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黄金色の恋

 クロードのいなくなった会議室。円卓にいた面々は砕かれた壁とモネを交互に見やっていた。

「申し訳、ございませんわ」

 円卓の空気に遂に耐えきれなくなったのか、モネはとても弱い声で呟いた。

「数々の失態…………騎士として恥ずべきことですの。それも神聖な円卓の場で……」

 本当に申し訳なさそうに。それ以上に脱力したように俯くモネに、声をかけたのは兵士団長とネルバだった。

「そう気になさらずに。こんな時ですから、誰もかれも冷静ではいられない」

「その通りですよ。それも肉親であれば、取り乱すのも当然。わしらの方こそ、配慮が足らんかったのう」

 彼女を励ますための言葉だったのだろうが、その落ち着きっぷりが逆にモネには責めるような響きを持って聞こえてしまい。ますます委縮して体をちぢこめる。

 全く、わたくしとしたことが……。

 いつもそうだ、とモネは過去を振り返りながら思う。いつもいつも、クロードと一緒にいると張り詰めた何かを無理やり緩まされるような感覚を覚える。二人だけの時ならば、それは安心を呼ぶが、そうでない場合には油断や、予期せぬ事態を生むのだ。大体、この会議においてモネが冷静さを失った理由は殆どクロードにある。

 あの子がここにいて、いつの間にか殺されそうになっていたから。そう、全部クロが悪いんですわ!

 だがそれも今となって考えれば、アルフレッドが断固として反対していた以上、その処刑がなされることはなかったはずだ。最終的にジャン・ジャックは強硬手段にでたが、王が反対していたのなら、執事長かメイド長のどちらかが動いただろうし、下手をすれば王自身が動いただろう。クロードを守るために。

 そのあたりの状況判断もできず、ただ焦って喚き散らし、怒りにまかせて魔法を行使したのは己の未熟さゆえなのだろう。

「はあ……」

 こんなことでは弟を叱る資格などない。弟は、クロードは自分の命が危ないという瞬間でさえ、冷静に大局を見ていたではないか。むしろ取り乱すことで、彼の思考や行動の邪魔をしてしまったのではないかとさえ思う。

 わたくしが大人しくしていれば、もしかしたらクロは自分で活路を見出していたかもしれませんわ。

 わざわざこんなことまで、しなくとも。

 だが、そんな自分の弟はもうこの場にいない。モネ自身が追い出したのだ。それも、驚くほど荒っぽい方法で。

 移動魔法。ルーンを運動エネルギーに変換する初歩の魔法。しかしそれはモネが扱うことで、そこいらの魔法師とは比べ物にならないパワーを持つ。それをモネはクロードの体そのものにかけたのだ。結果、クロードの体は大量の運動エネルギーの力によって、誰も手を触れないままに水平方向に吹き飛んだのだ。

 同じことを、モネは学生時代にやったことがあった。あの時は確か、森林地帯の遠征訓練の際に道をふさいでいた大岩をどけるためにやったはずだ。勿論、その時ほどの力を込めたりはしなかったが、原理は同じだ。

 オードラン城から、王都の街へと吹き飛んでいったクロードだが、死ぬことはないはずだ。移動魔法と同時に、衝撃緩和の術式も組んでおいた。それもまた簡単な術式であるが、モネが使えば緩和どころか衝撃そのものを消し去るだけの力を持つだろう。

 クロードは無事だ。それをモネはわかっている。だけど、ならばどうして自分はまだクロードのことを心配しているのだろうと、モネは自分の反応を不思議に思った。それはそもそも、彼を拭きとばざるをえない状況を作った、彼自身の行動にある。

 クロードは突如として理性を失い心を乱した。自分の命が危険にさらされているときでさえ、冷静でいた彼の心を乱したのは間違いなくオルタナという存在だった。彼女を殺すと、モネがそう宣言した瞬間にクロードは取り乱したのだ。そして愚かにも叫んだ。オルタナを殺してはいけないと。ただでさえ、オルタナとの共犯の疑いをかけられていたにも関わらずだ。疑い事態は晴れたものの、それでも疑ったという事実と心はなくならない。あそこでオルタナをかばい続ければ、またぞろジャン・ジャックが何を言い出すのかわかったものではなかった。それに、リリィや兵士団長、ネルバたちも基本的にはクロードを庇うような行動を見せていたが、クロードの疑いが濃くなり、それが確信に変われば迷いなく切り捨てるだろう。リリィとは仲の良いモネだからこそわかる。彼女は普段は温厚で、人懐っこい性格だが、いざという時にはいくらでも非情になれる人間だ。騎士として、というよりは戦士としての厳しさを持つのがリリアーヌ・ローランという騎士団隊長なのだ。

 ただ、彼らの対応を否定する気持ちはない。騎士として、この国を守ると誓った円卓の一人としては正しい反応だ。むしろこの場で逸脱しているのは自分の方だとモネは理解する。

 わたくしはきっと、騎士として間違ったことをしていますわ。

 理解はしていても、その正しい行動を取ることはモネには難しかった。また感情に任せて何をしでかすかわからない。だからこそ、モネはクロードを無理やり退場させたのだ。舞台の上から引きずり下ろしたのだ。それは何より、クロードの身を守る結果となる。

 ここにいる資格はない。

 その言葉が全て嘘だっとは言わない。しかしその裏にはクロードの身を案ずる気持ちもあったのだ。だからこそ、ここまでの強硬手段に出たのだ。もしかしたら、ジャン・ジャックはクロードが退場しようと、なんらかの理由をでっちあげて処刑を行うように進言するのではないかと疑っていたが、その様子はないようだった。自分が暴走しかけたこともそうだが、それ以上に解決策を提示したのが大きいのだろう。

 オルタナを殺すという解決策。

 まるで彼女を犠牲にクロードを守ろうとしているようで、モネは少しだけ心が痛んだが。それだけだった。それ以上、思うことはない。感じる後ろめたさは言い出すタイミングが悪かったということだけ。モネは最初から、オルタナをを殺す気でいたのだ。

 クロードのことに関係なく。

 モネはオルタナを殺すつもりだった。

 そして少女の中にあった迷いが全て捨てられた。誰に言うわけでもなく、誰も知らない理由をもとに、少女は孤独に覚悟を決める。

 わたくしは今日、この手で友人を殺しますわ…………。

 クロードの言っていることは正しかった。確かにモネとオルタナは友人だった。少なくとも、モネはそう思っていたし、これからもそのつもりだ。例え友人であろうと――――友人だからこそ、殺してあげなくちゃならない時が存在することをクロードは知らない。いや、知らなくてよいのだろう。そんな関係は、きっとつらいだけなのだから。

 オルタナ。どうかわたくしを恨んでください。決して、許さないでください。

 少女の願いはただそれだけだった。

「…………?」

 彼女が静かな覚悟を決めて顔を上げると、そこにはアルフレッドがまだクロードが飛んで行った方角を見つめていた。

「どうしたんですの、アルフレッド」

 あ、しまった。とモネは思わず手で口を抑える。他の騎士たちの前だからとかしこまっていたのだが、いつものボロが出てしまう。

 まあ、別にとやかく言うようなうるさい人はいないんですけど。

 他ならぬ王が許しているのだからと、モネの普段のアルフレッドに対する不敬とも言える態度を咎める者はいなかった。モネだけでなく、アルフレッドは学生時代の同級生に対してもそういったくだけた態度を未だに許しているそうなので、威厳も何もないと、前にメイド長が嘆いていた。

 それはともかくとして、

「アルフレッド、何か気になることでもあったんですの?」

 いっそ開き直ってしまったモネにアルフレッドは視線を送らなかった。じっと、クロードの飛んで行った方を見つめたままに答える。

「死んだわけじゃあ、ないんだろ?」

 察するに、クロードのことだろう。モネは頷いて、衝撃緩和の魔法も同時にかけたことも告げる。

「この方角は広場の方か……。結構派手に飛んだよな」

「それは、そうするようにしましたから…………」

 さらっと酷いことを言いながら、モネは首を傾げた。

「本当に、どうしたんですの? そんなにクロが飛んで行った方角が気になりますの?」

「方角じゃねぇよ」

 そこで、やっとアルフレッドはクロードのとんだ方角から目を離し、モネの方を見た。

「気になるのは、クロードさ。なんというかよ、俺様にはあいつが戻ってくるような気がしてならないんだ」

 王の言葉に、それもまた失礼だと思いながらもモネは失笑してしまう。

「そんなはずありませんわ。アルフレッドも言ったじゃないですか。かなり、派手に吹き飛ばしたんですのよ。衝撃緩和魔法で痛みはないにせよ、あれだけのスピードで吹き飛ばされて、戻ってこようなどと思うはずありませんの」

「本当か?」

 なおも疑うアルフレッドにモネは少しだけむっとして言い返した。

「本当ですの。わたくしはクロの姉ですわ。弟のことはよくわかってますのよ」

 そうだ。そもそも、どれだけ恐怖したかに関わらず、クロードは基本的に人の言うことはよく聞く子だった。母の言いつけも姉の我が儘も、理由もなく断ったりすることは今までなかった。モネが本気で怒って、出て行けと言ったのだ。ならクロードは出て行くはず。もう戻ってなどこないはず。

「そうですわ。そんなはず、ありませんの……」

 なら、どうしてわたくしは――。

 こんなに不安を抱えているのだろう、とモネは思わず自分の胸に手を当てた。それと同時にあることを思い出す。そういえば、自分の弟はつい最近初めて姉の言うことに逆らったはずだった。

 あの時、あの子はなんのために…………いや、誰のために――――?

 彼女の思考が不安の先へと行こうとしている中、それを遮るようにアルフレッドは手を叩いた。当然、円卓のメンバー全員が王の方へと注目し、モネの思考もそこで断ち切られることになった。

 アルフレッドは、ようやくいつもの調子を取り戻したのか、へらへらとした口調で告げる。

「とりあえず、一旦お茶にしようぜ。喉が渇いた。それに、色々あり過ぎた。各々、心を休ませるためのティータイムだ」

 パチン、とならされた指に後ろに控えていた執事長とメイド長が反応する。

「バトラー、お茶を持ってきてくれ。そうだな、ミルクティーがいい。ミルクで煮出したやつを頼む」

「既にご用意しております」

 いつのまにか執事の手には大きめのティーポットと人数分のカップの乗せられたトレイがあった。さすがだな、とアルフレッドが言うと小さく礼をして、カップとお茶を配り始める。

「アルフレッド様。実は私、こんなこともあろうかとお茶菓子を作っておきました」

 メイド長の方はというと、これまたいつのまにかその手にスコーンとクッキーを乗せたトレイを持って少し得意げで佇んでいる。

「はっはっは! お前もさすがだぜメアリ!」

 大仰に褒めるアルフレッド。メイド長はよほど嬉しかったのか顔を赤くして少しくねくねしながらトレイを円卓の中央に乗せた。

 神聖な円卓の場でお茶会など! と、あの頭の硬い老臣が健在なら言ったところだろうが、そんな文句は誰も口にしなかった。モネとしては、一刻を争う事態ではないのかと言いたい気持ちもあったが喉が渇いていたのも事実。小腹も空いている。叫んだり、興奮しすぎたのだろう。

 それに一旦落ち着こうというアルフレッドの提案は悪くはない。ジャン・ジャックを始め、やはりみんなどこか冷静ではないのだ。それはアルフレッド自身にも言えること。だからこんな、冗談みたいなお茶会を始めたのだ。

 アルフレッドらしい気遣いですかね……。

 それでもやはり冗談が過ぎるのではないかと思いながら、執事長から頂いたミルクティーに口をつける。

「…………美味しい」

 思わず声に出してしまった。それをきっかけに、円卓の面々も自由にお茶会を始めてしまった。リリィなんかは誰よりも早くお菓子に手を付けてメイド長に文句を言われていた。どうも一番最初はアルフレッドに食べてほしかったようだ。あの人も相変わらずだと、その光景を微笑ましく見つめながら、メイド長の死角から隙のない動きでクッキーを手に取ると、それを一口で頬張ってしまう。

 不安は甘味に溶けて忘れられてしまった。

 その行為が友を殺さなければならないという現実からの逃避だということに、結局モネが気づくことはなかった。

 恐怖や不安、迷いや躊躇い。それらを忘れたふりをしながら、少女の覚悟は確かなものに変わってしまっていたのだ。

 朝と昼の間。徐々にだが、太陽の日差しによって気温が上がってくるはずの時間帯。いつもは王都を照らすその日の光は今は見えない。王都上空を支配する、浮遊城の存在が原因だ。実に王都の半分ほどの面積を持つ、あまりに巨大なその城は太陽の光を完全に遮断してしまい、真上には城を確認できない王都外周さえも、場所によっては太陽との位置のおかげで影となってしまっている。

 太陽の光を失った王都は、昼間というのには暗く、しかし夜だというにはあまりに薄い闇が覆っていた。その何もかもが中途半端な光景は見る者に不安定な恐怖を与えるが、その薄い闇を王都の中で見る者はオーランド城に集まった騎士や兵士、そして国王たちを除けばほぼいない。王都の住民は皆、避難を完了し、少し離れた位置から浮遊城と、その下の暗い王都を不安げに眺めていた。

 そんな王都の空を高速で飛ぶ何かがあった。竜、ではない。その何かが飛ぶ高さは空ではあるが、浮遊城ほどの高度ではない。当然、浮遊城の周囲を取り囲むように飛ぶ竜でないことは確かだった。

 なら、それはなんなのか。すでに王都には見る者はいないが、眼のいい人間が見ればそれが人間であることにすぐ気づくことができたろう。

 王都の空を高速で飛来する人間。それは先程オーランド城からモネに移動魔法によって吹き飛ばされたクロード・ルルーだった。


 自分が飛んでいるという感覚は理解できた。だが、あまりにその速度が速かったため、クロードは周りの景色を確認することすらできなかった。視覚は殆ど意味を成しておらず、聴覚もまた吹きすさぶ風の音が耳元で鳴り響くばかりで、役にたっているとは言いがたかった。

 様々な感覚を失ったまま飛翔する体は、まるで意識だけが先を行っているようで、なんだか気持ちが悪かった。だが、その気持ち悪さも長くは続かない。いや、実際は長かったのかもしれないが、クロードの意識の中では、空を飛ぶ自分の体が地面に叩きつけられるまでに、たいした時間はかからなかった。

 轟音。風が吹きすさぶのとはまた違う、体の芯から響く音。クロードの体が地面へと激突した音だ。しかしその体に痛みや衝撃はまるで感じられない。モネが移動魔法と同時に仕掛けた衝撃緩和術式のおかげだ。彼女の類い稀なる才能のもとに発動されたその魔法は衝撃を緩和するどころか、消滅させるほどの力を持っていた。ただ、あくまでも消滅させたのはクロードに発生する衝撃だけのようで、高速で飛来する人間がぶつかった地面の方の衝撃は変わらなかった。轟音は、地面――――王都の石畳が粉々に砕け散った音だったのだ。

 高速で地面へと落されたクロードは落ちた時の姿勢そのまま、仰向けの状態で地に体を投げ出して動く気配はない。自分の体に衝撃がなかったことを驚いているわけではない。モネが衝撃緩和の術式を移動魔法に組み込んだのは〝見えていた〟。クロードにはモネが何をしようとしているのか、彼女がルーンを収集し始めた瞬間から読めていた。

 それはつまり、避けようと思えば、避けられたということ。クロードの意志さえあれば、こうして城の外まで飛ばされることもなかったということだ。

「…………」

 どうして、僕は避けなかったのだろう。

 クロードが驚くのはそのことだった。どうして自分は避けられるはずのことを、避けなかったのか。あの時のクロードの立場は危ういものだった。自分が愚かな行動をしたという自覚もある。その場から、弟を逃がしたいというモネの真意にも気づいていない訳ではなかった。

 だがそう考えても、考えても考えても考えても、やはりクロードは自分がモネの魔法を避けなかった意味がわからなかった。

 いや、違う。

 そうじゃないと、クロードは仰向けのまま。空を仰ぐ。視線の先には浮遊城の土台部分である竜の巣。自由に空を飛ぶ小竜たちの甲高い泣き声を聞きながら、クロードはそうじゃないのだと言葉を作った。

「僕は避けたかったんだ。いや、避けてほしかったんだ」

 それは自分自身への願望。情けないことに、クロードはあの場から逃げ出すことができて安心している。自分に不利な状況から、姉の助けという最高の形で逃げ出すことができて心底安心しているのだ。

 違うだろう。そうじゃない。僕がしたかったのはそんなことか? あそこから逃げ出すことが、本当に僕の望むことだったのか?

 避けてほしかった。それは、あの場に残り、立ち向かってほしかったという願望。自分自身へ望んだこと。

 僕はあの時、なんのために、誰のために叫んだんだ…………。

 見上げた空には竜の巣が。その上には黄金の浮遊城があり、そしてその中のどこかに彼女がいる。

「…………オルタナ」

 少女の名を呼ぶ。そして自分の中に居座っていた黄金色の正体を、クロードはようやく理解した。この頭の中の黄金色の輝きは、彼女であって彼女じゃない。この色は彼女を見つめる、自分の心の色なのだ。

 綺麗で、眩しくて――――痛々しいほどに眩しい、ただの恋心だったのだ。

「は、ははははは!」

 クロードは笑った。大きな声をあげて、乾いた声で笑う。空を飛ぶ竜がこちらに視線を送ったような気がするが、そんなことは気にもならなかった。どうせ、彼ら以外に見ているものなどいない。こんなに馬鹿みたいに笑ったのは久しぶりだと、クロードは思った。

 だって、おかしいじゃないか。僕が彼女と一緒にいた時間は、たった一日だけなんだぞ?

 唐突に出会い、そして唐突に始まった逃亡劇。町を周り、服を買い、同じ宿に泊まり同じベッドで寝て……だけどお互い眠れなくて、他愛もない会話を朝まで繰り返した。

 そう、ただそれだけだ。話をしただけだった。クロードとオルタナの関係なんてそんなものだ。話をしただけ。結局クロードは、とても綺麗だと思ったあの黄金色の髪にだって触れていない。一度手を繋いだだけ。二人の肌が触れ合ったのはその時だけ。それだけだ。それだけの、関係だ。

 たった一日の、協力関係。それが二人の繋がり。それ以下ではあっても、以上であることは決してありえない。

「なのに、どうして僕はこんなにも…………」

 その先は言葉にすることが出来なかった。言葉にすればもう戻れないと、もう逃げられないと思ってしまったのだ。

 たった一日の関係。その中でクロードはどうしようもないほど、オルタナに惹かれてしまったのだ。

 避けてほしかった。立ち向かってほしかった。彼女を助けたいと、そう言ってほしかった。だけど駄目だった。

「僕は、駄目だったよ」

 彼女を助けたいと、言えなかった。逃げてしまった。避けてしまった。臆病な自分は、戦うことを拒んだのだ。ジャン・ジャックや、状況によっては他の騎士たちにも自分は命を狙われるような立場だった。それだけじゃない。彼女を助けるということは、立ち向かうということは、あの城と戦うということなのだ。

 目を閉じれば、鮮明に思い出せる。城への接近を試みた騎士たちが、自分の憧れた強さを持った人たちが竜の軍勢の前に手も足も出せずに薙ぎ払われていく。その光景がクロードに与えた絶望がどれほどのものなのか、自分自身にだってわからない。ただ、もしも自分があの軍勢の前に立つことになると思うと、クロードの体は恐怖のあまり無意識に硬直してしまう。

 勝てるわけがない。

 それは弱音でもなんでもなく、純然たる事実としてクロードの目の前に突き付けられる。あの青騎士でさえも殲滅はできないというだけの力。それを前にして、自分がどれだけ戦えるのか。いや、そもそも自分では戦いにさえならないだろうと、クロードは考える。それもまたどうしようもない事実。クロードではあの竜の軍勢の前に立っただけで勝敗が決まる。成す術もなく、殺されるだけだ。

 死。

 ジャン・ジャックに殺気を向けられた時でさえ、あまり意識することのなかったその概念が、クロードの頭に刻み込まれる。

 死ぬ。それはなくなって、いなくなるということだ。

 死ぬのは嫌だった。なりたいものになれなくて、必死に食らいついて、結局伸ばした手は何も掴めなかった。そんな惨めな命でも、終りにするのは怖かった。

 死ぬのは嫌だ。生きていたい。

 そうして生にしがみ付くことこそが惨めであると理解しながら、それでも死ぬことはクロードにとって逃れようのない恐怖だった。

 死ぬのは嫌だ。それは絶対に嫌だ。だけど……。

 だけど、クロードはそれと同じくらい、オルタナを失うことも嫌だったのだ。

 自分が死ぬことも嫌で、彼女が死ぬことも嫌だった。

「僕は、オルタナに死んでほしくない」

 ――――何を馬鹿なことを。

 頭の中で、誰かが言った。

 ――――逃げ出したくせに。

 ――――怖いからって、立ち向かわなかったくせに。

 その言葉はほかならぬ自分の言葉だ。クロードが自分自身に語る〝もう諦めてしまえ〟という意味の言葉たち。諦めて逃げ出して、それでいいじゃないかと囁く声はクロードの弱さそのものだった。

 助けたい。何より、もう一度あの子に会いたい。だけど、立ち向かうのは怖い。今すぐにでも逃げ出したいと、臆病な心が叫んでいる。

「僕は、どうしたらいいんだよ……」

 思わず声になった問いは、しかしすでに答えの出ていたものだった。

 このまま、逃げるか。

 それとも、恐怖を克服して立ち向かうか。

 二つに一つ。クロードがするべきことは、それを選ぶことだった。迷うまでもない。クロードの臆病な心は、真っ先に逃げることを選択するだろう。だから、クロードは迷ったふりをした。自分の心を騙したのだ。他ならぬ自分の強さをクロードは誰よりも信じていなかったのだから。

「僕はオルタナを助けて、それでどうしたい? その先に何を望んでいる。僕は、彼女に何をしてほしい。なんて言って欲しいんだ……?」

 瞬間的に頭に浮かんだ光景はあまりにも扇情的で、クロードは自分の思考の醜悪さに吐き気を催す。

「なんて、俗物だ」

 吐き捨てるように言いながら、しかしそれでもいいかとクロードは思う。俗物でもなんでもかまわない。この弱い心が、前を向いてくれるのなら、理由なんてなんでもいい。正義だとか、そういうそれっぽい何かで彼女を救え。欲望だとか、そういう汚い何かで彼女を救え。

 僕のために救え。

 彼女のために救え。

 醜悪な理由も高尚な理由も全部全部ごちゃ混ぜろ。

 だから、だから――――

「いつまでも、震えてんじゃねぇよ!」

 叫び。誰にでもない、自らが己に発した怒声と共に、クロードは拳を地面へ叩きつけた。じんじんとした響くような痛みが腕にはしる。しかし、体の震えは止まらない。クロードは震える体に鞭を打って立ち上がる。そうしてようやくクロードは自分が落ちた所がどこなのかを知る。

 クロードが落ちたのは王都中央広場。三層構造の噴水が人のいない街の中心でまだ稼働し続けている。吹き飛ばされた速度は凄まじかったが、とんだ距離自体はそう長くはないらしい。飛行していた時間を短く感じたクロードの感覚は確かだった。ここからなら、城までは一本道。迷うことなく、たどり着くことが出来る。

 クロードは走り出した。オードラン城を一度だけ視界に入れると、あとは下を向いたまま自分の足元だけを見続けた。震える体は上手く動かなくて、何度も転びそうになったが、それを気にしている余裕もなかった。挙句何一つ、クロードは自分の中に覚悟を見つけることはできなかった。

 結局理由も見つからぬまま。恐怖も克服できぬまま。迷う心を抱えて少年は走った。

 ただ足だけは、震えながらも確実に前へ前へと進んでいく。


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