机上の怪物
油断していたと言えば、きっと言い訳になってしまうだろうと、モネは徐々に乖離していく意識の中で思った。
ただ怖かったのだ。目の前に現れた存在しないはずの伝説に、恐怖した。寒気を誘うほどの嫌悪に恐れを抱いた。怯えたのだ。結果、背後に回られてもすぐに気がつけなかった。クロードが叫んで、危機を伝えてくれたが、回避はあと少しのところで間に合わず、左腕に噛みつかれてしまった。
腕の先から肩までまるごと食いつかれたが、幸いなことにエンシェントドラゴンには歯がなく、すぐに噛みちぎられることはなかった。鎧に仕込んだ緊急用の防護術式もしっかり発動していてくれた。だが、すぐにそれごと腕は砕かれてしまうだろう。ぶよぶよとした歯茎が凄まじい力で腕を食いつぶさんとしているのがわかった。白濁した唾液が口の端からあふれてモネの顔を濡らした。
その生温かさと、腕に感じる口内の感触にモネは思わず悲鳴をあげそうになる。あまりの不快感に今にも取り乱しそうだった。だがすぐにモネは別の叫びをあげることになった。
「う、あああああああああ!」
突然、食いつかれている腕に激しい痛みがはしる。それは内側から肉をかき乱されるような、感じたこともない激痛だった。見れば、エンシェントドラゴンの口からは唾液と共に黒い煙のような物質があふれ出ていた。それがクロードの言っていた瘴気であることはすぐに理解できた。今まさにそれに汚染されているであろう腕の痛みがその証拠だ。
――存在そのものが壊されてしまいます!
弟の必死な言葉が頭の中で繰り返された。壊される。その先に浮かんだ明確な死のイメージに怯えて、モネは殆ど錯乱したように無理やりに腕を引き抜こうとする。そのまま千切れてしまってもいいと、その瞬間だけは本当にそう思ったのだ。
「追い風ぇ!」
リリィの声が聞こえる。最初は幻聴かとも思ったが、そうではない。ぐりぐりに乗った二人が自分に向かって飛びこんでくるのが視界の端に見えた。リリィは剣を振るって魔法を発動させる。暴風はかまいたちを生み、対象をずたずたに切り刻む――そのはずだった。だが、風はエンシェントドラゴンに当たると急激に勢いを消し、そのまま消滅してしまう。
それでも奴をひるませるだけの効果はあったようで、モネの腕にかかる圧は緩くなる。その隙に歯茎の間を滑らせるようにして腕を引き抜く。そこにあったはずの鎧や衣服は既に〝壊され〟た後だったようで、消滅してなくなってしまっていた。未だ激痛の続くその腕を抱きかかえるようにしていると、ぐりぐりからクロードが手を伸ばす。
「姉さん、掴まって!」
無事な方の右腕でクロードの手を掴む。腕を引かれ、そのままクロードに抱かれる。彼の胸に顔をうずめて必死にしがみついた。まるで何かに縋るように。
「大丈夫? 姉さん、平気なの!?」
その様子を心配したのか、クロードが一旦こちらを放して顔を覗き込む。その時の自分がとても酷い顔をしていたのだろうということは、なんとなくモネにもわかった。クロードはそれを見てきゅっと口を横に結んだ。そしてまたさっきよりも強くモネをその胸に抱きしめた。
「リリィさん!」
「わかってるよ! とにかく距離をとる!」
瞬間、ぐりぐりが加速したのがわかった。風の音が耳に響く。どれくらいその音に身をゆだねていただろうか。実際は五分と経っていないはずだったが、モネにはそれがとても長く感じられた。ぐりぐりの速度が落ち着いて、クロードに促されるまでモネは顔をあげようともしなかった。ようやくクロードから離れても、体の震えが止まらず、それを抑え込むように自らを抱きかかえ、縮こまる。
「あたしの【風読みの剣】が殆ど聞かなかった。魔法もルーンの産物だからね。それすらも否定するってことなんだろうが、それにしたって相当じゃないかい?」
リリィが一旦後ろを大きく振り返り、エンシェントドラゴンを見ながら言った。
「追いかけてはこないようだね。馬鹿デカいからのろまなのかねぇ」
「……さっきのスピード、見てなかったんですか? 本気ならこの距離もすぐに詰められますよ」
「わかってる、冗談さ。……ということは、すぐにでも追いかけるからすぐにはこないってことなのかね? 余裕だねぇ、腹立つったらありゃしない」
言いながら、リリィはモネを注視する。その視線が少しだけ嫌で、モネはさらに体を小さくさせた。
「モネ、あんた腕は……というより、精霊化は大丈夫なのかい?」
「え、ええ。解けたわけではありませんわ。今はほら、あなたやクロが近くにいるから抑えているだけで……」
戦闘中の状態なら、モネの腕を掴んだ時点でクロードは焼かれていたことだろう。二人に助けられる瞬間、精霊化による熱の放出を抑えるだけの理性が残っていたのは行幸だった。
「そうかい、ならいいんだが。しかし、こっからどうするんだい?」
再びエンシェントドラゴンを視界に入れながら、リリィは言う。
「あれだけ魔法を弱体化されたんじゃ、倒すのは骨が折れそうだ」
「まだ、あれと戦うつもりなんですの!?」
思わず、叫んだ。当然のように再戦をしようというリリィの発言が信じられなかった。だが、弱気になったモネの方が彼女からしてみれば信じられないようで、怪訝そうな顔を隠そうともしないで首をかしげた。
「何言ってんだい。あの速度に、瘴気……。逃げるのは無理があるだろう。次、背中を取られたら今度こそ死んじまうよ。戦うしかない」
「駄目ですわ! そんな、あれとまた戦うなんて……」
「またっていうけどね、まだあんたまともに戦ってすらいないじゃないかい。腕を噛まれただけだ。それなのにどうしちまったんだい」
「リリィこそどうしてわからないんですの!?」
あんなに怖くて――強い相手に、どうして立ち向かおうとするのか。
初めてだった。初めて、自分よりも強いかもしれないと思う相手に会った。何か明確な理由があるわけじゃない。ただ直感的に理解した。この敵は今まで戦ってきたどの敵よりも強いのだと。竜たちを相手にしていた時の緊張感など、遊びの延長のようなものでしかなかったのだと思い知らされる。あんなのは絶対に勝てる相手を前にした時の高揚でしかなかった。絶対に負けはしないけど、少しだけ手強そうだったから喜んでいただけだ。
本当の命の危機。
あの怪物に一目睨まれただけで、モネはそれを感じ取ってしまったのだ。
勿論、そんなモネの中だけの感覚がリリィに伝わるはずもない。彼女は珍しく怒ったように眉を吊り上げて怒鳴った。
「怖気づいてんじゃないよ! あの竜にも、浮遊城にも、対抗できるのはあんただけなんだ! 怖がってなんていられないんだよ!」
「嫌ですわ! あんなのと戦うなんて、そんなの嫌ぁ!」
まるで駄々をこねる子供のように叫んだ。怖いものから逃げ出すために、感情をむき出す。
「な、なんとかして戦わずに済む方法を探しましょうよ。それがい、一番ですわ」
「ああ確かに一番の愚策だよ! 本当にどうしちまったんだい……あんたがそんなんじゃ、どうしようもないじゃないか」
どうしようもない。確かにその通りだった。あの怪物だけは、どうしようもない。
あんなの、どうしろっていうんですの……。
触れるだけで痛い相手。触れるだけで、殺されてしまうかもしれない相手。そんなのに、どう立ち向かえばいいというのだ。自分よりも強い相手と戦う方法なんて、モネは知らなかった。
今まで騎士として数々の敵と戦ってきた。だがその中に本物の命のやり取りが一度だってなかったことをモネは思い知らされた。
あんなの、知りませんわ……。
あんなに怖いものを、モネは初めて知ったのだった。
「しっかりしなよ、モネ!」
「だったらリリィが代わりに戦えばいいじゃありませんの! わたくしにばっかり押し付けないで!」
リリィの動きが止まる。固まって動かない表情とは逆に握りしめられた拳には恐ろしいほどの力が加えられて震えている。殺気にも似た怒りが向けられたことをモネは瞬時に理解した。
「あんた、そいつはあたしに勝てる見込みがあるって思って言ってるのかい? そうじゃないっていうんだったら――」
「――姉さん」
リリィがその先を告げる前に、クロードが割り込むようにして口を開いた。その行動はまるでリリィを止めるためのように思えた。が、彼にもどこか思うところがあったのか、その視線は痛いほど真剣にこちらを見ていた。
「クロ……」
弟の名を、呼ぶ。助けを乞うような、甘ったれた響きだと自分の声ながら思ってしまった。
「わたくし、わたくしは……」
「姉さんには、わかるんだよね。姉さんは特別、勘がいいから。だからわかるんだ。あの怪物が自分よりも強い、怖い相手だってことが」
「……!?」
読まれていた。そのことに罪を暴かれたような焦燥を覚える。
見抜かれていた。見透かされていた。
いや、きっとわかってしまうのだろう。クロードは弟で、自分は姉なのだ。姉弟だから、わかってしまう。それでもやはり、秘密を取り上げられた気分になってモネは震える。
「違う……違いますの! だって――」
言い訳を口にしようとした。仕方ないのだと、そう言おうとした。その言葉をクロードが遮った。
弟はわかっていると、言った。
「わかるよ。自分よりも怖い相手と戦うのは怖い。傷つくかもしれないっていう恐怖は、絶対に逃げられないものだ。よく知ってるよ」
だから――
「だから、我慢なんてしなくていいんだよ。怖くていいんだよ。震えていいんだ。泣いていい。好きなだけ、真っ青になればいい。弱音も吐いて、泣きごとも吐いちゃえばいいんだよ。だってここは空の上だから」
人の目の、届かないところだから。
「誰も姉さんを笑わない」
――それはクロードの精一杯の優しさだったのだろう。
誰も笑わない。だから泣いていい。
誰も笑わない。だから震えていい。
誰も笑わない。だからそんなに、強がらなくたっていいんだよ――そんな風に言われた気がした。
クロードが先程よりもずっと強い力で抱きしめてくれた。何もかも受け止めるように、強く。
その暖かさに包まれる。まだあの怪物のことは怖かったけれど、怖がっちゃいけないと、そう思う気持ちはなくなった。それだけでも随分と心は軽くなった。
同時にまだまだ自分は弟の気持ちを理解できていなかったのだと、反省した。
クロはずっとずっと、笑われてきましたのね。
笑われて、虐げられて。どんなに辛かったことだろう。どんなに悔しかったことだろう。それでも彼は諦めなかった。泣いて、震えて、俯いたまま、それでも前へと進んできた。
クロード・ルルーはずっと負け続けてきたのだ。
だから笑わない。
怖がっている人を笑わない。
震えている人を笑わない。
泣いている――――わたくしを笑わない。
受け止めてくれる。抱きしめてくれる。支えてくれる。怖がることは、駄目なことなんかじゃないと囁いてくれる。
強がりなんか、いらないのだ。かっこよくある必要もない。怖がったまま立ち向かえばいい。
「ごめん、なさい……」
後悔が謝罪となって口に出た。
「ごめんなさい、クロ。わたくしは弱いから。お姉ちゃんは、弱虫だから……」
自分よりも強い相手に立ち向かう勇気もない、弱い騎士だから。
「だから少しだけ、勇気をください」
クロードの腕から離れる。彼はまだ少しだけ心配そうな顔をしていた。そんな表情を向けてくれることが嬉しかった。
――だからというわけではない。ただ勇気を分けてもらうために、クロードの頬に両手を這わせて、そのままキスをした。
唇と唇が触れ合う。その瞬間だけクロードは体をよじらせたが、それ以上抵抗をすることもなくじっとしていた。できればずっとこのままでいたかったが、途中で気恥ずかしくなってしまい、すぐに手も唇も離してしまった。
「ふふ、こんなこと、いつぶりでしょうか……」
口元に残る名残惜しさを実感しながら呟いた。クロードは驚いたような呆れたような顔で目をパチクリさせている。そんな彼にごめんなさいと口にしようとして、すんでのところで踏みとどまった。
「――ありがとう、クロ。これでもう大丈夫ですわ」
三回目は感謝の言葉だった。
ありがとう。あなたが弟で本当によかった。
「……あ、うん。こ、こっちこそ」
クロードはようやく自分に起こったことを把握したのか、顔を赤くして俯いてしまう。小さい頃はお遊びで何度かキスをしたこともあったはずだが、やっぱりこの年になると恥ずかしいものなのだろう。実際、モネの顔も若干紅潮していた。
いえ、わたくしのはただの興奮かもしれませんわね……。
弟の唇の感触を思い出そうと自分の口に手を当てる。どうせならじっくり堪能すればよかったと思っていると、リリィがこれ見よがしにため息をついた。
「弟とキスして元気になるって、あんたちょっと引き返せないくらいの変態になってきてるんじゃないの?」
「全ての姉は弟分を摂取することで活力を得ますのよ」
反射的にいつもの調子で返してしまい、直後にモネは「あ!」という顔をした。まずは謝るのが先だろう。彼女には酷く失礼なことを言ってしまった。
「あの、リリィ……」
「いい。何も言うな」
すぐに一蹴される。余程怒らせてしまったのかと思ったが、そうでもないようだった。リリィはバツが悪そうに頬をかく。
「あたしも、その、なんだ? 悪かったよ。大人げなかったな。クロ坊の言うとおりだ。怖がっていい。震えていたって構わない。そんなの当たり前さ。だって、あんたはまだ子供なんだからな」
「レディに対して子供呼ばわりは失礼じゃありませんの?」
「何がレディだ。背伸びするなよガキの癖に」
リリィはけらけらと笑って振り返ると、モネの頭を思いっきり撫でまわす。
「ちょ、ちょっと何してますの!?」
「いやぁ、王国最強の騎士様もまだまだ可愛いところがあるんだなってさ」
まるで犬か何かをあやすような手つきに嫌気がさして振り払おうとするが、単純な筋力ではリリィの方が強く、上手くいかない。仕方なく、されるがままになる。
「モネだけじゃない、クロ坊もだよ。あんたら姉弟は強かったり弱かったりで、まだまだ未完成だ。間違えて、迷って、大人になれ。そうすりゃ自然と強くなる。駄目な部分との付き合い方がわかってくる。それまでは、お姉さんが面倒みてやるよ」
勝手なことを言って、とモネは頬を膨らませて抗議するがリリィに聞く耳はないようだった。ただその言葉を最後に満足したのか頭から手は離れて行った。さっきまで感じていた彼女の手の感触が突然消えて、モネは思わず自分の頭に手を置いた。
べ、別に撫でられて嬉しかったとか! もっとしてほしかったとかじゃないんですからね!
「姉さん。腕、少し見せくれる?」
自分の中に生まれた不可解な感情に困惑するモネにクロードはそう言うと、エンシェントドラゴンに噛みつかれたモネの左腕を手にとって、まじまじと見つめた。
「やっぱり、浸食されている……」
自分の腕が黒く変色していた。そのまま崩れ去ってしまいそうな光沢のない漆黒にモネは忘れていた痛みを思い出す。苦痛に顔を歪めると、クロードが慌てて手を離した。
「ごめん、痛くしちゃった?」
「いえ、クロのせいではありませんわ。それよりも、やはりこれは瘴気によるものなんですわね?」
クロードは頷く。それと同時に「だけど……」と否定の言葉を口にした。
「普通はこうはならない。直接噛みつかれて瘴気を流されたんだ。あっという間に全身を浸食されて壊されてしまうはずだ」
「じゃあ、どうしてわたくしは無事でしたの?」
魔法を弱体化する奴の特性を考えれば、鎧の防護魔法が原因とは考えられなかった。何故、自分は死なずにすんだのか。
「クロにはそれがわかりますの?」
「うん。そしてそれが、可能性なんだ。あいつに勝つための可能性」
毒、とクロードは真剣な表情で言う。
「僕らにとって瘴気はいわば毒だ。体を浸食し、崩壊させる世界への毒。世界を否定する怪物にだけ許された力。だけど、世界を否定するってことは逆に、世界からも否定されるってことだ。世界にとってあいつが毒なら、あいつにとっても世界は毒なんだよ」
「世界、つまりルーン!?」
「そう。姉さんは普通の人よりもルーンを束ねる力がずば抜けている。それに今の姉さんは精霊化して、普通の人間以上のルーンをその体にため込んでいる。だから、瘴気の浸食をある程度防げたんだ」
エンシェントドラゴンにとって、ルーンは否定するものであり、否定されるものでもある。だとすれば、自分に対する瘴気が普通よりも効果が薄かったのも、リリィの魔法が奴に効かなかったのも、全ては程度の問題。
どちらの否定が強いか、と。そういう問題になるわけですわね……。
「それなら、やりようがありますわ」
決意を新たにするように何度か頬を叩いて、己を律する。そうしてようやくモネはエンシェントドラゴンの方へ視線を向けた。途端に、寒気のような恐怖が背筋にはしる。
いいんだ。この感覚は、ないとおかしなものなんだ。
怖がったっていい。だから、前を向け。
そう自分に言い聞かせて、まっすぐに敵の姿を見た。エンシェントドラゴンはまだ先程と同じ位置でこちらをじっと見ているだけだ。だがあれが本気を出せばすぐにでもこの距離も詰められてしまうだろう。そうなったらおしまいだ。精霊化している自分ならともかく、そうではないクロードとリリィの二人はあのおぞましい怪物に触れるだけで死んでしまう。
そんなのは嫌だった。この二人を死なせてしまうのは嫌だった。
ああ、そうでしたわね。頑張る理由なんて、そんなもので充分でしたわね。
守りたいものがある。それを思い出した今、モネの心は確かに前を向いていた。
ぐりぐりから降りる。二人から少し離れると、再びその髪を炎へと変えて、体温を上昇させる。空気をも焦がす熱を放出しながら、モネは振り返る。後ろには弟がいる。
「クロ、一つお願いがありますの」
自分の心の弱さを知った。くじけそうになる心を支えるための何かがもう一つ欲しかった。
「お姉ちゃん、頑張るから。すっごく頑張るから。だから帰ったら、その……添い寝、とか、してくれません?」
「いいよ。姉さんがしたいだけ、いつまでも」
クロードは迷わなかった。驚きもしない。笑顔で、すぐに応えてくれた。それがどうしようもなく嬉しかった。
「ありがとう」
それなら本当に、もう大丈夫だ。
「行ってきますわ」
炎の髪をはためかせてモネは飛翔する。
震えながら、剣を恐怖へ突き立てに。
+
エンシェントドラゴン。
かつて人々から誤解され、伝説へと祭り上げられた存在しないはずの机上の怪物。
それが現実となって立ちはだかる。そのことの驚きをモネはあらためて感じる。
「まったく、三百年前の悪夢だけならまだしも、こんな怪物と戦う羽目になるなんて」
厄日ですわ、と剣を構えながら呟いた。エンシェントドラゴンの生気のない目がこちらを睨みつけているのがわかる。明らかに、この竜は自分だけを狙っていた。
竜の軍勢を相手に圧倒的な力を見せたモネを倒すために送られた切り札。きっと最初の戦いの際にモネが真に危険だと判断したのはこの竜の存在があってこそだったのだ。死を恐れぬ軍勢の向こう側に、きっと自分はこいつを見ていた。
口元から涎と一緒に黒い瘴気を垂れ流す怪物はじりじりと距離を詰めるモネに反応を見せ――吼えた。
それはこの世の生物とは思えぬ醜い咆哮。耳をふさいでしまいたくなるのを必死で我慢して、モネは剣を振るう。炎の髪から腕へ、腕から剣のその先へと流れる炎は薄い刃ではなくいくつもの球体となって拡散し、その全てがエンシェントドラゴンへと向かっていく。拡散した炎は全てエンシェントドラゴンのぶよぶよとした皮の体表に当たったが、少し身をよじらせた程度でダメージになっているとは思えない。ルーンをエネルギーとする魔法では奴の体に当たった瞬間に否定され、その威力を大きく減退させてしまう。
これでは、青の属性の特徴が意味をなしませんわ。
静寂と停滞を司る青の属性を付与された炎は他へと燃え広がることがない代わりに、決して消えない炎となる。魔法によってかき消すか、モネが意識しなければ消えないはずの炎はあっという間に小さくなって勢いを失くしてしまう。そしてそのうちに消えてしまうのだ。
エンシェントドラゴンは鈍い動きで首を振るう。そのまま一度大きく身を引かせ、口から黒い球体を吐き出す。それは瘴気の塊だった。さきほど、モネの左腕を浸食したそれが、塊となって奴の口から発射された。
だが、その一撃に速さはない。充分に対処の可能な攻撃だった。
「はああ!」
気合いを乗せた声と共に再び剣を振るう。今度の炎は壁のように厚くモネの正面に展開し、瘴気の球体を飲み込んだ。瘴気は蒼の炎を否定し消滅させる度に自身をも小さくしていき、やがて炎によってかき消された。
「きっと今のが、〝否定〟に同じだけの〝否定〟をぶつけた結果ですわね」
いわばプラスとマイナス。どちらも同じ量ならば、消えてなくなりゼロとなる。それをプラスにして攻撃を通したいならば、量と力を集めねばならない。
次の手を考えつつも、エンシェントドラゴンを視界の中央におさめて目を離さないモネ。瞬間、奴の姿が消えた。その一瞬をモネは見逃さなかった。
意識を背後に向ければ、すでにどうしようもない不快感と嫌悪がそこにいる。モネは全く後ろを確認することなく髪から炎を噴出させ、まっすぐ前に飛び出すことにより離脱した。
「同じ手は二度も食いませんのよ!」
そうは言うが、きちんと警戒していれば一度目も防げたはずの動きだ。それは反省しなければならない。だが、一度攻撃を受けてしまったことにより、エンシェントドラゴンはもう一度同じ動きを見せてくれた。例え他の竜とは一線を画する存在だったとしても、あれが浮遊所によって生み出されたものである限り、その行動は防衛機能によってなされることに変わりはない。だからこそ奴は同じように動き、同じようにモネの後ろに回ったのだ。今まで無傷でいた王国最強の騎士を唯一傷つけた手法をもう一度使ったのだ。
機械的な反応はまさに〝機能〟と呼ばれるべきものだろう。だが、意思を持って戦う戦士からしてみれば、それは付け入る隙になる。
――勝機は今、この瞬間ですわ!
エンシェントドラゴンが自分よりも強い相手だというのなら、長期戦はこちらが不利だ。動けば動くだけ、こちらが追い詰められていく。ならば狙うは短期決戦。クロードがロウと戦い、勝利した時と同じだ。ただ一つの可能性に己の全てを賭けて挑む。
自分にクロードほどの頭の良さや、戦場を読む力はないことはわかっている。自分は圧倒的な力で殲滅するだけの戦いしかやってこなかった。
それでもわたくしは、クロの姉だから! クロから勇気をもらったから!
己を奮い立たせ、いざ机上の怪物と対峙する。振り返ったその先、エンシェントドラゴンは酷く鈍い動きで首を回してこちらを見た。移動や攻撃の瞬間は驚くべきスピードを発揮するが、それ以外の動作は酷く緩慢。それもまた奴の不気味さを際立てる要因だろう。
「いきますわよぉ!」
吼える。その声と共にモネは全身の熱量を急速に上昇させる。炎の髪は巨大な帯のように長く大きくなっていく。そして、限界まで燃え盛ったその炎をそのまま、エンシェントドラゴンへと放つ。モネの内から湧き出る炎が、その髪が、津波のようになってエンシェントドラゴンへ迫る。小細工などはない、全力の火力。だがそれは奴の放つ瘴気によって抑えられる。
「―――――! ―――!」
醜い咆哮と共にエンシェントドラゴンはその口から、果ては体中から瘴気を垂れ流し、それを集めモネの発した炎の津波にぶつけて対抗した。
蒼き炎と黒き煙が拮抗する。
いえ、わずかにこちらが押し負けていますわ……。
徐々にだが、炎の勢いは弱まっている。このままでは瘴気に自分の体ごと飲み込まれてしまう。
しかしモネは焦らない。もとより、この一撃で勝とうなどとは思っていない。拙いながらもモネは頭の中に勝利への筋道を描いていた。
手にした剣を鞘に納める。諦めたわけではない。手に持っていては邪魔だった。モネは空いた両手の指をからめて不可解な図形のようなものを作る。これもまた、術式の一つ。何通りかの図形のパターンを繰り返しながら、詠唱を始める。
「火、火、重ねて炎。蒼天の紅。蒼は剣に、剣は蒼に、幾許の炎は千の剣となり、蒼天は剣の雨を降らせる!」
瘴気と拮抗していた炎の一部が、詠唱の完了と同時に剣に変わった。寸分違わず同じ形をした細身の剣。その数はまさに千の剣と呼ぶにふさわしい。千の剣はそれぞれが違う方向へ飛び、炎によって抑えられている瘴気の隙間を通り抜け、エンシェントドラゴンの本体へと突き刺さる。
「――――――!」
怪物が苦痛に身を揺らし声を上げる。剣は確かに奴の体に刺さった。しかしそれだけだ。エンシェントドラゴンの体の大きさを考えれば、人の扱う剣など小さな裁縫針のようなものだ。決して致命傷には成りえない。
だがそれでよかった。これもまた、モネの描く勝利への通過点にしか過ぎない。
ですが、これは――。
「足りない。一本だけ、足りませんわ!」
正確に瘴気の間を抜けたはずの剣だったが、一本だけ途中で弾かれてしまったのだ。すぐさま必要な数しか剣を作り出さなかった自分を悔いる。どうして一本でも多く余分に剣を作り出さなかったのかと、後悔した。
でもきっと、そんなことを言っている場合ではありませんわよね。
クロードならきっと、駄目だった場合の対処まで考えるのだろうが、自分ではこれが限界だった。それはいい。それならいい。己の弱さは身に染みた。考えるべきは次の行動。とにかくこれではモネが描いた勝利へは至れなかった。あと一本を、奴の体に突き立てる必要がある。勝利への道を修正しなくてはならない。だが、炎の一部を剣に変えてしまったため、先程よりもさらに瘴気に押されていた。もう剣を抜かせる隙間もない。もたもたしてもいられない。モネの目的を遂行するためには、奴の体に突き刺さった剣が奴によって否定されて消えてしまう前に、最後の一本をあの体に突き立てなければならない。だが、
「駄目、これ以上炎の密度も量も減らせない」
減らした瞬間、拮抗は崩れ瘴気はこちらへと流れ込んでくるだろう。あの黒い煙によって全身を犯される。左腕が痛みを訴える。その時、モネは一つの可能性を思いついた。思考を巡らすでもなく、すぐに頭に浮かんだ最適な方法。しかしそれは強烈な痛みを伴う選択肢だった。それを思うと、モネの体は固まって動かなくなる。
いや、違う。こんなところで諦めるな。可能性があるのなら、立ち向かえ。
己に言い聞かせる。
怖がったっていいんだ。震えたっていいんだ。泣いたっていいんだ。だから痛くたっていいんだ。この命さえ手放さなければ、大丈夫なんだ。
痛くたって苦しくたって、そんなのあとでクロに慰めてもらえばへっちゃらですわ!
だから進んだ。痛みの伴う選択肢を選んで、その先へ。勝つための道へと。
モネは全身の力を抜いた。刹那、瘴気を抑えていた炎は姿を消し、黒い煙が一斉にこちらへなだれ込む。その瘴気に向かって、モネは前進した。炎の髪を揺らし、最大の速度を持ってして瘴気の波に突っ込んだ。
炎の壁と拮抗していた瘴気。そこには当然、炎を押し返す力が働いていた。その中で炎を突然消せば、押す力は前へと進む力となって瘴気の波はモネへと迫る。そこにモネは全速力で突っ込む。瘴気にのまれてしまうのがわかっているのなら、最初から前へと進み、その波に飲み込まれる前に通り抜けてしまえばいい。下手に防御や抵抗をして中途半端に傷つくくらいなら、最初から傷を受けることを前提とし、その上で最大の成果を得る。
「鋼鉄、鉄血。鋼の意思は鋼の鎧に!」
防護魔法を発動させておくが、殆ど意味はないだろう。だがそれでもやれることは全てやるべきだと思った。そしてその全てを持ってモネは瘴気の波へぶつかった。
黒い煙が全身を覆う。防護魔法はあっという間に〝否定〟され消滅。鎧にしかけた緊急用のものも同様に、壊された。残った鎧もあっという間に浸食され、服は着ているのか着てないのかわからない布切れになってしまった。
それでも速度は落とさなかった。全速力で瘴気の波を通過する。実際、モネが瘴気に触れていた時間は十秒にも満たなかったはずだ。瘴気の波の向こうにはエンシェントドラゴンが鎮座している。敵が目の前に現れたというのにその反応は酷く遅い。それは好機だった。モネは剣を抜き、それを奴の頭に突き立てようと振りあげる。だが、緩慢なはずのエンシェントドラゴンはその瞬間だけ翼を驚くべき速さで動かしてモネを叩き落そうとする。
――しかし、それはモネの想定の内だった。ここで防がれる可能性を、失敗する未来をモネは今度こそ見据えていた。振りあげた剣は頭にではなく、迫りくる翼に突き立てた。剣は突き立てただけで、それ以上の抵抗はせず、翼が振られる勢いのまま、モネは吹き飛ばされる。だがただ吹き飛ばされたわけじゃない。その勢いを逆に利用し、炎の髪を噴き放ち進行方向を制御、急速な旋回を見せる。多少大回りな円の動き。その先にモネが至った場所は、怪物の背面だ。
翼に突き立てた剣は浸食と衝撃によって砕かれた。だから背面へと至る中〝あらかじめ抜いておいた〟もう一つの剣を机上の怪物の背中へと叩きつける。
揃いましたわ!
千の剣がエンシェントドラゴンの体に突き刺さった。モネはすぐさま両手を合わせて祈りをささげる姿勢を作る。モネは世界へ懇願する。ここに集まってきて欲しいと。
世界から愛されたモネの祈りは遂げられる。、ルーンはすぐに彼女の意思によって束ねられる。だが、集束させるのは自身のもとではなかった。
エンシェントドラゴンが突然苦痛に呻いたかと思うと、その体が発光。ぶよぶよとした皮の表面に浮かびあがったのは術式だった。決して複雑なわけではない。簡易な図形による魔術式。それはモネが千の剣を用いて描いた術式だった。エンシェントドラゴンの巨大な体はいわばまっさらなキャンバスだ。モネはそこに千の剣を突き刺すことで簡易な術式を描いてみせた。
たいした魔法ではない、簡単な術式。だがそれで充分だった。モネが必要としたのは魔法ではなく、ルーンを込める対象だったからだ。
エンシェントドラゴンにとってルーンが毒だというのなら、わざわざ魔法に変換してぶつける必要なんてない。無駄な小細工はいらない。そんなものは自分に与えられた才能を制限する枷でしかない。与えられた才能と、培ってきた努力と、持てる全てを持って、ただ全力で、圧倒的な力で叩きのめすために――
――その体に直接ルーンを注ぎ込んでやりますわ!
自分は魔法師としてはまだまだ未熟な身だ。扱う魔法そのものは決して複雑怪奇なものではない。だが、ルーンを集める才能だけなら負けたことはない。世界に愛されたこの身は誰よりも世界を操ることに長けている。
モネの願いに世界は応える。ルーンはみるみる内に怪物の体内に注がれる。その瘴気による否定が間に合わないほどに大量のルーンによって、遂にエンシェントドラゴンの体にヒビがはいった。浸食し、崩壊し、壊されていくかのように机上の怪物の体が崩れていく。だが怪物は苦痛にもがきながら、それでもモネを殺すことを諦めなかった。いや、諦められないのだ。防衛機能がそれを許さない。所詮架空の伝説も、アルマ=カルマの機能に操られる奴隷にすぎない。
「世界から愛された者として、人の子として、世界を否定するあなたをわたくしは否定します!」
王国最強の騎士が終焉を告げる。
「もう、お眠りなさないな」
神に反逆し、堕ちた竜。
人の手によって偽られ、その存在を信じられた架空の伝説、机上の化け物。
世界を否定した竜は、最期には人によって否定された。
堕ちた竜の体が全て崩れ去った。後にはなにも、残らなかった。




