「だから私は死を望む」
本当に嫌な奴。
オルタナは心底そう思った。
クロード・ルルーのことだ。
ずば抜けて優秀で、そのくせ自覚も自信もなく、根拠のない劣等感を抱え続ける臆病者。そんな彼にこちらのペースが崩されてしまった。予定していた作戦では、自分は今頃死ねたはずなのに。殺されていられたはずなのに。
最大の誤算は彼をただのいい人だと思っていたことだろう。彼の穏やかさを、優しさや善性だと勘違いした。汚れも穢れも受け入れて立ち上がれる強い人間だと見抜けなかった。だからこんなことになっている。モネは自分を殺そうとしないし、何より自分が死にたいと思ったその理由まで知られてしまった。言ったところで無駄なはずのそれは、既にクロードによって見抜かれてしまったのだ。
じゃあ、もういいや。
投げやりに、オルタナは思った。
もういいか。全部、話してしまおう。
どうせどうせ、話したところで無駄なのだ。無意味なのだ。
だったら話しても、黙っていても変わらないじゃないか。
「――心って、何だと思う?」
言い訳を続ける思考とは別に、言葉は自然と溢れて出た。
「私はね、心っていうのは何かを感じる器官だと思うのよ」
喜びや悲しみは勿論のこと、痛みも苦しみも、快楽も、何もかも心が感じ取る感情だと、オルタナはそう考えている。
だから私には心がないのだ。
「私の魔法は強大すぎた。全てを内包する黄金の城は、人の身に閉じ込めるには身に余る。だから、私の体は他のアルマ=カルマと違って人を模してはいても、人として不完全なの」
不完全な肉体。
欠乏した心。
彼女の体には五感の殆どが備わっていなかった。
「ねえ、痛みって何? 気持ちがいいってどういうこと? 春の匂いは? 木漏れ日の暖かさは? 木の実の味は? クロ、あんたの色って……どんな色なの?」
教えてよ。
私に全部、教えてよ。
「わかんないのよ。私の体は不完全で、まともなのは耳くらい。だからわからない。あんたたち人間が気持ちがいいことも、暖かいことも、美味しいことも、綺麗だと喜ぶ景色も、私にはわからない。この体は殆どの感覚が機能していない」
ファウストは人型術式を限りなく人間に近づけはしたが、しかし人間としての完成度にはさして興味がなかった。その不完全さも含め、人間なのだと彼は思っていたのかもしれない。
迷惑な話よ。そのせいで、私はこんなになっちゃったのに。
こんなになって、死にたくなってしまった。
「何も感じない。まともに人を見ることもできない。娯楽も享楽も愉悦も快楽も、悲痛も苦痛も哀絶も憂愁も、何も感じないまま何もわからないまま、あの閉ざされた城の中で三百年を生きなければいけなかった私の気持ちが、あんたたちにわかるの……? わかってくれるの?」
視線の先、ぼんやりとした輪郭の影のようなものが二つ、ぽつんとそこに立っていた。
何もかもを曖昧にしか認識できないオルタナの視界では、クロードとモネの区別すらつかない。ただそこに人がいるだけしかわからない。そのくせ、彼らの感情の機微はなんとなく伝わってくるのだ。
オルタナがこの世に生まれ、初めて人間を見たとき、心底〝気持ち悪い〟と思った。誰もかれも区別がつかず、ただ怒ったり泣いたり喜んだり、そんな感情を垂れ流すその生き物に恐怖した。だがすぐに思い知る。壊れているのは自分の方で、区別が付けられないのは自分のせいで、心底気持ちが悪いと思った彼らよりもよっぽど自分が劣っているというその現実を、オルタナは思い知った。
影のようなものの片方が微妙に体を揺らした。確かそっち側はクロードだったはずだ。まともに世界を認識できない視界では個人の判別はつかない。判断材料は声だけだ。唯一まともな聴覚だけが、人を分けることのできる情報源だった。
「わかる、とは言えない。僕は君とは違うから」
悲しみや喜びや、その他の色々な感情がごちゃ混ぜになって伝わってくる。その奔流に胸やけするような感覚を覚えながらも、やっぱりそうかとオルタナは納得した。
わかるわけがないのだ。何もない者の気持ちが何かがある人間にわかるわけがない。強い者と弱い者が互いに理解しあえないのと同じだ。最初から何もない者の気持ちが、痛みでも苦しみでも、とにかく何かを一つでも持っていた人間にはわからない。
何もない私の気持ちなんかわからない。
無感覚の体を持ちながら、平等に過ぎていく時間の上で壊れていった者。
それは誰にも理解されないものだ。
「いつ私の世界のことがわかったの?」
どうしてわかったのかと、オルタナは問う。すると影はまた少しだけ体を揺らして答えた。
「この部屋に入ってきた時だよ。さすがにこの距離で、僕がわからないのはおかしいと、そう思って考えた結果だ。それまでは漠然とした違和感だけだったけど、それがあの一瞬で意味をもったんだ」
確かに、クロードの前では色々な失態を見せている。服の色を問われたりしたときは少し焦ってしまったし、道の向こう側にいる彼の姿を見つけられなかったり、紙に包まれていたパンをそうとは気付かずそのまま食べてしまったのも大きいだろう。
まあ、紙だろうとパンだろうと、味なんかわからないんだけど。
食感すらも感じられないオルタナにとっては飲み込めるものなら大抵は食べ物の範囲に含まれた。
そんな失態を見せる度、適当にその場をやり過ごした。どうせ、契約をしたらそれまでの関係だと思っていたからだ。まさかこんなところまで追いかけてくるとは思っていなかった。これもまた誤算だろう。そのせいで、自分は今こうして〝正体〟を暴かれている。
ああ、そっか。私はやっぱりこのことを知られたくなかったんだ。
人として不完全な体。人間として何もかもが足りない体。自分はきっと心の奥底でそれを恥じている。
それはまさしく、劣等感というものだ。
「私は人間が羨ましい……。当たり前に笑って、当たり前に傷ついて、当たり前に世界を見ることができる人間が羨ましい。幸せそうなあんたたちが、死んでしまいたいほど羨ましい……」
だから人間は嫌いだ。
否応なく、自分の不足を思い知らされるから。
足りないのだ。何もかもが、自分の世界には足りなすぎる。
「だから私は死にたいのよ。このまま生きていても、私には苦しみも幸せも感じられない。何もない。ただ〝無〟を重ねて時間を過ぎるのを待つだけなら、もういっそ死んでしまった方がいいでしょう?」
希望も絶望も抱けないのなら、その命を終わりにして何もかもをゼロにしたい。
「私は人間が羨ましい」
繰り返す。それが自分の本当の気持ちなのだと知りながら。
「だから私は死にたいのよ」




