悪夢の襲来
その日、王都に住む人間の全てが『それ』を目にした。誰一人として『それ』を目撃しなかった者はいないだろう。
誰もが目を惹かれた『それ』が現れたのは日の出と同時。まばゆい朝日が王都を包み込もうとする時刻。不意に、朝日が途切れ世界は再び闇に落とされた。王都を照らさんとする光は巨大な影によって遮られたのだ。だから、誰もが空を見上げたのだ。何があったのかと、確認するために。
最初、人々の目に入ったのは空を飛ぶ大地だった。土や、岩ではない。大地だ。『それ』は確かにそう呼ぶべき広大さを持っていたのだ。
実に、王都の面積の半分と同等の大きさを誇る大地が人々の見上げる空高くに出現したのだ。それだけでも王都に住まう民の狼狽ぶりは想像だに難くない。だが、そんな人の恐怖を煽るかのように空を飛ぶ巨大な大地から顔を出す者がいた。
驚くことに、その大地にはいたるところに穴が開いていたのだ。それは肉眼でようやく確認できるほどの穴だが、地上からの距離を考えれば相当に大きな洞窟とも呼べるものだというのがわかる。そこから、顔を出す者がいる。細長い首、蜥蜴のような鱗に覆われた体に、蝙蝠のような翼を持つ生物。牙を剥く口から赤い炎を噴きだすそれは間違いない。竜だ。半ば伝説と化した古代の生物が、空を飛ぶ大地にいた。
それも一匹や二匹でない。目視ではとてもじゃないが数えきれないほどの様々な種類の竜たちが、大地にいたるところに開いた穴――――竜穴から飛び出し、空を舞う。鳥と獣を合わせたかのような奇妙な声で鳴きながら、炎を吐いて滑空するその姿は王都の人々に多大な恐怖を与えるには充分過ぎた。
王都は一瞬にしてパニックに陥る。恐怖に駆られた民衆はいてもたってもいられず皆一様に家を飛び出すが、逃げるべき対象があまりにも大きすぎたため、どうすることもできず狼狽する。
「なんだよ、ありゃあ……」
その時噴水広場にいた男が大地を指さし言った。『あれ』が何かなど、誰にもわからない。そんなわかりきったことを聞くなとでも言いたげに、周りの人間たちは男を一瞥しただけですぐに視線を外した。しかし、男は今度大きな声で叫ぶのだ。
「なんだよ。なんなんだあれは!」
男の声が尋常ならざる緊迫を含んでいることにようやく周りの人間は気づいた。男の言う『あれ』を見上げる。そこにあったのは変わらぬ大地。まるで無限に竜を産むかのような巨大な巣だ。何も、変わらない。だが、男が指を指す先は空を飛ぶ大地の少し上の方だった。
人々はそこでようやく気が付く。『それ』がただの空を飛ぶ大地ではないことに。『あれ』にとって大地は支えでしかないことに。
竜を産みだす巨大な大地の上に存在していたのは、その大地よりも遥かに大きな黄金の城だった。大きさはオードラン城の比ではない。真ん中に一際大きな塔のような建造物を置き、その周りをいくつもの城を集めて固めたような造りの黄金城。あまりにも鮮やかな黄金で建てられたその城は朝日に照らされ虹のような輝きを放っている。
人々が目にしたのは空を飛ぶ大地などではなかった。手の届かぬ高みに鎮座する黄金の城。浮遊城だったのだ。
どよめきを増す民衆の中、一人の老人が震える手を合わせて何かに祈るように呟いた。
「ああ、知っている。私はあの城を知っている……!」
老人だけではない。オードランに住まい、この国の歴史を学んだ者なら、誰でもあの城のことを知っていたはずだった。
今からおよそ三百年前。オードラン、エルマース、グーリエフ。三国による三つ巴の大戦が終わりを告げた。世界の情勢を揺るがす大きな戦争。その戦いに置いて、オードランの敗北を決定づけた存在がある。月夜の中、突如としてその存在を表し、一夜の内に王都を半壊にまで追い込んだ悪夢のような存在。
竜の軍勢を駆り、空を支配する黄金の城。
今なお語り継がれる敗北の物語。現在、王都の頭上に出現した浮遊城はまさしく、三百年前の悪夢そのものだったのだ。
――――悪夢が再びやってきたぞ。
名も知らぬ誰かの声によって、王都の混乱はピークに達した。
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呆然と立ちすくむクロードの視線の先にあったのは、痛々しい惨劇の傷痕だった。聞こえてくるのは、耳を塞ぎたくなるような悲痛な呻き声。包帯の白と、血の赤が埋め尽くすのは負傷した騎士たちの体だ。
オーランド城の広間に臨時で設立された治療所。広間は血と消毒液の臭いで満たされ、回復魔法を行使するルーンの光がいたるところで発光している。医師と看護婦は慌ただしく動き続け、負傷した騎士たちは歪む顔で痛みに耐えている。
まるで、戦争の最中のようではないかと、クロードはどこか判然としない意識でそう思った。そして同時に、どうして自分がここにいるのだろうとさえ思った。今朝から続く衝撃が、まだ未熟なクロードの心を刺激し麻痺させてしまったのだ。
順を追って、思い出していこう。記憶を整理するのだ。
クロードはまず今朝のことを思いだす。
今朝、クロードとモネは自宅にやってきた六番隊の隊員、モネの部下の来訪によって起こされた。まだ日も登らぬ、寒さに凍える早朝のことだ。自分の隊の隊長へ無礼を承知でやってきたということは、まず間違いなく緊急の用件。それも、かなり重要度の高いのものだ。事実、隊員が告げた事件は一刻を争う重大案件だった。
アルマ=カルマの逃亡。つまり、オルタナの失踪。
昨日の夜の内に、オルタナは城の中から忽然と姿を消したのだという。
オルタナがいなくなった。それを聞いたクロードは目に見えて分かるほど動揺し、パニックになりかけた。クロードには何故だか、彼女がいなくなったという事実が、そのまま彼女の死を意味しているように思えたのだ。そうでないということも頭では理解していたが、混乱はすぐには治まらなかった。モネに引っ張られるようにして城までたどり着き――――――クロードとモネがオードラン城に到着したのとほぼ同時刻に、浮遊城はオードラン王都の頭上に出現した。
突如として空を竜の軍勢に支配された王都は、瞬く間に混乱に陥り民衆は恐怖に駆られたが、その混乱は予想よりも早い収束を見せた。それはひとえに現国王アルフレド・アドルフ・オードランのカリスマが成せることだった。若年の王でありながら、すでに国民の支持を強く受けているアルフレッドは、まず王都の要所に設置されたモニターから王自らが混乱する民に落ち着くように、そして速やかに王都から避難するよう指示したのだ。モニターは定期的な演説のために設けられたものだったが、こういった非常事態時の運用も考えられていたのだ。
王の支持は迅速、かつ的確だった。アルフレッドの民の前に出る時の堂々とした態度によって、恐怖に追われる民衆は一時的に落ち着きを取り戻す。大量に動員された兵団員とアルケミアの学生たちが避難誘導を行い、二時間という驚異的な早さで王都民たちの退避は完了し、王都に残ったのは限られた王族関係者と騎士、兵士だけとなった。
住民の避難が早く済んだのは、王や兵団員、アルケミアの学生たちの努力があってこそのことだが、避難をする住民たちが大きな荷物を持たず、殆どの人が手ぶらも同然で逃げたのが大きかった。空を支配する未知の恐怖から一刻も早く逃げ出したかったというのもあるだろう。だが、それ以上に多くの人々が混乱が収まった後、事態を楽観視していたのだ。
現在、半数以上の騎士が他国との国境線や山奥に現れた魔物の討伐など、それぞれの任務のために王都から離れている。しかし、王都にはかの《青騎士レヴァンテイン》がいる。王都の守護を任務とする一番隊、その実質的な統率者である副隊長もいる。さらに外海への遠征を終えた十番隊も丁度帰還したところだ。彼らがいれば大丈夫。竜の軍勢も、浮遊する黄金の城も、正体不明のこの事態もきっとなんとかしてくれる。多くの国民がそう考えていた。クロードもそうだった。自分が憧れた騎士たちがいるのだ。どうにだってなる。そう思っていたのだ。
だが、その期待はあまりにも壮絶に裏切られることになる。
一体、何が目的なのか。竜たちは空を飛びまわるだけで人や、王都の建物に攻撃を仕掛けようとはしてこなかった。そのため、まず騎士団員たちは浮遊する城に接近を試みた。向こうに敵意がなければ、戦闘行為無しで解決できるかもしれないと踏んだのだ。だが結果的にその判断は誤りだったといえるだろう。
浮遊城への接近は六番隊の副隊長を先頭に十番隊を含めた連合体で前衛の接近部隊を編成。一番隊や、モネとリリィの隊長たちは後衛で不測の事態に対しての守りを固めることになった。この時点では編成に間違いはなかっただろう。空を飛ぶ竜たちは種類の違いはあれど、どれも人間よりも少し大きい程度の小竜と呼ばれるものだったからだ。隊長たち実力者を全て前衛に駆り出さず守りを固める余裕はあったはずなのだ。
接近部隊はまず魔法で作った障壁を足場にして、それを浮遊させることで空を飛ぶ黄金の城への接近を試みた。
接近部隊が城への上昇を始めてかた十分。そこで、ようやく状況に動きがあった。今まで、ただ上空を飛びまわるだけだった小竜たちが明らかに殺気立ち、蛇のような泣き声と共に何匹化の個体が集まって隊列を組み、規則性のある飛び方に変わったのだ。
それが竜たちの威嚇、または最後の警告であると、その時はまだ誰も気づいてはいなかった。むしろ騎士たちはかかってこいとばかりに士気を高めた。自分達の力に、絶対の自信を持っていたのだ。接近部隊は迷うことなく上昇を続け、ついにその時がやってきた。
小竜たちは攻撃を仕掛けてはこなかった。変わりに、耳をつんざくような甲高い声を一つ上げた。その声に呼応するように浮遊城の下、空を飛ぶ大地の竜穴から人の体長を優に超える五メートル級の中竜。さらに十五メートルを超える大型竜までもが現れたのだ。それも、小竜たちとは比べ物にならないほどの大群で。
小竜たちの役割は戦闘ではなかった。奴らは敵の接近を知らせる空の門番だったのだ。
中から大型の竜の大群は一直線に接近部隊へと飛翔した。接近部隊は一番隊の副隊長指示のもと、隊を三つに分けた三列の陣形を組んでいた。一列、三列目は防護魔法を隙間なく密集させ守りに徹し、二列目の隊が遠距離からの魔法攻撃を行うというもの。守護を任務とする一番隊の副隊長らしい堅実な策だった。だが隊を三つに分けてしまったがために、防御も攻撃も力が分散してしまい、小竜には対応できても大型竜に対しては彼らの堅牢な鱗の前に攻撃魔法は通じず、防護魔法も竜の膂力から放たれる爪と牙、鎧をも溶かして大地を焦土へと変える炎の息吹に殆ど破られかけていた。上空高く、足場も障壁だけの状況では緊急の退避も行えず、六番隊と十番隊の連合五十七名の大部隊も、こうなってしまえば互いの足を引っ張ってしまうだけだった。
圧倒的な優位に立っていたはずの浮遊城だが、その手を休めることはなかった。接近部隊に襲いくるのは竜の軍勢だけではなかったのだ。
突如、黄金の城の周囲に発光する壁が現れた。それはよく見てみると、光で描かれた魔法陣だった。直径一メートルほどの魔法陣が群れをなすように密集して、光の壁を作っていたのだ。そしてその一つ一つの魔法陣から一斉に細長い光の矢が放たれた。放たれた矢は〝キィィィ〟と耳障りな音の雨となり、接近部隊へ降り注ぐ。竜たちの猛攻にも紙一重の状態で耐えていた彼らの防護魔法は光と音の暴力によって一気に破られ、足場である障壁すらも崩れかけた。
驚くことに、ここまでの出来事は五分とかからずに起こったことだ。オードラン城の中から上空の様子を見ていたクロードには、まるで長い時間をかけた攻防のように思えていたが、実際には最初から浮遊城の優勢であり、接近部隊は殆ど成す術もなく無残にも蹂躙されたのだ。
最後の防護魔法が砕かれた瞬間、モネが独断で上空へ飛び出していかなければ、確実に接近部隊は全滅していただろう。それも、多数の死者を出して。逆に言えば、これだけの被害を受けながらも、死人が出ることはなかったのは、やはり彼らが国に選ばれた騎士であることと、降り注ぐ光の矢と竜の軍勢をただの一撃のもとに退けた青騎士レヴァンテインの功績だろう。
――――それでも、その結果がこの光景であるのなら、素直に喜んでいいものではないのだろうと、クロードは白と赤で塗られた兵士たちを見つめながら思った。
「クロ」
どれくらいそうしていたのか。気づけばモネが隣にいた。彼女はまるで頼りなげな少女のように俯きながら、クロードの袖を引っ張っていた。
「アルフレッドが、呼んでいますわ。残った騎士団の面々と、兵団長を集めて次の対策を論じるそうですわ」
「うん……」
クロードはどこか上の空な様子で返事をした。接近部隊が撤退後、竜たちはまた空を飛びまわるだけの存在となったが、未だ驚異は王都の頭上に居座っている。国の存亡すら危ぶまれる一大事だ。次に何をするか、その対策が早々に練られるのは当然のこと。だが、今のクロードには〝何故そんな重要な会議に自分が呼ばれたのか〟を考えるだけの余裕も残っていなかった。
モネに連れられ、広間を出る。その際、一度広間を振り返ったモネが唇を噛みしめて悔しそうな顔をしていたことは、今のクロードでもすぐにわかったことだ。