人型術式必殺……「バタートラップ」
少女は自らをオルタナと名乗った。初めまして、とにやりと笑ってこちらに詰め寄るオルタナはぶしつけに質問を投げかける。
「あんたは確か、クロ……そうクロでよかったっけ?」
寝起きの頭はクロードの思っていた数倍は回らなかった。ただただ驚愕を訴える頭の中は真っ白だった。
まずは状況を整理しよう。クロードはあんぐりと口を開けた状態で固まったまま必死に真っ白な脳内に色を足そうとする。
勿論ではあるが、自分はこんな可愛い女の子は知らない。知り合いですらないし、見たことだってない。例え街で視界にかすめただけで彼女のことをクロードは忘れられない自信がある。それくらいクロードにとってはとてつもなく印象的な少女だった。
そもそもクロードにはわざわざ家を訪ねてくるような女の子の知り合いなんていない。同性の友達すら満足にいない始末だ。クロードは臆病で友達を作るのを苦手としている。自分から前に踏み出すことが怖いのだ。それに加えて現在の悪評。学園入学当初は自分と仲良くしようとしてくれていた心優しい人たちも次々とクロードから離れて行った。仕方のないことだ、全ては情けない自分のせいだ。
状況と整理しようと動かした頭でネガティブな思考が始まってしまう。条件反射にもにた速度で嫌なことを思い出す自身の脳を恨みながら、クロードはそっと思考をシャットダウン。考えたってわかるわけないと、とにかくまずは少女の質問に答えることにした。
「えっと、クロード・ルルー……」
「へ?」
「いやあの、クロードっていうんだ。クロじゃなくて……ああ! 勿論クロって呼んでくれても全然かまわないけれど!」
焦ったようにうわずった声しか出てこない。女の子とまともに会話することもできないのかと内心呆れつつ、言葉を続けた。
「その、君はオルタナさん?」
「さんはいらないわよ」
無愛想、というよりは淡々とした様子で語るオルタナ。だがその顔は意地悪そうな笑みを浮かべている。その笑顔はなんだかこちらを見下しているようにも見えたけれど、どんな形であれ笑顔という表情が彼女から自分に向けられていることが嬉しくもあった。要は舞い上がっていたのだ。止まってしまった思考は事の不自然さを警告することなく、ただクロードの脳内は〝オルタナ〟という美しい色で埋め尽くされる。
「ねえ」
オルタナが口を開く。彼女から目を離せなくなっていたクロードは「はひっ!」と変な噛み方をしながら答えた。
「な、何かな?」
「お腹」
「お、お腹……?」
ちょっとだけ恥ずかしそうに俯きながら、オルタナは自身のお腹をさすって見せる。
「お腹が空いちゃったのよ。このままじゃ無意識の内に冷蔵庫を漁っちゃうかも」
冗談のような言葉にクロードは一瞬だけポカンと固まったが、すぐに慌てて、
「そ、そうだね!」
と、続けた。
「もう朝ご飯の時間だもんね。そんな上手いわけじゃないけど、僕なんかの作ったものでよかったら、ご馳走するよ」
そういってクロードは自分の部屋を出る。オルタナは後ろをついてきていた。モネの部屋の前を通りかかったが、今のクロードに姉のことを考える余裕はなかった。階段をさがり、リビングへ出ると、とりあえずオルタナに椅子に座るように促した。クロードはエプロンをつけてキッチンに立つ。さて朝食の準備だ。朝なのでそんなにがっつりとしたものは作らなくてもいいだろう。ベーコンエッグと、サラダとトースト。これで十分なはずだ。クロードはキッチンにつるされていたフライパンを一つ手に取るとコンロに乗せて油を敷いた。そして手元の引き出しの中から一枚の紙を取り出す。薄く、細長い短冊状のその紙には赤い線で何かの記号のようなものが描かれている。
これは術符。オードランを含めたこの世界の文明にはなくてはならないものだ。
この世界の文明は魔法によって繁栄した魔法文明だと言われている。千年前に魔法の存在を証明し、賢者と呼ばれた偉大な三人の魔法使い。彼らの意思を継ぐ魔法師たちによって文明は発展していった。しかし今のように便利な生活が魔法に疎い一般人にも過ごせるようになったのは術符の存在が大きい。術符とは紙状の符に術式を刻み、あらかじめルーンを込めたものである。これをクロードはコンロの台に開いた隙間に入れる。すると、コンロから火が噴いたのだ。中火ほどのその火はフライパンに当たり、食材を炒めるための準備を進めていく。
術符は騎士たちが戦場などで使う他にも、日常生活にも広く用いられている。術符にルーンを込めておき、そして術式を刻む。この時術式は完全ではなく、例えばこのコンロの火であれば一本線を抜くなどして不完全な状態にしておく。台には術符をいれる場所があり、中には足りないもう一本の線が描かれている。それに術符の術式を重ね合わせることで魔法が完成され火が噴きだすのだ。
この術符技術はあらゆるところで利用されている。
クロードは冷蔵庫から卵を二つとブロック状のベーコンを取り出す。この石造りの冷蔵庫も術符によって中の温度が保たれている。ランプの灯りも今では殆どが術符の魔法だし、昨日クロードが噴水で見たモニター、遠くから映像を配信するあの魔法も術符によって行われている。ただ、あの映像魔法は術符で行うとかなり複雑なものとなるため一般家庭で使われることはあまりない。
魔法師であれば、こういった術符を手作りすることもあるが、大抵の家庭は術符を国から買うことで日々の暮らしを送っている。国民のための術符の生産も現代の魔法師の大事な役割の一つだった。
魔法の使えないクロードは術符を作ることさえできないので、ルルー家の術符はモネが作ったものか、面倒だからと国から買ったものでまかなわれている。
熱したフライパンの上にブロック状のベーコンを薄く切って並べる。その上から卵を割る。蓋をして少し置いている間に食パンをトースターに放り込む。タイマーをセットし、術符を差し入れてあとは待つだけ。
「っと、サラダも用意するんだった」
慌てて冷蔵庫からトマトとレタスを取り出す。それをまな板の上に並べていると、横合いからすっと金色の髪の毛が現れた。
「意外と手際いいのね」
感心した風に呟くオルタナ。彼女が自分のすぐ隣にいる。クロードは自分の鼓動が急激に早くなるのを感じた。
「あ……その、普段からやってるから……」
普段から騎士団の仕事などで忙しい姉のためにやっているのだと、小さな声で当たり障りのない返事を返して、作業を再開。特に問題が起こるのでもなく、朝食の準備は進む。出来た料理を皿に盛り付け、机に運ぶのをオルタナに手伝ってもらって行い。それぞれのコップにミルクを注げば完了。二人で六人くらいは座れそうな大きめの机を挟んで座る。クロードがいただきますと手を合わせると、オルタナもそれを真似するように手を合わせた。
「そういえば」
何もつけないままトーストにかじりつきながら、オルタナが言う。
「親とか、いないけど。今は姉と二人暮らしなんだっけ?」
「う、うん。実家は、王都とは離れたとこにあって、もともと学園に通っていた姉さんのところに僕が入学と同時に転がり込んだって感じ……かな」
リビングと、二階の二つの部屋以外には何もないこじんまりとした家。広いとは言えないが、余計なものがなく、緑で揃えられた壁紙や家具たちが落ち着いた空間を作ってくれているいい家だとクロードは思う。少なくとも実家よりは居心地はいい。ただ入学当時、まるでクロードが来るのを待っていたかのごとく、二階の一室が使われないまま開いていたのを見た時は複雑な思いを抱いたものである。
ふーん、と関心があるのかないのかわからない返事を返して、その後オルタナは出された料理を食べている間殆ど話すことはなかった。しかもあっという間に、クロードよりも早く全てたいらげてしまった。本当にお腹が空いていたのだろうかと、クロードは食事を終えてミルクをちびちびと飲んでいる彼女を見ながら首を傾げた。
どうも彼女を見る時はその見事な髪の毛に目がいってしまうが、しかしよく全体を見てみればオルタナの格好はおかしなところだらけだった。着ているものはかろうじてワンピースのようにも見えなくもないくたびれた布のような服だけで、靴下すら履いていない。部屋の中は温度調節の魔法が働いているため、寒いということはないだろうが、この季節にする格好ではない。ただこの時のクロードは沈黙が続く中で何か話した方がいいんだろうか、とかそんなことにばかり思考を割いていて、肝心なことを考えようともしていなかった。
それは無意識の内の逃避行動だったが、無意識だろうがなんだろうが、逃げ出してしまったツケは払わなくてはならない。それも近い未来に。
この時のクロードはきちんと考えるべきだったのだ。オルタナという少女のおかしな点について、どうして彼女がこちらの家庭の事情を知っているのか、そしてクロード・ルルーのことをクロと呼ぶ人物が一体誰だったのかを。
+
清算はすぐにやってきた。黙ったまま食事を続けていたクロードたち。二人のいるリビングに二階から誰かが降りてくる音が聞こえた。とん、とん、とゆっくりと近づく歩みは間違いなくモネのものだ。
「クロ~?」
階段の途中。リビングから彼女の姿を確認できるところまで下りてくると、まだ眠いのか、完全に開ききってない目を擦りながらモネは弟の名前を呼ぶ。オルタナに負けず劣らず見事な銀髪は寝癖だらけのボサボサ。着替えようとして途中で諦めたのか、寝ている間に脱ごうとしたのか、可愛らしいピンクのパジャマは前が完全に開いてしまっている。下はパンツしか穿いておらず、殆ど裸同然だった。布面積はオルタナよりも低いだろう。
とてもじゃないが、王国最強の騎士と誉れ高い《青騎士レヴァンテイン》様には見えない。
ただ彼女の姿にクロードは別段驚きはしなかった。昔からモネは朝に弱いことをクロードは知っていた。むしろこっちの《青騎士》の方がクロードにとっての姉だった。
「さっきからぁ、誰と話しているんですの~?」
普段のハキハキとした口調からはおよそ想像もつかない甘ったるい舌っ足らずな言葉で話すモネ。そこまで長いことオルタナと話していたわけではないが、聞こえていたのだろうか。目の覚めていない時のゆっくりとした動作を考えると、いただきますの直後からリビングを目指していた可能性もある。
「ごめん姉さん。昨日は仕事で遅かったのに、起こしちゃって」
「クロぉ、誰と~?」
「ああ、えっと。それで今は……えっと――――」
今は、なんて言えばいいのだろう。
今朝起きたら突然可愛い女の子が部屋にいて、お腹が空いたと言うからご飯を作ってあげてたんだ。
…………かなり意味不明である。理解できるところが一つもない。オルタナが可愛いという点だけはきっと大勢の同意を得られるだろうがそれだけだ。それ以外がわからなすぎる。
あれ、というかそもそもこの子は誰なんだ……?
クロードはモネに対して背を向けるように座っているオルタナに目をやる。そこでようやく事の不自然さに気づくのだ。しかしもう遅い。事態はもうすでに動き出している。
「ちょっとお邪魔して、ご飯を食べさせてもらっていただけよ。モネ」
オルタナがモネ、と彼女の名を呼びながら後ろを振り返った。どうしてオルタナが姉さんの名前を。その疑問が生まれると同時、寝ぼけ眼だったモネの瞳がオルタナを視界に入れた瞬間に見開かれた。それは誰にでもはっきりとわかるほど瞬間的な覚醒。朝に弱いはずのモネが一瞬で眠気を吹き飛ばすほどの衝撃を彼女は受けたのだ。
「オル、タナ……!」
「ええ。二日ぶりね。変わりはない、モネ? 何か重大な事件があったりとかはしなかったかしら……?」
ぶっきらぼうな、なんだかとても冷たい口調でオルタナは言う。直後、モネは驚愕に染まっていた顔をキッと激しくさせて口を開いた。
「火、火。重ねて炎!」
それは紛れもなき術式。言葉を紡ぎ、ルーンに意味を持たせる方程式。彼女が術式を詠唱するのと連動して周囲には緑の発光体が現れる。ルーンの収束と術式の構築をほぼ同時に行っているのだ。
「集め、束ね、収束し、空を穿つ矢となれ!」
モネの手に赤く煌めく炎が生まれる。大人の男の全長ほどもあるそれは次第に集まり凝縮され一本の矢となる。細く、鋭利な火炎の矢。王国最強の魔法師の炎の魔法。一切の無駄なく束ねられたエネルギー。それをモネはオルタナに向けた。
「申し訳ありませんが、御覚悟を」
状況が理解できない。一人取り残されていく己を感じながら何も言えない。モネの圧倒するような空気に恐れを抱いたクロードは自然と口を閉じてしまう。モネの周りにはまだ緑の発光体が浮かんでいる。クラスで見た生徒たちの光だって、クロードにとっては眩しいくらいに遠いものだったが、彼女のそれは彼らの比ではなかった。光の強さも発光体の大きさも数も倍以上だ。おまけにこうして魔術を行使している間も際限なく空間のルーン濃度は上昇していっている。
そんな彼女の威圧を一身に浴びているはずのオルタナは、しかし動揺することもなく、むしろ何か呆れたようなため息をついた。
「本当にあんたは甘いわ。こういう時は、即攻撃よ」
言った瞬間、オルタナは椅子から飛び上がり、机の上を駆けた。食器やまだ残っていたサラダなどをぶちまけながら対面にいたクロードのもとへ。椅子に座るクロードの後ろに降りるとその黒髪を根元からグッと掴み、自分の方へ引き寄せる。顎を上げ、伸ばされる形になったクロードの首元に銀に輝く刃物が当てられた。それは包丁。それもこの家のものだ。いつのまにくすめていたのか、と驚くと同時に引っ張られた髪の毛の痛みが遅れてやってくる。首筋にあてられた銀色は冷たく、そのひんやりとした感触はクロードに恐怖を運んできた。
「と、このように。あんたが甘いせいで他の誰かが傷つくの。前にも言わなかったっけ?」
魔法を止めて、と冷えた声でオルタナはモネに告げる。モネは悔しそうに顔をしかめたが、すぐに魔法の発動をやめ手を下ろした。彼女の周囲に集まっていたルーンも次第に四散して、また姿の見えない流体へと戻って行った。
「ここに――私の家に何をしに来たんですの」
警戒する表情でモネはオルタナに問いかける。金の少女は不敵な笑みを浮かべながら答える。
「逃亡するにあたり、あんたの弟はいい人質になるかと思ってね。それに、お腹も空いていたから」
美味しかったわ、と舌なめずりと共にオルタナは言った。その言葉はどこか挑発的でモネを馬鹿にするような響きを持っていた。
「あなたって人は……!」
激昂寸前の姉にクロードはたまらず告げた。
「ま、待って! 待ってよ姉さん」
「クロ?」
「……?」
モネとオルタナの動きが止まった。クロードは首筋の冷たさに恐怖しながらも少し震える声で続けた。
「一体、どういうことなの。いきなり魔法で攻撃しようとしたり、逃亡だとか……意味がわからないよ!」
ただでさえ、クロードの脳内はオルタナという少女の襲来でいっぱいいっぱいなのだ。その上、モネとオルタナは敵対しているように見える。
「せめて少しくらい説明してよ。じゃないと、頭がおかしくなりそうだ」
モネは険しい表情のまま口を結んでしまう。対するオルタナは何が楽しいのか「ふふん」と口に出して笑う。
「だってよ、モネ。言ってあげたら?」
「……いいのですか」
「別に構わないわよ。あんたが騎士団に連絡入れない限り、あの頭の固い連中は私がここにいることなんか気づかないでしょうし。まさか探すべき人間が敵の家に隠れ潜んでるとは夢にも思わないでしょうね」
愉快そうに、しかしどこか冷たい調子でオルタナは言った。
「あ、ちなみに言わなくてもわかると思うけど、もし今誰かと連絡を取ろうとしたら弟くん殺しちゃうからね」
モネの目が見ひらかれ、クロードの体が震えた。オルタナは変わらぬ声でくすくすと笑う。
「本当。弟のことになると必死よね、あんた」
言いながら、オルタナはクロードの首筋にあてた包丁を動かさないまま開いている方の手をクロードの顎に当てて後ろから抱きつくような姿勢を取った。クロードの肩にオルタナは自身の顎を乗せる。彼女の体温が直に伝わってくるが、それは首筋の冷たさをより一層引き立たせる結果になり、二つの意味で鼓動が早くなった。
「ほらほら早く教えてあげなさいよ。弟くん、頭おかしくなっちゃうよ~って苦しんでるわよ」
挑発的なオルタナの態度にモネはチッ、と舌打ちをして凄いわかりやすく苛立ちを表現した。いつも上品な態度を崩さない彼女には珍しいことだ。
「…………わかりました。きちんと話しますわ。こうなった以上無関係ではいられませんものね」
観念したようにため息を吐きながらモネは言った。そして次の瞬間にはすぐに真剣な面持ちになって捕まっている状態のクロードを見つめて口を開いた。
「クロ、あなたは《アルマ=カルマ》を知っていますか」
突然告げられた謎の名称。しかし、クロードはその名前に覚えがあった。どこだ、どこで聞いた。どこで目にした。必死に考える。そう確かあれはどこかの魔法書の中の――――
「あなたならきっと、どこかで聞いたことがあるはずですわ。《アルマ=カルマ》。正式名称は《人型術式アルマ=カルマ》。三百年前、オードランとエルマース、そしてグーリエフの三つ巴の対戦の時代。その戦火の中で一人の天才が生み出した人の形をした魔法。彼女は、オルタナはアルマ=カルマそのものなんですの」
突然告げられた事実。その事態の重さにクロードは言葉を失う。
確かにクロードはアルマ=カルマのことを知っていた。
人型術式アルマ=カルマ。
その名の通り人の形の術式。元々術式とは魔法的に意味のある記号のこと。それは言葉という音であったり、文字という形であったり、また星という状況であったりもした。言ってしまえばそれが魔法を発動させることのできるものならばなんであろうと術式になり得るのだ。その事実を前にして一人の天才はこう考えた。ならば生きている生物、人間ですらも条件さえ満たせば術式足りえるのではないかと。
そんな驚異的な発想のもとに生まれたのがアルマ=カルマと呼ばれる人型術式。人の形をして、人のように生き、しかしてその実態は術式に他ならない。
夢物語のような存在。しかし確かにアルマ=カルマは実在する。魔法学園でもあまり知る者は少ないが、それでも調べればすぐにわかることだった。だが、だからといってクロードには今さっきまで目の前で動き、笑っていた彼女がそのアルマ=カルマだとは思えなかった。人の形をした、単なる術式だとは思えなかった。
「で、でも姉さん。アルマ=カルマは大戦中に殆どが死んでしまったって、歴史書にはそう書いてあったよ」
だからまるで言い訳のような台詞を口にした。そんなはずはないと、そんなことはないと。嘘だと言ってくれと、懇願するような表情をするクロードにモネは首を振りながら告げた。
「その通りではありますが、殆どであって全てではありません。彼女は生き残ったアルマ=カルマの一人なのですわ」
「そんな……」
にわかには信じがたい。否、信じたくなかった。自分に対して笑いかけてくれた彼女の笑顔も、煌めく金の髪の毛も全て作り物なのだと。クロードは、信じたくなかった。それでもこの状況でモネが嘘を吐くとは考えにくい。信じたくはなくとも、信じる他なかった。
クロードは色んな感情を飲み込むようにして「わかった」と言う。そしてすぐに次を続けた。
「彼女がどんな存在なのかは理解出来たよ。でも、まだこの状況はわからない。生き残りのアルマ=カルマの存在なんて、確認されただけでも大事件だ。だけど僕は、そんなニュース聞いたこともない! それに彼女は逃亡と言った。一体どういうことなんだよ、姉さん!」
しかしクロードの問いにモネはすぐには答えなかった。何か、耐えるように黙ってしまう。
「どうしたのよ、モネ」
オルタナが言った。
「教えてあげなさいよ。あんたらオードラン国が私にしたことを。あんたの大事な弟くんに」
モネは怒るような、それでいてどこか申し訳なさそうに俯いたまま言葉を紡いだ。
「大戦の終了と同時に、オードラン国はそこにいる彼女の身柄を拘束。以降、王国政府内でも上部の人間しか知りえない、城内の地下幽閉場にて拘束監禁していましたの」
「大戦の終了と同時……? それは三百年も前の話じゃないか!」
だとすれば、今ここにいる彼女は三百年もの間、拘束監禁され続けていた事になる。それが一体、どんな意味を持つことなのかクロードにはわからない。ただ自分の中で怒りにも似た焦燥が湧き上がるのを感じた。
「そして一昨日の晩。あなたは幽閉場を抜け出し、脱走。わたくしが昨日帰りが遅くなったのは彼女の捜索隊の指揮をとっていたからですわ」
だからモネはオルタナの姿を見かけた瞬間、魔法を発動させたのだ。彼女を連れ戻そうとして。その、幽閉場とやらに。
「ま、概ねその通りよ」
オルタナがクロードから体を放す。包丁はそのまま。今だクロードの命はオルタナの手の中だ。
「長年飼い繋いでおいたアルマ=カルマが逃げ出してしまい。王国は大慌て。いい気味だわ全く」
ほら立ちなさい、とクロードはオルタナに足の脛を蹴られた。驚きながらも不満を顔に表すと、オルタナはふんっと鼻を鳴らした。
「あんたは人質。安心しなさい。悪いようにはしないわ。私の良いように使ってその辺に適当に捨ててあげる」
首筋から包丁が外される。その隙に逃げられるかもと思ったが、すぐに銀の刃物はクロードの背中に当てられた。どうしてか抵抗する気にもなれず、クロードは観念したように彼女の言う通りに立ち上がった。
「待ちなさい!」
モネが叫ぶ。オルタナは彼女に振り返ると、何よと不機嫌そうに呟いた。
「もう用は済んだわ。まだ何かあるの?」
「どうして、どうしてですの……? どうして、あなたがこんなことを……」
「…………自由になりたかった、じゃ駄目?」
「それなら王に一言頼めばそれで解決するじゃありませんの! それに、自由を拒絶したのはあなたの方ですわ!!」
オルタナは何も言わなかった。表情を消し、ただじっとモネのことを見つめていた。対するモネは途端に先程までの態度は違う、何か懇願するような、そんな悲しそうな声で呟くのだ。
「どうして、どうしてなんですの……オルタナ」
そんな彼女を見て、オルタナはふっと微笑んだ。それはクロードが先程見たような笑みとはまた違う。色々な感情の込められた、だけど優しい笑みだった。
「あんたがしてくれなかったことを、してもらうためよ」
それだけ言って、オルタナはまたその顔から表情を消した。そしてモネに背を向けると、堂々と出口から家を出て行こうとする。
「待って、オルタナ!」
モネの引き止める声にオルタナは振り向くことなくやめて、と言った。
「追いかけてこないでよね。もし追いかけてくるようなら、弟くんの安全は保障できないわよ」
「でも!」
「大体、そんなはしたない格好で外に出る気なの?」
言われて初めてモネは自身の格好に気づいたのか、顔を真っ赤にして前のボタンを留めて隠そうとする。下も隠そうと必死にパジャマを引っ張るが、長さは全く足りてない。そんなモネを見ながらオルタナは呆れ顔で呟く。
「まさか王国最強の騎士様がしましまパンツをはいてるとは思わなかったわ」
「は、はぁ!? そんなニッチな需要にこたえるような下着はつけていませんわ! ちゃんと白のレースですの!」
「あらそうだったかしら? よく見えなかったから隠していないでもう一度見せてほしいのだけど」
「ぐっ、このっ!」
モネは真っ赤な顔のまま怒りをあらわにする。
「捕まえてやる。捕まえて、個人的にお仕置きしてさしあげますわ!」
「できるものならやってみなさい。しましまパンツ」
オルタナの挑発に怒りを爆発させたモネが動いた。オルタナとクロードに向かって一直線に向かってくる。ルーンの発光体が見られないということは魔法を使うつもりはないのだろう。クロードが人質に取られている今、巻き込む危険のある行為をモネはできない。だからこそ魔法を使わない、単純な実力行使でオルタナを抑えにかかってきた。騎士団員であるモネは魔法の実力もさることながら剣術や体術にも精通している。オルタナがそういったことを得意としているかどうかは不明だが、一対一の体術でモネが負けることはないはずだ。
しかし決着は思いもよらぬ形でつく。いや、そもそも勝負は始まりさえしなかった。
「あ、その辺り私がバターぶちまけといたとこだから走ると危ないわよ」
というオルタナの言葉と同時にモネは床にぶちまけられたぬるぬるのバターに足を取られ見事に転倒。頭からキッチンの冷蔵庫に突っ込む形になった。転倒の衝撃で丸見えになった下着は――確かにしましまパンツではなく、白のレースだった。
「ふふん」
オルタナの得意げな笑み。モネは起き上がる気配がない。気を失っているようだ。時折ピクピクと手が動いているので死んだということはないようが……。。
「全くガキねー。ま、扱いやすくて助かるけど」
どうやらモネが激昂し、体術戦を挑んでくるところまでオルタナは計算済みだったようだ。自分が知らぬ間に包丁を盗み出す。バターを床にまくなどの手際の良さにクロードは不覚にも関心してしまった。
「じゃあね~。また逢えたら謝るわ」
クロードの背に包丁を突きつけながらオルタナは動かないモネにヒラヒラと手を振る。そして玄関を出て、朝の王都へと飛び出した。