共闘する伝説
感覚の喪失。認識能力の欠如。
彼女の抱えた不足。クロードは思い出す。彼女と過ごしたあの輝かしい一日を。彼女がくだらないと吐き捨てたあの日を。そうすれば不自然な点はいくらでも出てきた。何より、彼女の視界のことがクロードは気になった。
見えているのに、見えていない。世界を曖昧にしか認識できない。それが一体どういうものなのか、クロードにはわからない。彼女から見ればクロードもまた持つ者なのだ。
努力を踏みにじられ、虐げられ、笑われて傷つけられてきた。
だけど彼女にはそれすらなかったのだ。
何もない。何も存在しない。無を積み重ねるだけの三百年。その重みが一体どれほどのものなのか、それもやはりクロードにはわからないのだ。
苦しみがないことを彼女は苦しんだ。それを理解してあげられないことがクロードはとても歯がゆく感じた。
「オルタナは、君は、どこまで世界が見えているんだ……?」
聞いても仕方ないことだと知りながら、それでも問いただした。
「僕が描いたあの絵は、君には見えていたのか?」
路地裏で描いたあの絵。彼女へ向けて描いた〝世界〟の絵。
「……見えているわけないでしょう」
オルタナは一蹴する。
「私の認識能力じゃあ、そこに何かが描かれていることくらいしかわからない。私には文字と絵の区別がつかないし、そもそも色だって見えないんだから」
見えるわけがないと、彼女は無表情に、しかしどこか悲しそうに言った。
やっぱり届いていなかった。彼女へ向けて描いた絵は、そこに込められた意味は何一つ、彼女の心まで届いていなかった。
本当にお笑い草だよな……。
それなのに、自分は彼女との絆を信じていたのだ。自分達はただの一度も、心を通わしてなどいなかったというのに。だけど、それならそれでいいとも思うのだ。勘違いを続けるよりも遥かにましだ。今までが駄目なら、これから通わせればいい。届かせればいい。伸ばした手に思いを乗せて、彼女のもとへと。
「姉さん……」
「ええ!」
決意を込めた視線で姉を見る。するとモネもまた決意を新たに頷いた。
「あの子が死にたい理由がわかりましたわ。なら、もう迷う必要はありませんの。無理やりにでも連れ帰って、それで助けてあげるんですわ。彼女の世界を明確にする方法を一緒に探しましょう!」
クロードは大きく頷いて、また視線をオルタナへ返した。まっすぐに、彼女を見つめる。きっと彼女の見る世界ではそんな自分の顔すら認識できていないのだろうけど、それでもまっすぐに見つめた。
「……もう、いいわよ」
すると、オルタナは疲れたような声で言った。
「もう、あんたたちに話すことは何もない。どうせわからないだろうし、わかってもらおうとも思わない。これ以上の問答は無意味よ。だから、もういいわ」
もういい、と彼女は言う。だがそれは死ぬことを諦めたわけじゃない。彼女がもういいと思ったのはクロードたちの理解を得ることだ。気持ちはわかってもらえなくても、それでも願いだけでも理解してもらう。そうして楽に殺してもらうことを彼女は諦めた。
「もう楽に殺してもらおうとも思わない。楽に殺されるとも思わないで」
「……やっぱり、戦わなくてはいけませんのね」
モネが悲しそうに呟く。オルタナがほんの少しだけ口角をあげた。
「……私はこの城という魔法の中心的存在。言うなれば核よ。そんな私のいる部屋にまで侵入してきて、それでどうして防衛機能が発動しないと思った? それはね、私が我慢していたから。必死になって制御していた。頑張って、加減してあげていたのよ。私だってできることなら誰も傷つけてくないんだから」
だから楽に殺せるように我慢していた。
「でも、もうそんなのはやめる。あんたたちは私を殺してくれないみたいだから、殺さないといけない状況を作ってあげる」
気をつけなさい、とオルタナは片手をあげながら言う。
「本気で来ないと、どっちか片っ方死んじゃうわよ」
挙げた腕を振り下ろす。それに呼応して、部屋の中、クロードたちとオルタナとの距離の丁度真ん中あたりが強い光に包まれた。点滅する光の色は黄金。まばゆい光に思わず目をつむる。そして目を開ければ、そこには見たこともない鎧を着た人物が立っていた。
男性にしても驚くほど大柄な体。その全身を覆う、黄金色の鎧。体にぴったりとフィットするような流動的なデザインをしたそれは、角ばった部分が一つもなくつるりとした印象を受ける。同じ黄金色の兜は顔を隠してしまっているが、その奥から覗く異様に鋭い視線は確かに感じられた。その目に射ぬかれると、クロードはそのまま刺し殺されるのではないかと言うほどの恐怖を背中に感じた。
何だ、あいつは……!
身にまとう鎧も異様ではあった。だがそれ以上にその鎧の内から漏れる気迫がクロードを怯えさせた。今まで感じたこともないような何かが、隙間から漏れだし世界を浸食している。
あれは、一体。
クロードほどではないが、オルタナもまた、あの黄金色の鎧に少なくない恐怖を感じているようだった。彼女の横顔は既に戦場にいるときの鋭いものに変わっている。まっすぐに、鎧から目をそらそうともしない。
「ふふふ、防衛機能にモネの実力を教えすぎたのは間違いだったわね」
オルタナが微笑と共に語る。
「エンシェントドラゴンなんて伝説を倒しちゃったもんだから、もっととんでもない伝承が姿を現したわよ」
「伝承、だと?」
「そう。何より厄介なのは、こっちの伝承は本物だってこと。生きながらにして伝説になった男。あんたたちもよく知っている相手よ。この国で最初に騎士を名乗った男。伝説の騎士――――英雄リチャード・リオン・オードラン」
「まさ、か。あの英雄が!?」
三百年前にこの黄金城の城主を打ち破ったという伝説の英雄が今目の前にいるというのか。確かに鎧の中から感じられるこの気迫は伝説並みだった。だがそれでもにわかには信じがたい。
「信じられませんわ……」
「そう驚くことじゃないでしょう? この城は全てを内包するんだから」
「だからといって、実在の英雄までも内包しているなんて……」
机上の怪物だけじゃなく、現実に存在した英雄までも出現させることができる。あらためて彼女の魔法の強大さを思い知る。だが同時に、一つおかしな点をクロードは見つけた。
「あれがかの英雄だったとして……だけど、あの鎧はなんだ?」
伝説の騎士が黄金の鎧を着ていたなんて記述は見たことがない。エンシェントドラゴンとは違い実在の人物であった彼ならば、全身黄金の鎧というわかりやすい特徴があったとしたら何かしら記述として残りそうなものだが……。
というより、あの鎧はむしろもっと別の……。
そこで思い出した。
「確か、黄金城の城主が全身を金で出来た鎧に身を包んでいたって……」
そんな話をアルケミアの大図書のどこかで目にしたはずだ。黄金の城に黄金の城主。その組み合わせはわかりやすく、忘れたりなどしない。
「本当に、そいつは英雄なのか……?」
「嘘じゃないわよ。さすがに、そんな嘘はつかないわ。でも、あんたの言っていることもあってるわ。これはかつての黄金城の城主アレイスターが身に着けていた鎧。それを身に付けた英雄リチャードなのよ」
三百年前、英雄が倒した男が来ていた鎧を、今ここに現れた英雄が身につけている。
「あはははは! 防衛機能もたまには面白い演出をするじゃない! まあ、モネを打ち破るために最適を選んだ結果なのだろうけど、随分と皮肉な結果よねぇ。現代の最強に対抗するために、かつては敵対していた伝説たちの力を掛け合わせるだなんて」
オードランを滅ぼしかけた悪夢と、それを守った二つの力が今目の前で一つとなっている。そのことにクロードはたじろぐが、モネはそうではなかった。
「面白い、ですわ」
そう言って、にやりと笑う。
「たかだか機能が選んだ最適が、このわたくしに通用するかどうか、試してみましょう」
そう言って、彼女は軽く腕を振るう。すると、エンシェントドラゴンにやられてボロボロになっていた鎧や服が炎を纏い、その姿を復元させていく。
「我が国の英雄の前ですもの。きちんとした姿で戦わせていただきますわ」
既に二本の剣もその両手に復元されている。炎で編まれた鎧と剣を持って、モネは高らかに名乗りを上げる。
「王国騎士団六番隊隊長《青騎士》モネ・ルルー・レヴァンテイン……ですわ!」
その堂々とした名乗りの前に、しかしリチャードであるという鎧の男は何の反応も返さない。ただ全てを圧倒する気迫を垂れ流しているだけだ。
「名乗る名はない、と……。それならそれで構いませんわ。義は通しましたの。ならばこちからから、行かせてもらいますわっ!」
剣を十字に構え、モネが鎧の男へと特攻する。移動魔法を使った彼女得意の高速移動によってたったの一歩でその距離を詰めて見せた。十字に構えた剣をそのまま、男へとクロスさせるように振り下ろす。
だが、駄目だ。それでは意味がない。
あれが本当に城主アレイスターの黄金の鎧だとしたら、モネの攻撃は通用しない。
剣が鎧へと届いた。しかし、その鎧がひしゃげるような結果も、剣の方が折れてしまうような結果も生まれなかった。鉄と鉄がぶつかり合う音すら響かない。振りぬいたはずの剣は何の結論も生まなかった。
モネはその体勢のまま、何が起こったのかわからず呆然としている。それはとても危険な状態だった。敵を前にして、目の前の現実を手放しかけている。
「姉さん、危ない!」
叫んだ。鎧の男が腕を振り上げたのが見えたのだ。クロードの声に反応して、モネは咄嗟に防御の姿勢に移る。鎧の男の拳がモネへと襲いかかる。彼女の反応は殆ど原始的な反射でしかなかっただろうが、それでも上手いこと剣で男の拳を受けることができた。しかし驚くことに男の拳がモネの剣を砕いたのだ。さらにそれだけでは勢いは止まらず、剣の先彼女の胸元の鎧にまで拳は到達。鎧の男の拳はモネの胸部を殴打し、彼女の体を吹き飛ばした。
「姉さん!」
水平方向に吹き飛んできたモネを受け止める。その衝撃は相当なもので、クロードは自分の腕や足が悲鳴を上げるのを感じたが、それでもなんとかふんじばった。勢いが止むと、彼女と一緒にその場に崩れ落ちてしまう。それほどまでに強くモネは飛ばされていたのだ。
「かはっ……」
クロードの胸の中でモネは血を吐いた。王国最強の騎士である姉が簡単に負傷したことに驚いて、クロードは思わず体を震わせた。それを彼女も感じ取ったのだろう。すぐに顔をあげて、大丈夫だと告げる。
「鎧の防護魔法が完全に壊れていなかったのが幸いでしたわ。衝撃は相当でしたが、おかげで大した怪我はしてませんもの」
苦笑しながら、モネはクロードの腕から離れて立ち上がる。それに合わせてクロードも彼女の横に立った。
「でも、どういうことなんですの? 私の剣が通じなかった……それだけ鎧に強度があった? いえ、ですがあの感触はなんというか、防がれたというよりも〝なかったこと〟にされたような。振りぬくはずの剣がただ鎧に〝乗せられた〟ように変化したみたいな……」
「その認識であってるよ」
モネに対して頷いて見せてから、クロードはオルタナへ問う。
「そうだろう、オルタナ? 三百年前、アレイスターと契約し、英雄リチャードと戦った君なら知っているはずだ。鎧の効果を」
「その口ぶり、あんたこそよく知っているじゃない。王家の人間でも、歴史学者でもない学生が普通は知っていることじゃないわよ」
別に大したことではなかった。アルケミアの大図書館の蔵書の全てを呼んでしまったが故、自然とついただけの知識でしかない。こんなことにでもならなければ、役にすら立たない知識だ。
「教えてください、クロ。あの鎧、一体どんな魔法武装なんですの?」
モネにそう問われ、クロードはいつか呼んだ古めかしい歴史書を頭の中で紐といた。
「《カルナ》はあらゆる害意から主人を守る絶対の鎧。その効果は『攻撃の無効化』。笑っちゃうほど単純な、最強の鎧だよ」
エンシェントドラゴンや封剣のように魔法だけを無効化するのではない。攻撃そのものを〝なかったこと〟にする。因果律そのものに干渉し全ての害意を無効化する最強の鎧。
「そうですの。だから、あの時わたくしの剣は通用しなかったんですわね……」
モネは悔しそうに表情を歪める。
「しかし、そんな埒外な伝説を引っ張りだされては、わたくしたちに打つ手はありませんわよ……? あらゆる攻撃の無効化など、どうやって倒せばいいんですの?」
「…………」
カルナの能力の前にモネは困惑していた。同じようにクロードも脅威を感じていたが、しかしそれはモネとは違いカルナという絶対の鎧に対してではなかった。
確かにあの鎧は反則級の埒外な伝説の一品だ。しかし、弱点が全くないわけじゃない。何より、あの英雄リチャードは一度あれを打倒しているのだ。その経緯はリチャード自身が書き記した歴史書にも書かれている。つまりカルナは決して、無敵の鎧というわけではない。人が扱い、人が着る以上、必ずどこかに敗北の可能性が生まれる。
だからむしろクロードが警戒していたのは鎧そのものではなく、その中にいる英雄リチャードだった。彼は今、己が来ているカルナ。それを着たアレイスターを倒している。何より後世にも広く伝わる数々の華々しい活躍がクロードの警戒を際限なく高めていく。
戦場を駆ける最強の騎士でありながら、政治にも巧みな手腕を発揮させた最高の王として今もリチャード・リオン・オードランの伝説は語り継がれている。
だが、あの膂力はなんだ……?
彼の戦場での無双のほどは、どの歴史書にも描かれているが、しかしそれにしても先程の一撃は強すぎる。ルーンが発光している様子もなかった。だからあの一撃の際、魔法は発動されていないはず。なんの魔法的強化も行われていないはずの拳が、モネをあそこまで吹き飛ばすものだろうか。
あれじゃあ、まるで歴史書のそのままの実力じゃないか……。
良くも悪くも、歴史というものは誇張されるものである。どんな戦績を残した英雄も、書物のままの実力というのはあり得ない。人を伝い文字を伝う内に、現実は歪められ大きく劇場的になっていくものだ。
目の前の英雄の一撃は、その誇張された歴史と全く同じだ。
悩むクロード。英雄の不自然を解決しようと思考を巡らす。すると、そんなクロードを見つめてオルタナが言った。
「……先に、クロを殺しちゃいましょうか」
無表情のままの彼女からの死刑宣告。
「ええ、そうね。それがいいわ。先に弟が死んじゃえば、モネも私を生かしておけなくなるでしょうし」
「そんなことはさせませんわ!」
モネが両手をを広げてクロードの前に立つ。弟を守る盾となって、彼女は背筋を伸ばして宣言する。
「クロは殺させない。そしてあなたもですわよ、オルタナ! わたくしは誰も死なせないし、殺さない。あなたを殺さないためにも、あなたにクロを殺させない!」
「……冗談よ、熱くならないでよ鬱陶しい。その鎧もリチャードも、全ては暴走する防衛機能に従っているだけ。私の意思は介入していない。だから、どっちを先に殺すかなんて選べないわ」
ただ、とそこで言葉を切ってオルタナは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「どうせ、弱い方から死んでいくんでしょうけどね」
――来た。英雄リチャードが徒手空拳のままにモネへと襲い来る。大ぶりだが、しかし異様な速度を持って振りぬかれる拳をモネはなんとか避けながら叫ぶ。
「いいでしょう。かかってきなさい英雄よ! 絶対だろうと無敵だろうと、戦わないものに勝利は訪れませんわ!」
言って、モネはその腕に再び炎で編んだ剣を出現させる。そしてその剣を振り上げて鎧へ叩きつける。しかし絶対の鎧の前に衝撃は無効化され意味をなさない。その間もリチャードの激しい拳の嵐が彼女を襲う。
「まだまだ!」
一撃で勝負を決められかねないほどの威力をもった英雄の攻撃を華麗に避け、時には切っ先でその方向を変えて流しながら、モネは何度か剣をその鎧へ叩きこんだ。
「火、火、重ねて炎。蒼天の紅。滾る炎は道となり、数多の力を一つの方向に!」
その間に詠唱を済ませる。彼女の周囲に無数に集まったルーンが消費され魔法が発動する。出現した蒼き炎の球体はいくつもの線となって、様々な方向から英雄リチャードへと集束する。数え切れない数の線状の炎による同時攻撃。常人ならひとたまりもない強力な魔法だが、しかしそれらは鎧にぶつかった瞬間〝なかったこと〟にされ瞬時に消滅していった。
「ううっ」
モネが唸る。それは悔しさからくるものではない。劣勢からくる悲鳴のようなものだった。
+
これはいけませんわ!
モネは自分が圧倒的に圧されている事実を知る。
剣も魔法も効かない相手。それでもとりあえず対等に立ちまわれるかと思っていたが、その見通しは甘かった。
いかに王国最強の騎士であっても、自分の肉体そのものは少女のものだ。それに比べて自分が対峙している鎧の男の身長は二メートルを優に超し、三メートルにまで届かんとしている。通常、身長の高い人物のバランスは悪くなる。しかし彼のがっしりとした大柄な体型がそれをカバーしていた。丸太のような太い足が、大人の男であっても腕をまわしきれなさそうな腰回りが彼に文句なしの安定感を与えていた。
その〝土台〟から放たれる拳はまさに砲撃だ。強く作られた下半身は彼の巨大な肉体の膂力を十全に発揮させている。そんな砲撃の嵐のなか、モネはとうとう大した反撃も出来ずに劣勢に追い込まれてしまった。
結局、自分が優れているのはルーンの収集効率であり、それによる魔法の破壊力だけなのだ。それ以外の肉体的な素質や術式構成に関しては他の隊長たちにも劣ってしまう。相手への魔法行使が封印されただけで、このざまだ。まったく王国最強が聞いて呆れると自嘲する。
これ以上肉体強化魔法をかけると、行動に支障が出ますわね……。
魔法による肉体の強化は己の限界を簡単に越えてしまう。肉体そのものが持つ許容を超えた強化は自分の肉体を傷つける結果にもなりかねない。特になんでもない魔法がそのルーンの膨大さによって大魔法へと変わってしまうモネは強化魔法を使う時は一層注意しなければならない。
それでもなんとかぎりぎりまで強化をかけた。それが今の状態なのだ。つまり、今以上の筋力や反応速度は望めない。そのうえでこの化け物のような英雄を倒さなければならないのだ。
ああ、またですわ。
目の前に立つ鎧を着た大男の姿が徐々に徐々に大きくなっていく。それは何も彼が本当に大きくなっているわけではないだろう。それを見ている自分の存在が小さくなっている。彼に対する恐怖から、その存在が大きく見えているのだ。
こちらを刺し貫くような視線。鎧の隙間から洩れるような気迫に圧倒され、モネはまた恐怖を抱えてしまう。エンシェントドラゴンと戦った時のような恐れを抱いたのだ。それでも普段通りに体を動かせたのは、先に机上の怪物の戦闘を終えたからだろう。耐性がついた、というよりも、恐怖との付き合い方がわかったのだ。
それは成長かもしれない。だがその程度の成長如きで埋められるほど、自分と目の前の男の差は小さくない。
砲撃のような攻撃がモネの頬をかすめた。直接当たったわけでもないのに、その勢いに姿勢が崩される。
一体、どこにこんな力が……!
肉体の大きさは強さの証だろう。体が大きいということは重いということ、重いということはそれだけで攻撃も重くなる。しかしそれにしても、目の前の英雄の攻撃はいささか強すぎるように感じた。
本当に、彼は人間ですの?
そんな疑問が頭に浮かぶ。その間にもモネは崩れた姿勢をなんとか戻そうとするが……視界の中、鎧の男の拳がこちらへ迫るのが見えた。予想していたよりもずっと速い。このままでは姿勢を戻すよりも先にやられてしまう。移動魔法で自らの体を吹っ飛ばすことも考えたがもう遅い。すでに拳は彼女を捉え――――しかしそれがモネへと届くことはなかった。
思わずつむってしまった目を開ける。そこにあったのは黒色だった。
「クロ!?」
目の前に弟がいた。鎧の男の突きだされた拳に対して彼もまた拳を突き出している。あの大砲のような一撃を同じ攻撃で相殺したというのだろうか。
「一旦離れるよ、姉さん!」
クロードはモネの手を取り後ろへ下がる。鎧の男もすぐには追いかけてこなかった。先程のエンシェントドラゴンにも似たのろのろとした動きで首を回してこちらを観察している。
「クロ、手は!? 大丈夫なんですの!?」
あの大砲のような一撃を素手で受け止めたのだ。それも同じ拳でだ。自分よりもクロードの体はよほど鍛えられていることはわかっていたが、それでもただでは済まない事は明らかだ。
「見せてみなさい!」
そう言って、彼の手を取ってみるが……外傷は見当たらない。怪我らしきものは何もなかった。
「大丈夫だよ。ちゃんと無効化されてる」
「どういうことですの?」
「さっき、あの鎧に剣を叩きつけただろう? その時、手ごたえを感じた? 剣が鎧に当たったっていう衝撃は姉さんの手に伝わってきた?」
問われ、剣の柄を握る手に力を入れたり抜いたりしながら、その時のことを思い出す。確かに不思議なことに、自分はあの時まったく手ごたえを感じていなかった。そうそれこそ、振りぬくはずの剣がただ鎧に〝乗せられた〟ような感覚だ。
「あの鎧は与えられた衝撃を消すんじゃなく、攻撃そのものを〝なかったこと〟にする。だから手ごたえがなかった、つまり、剣をぶつけた結果、こちらに帰ってくるはずの衝撃も《カルナ》は無効化するんだ。鎧の無効化は双方向に作用するんだ」
「えっと、つまりどういうことですの……?」
クロードの言う理屈は少しだけモネには難しかった。
「……極端な話はその防御の瞬間、自身が引き起こすはずの衝撃も無効化してしまうんだ」
だから向こうの攻撃が当たる瞬間、こちらの攻撃を同じように当ててやればダメージを与えることはできなくても、こちらもダメージを受けないのだとクロードは語った。
いやいやいやいや、理屈はなんとなくわかりましたけど、それでどうにかなる問題ですの?
相手の攻撃がヒットする瞬間。その一瞬に自分の攻撃を合わせるように放つ。当然のように語られたそれは、しかしとんでもない技術を必要とする離れ業のようにモネには思えた。相手の行動、その機微から予想される攻撃のタイミングに自分の攻撃を合わせる。考えてはみるが、とてもじゃないが自分には出来る気がしなかった。一体いくつのことを同時に考えながら動かなければいけないのか。そんな器用なことはできない。
なにより、例え可能だとしてもそれを実行することができないだろう。クロードだって、先程自分があの拳に吹き飛ばされるのを見ていたはずだ。あの一撃の重さを目にしているはず。にも関わらず、理屈では相殺できるからとその攻撃の前に立てるものだろうか。
クロもまた必死だったと、そう考えればいいんでしょうけど……。
でもやはり、自分には決して出来ないことだと思った。そういう練習を普段からしているのならともかく、この本番の戦場でいきなり行える芸当だとは思えなかった。
思わず黙ってしまうモネ。その反応を見たクロードが少し照れたようにして付けくわえた。
「って、偉そうに語ってるけど、これもリチャード本人の書いた歴史書に書いてあったことなんだけどね」
「そう、なんですの」
それを聞いて、ますます驚きを強くしたが、わざわざ弟のことを気にしている場合でないことも思い出した。視線を鎧の男に戻すと、彼はこちらを向いて不自然なまでに腰をかがめていた。上半身はほぼ水平になっている。ぐぐぐ、と曲げられた下半身には強く力が込められているのが一目でわかった。
次の瞬間――――鎧の男がこちらへ向かって突進。弾丸のようなスピードで彼の巨大な体躯が近づいてくる。圧倒する気迫が物理的な勢いを持って向かってくることにモネは臆して避けようとする。しかし、クロードは逃げなかった。こちらを握っていた手を離して一人英雄の前に立ちふさがる。
「クロ!?」
思わず弟の背中に手を伸ばす。その行動に意味はなかった。クロードは突進する鎧の男に向かって躊躇なく拳を突きこんだ。本来ならクロードの拳が砕けるだけじゃ済まないはずだった。腕は折れ、猛進する鎧に轢かれて全身の骨も内臓も無残にかき乱されしまうはずだ。しかしクロードの攻撃が黄金の鎧にヒットすると、その瞬間にあらゆる衝撃がかき消される。全ての攻撃を双方向に無効化するという《カルナ》の特性は逆手にとればその力の発動する瞬間、鎧を着た本人の攻撃すらも〝なかったこと〟にしてしまう。
まさしくその現象が起きたのだ。クロードが突いた一発の拳が鎧の男の弾丸のような突進を防いだ。己の攻撃が無効化されたことを鎧の男も知ったのだろう。突進の前かがみになった状態のまま腕を開き、クロードを捕まえようと襲い来る。だが、彼の大きな股の間をするりと抜けて後ろに回ると、クロードは二枚の術符を取りだした。それはリリィから受け取った攻撃術符だった。二枚の符を重ね合わせて魔法を発動。球体の炎を生み出し、それを鎧の男へとぶつけた。
勿論、そんなちんけな魔法が《カルナ》に効くわけがない。だが確実に、鎧の男の意識をクロードは己に引きつけた。最初からそれが狙いだったのだ。クロードは相手と同じ徒手空拳で伝説と渡り合うつもりだった。
鎧の男が標的をモネからクロードへ変える。距離を取ったクロードは男に向かって挑発のセリフを吐いた。
「来いよ、伝説。落ちこぼれが相手をしてやる」
その言葉に乗ったわけではないだろう。だが伝説は落ちこぼれに向かって再び突進した。そうして至近距離にまで近づくと、始まったのは先程の自分との戦闘のような砲撃の嵐だった。しかしモネと違い、クロードは既に鎧に対する対処法を知っていて、それを実行することができた。彼は攻撃を与える目的ではなく、あくまでも攻撃を相殺するためのコンパクトな一撃を繰り返し嵐を凌ぐ。防戦ではあるが、クロードは伝説と対等に戦っていた。渡り合っていた。
「姉さん!」
その状態のまま、クロードはこちらへと声を届けた。
「見てるだろう!? この鎧だって完璧じゃない。弱点はあるんだ!」
クロードが視線をこちらへ向けることはない。目は目の前の敵から離さず、しかし言葉こちらへ向けて放たれる。
「そもそも英雄リチャードは三百年前に一度この鎧を打破している! その時はこの城に存在するいくつもの建物ごと、アレイスターを押し潰したんだ! 《カルナ》が無効化するのは害意ある攻撃だけ、天災やただ崩れ落ちる瓦礫は防げない!」
クロードが叫ぶ。この鎧は倒せる存在なのだと。
しかし、オルタナがそれを否定した。
「確かにその通りだけど、三百年前に一度行われているが故に、既にその弱点を防衛機能は学習しているわ。あんたたちの味方の船も既に撤退しているし、この城の防護障壁を妨げるものは何もない。同じように建物を倒壊させようとしても、障壁がそれを守ってしまうでしょうね」
オルタナの言うことに何も返さず、それっきりクロードは何も言わず鎧の男とのせめぎ合いに集中してしまう。
彼が教えてくれた作戦は既に対策が打たれていた。過去の成功例だっとしても、それでは今のあの鎧は倒せない。
なんだ。駄目じゃないか。それでは意味がない。その戦法は使えない。
全く、意味がないじゃありませんの……!
あれ? とそう思った。意味がない。そう感じたときに、何かがおかしいと自分の中で誰かが告げた気がしたのだ。
クロードが本当に、何の意味もない行動を取るだろうか? そもそも三百年前に一度行われたことに対策が打たれていること自体、彼なら予測しそうなことだ。それなのに、わざわざ大声で叫んだ。まるでオルタナにも聞かせるかのように、かつての成功例を叫んだ。それは何かおかしい。クロード・ルルーの行動としては正当性がすっぽりと抜け落ちているような気がするのだ。
ああ、あった。もう一つ違和感を見つけた。
どうしてクロは当たり前のようにわたくしの代わりに戦っていますの?
基本的にクロードは戦闘に関しては実力が、それ以上に自信が圧倒的に足りていないはずだ。特に今は自分が一緒にいるのだ。攻撃を相殺する方法を教えたのなら、いつもの彼ならすぐにでも後ろに下がって残りの戦闘は自分に任せたはずだ。ましてや自分から鎧の男に対してかかってこいなどと豪語するのはおかしい。
あまりにも、クロらしくありませんわ……。
おかしい、自分がそう感じたのなら、きっとそのおかしさには理由がある。クロードが普段と違った行動をしたならば、そこには必ず何かの意図があるはずなのだ。
彼は一体何を狙っているのか、その意図はなんなのか……。
それを考えていると、ふと戦闘中のクロードと目があった。変わらず鎧の男の嵐を小刻みな攻撃で相殺しながら凌いでいるが、そんな彼を見つめていると時々こちらへ目線を合わせているのに気がついた。それもまた偶然ではないはずだ。一瞬とはいえ、目の前の強敵から目を反らしてこちらを見つめているのだ。それは必ず意味のある行動のはずだ。
まさかわたくしのことが好きとか、そういうのではありませんわよね……。
それはそれで嬉しい限りだがふざけている場合ではなかった。一瞬だけでも考えてしまった可能性に口元がにやけるのを必死に我慢して表情だけは真面目に作る。そうして考えてみればすぐにある答えに辿りつく。
もしかして、クロはわたくしに何かしてもらうことを望んでいる?
そういえば先程の叫び。オルタナにまで聞こえるような大声で言ってはいたが、あれも基本は自分に対して向けられた言葉だったはずだ。時折こちらに送られる視線もきっと同じ意味を持つものだろう。
クロはわたくしに何かを求めている……? わたくしの体――――じゃなくて、行動? それとも……?
時々ねじ込まれる妙な思考を無視して考える。だが考えても考えても、彼が一体自分に何を求めているのかわからなかった。
もっと単純に考えてみよう。そもそもクロードがどうして自分の代わりに戦っているのか、問題はそこだ。彼の戦法を見る限り、鎧の男を倒すつもりはない。その見込みもないはずだ。ならば彼の行動は時間稼ぎだろうか。しかし一体何に対して時間を稼いでいるのか。
こうしてわたくしが色々考える時間は生まれていますけど……――――
直感は唐突に訪れる。てんでバラバラだったピースがモネの中で一瞬にして意味のある形を浮かび上がらせた。
クロードは時間を稼いでいる。そのおかげでモネはこうしてじっくり思考をする時間を得られている。それはつまり、この現状こそがクロードの目的なのではないだろうか。考える時間。それに彼が叫んだ言葉の内容を照らし合わせれば答えは見えた。
クロはわたくしに何かを手伝ってほしいわけじゃない。ただ自分が時間を稼ぎ、ヒントを与えることによって、わたくしにあの男を倒す算段を付けてほしいんですわ。
だとしたら考えるまでだ。じっくりと、彼が稼いでくれている時間を使い、勝利への道筋を。
きっと、クロードはもうその道筋が見えている。そのうえでそれを実行しない。ということはつまり、それはクロードにはできないこと。
単純に考えて、魔法ですわね……。
また直接語って聞かせるようなことも、こそこそと耳打ちをするような素振りさえ見せなかったのは、その正答が奇襲を前提にされているからではないか。オルタナにばれてはいけない。そういう類の手法なのだ。だとしたらそれは彼らしい、一度きりのチャンスを十全に生かす戦法だろう。勝利までの道筋を一つ一つ確実に詰めていく戦い方。
思い出す。彼が語った言葉、その行動に必ずヒントはあったはずだ。
鎧も完璧じゃない。弱点はある。
そしてクロードが教えてくれた三百年前の城主の敗北。それを考えれば、答えはすぐに出てきた。
「なるほど、そういうわけですの」
不思議と勝利を確信していた。これなら負けないと思うと同時に、言いようのない不安もまた生まれる。それら全てを抱えて、モネは飛びだした。
「代わりなさい、クロ」
黄金の鎧に刃を突き立てる。
「こっからはお姉ちゃんの仕事ですわ」




