「お前は何をしにここまで来た」
「それで、具体的な作戦。というか、最初に決めておくべき動きみたいなのはあるのか?」
オーランド城、大会議室。円卓の上で行われたお茶会はいつの間にか終わりを告げ、気づいた時にはすでにお茶もお菓子も片づけられていた。片付ける気配すら感じさせないのは執事の長とメイドの長のさすがの腕前と言ったところだが、モネにはあまり慣れた感覚ではなく少しだけ驚いてしまう。
その内心の驚きを外へ漏らさないように注意しながら、モネはアルフレッドからの質問に答えた。
「正直、出たとこ勝負としか言いようがありませんわ。ジャン・ジャックさんやわたくしの部下たちが遭遇した竜だって、あれで全力だと断定できるものではありませんし……」
モネの少しだけ弱気な発言にアルフレッドは苦い顔をするが、リリィが捕捉するように口を開いた。
「あっちがどんな戦力を従えていようが、あたしとモネなら突破できないってことはないだろうさ。それに、下手に作戦を決めるより自由に動いた方があたしもモネも強い」
外海と一緒さ、とリリィは懐から煙管を取り出し、それをふかしながら言う。
「この大陸から一歩外に出ちまえば、そこは前人未到の未開の地。事態は常に予想を超えた不測だよ。そういう戦場の方が、あたしは性にあっているさ」
吐き出された紫煙は彼女の余裕を見せるかのようにゆらゆらと天井へあがっていく。その煙にジャン・ジャックだけが妙に嫌そうな顔をしていたが、煙草の類いは苦手なのかもしれない。実はモネも得意ではなかったが、何故かリリィの吐く煙だけは嫌いではないのだった。
「ふむ。確かにお二方の言い分もよくわかります」
そう言って唸るのは兵士団長だ。
「わけのわからぬ敵に対してなら、この場では最適の人選でしょう」
リリィに至っては彼女自身の言った通りであり、モネもそうだった。しかしモネの場合は不測の事態に強いのではなく、巻き込む味方がいない方が強いということなのだが。彼女の広域殲滅型の魔法が味方をも巻き込みかねないということは、この場にいる者なら誰もが知っていた。
逆に言えば、味方を排除してまで本気を出さなければ勝てない敵ということなのですけれど……。
完全に一人ではなくリリィも連れているのは、余剰戦力と最悪の事態を想定した撤退補佐だ。もしもモネが戦闘不能に陥った場合、彼女には自分を連れて撤退してもらうつもりだ。
自分という存在がこの国にとってどれだけ重要なのか、モネは驕りではなく事実として理解しているつもりだった。自分が死ねば、それだけで他国との均衡は破れるだろう。それだけは防がなくてはならない。
その旨をリリィも理解しているとは思うのだが、先程自分のところの副隊長に連絡を入れていたなど、彼女は彼女で何か考えがあるようだった。ただ、それは別に構わなかった。リリィのことは信頼していたし、彼女の実力ならばこちらが気に掛けずとも竜を相手に立ち回り、モネの全力に巻き込まれることもないだろう。だからこそ、細かい作戦を考えることはなかったのだ。
しかし、と兵士団長が唸るような声を少しだけ低くした。
「仮に城に突入できたとして、その後は? 城の中は安全だという保障はどこにもないでしょう」
「ええ、むしろ城の中の方が危険だと考えるべきですわ」
クロードがオルタナから引きだした三つの魔法の中には竜と光の矢の他に、金色の槍の姿もあった。あの不可思議な武器で武装した兵士たちが城の中で待ち構えているとも限らないのだ。
「ですから、侵入はあくまでわたくし一人で行いますわ。城の中という密集地であれば、例えリリィといえどもわたくしの本気から逃れられはしないでしょう」
兵士団長は黙って頷いた。リリィもまた、特に言うことはないのか、ぷかぷかとキセルをふかしながらあらぬ方向を向いている。
「なあ、リリィ。お前に一つ聞いておきたいんだが」
不意に王が言葉を発す。リリィはくいっとキセルを口にくわえたまま上下させることで返事とした。
「外海組のお前なら、竜と直接対峙したこともあるんじゃないのか? その時に何か、弱点みたいなのはわからなかったのか」
問われた先、リリィは難しい顔で煙を吐く。
「……と言われてもねぇ。確かに竜とあったことはそこそこあるけども、今この街の空を我が物顔で飛んでる竜とはまず別物と考えるべきじゃないのかい? そもそも竜ってのは、あたしら人間がこの世に産まれる前から存在していた、世界最古の知的生命体だ。わかるかい? 知能があるってことは話が通じるってことさ。実際外海で出会う竜は、まあ何を考えているかはわからないけど、ちゃんと話せばこっちの活動も理解してくれるし、縄張りに入ったからって問答無用で攻撃してきたりはしない。むしろ人間がよくここまで来たなって、面白がってくれる奴のが多い」
「じゃあ、浮遊城の竜たちは、他の竜たちとは根本的に違うのか」
あの竜の軍勢は間違っても話を聞いてくれるような連中ではなかった。そもそも、自らの命を顧みない特攻を知能を持つはずの竜があそこまで徹底的に行えるはずがない。彼らの中に一匹たりとも躊躇いを見せる者はいなかったのだ。
「〝造り〟は一緒なんだろうけどね」
「造り?」
「体の構造ってこと。浮遊城のはきっと、魔法で模造した作り物なんだろうさ」
リリィの言葉にモネは少しだけ考えてから言った。
「体の造りが同じであるなら、弱点も同じなのでは? リリィ、あなたは竜種と戦ったことはありませんの?」
「一度だけある。随分と好戦的な竜で、一応話し合いにも応じてくれたんだが……『話はわかった。じゃあ俺と戦え』みたいな野郎でさ。結局戦闘。それも一対一のだよ。どこの剣闘士だっての」
「それで、どうなったんですの?」
そこからヒントを得られるかもしれない。モネは自然と胸を高鳴らせたが、続くリリィの発言はモネの期待を半分だけ裏切った。
「勝ったよ。といっても相手はさほど大きくはない中竜だったがね。だけどそれで弱点がわかったわけじゃない。心臓を狙っちゃいけないってのがわかっただけさ。あいつらいくつも持ってやがんだ、心臓をだよ。結局あたしはその竜の首を落として絶命させたが…………ま、生きてる奴なら首を落とせば殺せるってことなんだろ」
リリィのもたらした情報は残念ながら有効に使えるものではなかった。いかに竜でも首を落とせば死ぬのだというのがわかっただけマシかとも思われたが、それだけだ。明確な対抗策はない。
「結局、その場その場で対応していくしかないってことか」
アルフレッドは難しそうな表情を見せながらも、落胆を見せることはなく、次の言葉を即座に続けた。
「それで、作戦の決行はいつにする。タイミングはお前らに合わせよう」
「準備ができ次第、すぐに向かいたいと思いますわ」
あまり、長い時間をかけてはいられない。こうしている間にも国民の不安は増し、他国の疑いの目は強くなるのだ。作戦が作戦なため、勝負はすぐにつくと思われるが、それでものんびりしている時間はなかった。
「そうか、ならそれでいい。だけど、少しだけこっちにも時間をくれないか。兵士や、騎士たち。負傷したものそうでないもの。全員を王都から避難させる。それだけの時間は待ってくれ」
「我々が避難、ですか?」
驚いた風の兵士団長にアルフレッドは笑みを浮かべながら頷いた。
「モネ、別にお前のことを信じてない訳じゃない。きっと作戦は成功するだろう。だけど、もしものためだ。結局ここにいるやつらじゃあ浮遊城に対抗できない以上、避難はするべきだ。無駄な犠牲は出すわけにはいかねぇ」
「構いませんわ。術式の調整等がありますので、それくらいの時間はかかるかと。リリィ、あなたもいいですわね?」
モネの呼びかけに、リリィは頷く。これで今後の動きは決まった。ひとまず安堵するモネだったが、アルフレドは湛えた笑みをそのままに、今一度モネに言葉を投げた。
「なあ、モネ」
「なんですの?」
アルフレッドは笑ったまま、しかし声だけは全く笑わずに、どこか推しはかるような口調で言った。
「お前を信じてないわけじゃない。だけど、だからこそ言わせてもらうぜ。あんま、気分を悪くしないでくれよ。俺様にとっても、不安なとこなんだ」
「はあ…………」
一体、何を言われるのかと身構えた。そして王は小さな声で問う。
「お前、本当にオルタナを殺せるのか」
「――――え?」
どうして、首を傾げてしまったのだろう。アルフレッドの問いがおかしかったからとか、意味が理解できていなかったからではない。モネはこの時、自分の中でざわついたある感情に対して首を傾げたのだった。
どうして、どうしてですの?
胸に抱いたそれは、決して意識してはならないものだった。
どうしてわたくし、悲しいなんて…………。
やっぱりな、とアルフレッドは思わず嘆息したくなるのを抑えながら思った。
やっぱりモネは自分の気持ちをわかってない。
幼い頃から、騎士になるのは確実だと言われ、モネは育ってきた。周囲からの期待に応え、彼女は常に騎士であろうとし、そして学生の身ながらそれを叶えた。だからなのだろう。騎士である時の彼女と、そうでない時の彼女。それらの意識や心は同一のものであるが、しかし同じものでありながら、そこにズレが生じることが多々あることをアルフレッドは知っていた。
騎士として、良くあろうとするあまり彼女自身の本当の気持ちはしばしば、理想とする騎士の意識に埋もれてしまうのだ。普通ならば、埋もれてしまうことを人は自覚するが、彼女は自覚できなかった。理想に己を近づけすぎたのだ。理想と自分を重ねるあまり、本来あるべきものが見えなくなる。
まずいな……何がまずいって、自覚がないってのが一番まずい。
モネは心の底ではオルタナを殺したくはないと思っている。それは構わない。人を殺したくない気持ちは誰にだってあるものであり、それが友人であったというのなら尚更だ。それを自覚しているのなら、まだ対処のしようがある。だがわかっていないというのは最悪だ。何一つ理解していなかった分、わかってしまったときの反動が大きい。もしも、オルタナを殺さんと剣を振り上げた時、まさにその瞬間に彼女が自分の本当の気持ちに気づいてしまったら。その時、モネは本当にオルタナを殺せるのだろうか。
「…………オルタナ、もしかしたらお前はここまで考えていたのか」
考えうるあらゆる可能性の中で、浮遊城に対抗できるのはモネだけだった。そして、オルタナはモネと友人という関係を作り、彼女に付け入る隙を作った。例えアルフレッドが無理矢理問いただしても、モネは自分の気持ちを明らかにはしないだろう。その辺りの頑固さも学生時代によく思い知らされている。
でも、本当にそうだったのかとも思うのだ。
オルタナが本当にそこまで考えていたのか。それとも、何か他に別の考えがあったのか……。
結局、考えたってわからねぇことなんだがな。
真実はきっと、オルタナのもとにある。そして、そこにたどり着けるのはモネだけ。確証のないものに頼らざるを得ないというのは、実に情けない話だとアルフレッドは一人自嘲する。
なあ、オルタナ。お前はなんのためにモネと話したんだ? 女だったからか? 仲良くできそうだったからか? それとも、他に理由があったのか? ――――俺様と話してくれなかったのにも、理由があったのか?
わからなかった。ただ一つ確かなのは、彼女はすでに敵であり、王である自分はそれを打ち破らなければならないということだ。国を、民を、守らなければならない。
さて、それじゃあなんとかするか。
オルタナを殺したくない自分を、彼女に自覚させる。問題は、それで彼女が止まってしまいかねないということ。さらにその自覚の上から騎士の意識で上書きさせることもできなくはないが、それでは彼女の心に迷いが残る。その時彼女はきっと本気の全力を出せない。
自分にそれができるだろうか。いや、やらなければならないのだ。王として、国を守るために、人の心すらも掌握しなければ。前王は、自分の父はそれをしていたのだから。
偉大な王へと至るために、青年は覚悟を決めた。その時だった。会議室の中にピピピピ、と無機質な音が響く。それはありきたりな通信術符の音だ。音のする方を向けば、リリィが懐から通信術符を取り出して、面倒そうな顔を隠そうともしないままそれを発動させた。途端、色のない術符が描かれた術式の模様の部分だけを赤く光らせる。通信開始の合図だった。
「なんだ、ロウ。非常回線なんか使いやがって、お前あたしが頼んだ仕事はどうなってるんだ? まさかそっちで問題が起こった……それは部下に任せただとぉ!? よくもまあ当然のようにサボりやがって…………は?」
怠そうな声のまま、しかし口調だけは激しくさせていたリリィの態度が急に変わった。
「青騎士の弟……クロ坊ならさっき広場の方角に飛んで行ったよ。それは見たって、じゃあお前一体なんで…………え、いる? 今ここに? 門の前に?」
瞬間、アルフレッドはバトラーに視線を向ける。すると彼は既にその手にいくつかの術符を持ち、円卓の上に展開していた。展開した術符は四枚、それらがそれぞれを光で繋ぎ、四角い平面の形を取った。その平面の形のものは中央広場にあるモニターと同じ原理で、遠くの映像を映すためのもの。
アルフレッドが何か言うよりも先にこちらの意を汲んで行動に移す。執事の中でも長であるバトラーにしかできない芸当だ。相変わらずさすがだぜ、と心の中で称賛を送りながら、視線はモニターの方へ。それと合わせるように円卓の面々も全員がモニターに目をやった。
映し出されたのはオーランド城の城壁、その唯一の入口となる巨大な門の前。そこに、彼は立っていた。
「クロード・ルルー…………」
アルフレッドは自然と彼の名前を口にしていた。もしかしたら、あいつならという思いを込めて。
+
モニターの先。門の向こうの城を見つめる弟の姿をモネは見ていた。
ここまで、走ってきたのだろう。肩は上下し、息は荒い。瞳や目じりが赤くなっているのは、きっと泣いていたからだ。どこで怪我をしたのか、頬には擦り傷があって、ズボンの膝は破れて血が滲んでいる。全身は寒さではなく、怯えからくる酷い震えを抱えていた。
「なんで……」
どうして、どうして戻ってきたのか。そんなこと、できるはずないのに。わかる。姉弟だから、姉だから、家族だから。ずっと見てきたからわかる。彼はそんなことができる人ではなかった。こんな時、恐怖に怯えて震えているだけの子だったはずだ。来るな、と言われれば黙ってそれに従っているような、そんな〝弱い子〟だったはずだ。赤い目も、頬の傷も、体の震えも、全部全部あの子が怖がっている証拠ではないか。恐怖を前に、逃げ出したいとする人の反応ではないか。
なのに、どうして……。
「どうして戻ってきてしまったんですの……クロ」
弟が変わろうとしている。その事実を前に、姉はただ落胆するような悲しさを抱いた。
+
何故、どうして戻ってきてしまったのか。その答えはクロード自身の中にさえなかった。ただ足だけは真っ直ぐここまで動いてしまったのだ。
城にたどり着くまでの間。ずっとずっと考えていた。オルタナを助ける理由。一度逃げ出した場へ戻る理由。脆弱な己が戦う理由。考えたけれど、結局答えは見つからなかった。ならきっと、理由なんて最初からなかったのだろう。それでよかった。理由なんてなんでもよかったのだから、理由がないことが理由だったとしても構わない。もうすでに、クロードの心は前へ向いていた。恐怖も迷いも、結局無くなりはしなかったが。ここにこうして立つことが出来た。
クロードは見上げる。オードラン城の巨大な門。白と青を基調に作られた巨大な城。それを取り囲む城壁。その唯一の入口である城門。普段は解放されているはずのその門は、非常時である今は閉じている。城内の、会議室を目指していたクロードだったが、一旦そこで止まらざるを得なかった。無論、人の背丈など優に超え、中を覗くことも叶わないその城壁は登れるような段差はおろか、防衛魔法によって術式的な防御を行っている。オードランの国民であるクロードならば触れるくらいはかまわないだろうが、間違っても登る訳にはいかない。そんなことをすれば、魔法は発動されすぐにでもクロードは排除されてしまう。どれだけ強力な防衛魔法なのかはわからないが、術式的な守りを持たないクロードではただではすまないだろう。
しかし、門を正面突破するわけにもなぁ……。
こちらもこちらで魔法があることは間違いないし、なかったとしてもまさか人一人が押して開くような門ではないはずだった。
さて、どう突破するかとクロードが呑気にも首を傾げていると、巨大な城門から浮き上がるようにしてモニターが現れた。それは最初、何も移さずただ後ろの城門を透かしているだけのものだったが、クロードが反応を見せるより先にとある人物の姿を映しだした。
『よう、クロード。また会ったな』
そう言って、へらへらとした軽薄そうな笑みを浮かべるのはオードラン国王アルフレッド・アドルフ・オードランだった。
『どうした? 随分と疲れてるようだな。何してたんだよ』
アルフレッドの態度は軽い。いつもモニター越しに見る彼は余所行きの真面目な王としての姿を保っていたが、民衆の視線のない場だからか、その仮面は被るつもりはないようだった。既に彼の軽薄な態度には慣れたつもりだったが、それでもモニター越しに見ると妙な違和感を感じる。まるで別人を見ているようだと思いながら、クロードは息を整える。
「……走ってくるには少し、遠かったもので」
『あっはっはは! そうだよな。城がデカいから勘違いするけど、広場からここまでって、意外と距離があんだよな。それでも充分、早い方だと思うぜ。うん、基礎体力は優秀じゃねぇか』
そう言って、ひとしきり笑ってから、アルフレッドは表情から笑みを消した。
『お前、何をしに来た』
〝お前〟という名指しに、王の怒りと、もっと別の感情をクロードは感じた。短い質問は答えないという選択肢を最初から排除させるような、威圧を含んだ声で送られる。
『一度追放された。いや、逃がしてもらったお前が何をしにここまで戻ってきた。まさかモネの親切を無駄にするつもりか?』
「…………」
クロードは黙った。威圧は段々と強くなったが、それ以上に考える時間が欲しかった。
自分は何をしに来たのか。それを伝えるための言葉が、クロードの中にはまだなかったのだ。
『もう一度聞くぞ』
だがアルフレッドが待ってくれるもはずもない。彼は更にクロードを追い込むように続ける。
『お前は何をしに来た? 一度は逃げ出した騎士の円卓に、再びおめおめと戻ってきて、それで何を望む?』
望み? 僕の、望むこと……?
黙ったまま動かないクロードを見て、モニターの中のアルフレッドはため息を吐いた。それはどこか、憐れむような吐息だ。
『そんなに震えやがって……怖いんだろ? だったら逃げたらいいじゃねぇか。それを責めるやつは誰もいない。好きなようにすればいい。お前がそんな、泣きそうな顔をしながら立ち向かう必要はないんだ』
憐れむような声だった。だけど、それはとても優しい声でもあった。
きっと、ここが最後なのだろう。逃げ出すとしたならば、ここが一番傷つかない、最後の逃げ道。王の慈悲のもと、その正当性のもとで逃げおおせる。怖いことから背を向ける。なんて甘美な未来なのだろう。
だけど、クロードはそれを否定する。不様に逃げ出すくらいなら、みっともなく立ち向かおう。それが綺麗でいることを諦めた、泥臭い男の覚悟。
諦めないこと。
ただ一つ見つけた、クロード・ルルーの覚悟だ。
「僕は……!」
言葉。
絞り出すそれは、全く考えのない心そのままの言葉。だからこそ、紛れもないクロードの本当の気持ちだった。
「僕はオルタナが好きです!」
途端、モニターの中の王が動きを止める。あまりにも予想と違うクロードの言葉に戸惑っているのだろう。
「僕はオルタナのことが大好きです!」
言葉は止まらない。もはやクロードの意志さえも離れて、ただ心を映す鏡のように垂れ流される。
「馬鹿だと思われるかもしれないけど、僕はたった一日一緒にいただけの彼女を、好きになりました」
だから、とクロードは真っ直ぐにアルフレッドを見返しながら、しかし心はオルタナに向いたまま告げた。
「僕はオルタナを救いにきた」
あまりにも理解不能なクロードの物言いに、アルフレッドは一瞬だけぽかんとした顔を見せたが。すぐにへらへらとした表情に戻ると、どこか小馬鹿にしたような口調で言った。
『ジョークってのはよぉ。もっと洒落をきかせなきゃならねぇんだぜ? 今のお前の冗談はちょっと面白くないぜ、クロード』
その表情と口調にしては、アルフレッドの雰囲気は少しだけ刺々しい。まるで怒っているようだと、クロードにはそう感じられた。
『お前が一体、どうやってオルタナを救う。いや、待て。そもそもどうしてここに来た? オルタナを救いたいのであれば、とっとと浮遊城に行って来ればいいじゃねぇか』
アルフレッドはわかりきった答えを聞いている。それは確認というよりも、クロードに自覚を促す意味合いは強いのだろう。相手の意図を理解しながら、クロードは彼の問いに答えた。
「僕だけじゃ浮遊城にたどり着けない。それだけの力が、僕にはない」
空を飛ぶ術すらもたないのだ。仮にそれがあったとしても、あの竜の軍勢に阻まれてしまえば、クロードは一瞬とかからず負けてしまう。負けて、死ぬのだろう。
「だから、国王様。僕はあなたに力を借りに来た。あなたの国の、この国最強の力を貸してください!」
オーランド最強の力。それは紛れもない自分の姉のこと。
「青騎士レヴァンテインを僕に貸していただきたい!」
そう言って、クロードは膝を折り、地に手と頭をつけた。頭も体も完全に下げた土下座の姿勢。およそこれ以上ないくらいにみっともない姿だったが、それを気にするだけの余裕は今のクロードにはなかった。オードランという大国。そこを治める王を目の前にして、その王の所有物である騎士を貸してくれと叫んだのだ。それも、王国最強と名高い青騎士レヴァンテインをだ。いくら実の姉だろうと、それで許されることではない。
オルタナが好きだから。
彼女を救いたいから。
そんな身勝手な理由で、クロードは一国に対して力を貸せと迫ったのだ。
余裕なんてあるわけがない。こうして頭を下げているのも、アルフレッドの顔を見たままではいられないという意味もあるのだ。
何を言われるのか、というよりはどう拒絶されるのか。恐怖しながら、クロードは王の次の言葉を待った。だがアルフレッドが発したのは言葉ではなく、肩を透かすほどの笑い声だった。
『あっはっはっはっは! おいおい、なんだよそりゃ、クロード。お前、もしかしてすっげぇ馬鹿なんじゃねぇの? 惚れた女を助けたいから、俺様に向かって、俺様の国の力を貸せだって? しかも惚れた女ってのは昨日あったばかりの奴で、今この国を滅ぼさんとしている反逆者ときた! なあ、お前わかってんのか? お前はこの国の敵を助けるために、この国の力を貸せって言ってるんだぜ? わかっていってるんだとしたら、お前とんでもねぇ馬鹿野郎だよ!』
アルフレッドの口調はいつにもまして軽薄で、それ以上に辛辣だった。自分がどれだけ愚かなことをしているかを突きつけられるような物言い。だが、その態度からは想像もつかないほど今のアルフレッドは子供のような笑顔を浮かべていた。無邪気に、ただただ楽しそうに笑う青年の姿。とても王とは思えぬ彼の表情にクロードはあっけにとられてしまう。
『そして、俺はとんでもねぇ馬鹿野郎が嫌いじゃない。いいぜ、クロード。お前の話、聞いてやろうじゃねぇか!』
「ほ、本当ですか!?」
思わず、聞き返す。今、アルフレッドはクロードの無茶な願いを聞き入れる姿勢を見せたのだ。モニターからはアルフレッド以外の、誰とも判別のつかない多数の声が漏れだしている。円卓も騒然としているのだろう。だが、アルフレッドが手をあげて静止すると、その声も聞こえなくなった。
『落ち着けよ、お前ら。あくまでも話を聞くってだけだ。その後どうするかは、円卓の意見も聞こうじゃないか』
譲歩しているように見えて、クロードの話を聞くという部分だけは決定している。そこだけは譲るつもりはないようだった。
話を聞いてもらえる。オルタナを助けられる可能性が見えた。そのことにクロードは思わず顔を綻ばせ、それを隠すように再び頭を下げた。
「ありがとう、ございます……」
『おいおい、何をもう救われたような気になってんだよ。話は聞いてやるが、それもただってわけにはいかねぇよ。仮にも、一度は円卓から逃げ出した身、もう一度ここに立つためには、力を見せてもらわなきゃな』
「力……ですか?」
『何、難しいことは言わねぇよ。〝ここまでたどり着け〟。それが話を聞いてやる条件だ』
その言葉と同時、オードラン城の入口である城門が音を立てて開いていく。ゆっくりと、徐々に徐々に開いていくその動きは、まるで城がこの時を待っていたように感じさせた。
門が完全に開いた。オードラン城内へと続く庭園が姿を現す。
『来いよ、クロード』
王に促されるまま、クロードは門の中へと足を踏み入れた。体はまだ震えている。それでも踏み出す一歩に、躊躇いはなかった。
+
「よかったのですか、国王様」
クロードを映していたモニターの消えた円卓。兵士団長はアルフレッドに不安そうに問いただした。
「彼の言うことは、あまりに支離滅裂で要領を得ません」
「そうか? 目的ははっきりしてたじゃねぇか」
「しかし、それに対する手段が……」
彼の言葉を制すように、アルフレッドは頷きを作りながら、深く椅子に腰かけた。
兵士団長の言うことは正しい、とアルフレッドも思う。クロードの言葉は一笑に伏されても仕方ない、説得力の欠片もない提案だった。だが、同時に聞き流すことのできない真摯な雰囲気もあったことも確かだ。
聞くだけの価値はあると、俺様は考えるぜ。
それはクロードの言うオルタナを救いたいという言葉に同調したからではない。最終的に、彼の提案を受け入れるつもりもなかった。だが、少しでも聞く姿勢を見せることで、その提案自体を利用できないかと、アルフレッドは考えたのだ。
その思考の中心にはモネの存在がある。
ちらりとモネの方へ視線を移す。彼女はモニターがあった虚空を見つめたまま、動こうとしない。時折、何かを呟こうとしているのか口元が動いているが、それが音となることはない。明らかな動揺。それ以上に、何かに絶望している風にも見える。確かなのは、クロードの存在がモネの心に大きな変化を与えたことだ。
間違いない。騎士としての誇り以外にモネを動かすものは、弟の存在だ。それは誇りよりも激しく、強引にモネの心を揺さぶるもの。
これを利用しない手はないと、アルフレッドは考える。自分の本当の気持ちに気づけない、未だ未熟なモネの心に対する起爆剤として、クロードは充分有用だろう。
二人の思いを駒として見ることに罪悪感がないわけではなかったが、それも必要なことだと割り切る。
「まあ、その手段とやらもクロードに聞いてみればいいさ。あいつのことだ、なんの考えもなしってわけじゃあないだろうぜ」
円卓の面々に対する言い訳のようだとアルフレッドは自分自身思ったが。しかしあながち嘘でもないだろう。それくらいの評価をアルフレッドはクロードに対して持っている。
しかしそれでも納得がいかないのか、兵士団長は苦い顔をしていた。ジャン・ジャックに至っては驚くほど鋭い視線をこちらに向けている。
それ完璧王様に向ける視線じゃあねぇよな……。
「大丈夫だよ、心配すんなってお前ら。……ああ、兵士団長とジャックは自分とこの部下に避難の準備を進めるよう言っておいてくれ。クロードの話を聞くのは、その準備が終わるまでの間だけだ。これでいいだろう?」
兵士団長もジャン・ジャックも迷いなく頷いて、すぐさま部下と連絡を取っていたが、やはり表情はどこか納得がいってない様子だ。そんな二人を見て苦笑するアルフレッド。優秀な臣下を持って幸せだが優秀すぎてやりにくいな、と。背後に控える二人の従者も内心は何を思っていることやら。唯一ネルバとリリィは普段と変わらぬ様子だが、ネルバはいつも何を考えてるかわからないし、リリィは普段から辛辣なので勘定には入っていない。
「それによぉ、面白いなって思ったのも本当なんだぜ?」
続けられたのは、あまり意識して発せられたものではなかった。クロードの啖呵に感化されたのか。まるで隙間からにじみ出るように、アルフレッドの隠そうとしていた本音の片鱗が見える。
「惚れた女のために恥も何もかなぐり捨てて、一度逃げた場所に戻ってきたんだ。それも、国を敵にしかねない言葉と一緒にな」
クロードは自分に酔っているわけではなかった。自分の力量を正確に判断し、敵わないと知って、それでもどうにかするためにここにきたのだ。
「届かないと知りながら、それでもあいつは手を伸ばしたんだ。そしてそいつを、降ろす気はないときた。こいつが面白くないわけがないぜ。こんなにかっこ悪いのに、それなのに見てみたくなる奴が他にいるかよ」
そうだ。結局、アルフレッドは本当のところ、見てみたくなったのだ。至らぬ位置から届かぬ高みへ伸ばした手が、最後に何を掴むのか。それとも、何も掴めぬまま終わるのか。その結末を見届けてみたくなったのだ。
「来いよ、クロード」
だから、アルフレッドは再び口にした。もう姿も見えなければ、声も聞こえない彼に向かって。