「そんなの、あんまりじゃないかい」
艦隊が一斉に帆を張って、それぞれの動きを作る。空すらも海とみなして航行する《赤薔薇艦隊》の軍艦は徐々にスピードを上げて広域に展開していく。
【遠見の覗き屋】を使って状況を確認しながら、リリィは一枚の羊皮紙を取りだした。丸められたそれを開けば、そこには何も描かれていない白紙が広がっているだけだった。だが、リリィが何かの言葉を小さく囁くと、白紙の上に船のマークが現れる。その数、合計十。《赤薔薇艦隊》の船の数と一緒だった。
「こいつはあたしの海賊七つ道具の一つ【急ごしらえの航海図】だ。自分と仲間の位置、その距離なんかを正確に示してくれる。示せるのは味方だけなんだがな」
それを使って味方との距離を測り【遠見の覗き屋】で詳細を観測していく。そうして艦隊が充分に展開したところで、リリィは通信術符に向かって指示を放った。
「全砲門開けぇ! とにかく撃てぇ! 撃ちまくってやれ!」
術符から雄たけびが聞こえる。それと同時に砲撃が開始される。九つの軍艦。その砲門から放たれるいくつも砲弾。体の芯を響かせるような発射音と、砲弾が障壁に着弾し炸裂して起こる爆音が入り乱れ、空は轟音によって彩られる。自分の声すらかき消されるような状況の中でもリリィの声だけはよく通り、各艦に的確に指示を出していく。
「三番艦、砲門二から五までの発射角を上下にずらしな! 反応障壁をなるべく広域に展開させるんだよ! ――――おら四番艦! 速度が落ちてるよ! 他の艦の足並みまで乱すんじゃないよ! もっと帆で風を受けるんだ!」
『船長ぉ! 空の上でどう風を読めばいいんでしょうかぁ!』
「感覚と気合と運だ! それじゃなかったら勢いだ! あたしもわからん! なんとかしろ!」
『イエッサー! なんとかします!』
時々雑な指示を飛ばしていたが、それでも不思議と艦隊の航行は安定していた。リリィは自らを不測の事態に強い騎士だと言っていたが、隊長である彼女だけではなくその部下も同じように状況への対応力が高いのだろう。空の上であっても風を掴み、自由に航行してみせている。
「というか、あんなかっこつけた言い方しておいて空を飛ぶのは初めてなんですの!?」
「実はそうだったんだが、意外と上手くいくもんだな」
信じられない! と爆音にかき消されないように必死に叫んでモネは抗議するが、当然リリィは聞く耳持たない。
「さぁて、あたしらも出航の準備と行こうじゃないか」
リリィが軽く腕を振るう。なめらかなその動きはまるで楽団の指揮者のようで、彼女の衣装も相まって踊りのようにさえ見えた。それに呼応して船の帆をが一人でに張られ、ロープは引かれ、砲門は開かれた。
「この軍艦を一人で動かしてるんですか……?」
帆船は複数の人間によって操舵されるものだ。それを一人でとなると、相当複雑な術式をいくつも重ねた魔法を行使しなければならないはずだ。それは魔法の強弱というよりも、繊細さの問題だ。
「船長たるもの、一人で船くらい動かせないとね。ま、他のどの船でも魔法によって操舵されている部分はあるんだけどね」
通常、何人かで行うべき作業を魔法を使うことで一人でまかなうことは十番隊では不思議なことではないという。
「それでも、たった一人で全てを操作できるのはあたしくらいのもんだけどね」
自慢げに語る中でも、リリィは手の動きを止めない。旗艦は徐々に動きを見せる。いざ、浮遊城よりも高みへと登ろうとする。その時だった。旗艦を除く他の艦隊に浮遊城からの攻撃が始まった。
まずい、とそう思った時にはすでに艦隊は光の中にいた。浮遊城から放たれた攻撃は凝縮された〝光の矢〟。クロードがモネへと放ったものと形状や特性は酷似していたが、その量は圧倒的だった。浮遊城の周囲、球体の障壁を囲み、埋め尽くすように現れた魔法陣。その全てから休みなく光の矢が放たれる。その光景はまさに光の雨という言葉が殆ど正しく当てはまるだろう。空は一瞬にしてまばゆいばかりの光に包まれ、艦隊もまたそれに飲み込まれた。
〝キュン〟と背筋が凍るような不快な音と共に光の矢は浮遊城から艦隊へ向けて放たれる。目で追うことも困難なほどの速度を持ってそれは船へとぶつかり、衝撃と破壊を伝えた。
通信術符からは悲鳴と怒号が一斉に鳴る。突然の反撃に一瞬にして艦隊の動きに乱れが起こった。二番艦と五番艦からの砲撃が途切れてしまったのがここからでも確認できた。
「うろたえるんじゃないよぉ!」
混乱する部下にリリィが一喝。その一言だけで、まるで世界から音が消えたような静寂が訪れた。悲鳴も怒号も止み、全員がリリィの言葉に耳を傾けたのだ。
「全艦隊は帆をたたみ艦を固定! 砲撃手は持ち場を動くな、死ぬ気で玉を籠めろ! 攻撃を途切れさせるな! それ以外の全員で防護魔法を展開、船のものも術符も自前のものも、なんだってかまわない! とにかく生き残れ! 絶対に攻撃をやめるんじゃないよ!」
リリィの目的は明確だった。攻撃を途切れさせない。それが最も優先されるべきことだからだ。九つの軍艦と、その砲台による砲撃。魔術魔法による強化が行われた砲弾はその全てが集まったとしてもモネの魔法の一発よりも威力は劣るが、しかし詠唱や術式を必要とする魔法と違い、大砲の形をとるそれは断続的な攻撃が可能だ。そして九つの軍艦は広域の制圧を可能とする。
破壊力のある攻撃を、広い範囲に、断続的に続けることができる。それは現状《赤薔薇艦隊》でなければできないことだ。彼らがその強みを生かし、反応型術式を無効化してくれなければ、作戦は前へと進めない。
それをリリィは理解している。だから攻撃だけはやめるなと、己の部下に激を飛ばす。
「いいか!? 攻撃だけは途切れさせるな! とにかく撃つんだよ! 当てればいいから、撃つんだ!」
『わかってますよ! ローラン隊長……いえ、船長!』
響く声はロウのものだ。
『おらぁ、てめぇらも泣きごと言ってる場合じゃねぇぞ! 海を征く阿呆が、こんなところで根を挙げてたまるかぁ!』
その先もロウは何かを叫んでいたが、閃光の音にかき消されてしまった。それでも砲撃は再開された。砲弾にも彼らの執念が乗り移ったのか、先程よりも勢いを増して、砲撃は障壁を揺らした。そうして複数の攻撃が当たる瞬間を見ていれば、微かに反応型障壁が展開される様子が確認できた。視認できるようになったということは、それだけ障壁が多く展開されているということだ。海の男たちが必死で道を作ってくれている。
「リリィ!」
モネが叫んだ。その声の意味をクロードは即座に理解した。リリィもまた同じようでその顔に焦りを見せた。
「わかってるよ! あいつらも、長くは持たない……さあ、今度こそ出航だ。もう一秒だって無駄にできないよ!」
旗艦が途端に速度を上げて、上に向かって飛んでいく。空すらも海とみなして航行する【開拓航路】には上下や左右の角度も関係ないようで、船はまるで急な坂を上るように斜めになって上を目指す。船にいる間は重力は甲板から垂直に下へと落ちるように設定されているようで、クロードもモネも、甲板上の木箱もずり落ちるようなことはなかった。
ある程度空を昇ってからちらりと船の下に視線を動かす。そこには降り注ぐ光の雨と、それに応戦する艦隊の姿があった。術符から聞こえてくる音声から苦戦を強いられていることは明らかだったが、しかし砲撃は決して途切れない。彼らの覚悟、本気の思いにクロードの心には不思議な安堵と耐え難い重責がのしかかる。
悲しんではいけない。彼らには彼らの思いがあり、信念があった。それを刺激したのが自分だったとしても、それに責任を感じるべきではない。それは彼らの誇りを愚弄する行為だ。男の覚悟を無為に帰す行為だ。
わかってはいても、それでも胸は痛んだ。
「……まずい。こっちも来ましたわよ!」
クロードとは違う方向を見ていたモネが言った。
「竜が、この船を目指してきますわ!」
その直後、雪崩のような黒い影がクロード達の乗る旗艦を包み込んだ。
「な、なんだいこりゃ!?」
「竜、ですわ……小竜よりもはるかに小さいけれど、竜ですわよ!」
モネの言うとおり、その黒い影の正体は小竜よりも小さく、薄い体を持った超小型竜だった。その辺の鳥と大きさは殆ど変わらない。だがその体は異様に細く、薄い。紙飛行機に不自然なほど大きな翼をつけたら同じような容姿になるだろう、その竜が密度の濃い軍隊となって船を襲う。
緊急用の防護魔法が発動したのだろう。薄いベールのような加護に守られた船にはその竜は侵入はしてこなかったが、彼らは自分の命を顧みず全身でそのベールに当たってはその身を潰して落ちていく。
「命がけの特攻ですの!? 面白くない真似を……!」
「こいつら、この船を狙い撃ちしていやがる……。こっちにモネがいるから、警戒されたのかね!?」
竜による特攻。そして超小型竜という選択や、速さに特化したその形状。間違いなく防衛機能はこの船に狙いを定めていた。自分たちの作戦まで理解しているとは思えないが、しかしモネを『絶対に先に倒さなければならない相手』だと認識していることは確かだ。速さと物量で責めるそのやり方は、モネ相手に考察されたものだろう。
エンシェントドラゴンすら打ち倒したモネに強い個体では勝てない。だから群体を用意したのだ。個々の能力に頼らない一つの大きな集合体として。
モネが相手どっていた小竜の群れよりも遥かにその密度の高い超小型竜の軍隊は奇妙に思えるほどのスピードのままに船に体当たりを仕掛けているのだ。その圧倒的な物量で押しつぶすつもりなのだろう。
このままじゃあ、この防護魔法も破られる!
「迎撃しますわ!」
クロードがそれを口にする前にモネは剣を抜いて、竜たちを迎え撃つ態勢になった。だがそれをリリィが止める。
「待ちな! あんたは手を出すんじゃないよ!」
力を温存しておけと、リリィはそう言った。
「言ったろう? 見えない疲労は確実にあんたを蝕んでいる。こんなところで体力を使うんじゃない。今はあたしたちが頑張る番だよ!」
言うが早いか、リリィは剣を手に取るとそれを振るう。
「追い風ぇ!」
さらに刃を返し、先の太刀筋と交わるように一閃。
「向かい風ぇ!」
巻き起こるのは行く風と、戻る風。逆位の暴風はぶつかりあい、爆発的に膨れ上がり、暴風を超えた爆風となって当たり一面を〝撒き散らす〟。
「乱れ風ぇ!」
最後の一太刀で風はさらに勢いを増し、ベールの向こう側で竜たちを薙ぎ払う。爆風の勢いとかまいたちによって竜は吹き砕かれ、切り刻まれていく。それによって少しだけだが、超小型竜による突進も勢いを抑えられた。それでも圧倒的物量を誇るその影たちの動きを全て止めることは不可能だった。ベールの向こうではまるで嵐のような風が待っているが、その間をぬって、今なお超小型竜は船へと突撃をしかけてくる。
「まったく、とんだ雑魚の群れだよ。質より量もここまでくれば厄介だ」
「ええ、本当にそうですね……。だけど、リリィさん。こんなに風を吹かせて、どうして船が止まらないんです?」
嵐のような風の中だというのに、常に帆は一定方向からの風を受けている。船の進路が変わることも、速度が落ちることもなかった。
「この旗艦は特別なのさ。例え荒れ狂う海の中でも、この船の征く道だけは海は怒りを鎮め波は静かなものとなる。どんな嵐もこの船の征く先だけは荒らすことができないのさ。そいつは空の上だって変わらない」
開拓航路で空を海としている以上、その力はここでも発動されるのだとリリィは語る。
「《赤薔薇艦隊》旗艦。何物もこいつの歩みを遮ることはできないのさ」
だけど、とリリィは苦い笑顔を浮かべて回りを見る。船の周囲は濃い黒い影に囲まれ、まともに外の景色を見ることもできなかった。
「こいつはいくらなんでもまずいかね。さすがに船自体を壊されちゃ、どうにもならない」
「なら、早く離脱するべきですわ! 船を捨てて、逃げなくちゃ!」
「駄目だよ。船乗りは船を見捨てない――っていうのは冗談さ。そう怖い顔するなよ」
この期に及んでも軽口をたたくリリィをモネは不機嫌をあらわにして見つめる。
「逃げるっつったって、どうするつもりだい? どうにもならないよ。この量が相手じゃ、ぐりぐりに乗ったところでひとたまりもない」
「じゃあ戦いましょう! わたくしが本気を出せば、こんな雑魚ども……」
「一撃かい? その一撃は確かに全てを焦がしつくすが、それで灰になるのはあたしとクロ坊も一緒だよ。ここまで囲まれた状況で、あんたじゃあ誰かを守りながら戦うのは無理だ」
「だったらどうしたらいいんですの!?」
「モネ、落ちつけよ。もうわかってるだろ? クロードを見なよ。あいつは全部わかってる」
わかっている。それがこの場を切り抜ける最善の方法のことだというのなら、確かにその通りだった。この状況。四方を竜に囲まれた今、これを突破するための最善策とは――――一人を見捨てることだった。
この旗艦でギリギリまで上空に近づく。なにがあっても速度が落ちないという《ウェイヴ・スウィーパー》の特性なら、すでにかなり浮遊城の頂上部分まで近づいているはずだ。ベールが破られる限界までこの船で航行し、その後モネの最高速度で上空へ飛びあがり、竜の届かない高度にまで飛翔する。それが最善の策だ。
だがこの策には問題がある。それはおそらく、モネの最高速度であっても超小型竜の飛翔のスピードを抜くことはできないということ。そして、折り重なるようにして壁になった黒い影を蹴散らして一瞬だけでもモネが通れる道を作る必要があった。道を作るため、そして竜の足止めをする、そのために一人は船に残らなくてはならない。防護魔法が切れ、空を飛ぶ棺桶となった甲板に取り残され、敵の気を引かなくてはならない人物がどうなるのかは、想像するまでもない。
その一人に最適だったのが、リリィなのだ。
モネには障壁を砕く最後の役目がある。すると当然、残る選択肢はクロードとリリィに絞られる。だが、クロードには無理だった。黒い影に風穴をあけることも、彼らの気を引くこともできないだろう。それだけの実力がクロードにはない。それが自分自身で一番よくわかってしまうのだ。そうなると、残る選択制はリリィだけ。彼女が残る以外には、ない。
クロードは悔しさに唇をかみしめる。自分の無力が原因で、リリィに最悪な役を押し付けてしまうことが苦しかった。ここまでやってきて、ようやくクロードは自分が足を引っ張っているだけの邪魔者なのだと理解した。そのことを現実としてようやく実感できたのだ。
「わかっていますわよ! わたくしだって、それくらいわかっていますわ!」
モネがリリィを睨みつける。だがそれは子供が必死で不満を伝えるときのような、あまりに幼稚な怒りだった。
「わかっていて、それが嫌だから、他に何か案がないのかと言っていますのよ!?」
「ないね。というか、考える時間がない」
船が震えた。ベールはすでに半分以上消えかかっていた。
「あたしが船に残る。道を開いて、気を引けばそれであんたが上へと行く時間は稼げるはずだ」
なんの躊躇いもなく、死地に残ることを告げる。そんな彼女の当たり前に耐えきれなくなって、遂にクロードは声を発した。
「だ、駄目です!」
「……何が駄目なんだい?」
「リリィさんが残るなんて、そんなの駄目だ! あなたは生きるべきだ! 残るなら、もっと僕みたいなやつが、その役は引き受けるべきなんです!」
自分ではその役すらこなせないとわかっていながら言った。苦し紛れの暴論だ。
勢いのまま、まだ言い訳を続けようとした。しかしその先は言えなかった。リリィが拳を振り上げて、クロードの頬を殴ったからだ。手加減の感じられない一撃にクロードは簡単に吹き飛ばされ、甲板のへりにぶつかった。
「何言ってやがるんだい、ふざけんじゃないよ!」
リリィは今までにないくらい感情をあらわにしていた。怒りだ。はっきりとした怒気をクロードにぶつける。
「いいかクロード! 今この下ではなぁ、あたしの部下が命をかけて戦っている。全部あんたのためだ! あんたのために道を作る。あんたをあの城に届ける。ただそれだけのためにあいつらは死に物狂いで戦っているんだ!」
いつからか、通信術符は船員たちの声を届けなくなっていた。ルーンが尽きたのか、それともその声によってクロードたちの覚悟が鈍ることをリリィが心配して切ったのか。それはわからない。
「あいつらは覚悟してここに来た。どんな結果も受け入れるだろうよ。だからそれを悲しめとはいわない。背負ってほしいわけでもない。負い目なんか感じなくていい。だけど! それでも、あんたは応えてやらなきゃいけないだろ! あの馬鹿どものためにも必死にならなきゃ駄目だろう!? こんなところで諦めるな! あんたはちゃんと最後まで前に進んでやらなくちゃ、そんなの、あんまりじゃないかい……!」
リリィは吹き飛ばされたままのクロードの襟を掴んで、無理やり立たせる。そして、クロードの黒髪をくしゃくしゃとかき回す。
「あたしだって、あんたに魅せられちまった一人なのさ。あんたの夢をかなえてやりたいって、そう思っちまった馬鹿野郎の一人なのさ」
だから気にするな、とリリィは最後に笑う。
「それにね、あたしは死ぬつもりなんか毛頭ないよ。生き急いで死に遅れる。それがあたしらのモットーだ。最後まで生きるために足掻いてやる。こんなところで死んでたまるか。あのお嬢ちゃんとあんたが一緒に歩いてるところを、あたしはまた見てみたいんだよ」
それだけ言って、リリィは背を向ける。これ以上は何も言う必要はないと、そう拒絶された気分にクロードはなった。背中を押されて前へと進んだ。そうして振り返ってみれば、そこにはもう誰もいない。誰もいなくなってしまった。そんな未来が想像できて、怖くなる。
リリィが術符を取りだし、それをベールへと投げて張り付けた。壊れかけたベールはほんの少しだけ修復される。
「三十秒だ! 三十秒きっかり防護魔法を持たせる。それが切れた瞬間にあたしがあの竜の影に穴をあける。対して広くは開けられないだろうが、そこにクロ坊を連れて飛びこむんだよ、モネ!」
モネはもうすでに覚悟を決めたのだろう。泣きそうになりながらも、力強く頷いた。
「リリィ、さん……」
クロードはまだ覚悟を決められなかった。諦めもつかず、情けない声で彼女の名を呼ぶ。すると、リリィが背中を向けたまま答える。
「振り返るな。そこにあたしたちはいないよ」
囁くような言葉だったが、その声は確実にクロードのもとまで届いた。同時にモネがクロードの横に並びながら呟いた。
「あと二十秒」
それはまるで死へのカウントダウンのようだと、そう感じてしまった。
+
時間がなかった。あの優しい馬鹿野郎をきちんと城まで送り届けるため、リリィは術式の設置を急ぐ。
術符を基礎に、そこに魔法陣、詠唱。そしてこの旗艦そのものを組み込んだ多重展開術式。モネの秘術【獅子身中の蒼天】には遠く及ばないが、しかし確実に超小型竜の軍隊に風穴をあけるだけの威力はあった。
少しばかり、めんどっちい術式なのがネックだがな……。
それでも、いついかなる時に危険に陥るかわからない外海での任務を主とする十番隊の隊長だ。術式設置までの時間は五秒とかからない。
まず術符を四方に配置。それらを繋げるように塩を用いて円を描き、その上からさらに術符を重ねればもうそれで完成だ。本来なら長々と魔法陣を描かなくてはいけないところだが、それをリリィの技術によって術符化することにより設置にかかる時間を最低限にした。あらかじめ全てを描いておかないのは、なんらかの要因で術式が壊されることを防ぐためだ。そういう警戒を怠ると、ロウのように術式そのものを無効化されてしまう。
描いた術式の中心に立ち、ルーンを束ねる。そうするだけで殆どの準備は終了。あと十五秒。詠唱にかかる時間と残りのリミットを計算し、リリィは言語された術式を呟き、最後のスイッチを入れる。
「静かなる波を揺らす一滴――――」
言葉は穏やかに、囁くように紡がれた。
「いつかの頃、海の覇者となった男がいた。男は全てを手に入れた」
紡がれるのは、なんの脈絡もないただの物語だ。
「男の願いは全て叶う。届かぬものなど何もない。だが男はそのために一つの代償を負ってしまった」
リリィは右手を〝銃〟の形にしてまっすぐに、浮遊城の頂上めがけて指し示した。
「男は故郷の場所を忘れてしまった。男はどこにだって船で行くことができたが、たった一つ故郷にだけは辿りつけなくなってしまった」
架空の引き金に徐々に力が込められていく。彼女の周囲を満たすルーン濃度も高まり、床に描いた術式はまばゆい光を放った。
「故郷には男の恋人がいた。恋人は男を待った。いつまでも待った。だが男は帰れない。真実を知った恋人は、まだうら若き心を悲しみに染める」
時間がきた。ベールは壊される。だが、まだこの瞬間ではない。一秒よりも短い刹那、その一瞬だけリリィは〝間〟を作る。そのことにより竜たちはベールが壊れたことを知り、一斉にモネへと飛びかかる。
リリィが狙ったのはその瞬間だった。
「乙女の涙が――零れた――」
物語の形をした術式が語られ終えた。〝銃〟の引き金は引き切られ、魔法は完成し発動される。
銃を模した指先から放たれたのは一滴の水だった。ほんの小さなそれはまさしく乙女の涙そのもの。それはまっすぐにリリィが示した方向へと零れ落ち、その行く先と周囲にあるものを無理やりに退ける。乙女の涙は静かなる波を揺らさなくてはならない。その間にはばむもの全てを、この一滴は拒絶し、強制的に道を開けさせるのだ。
魔法によって無理やりに退かされた竜の体はぐちゃぐちゃにつぶれて吹き飛んだ。それでもなお道を開けることを良しとしなかったものは体の真ん中からはじけて跡形もなくなった。モネへと特攻しようと牙をむいていた超小型竜の軍隊の壁の中にわずかな隙間が生まれる。それはなんとか人間が通過できるぎりぎりの大きさの隙間だが、しかし確実に浮遊城の頂上へと至るための道だった。
わずかな穴の先に見えた空へ向かって、モネがクロードを抱えて飛び立った。
……タイミングは完ぺきだね。
自分の魔法の発動のタイミングもそうだし、モネが飛び立つタイミングもだ。一瞬でも遅れていたら、きっと成功はしなかっただろう。既にリリィが開けた隙間は閉じてしまっている。あらゆる障害を無理やりに退けてしまう【乙女の涙】はこの場合最適な魔法だったはずだが、それでもあの小さな穴を開けるので精いっぱいだった。それだけ、この超小型竜による壁は厚いのだ。それでも成功させられたのは自分とモネが息を合わせられたから。他の騎士ではこうはいかない。彼女を知り、また彼女がこちらをよく知っているからこそできたコンビネーションだった。
うむ。我ながら良い仕事をしたね。
「――って終わった気になってる場合じゃなかったね」
まだ仕事は残っている。今度は彼らがモネたちを追いかけないように気を引かなくてはならない。とはいっても、モネの最高速度だ。そう長い間戦う必要もないだろう。
いや、時間の問題じゃないのかい。
視界に広がる黒い影を見て、リリィは思わずため息をつきたくなる。戦う戦わないの前に、まず自分が生き残れるのかどうかも怪しい。
だからといって、生きることを諦めるつもりはないのだった。
彼女は決して諦めない。
「追い風ぇ!」
手始めにお得意の【風読みの剣】で先制攻撃。いくつもの竜を巻き込んで切り刻むが、そんな消費を意にも介さないほどの圧倒的物量。その全ての殺意が、リリィへと向けられる。
「……はっ!」
絶望的な状況だというのに、リリィの頭の中を埋め尽くすのはあの黒髪の少年のことだった。
弱々しくて頼りない、だけど時折びっくりするような力を見せる不思議な少年。何よりも優しい彼のことが気にかかった。
ただの勢いだったのかもしれないけれど、何の考えもない発言だったのかもしれないけれど、それでもあの時「自分が残る」と言ってくれた時、本当は少し嬉しかったのだ。彼が自分を守ろうとしてくれたことが嬉しかった。
きっと、あの馬鹿は気付いちゃいないだろうけど、あれはとんでもなく勇気のいる行動なんだよ。
あの一瞬だけでも、彼は恐怖を押しのけ誰かのために傷つこうとしたのだ。そういうことができる人間が誰よりも強いことをリリィは知っていた。その勇気は誰かだけでなく、自分を守る力になる。
だから、前を向くんだよ。こんなことに捕らわれちゃいけない。
その勇気を、濁らせてしまっては駄目なのだ。
「振り返るなぁ! クロード!」
もう聞こえないはずだ。それでも彼の名前を呼んだ。そして己の敵を見定めて、声の限りに叫んだ。
「さあ、あたしが相手だ蜥蜴ども! だが一つだけ最初に宣言しておくよ!」
剣を振り、銃を構え覚悟を言葉に乗せた。
「あたしは死なない」
黒い影が、船とその船長を飲み込んだ。




