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だけど、それは、もう遅くて

 影がこちらへ向かって走ってくる。ぼやけた輪郭のようなその影は、階段を駆け上がり、自分に向かって手を伸ばした。

 そんな彼の顔をオルタナはまっすぐに見つめた。

 顔のない影。いや、顔がないのではない。ただ、見えないのだ。不完全な自分の世界では、彼の表情を見る事すらできない。それでも、この距離からでも彼の感情は充分すぎるほど伝わってきた。表情の見えない世界のはずなのに、彼の抱える心だけはどうしてだかはっきりと伝わってくるのだ。

 それは渇望。羨望。どうしようもないほどまっすぐで、汚くて綺麗な欲望。

 クロード・ルルーはオルタナを望んでいる。

 私は、望まれている……。

 そのことが否が応にも理解できてしまった。

 彼の腕が、届いた。

 その両腕が強い力でこちらを抱き寄せた。しかしまともな感覚のないオルタナの体では、その両腕の感触も感じられない。それはまるで見えない何かにひっぱられているような体験だった。だから彼が自分を強く強く、抱きしめていることにもすぐには気づけなかった。彼の胸に抱かれている。そのことを理解して、自分はそんな彼の体温すら感じることが出来ないのだということを思い出し、また一層自分のことが嫌いになる。また一層、人が羨ましくなる。

 自分の中に生まれた卑しい何かを感じながら、オルタナは自然と考えた。

 今、彼はどんな顔をしているのだろう。どんな色をしているのだろう。

 彼女は驚く。彼のことを知ろうとしている自分自身にだ。

「よかった……」

 こちらを抱きしめたまま、クロードが呟いた。

「やっと、やっと届いた」

 声が震えていた。泣いているのだろうか。感情の昂ぶりによって、人は涙を流すらしい。涙を見ることも感じることもできないオルタナは知識としてしかそれを知らないのだが。

「届いたんだ……!」

 震える声で、クロードは何度も言った。ようやく届いたのだと。届かぬ高みへ伸ばした腕はオルタナを掴んだ。彼が渇望したものに届いたのだ。そのことが嬉しくて、同時に何かが物悲しくて、クロードは泣いている。声を震わせて、泣いている。

「…………」

 彼に抱かれたまま、オルタナは抵抗もせずに天井を見上げた。浮遊城によって生み出された幾千もの武器は、もうそこには残っていない。全てクロードとモネによって砕かれて使い物にならなくされてしまった。壊れた武具の残骸は無残に床に散らばっている。

 防衛機能が発動しない。浮遊城は抵抗の手段を失ったのだろうか。いや、そんなことはないとオルタナは考える。ありとあらゆる全てをその身に内包するこの城はもっと多くの人を殺すための手段を持っているはずだ。にも関わらず、それらが発動する様子はない。今の、無防備極まりないクロード・ルルーを殺そうと動く気配は全くない。それは防衛機能にとってクロードが脅威ではなくなったことを意味していた。彼が弱いから? それとも強すぎたのか? どれも違う。クロードが防衛機能の判定から外れた理由。考えられるのはたった一つ。ここまでに繰り広げられたいくつもの戦闘で、クロードが一度もオルタナを傷つけなかったからだ。傷つける意志すら見せなかったからだ。だから防衛機能は彼を脅威ではないと判断した。

 だがそれは結局、オルタナの推測でしかなかった。本当のところは彼女にも防衛機能がクロードを攻撃しなくなった理由はわかっていない。実際、暴走状態の防衛機能がそんな柔軟な対応ができるのかどうかは甚だ疑問であった。もしかしたら案外、もっと別の理由があるのかもしれない。そう、例えば――――死にたいはずだったのに、殺してくれと願ったはずなのに、今のクロードを突き飛ばす気も起きない自分の心変わりとか……。

 防衛機能が自分の想いに反応した。本来ならあり得ないことだ。だけどそんなあり得ない奇跡が起こってもいいと思った。自分の中に生まれたこの感情こそ、紛れもない奇跡のはずだからだ。

「ねえ、クロ? 私ね、あんたのことが嫌いよ」

 無理矢理に言葉を絞り出す。それはまるで言い訳のようにさえ聞こえた。

「だって私は人のことが嫌いだから、人間が嫌いだから、だからあんたのことだって大っ嫌いなの」

「うん……」

「おまけに世界だって嫌い。全部全部嫌いなの。私よりも幸せそうなやつはみんな嫌い。なにより、そんな自分が嫌い。あたしは好きなものなんて持っていない、何も持っていない。つまんない奴。小さくて、卑しい女」

 だけど、私はあんたが嫌いだけど。

「オルタナは、クロード・ルルーが死ぬほど嫌いだけど、あんたのことが大っ嫌いだけど――――それでも私を好きだと言ってくれる? こんな私をまだ好きだって言ってくれる?」

 なんて卑怯な言葉だ。

 なんて自分勝手な思いだ。

 嫌いだけど、好きだと言ってほしい。必要だと言ってほしい。愛してほしい。まるで子供の我が儘のようだ。

 クロードはオルタナから体を放して、その手を取った。

 手を取って、眼を見て、そうしてちゃんと話す。

 自分の視界ではクロードの目線がどうなっているかなんてわからないけれど、それでもちゃんと彼が自分の目を見ていてくれるような気がした。そうだったらいいなと、そう思ったのだ。

「……もう何度も言ったはずなんだけどな」

 声には少しだけ、恥ずかしそうな響きがあった。

「もっと言わなきゃ駄目かな?」

「うん。もっと言って。何度も言ってよ。私がきちんと信じられるまで、何度だって繰り返して」

 好きだと言って。

 愛していると囁いて。

 そうでなければオルタナという未完成な人間の、弱い心は何も信じられない。信じたいと思った言葉すら、信じられない。

 クロードはオルタナの手を握りながら、空いた片方の手で頬を掻いた。

 あ、照れてる……?

 さっきまで何度も繰り返していた言葉を、こうして改まって言うことが恥ずかしいようだった。顔のない影は照れくさそうにしながら、言葉を紡ぐ。

「好きだよ、オルタナ。大好きだ」

 真っ直ぐな言葉だった。真っ直ぐに望まれていた。

 どうしてだろうか。それがわかっただけで、こんなにも救われた気になるのだ。何かを許されたような、そんな気持ちになるのだ。

 オルタナはもう自分が何をしたかったのか、どうしてこんなことになってしまったのか、わからなくなってしまった。取っておいたはずの何かが、どこかへ行ってしまったのだ。ただ、ただ思う。もしも彼と一緒にいられたら、こんなにも自分のことを望んでくれる人と一緒ならば、もしかしたら痛みなどなくても生きていけたのかもしれない。何もない心のまま、それでも穏やかに過ごせたのかもしれない。

 ――――だけど、それは幻想だ。決して敵わない夢物語。もうすでにオルタナは取り返しがつかないところまで来てしまった。もう、引き返すことなどできないのだ。

 ごめんね、ごめんね、クロ。私はあんたの想いに答えてあげられない。

「オルタナ……?」

 それ以上何も言わなかったオルタナに違和感を抱いたクロードがこちらの顔を覗き込みながら呼んでくる。それにオルタナが反応を返すよりも先に、事態は最悪の方向へと転がりだす。

 鳴り響いたのは轟音。そして巨大な振動。まるで世界そのものが嗚咽と共に震えだしたかのような音と衝撃にクロードとモネが慌てた。

「な、なんなんだ一体……!」

 言いながら、クロードは再びオルタナをその胸に抱き寄せた。守ろうとしてくれているのがわかって、そのことがとても嬉しくて、オルタナは少しだけ笑いそうになってしまう。だけどそれ以上の悲しみが襲ってきたので、笑えなかった。引きつったような顔をして、オルタナは胸の中から彼を見上げて呟く。

「ごめんね。もう、遅いの。もう、間に合わないの」

 ――――時間切れよ――――

 音が鼓膜を震わせる。オルタナは、ただ一つまともな器官から得られる圧倒的な情報に眩暈を覚えた。

「これは……」

 いち早く事態を察知したモネが自分達が降ってきた際に開けた天井の穴から、その先の空を見つめながら叫んだ。

「高度が下がってる……城が落下しているんですの!?」


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