彼女の拳がクロードの腹部に激突する。それ自体には殆ど衝撃はない。ならば何かの術式かと身構えるが、何も起こらない。クロードは思わず瞑ってしまっていた目を開ける。すると目の前に何故か焦った様子のオルタナ。額に汗を浮かべた彼女はもう一度先程と同じように腕を振りかぶり、拳をクロードにぶつける。
また、ぽふんと気の抜けるような音がした。
「な、なんで!? おかしいわ! どの本でも映画でもこうすれば大抵の人間は気を失うはずなのに!」
動揺したオルタナの口から放たれる言葉にクロードは思わずずっこけそうになる。
「ハッ! あんたまさか人間じゃない……? 人の形を模した魔法生物!?」
続けられた言葉にクロードは思いっきりずっこけた。
「あれ? ちょっとは効果あったのかしら?」
「いや……そうじゃなくて、もしかしてそれはよくある腹部を殴って人を気絶させるっていうあれのこと?」
オルタナは真剣な面持ちでだったらなんなのよ、とクロードを睨みつける。が、何故かその視線はさっきまでの怖いものとは違って見えた。小さな子供が必死で自分を怖く見せようとしているような、そんな視線なのだ。
なんだ、全然怖い子じゃないじゃないか。
「あれは技術というか、筋力が必要だから。多分、君の細腕じゃ無理だと思うよ」
そう言うと、オルタナは真剣な顔を崩すことなく顎に手を添えて成程、と小さく呟いた。
「あれはそういう仕組みの技だったのね。てっきりオーランド式の呪術の一種かと思っていたわ。ルーンの収集の様子もなかったから、私でも使えるのかと勘違いしていたわ」
感心した風に何度か頷くオルタナ。
「やるじゃない、あんた。落ちこぼれだと聞いてはいたけど、やっぱりモネの弟なのね」
クロードは彼女の言葉を瞬時に否定した。
「そんなことないよ。僕は落ちこぼれだ。こんなこと誰だって知っている。ずっと城にこもっていた君は知らないかもしれないけど」
半ば反射的に口にしたその言葉に、少しだけオルタナを馬鹿にしているような響きが含まれている気がして、クロードはしまったと思う。しかし彼女は意外にもそこに反応することはなく難しい顔をしてため息を吐くのだ。
「損な性格ね。素直に褒められておけばいいのに」
不正を許せないのかしら。
そう言われた。
どうなのだろう。自分はそんな正しさを持つ性格ではないと思う。ただ自信がなかっただけだ。青騎士の弟でいる自信がなかったのだ。
「で、どうするの?」
先程自分が投げかけた質問を返された。不機嫌そうに口を尖らせながらオルタナはどうするのよとクロードに詰め寄る。
「え? え? どうするって、それを僕に聞くの?」
「仕方ないじゃない。私が用意していた秘策はただの勘違いだった。もう打つ手なしよ。それにさっきお腹を叩いた時に気づいただろうけど、私はかなり非力よ。走ったり飛んだりはできても、単純な力勝負じゃ子供にだって負ける自信があるわ。加えて私の武装はこれ一本」
オルタナは持っていた包丁を軽く振って見せる。
「これだけであんたを倒せるかどうかと聞かれれば否と答えるわ。魔法学園に通っているのなら多少は体術の心得もあるんでしょう? さっきみたいな不意打ちでもない限り私はあんたには勝てない。その上で私はあんたにどうするの、と尋ねる」
包丁がクロードの眼前に突きつけられる。切っ先はこの暗がりの中でも鈍く光を帯びている。、
「逃げてもよし、立ち向かってもよし。逃げるのなら追いかけるし、立ち向かうなら容赦はしない。どちらにせよあんたには勝てないだろうけど、それでも抵抗はする。私はこんなところで捕まるわけにはいかないの」
「なんで、そこまで……」
「いいから答えなさい。あんたはどうするの?」
彼女は自らの敗北を語っていた。どちらに転んでも自分はあんたに勝てない。そう語っている。しかし彼女の声に諦めの響きはない。彼女の瞳はまだ勝負を諦めていない。自信に溢れるその姿は決して屈しないという覚悟の表れだった。
そんな彼女に迫られた選択。クロードは悩むことはなかった。両手をゆっくりと上げて選択を口にした。
「降参」
「へ?」
ポカンと口を開けたまま、オルタナは動かない。聞こえなかったのかと思ったクロードは、
「え? あ、その……こ、降参!」
「違うわよ! 声が小さくて聞こえなかったとか、そんな間抜けなことじゃないわよ!」
違うらしい。ならば何故彼女は固まったのだろう。よくわからず首を傾げるクロードにオルタナは脛蹴りを連続でお見舞いする。
「なんで、その流れで、あっさり、降参、できるのよ!」
「いやだって、包丁超怖いし」
「ヘタレか!」
オルタナが声を荒げる。眉間に向けられた包丁がそのままブスリと行きそうな勢いだったので、クロードは慌てて違う違うと必死に叫ぶ。
「確かに怖いってのもあるけど、ただちょっと気になったんだ!」
「何が、気になる、っていう、のよ!」
「痛い、痛い、脛蹴るのやめて! き、気になったのは君のことだよ!」
ピタリ、とオルタナの動きが止まる。脛を蹴るのをやめて包丁を下ろす。ほっとクロードが胸を撫で下ろすのも束の間。彼女は険しい顔で告げる。
「私のことですって?」
「そ、そうだよ。君の、アルマ=カルマのこととか……」
「…………」
オルタナは沈黙。それがまるでこちらの言動を疑っているようで、クロードは焦ったように言葉を続ける。
「う、嘘じゃないよ。僕だって魔法師を目指す人間だ。かの天才が作り上げたっていう人型術式に興味がある。それに君が監禁されていたこととか、姉さんも関係しているみたいじゃないか」
自分の姉が関係しているとわかれば、弟として動かない訳にはいかない。
そんな台詞をクロードは取ってつけたようだと自分でも思いながら口にした。
「今ここで君から逃げることは簡単だ。逃げさえすれば騎士団が僕を保護してくれる。これ以上に安全な守りはない。だけどそうしたら絶対に僕は蚊帳の外へ追い出される。僕はまだ子供だ。魔法師にだってなっていない、なれるかどうかもわからない落ちこぼれ。そんなやつにこの件に関わることを国が良しとするはずがない。適当に嘘を吐かれて放り出される」
モネが関わったことがわかっているのだから彼女に聞けばよいのではないかとも思ったが、それも駄目だ。騎士団の命令とあればモネは決してクロードに事情を話したりはしないだろう。その忠誠心あってこその騎士だ。
「わからないことが沢山あるんだ。知りたいことも。君から離れたら、全部わからないままになってしまう」
そこでクロードは言葉を止めた。まるで感情を垂れ流すように夢中になって一気にまくしたてた。いつものたどたどしい言葉ではない。はっきりとした意思のある言葉。オルタナは一瞬だけその顔から表情を消した。だが次の瞬間には険しい顔を見せる。
「わからないから、知りたいから、そのために私と一緒にいると?」
「そう、だよ。君も言っていたよ。僕は人質なんだろ?」
それに、知りたいという気持ちの他にもクロードは単純にオルタナと離れることを惜しいと思っていたのだ。こんな可愛い女の子とせっかく知り合えたのだから、という俗っぽい思いも勿論あることはある。だがそれだけではなく、なんだか彼女とは離れない方がいい気がしたのだ。いや、離れない方がいいではなく、離れてはいけない。そんな風に思ったのだ。その気持ちの意味は自分でさえもわからない。そんなわからない言葉を口にしようとして、一度詰まって、それでも開いた口から出てきた言葉は、
「それに、君の髪はとても綺麗な色をしているから」
だった。かなり意味不明である。自分で言っている意味がわからず頭を抱えそうになった時、オルタナが薄く微笑んだのだ。それは先程、モネに向かって見せていた微笑み。色々な感情が込められた、だけど優しい笑み。自然、クロードは目が離せなくなる。
「おかしな人間ね、あんた」
すると彼女の顔からはあの微笑みが消え、代わりにどこか得意げな微笑が張り付けられた。
「自分から人質になりたいっていうんなら是非もないわ。なるべく有意義に利用してあげる」
こうして少女オルタナと人質クロードの逃亡劇が始まった。
その行く末はまだ誰も知りえない。