人型術式の望み
日が沈み、王都に夜がやってきた。まだ王都は夜を照らす照明魔法の光で彩られているが、その光ももうしばらくすれば消えるだろう。昼の喧騒を忘れ、静かな闇が訪れるのだ。
同時刻、オードラン城の一室。客人用の、華々しい装飾で飾られた部屋だ。置かれた家具たちは、どれも要所要所を獅子のレリーフなどで飾られており、一つ一つが強い存在感を持って、部屋全体の華やかではあるが厳かな空気を作り出してた。
そんな家具たちの一つ。天幕付きのベッドの上で、オルタナは膝を抱えて座っていた。自分の膝で顔の半分を隠すようにし、さらにポンチョのフードを深く被っている。そのため彼女の顔は殆ど覗くことはできず、外から見えるのは薄く開かれた視線だけだ。
わかりやすい警戒の体勢。その警戒の先にいるのは一人の青年だった。
少し長めの髪をした、ラフな格好をした青年だ。城下に出れば、そのまま街の軟派な男として通用しそうな華奢な体と軽い雰囲気を持った男だが、彼は紛れもないこの国の王だった。
現国王アルフレッド・アドルフ・オードラン。
彼は国王らしからぬへらへらとした笑顔をこちらに向けている。
もう夜だ。昼間の疲れもある。オルタナとしてはさっさと横になってしまいたいというのが本音だが、アルフレッドの存在がそれを許さない。防衛機能が働いているわけではない。確かな彼女の意志として、自分は警戒し拒絶しているのだという態度を見せるために横になる訳にはいかなかったのだ。
「そう警戒するなよ。俺様がいると、お前はいつもそうだよな」
困った風に頭を掻きながら、アルフレッドは言った。続けて笑顔を見せて、話題をシフトする。
「そのポンチョ、結構上物だろう? 部屋の中で着るようなものじゃないけどな。一体、どうしたんだよ。どこで手に入れたんだ、そんなもん」
これはクロードに買ってもらったものだった。あの朝の市場で彼が選んでくれたものだ。部屋の中で身に着けるような衣装でないことはわかっている。それをわざわざ着ているのもアルフレッドの存在のため。手っ取り早く拒絶を表すには顔を隠すのが一番だ。そのためには、この少し大きく作られたフードは最適だった。
アルフレッドからの問いかけ。それへの答えは頭の中ではできているが、言葉にしようとはしない。オルタナは口をつぐんだまま、黙ったままだ。
「似合ってるなぁ、それ。お前が選んだのか? それとも誰かが見立ててくれたのか? どっちにしろいい趣味だ」
ははは、と彼が笑って見せる。その顔を変わらぬ無表情でオルタナは見つめる。やはり、何も言わない。言うつもりはない。この沈黙もまた拒絶なのだ。
「…………お前はいつもそうだよな」
王は、一転して悲しそうな表情を見せた。それもまた国王らしからぬ、年相応の青年の顔だった。
「お前はいつも、俺様の前では何も言ってはくれないな。モネとは楽しそうに話していただろう。あいつとも、クロードともきっとそうなんだろう。だけど、俺様の前ではだんまりだ」
オルタナがアルフレッドと初めて会ったのは前王の時代。まだアルフレッドが小さな子供だった頃だ。前王の妻、アルフレッドにとっての母親に手を引かれて彼は自分の元へやって来た。その時のことはよく覚えている。人間の、それも小さな子供を見たのは久しぶりだったからだ。王族であれば、アルマ=カルマの存在は知っている。だが王族の人間がアルマ=カルマを実際に目にするために足を運ぶのは大抵、充分に成人してからだ。前王の判断がどういう意味を持っていたのかはわからない。案外自身の短命をなんとなく察知していたのかもしれない。そのためにアルフレッドを成人するよりもずっと前にオルタナに会わせたのかもしれない。今となっては知るよしもない事だが、おかげでオルタナは当時のことをはっきりと覚えているのだ。
最初はこんな小さな男がいるのかって驚いたのよね。
騒がしい男だとも、思ったはずだ。後にそれが男ではなく子供だったと知って、更に驚いた。
そしてその頃から、オルタナはアルフレッドに対して口を開くことはしなかった。何も言わないのだ。沈黙を硬く守っている。
アルフレッドは言った。まるで子供が泣く寸前のような口調で。
「どうしてお前は、俺様とは話してくれないんだ」
――――はっ……――――
アルフレッドの問いかけに、オルタナは内心で笑みを作った。それは蔑むような、怖い微笑だ。
どうして? どうしてですって? そんなもの、必要ないからに決まっているじゃない。
オルタナにとって、アルフレッドとの会話は必要のないものだった。彼と無駄に言葉を交わす意味はない。オルタナの目的のために、彼という人物は必要はなかった。
そしてそれは裏を返せば、オルタナにはモネとクロードとの関わりは必要だということになる。事実、その通りだ。オルタナの目的のためにはあの姉弟との繋がりは必要不可欠だ。いや、最初はクロードとの繋がりは必要としていなかった。ただモネへのけん制や、さらなる繋がりを求めてクロードとは話をした。だが、最後の最後にそれは覆された。最後の最後、本当にギリギリのタイミングでオルタナにとってクロードとの繋がりは、必要不可欠となったのだ。そういう意味では自分は運が良かったのだろう。姉へと繋げるための関係は、そのままクロードとオルタナの関係として機能できた。
そう、全ては目的のため。オルタナの、願いのため。
私の願いの成就のため……!
もうすぐだった。もうすぐで全ての目的は達成される。準備は整った。あとは最も重要な鍵があれば完璧だ。あとただ一つの鍵で、オルタナの願いは叶う。
溢れ出る期待に口元が緩む。膝とフードで表情を隠しておいてよかったと、オルタナは思った。きっと、この期待は止められない。この喜びは隠せない。
ああ、やっと。やっとなのだ。やっと、自分は……。
「わかっているさ、お前はきっと俺様には心を閉ざしている」
心? なによそれ。
目の前の青年の的外れな言動に、思わずオルタナは呆れてしまった。
心など、あるはずがない。
だって私は、術式なんだから。
「何も言ってくれないのも尤もだ。当然だよな、俺様はお前を三百年間も閉じ込めた王国の、王だ。この国を統べる長だ。お前が憎むのもわかっている」
わかってない。わかってないなぁ。私は何も、憎んじゃいないんだって。
頭に浮かぶ言葉はしかし音にはならずに飲み込まれていく。アルフレッドは構わず続けた。
「だから俺様はお前を助けようと思った。お前を、自由にしてやろうと思った。そしてそれは明日叶う。明日になれば、お前は自由だオルタナ」
何が自由よ。そんなもの、私がいつ望んだっていうの。
「それで、許してくれとは言わない。ただ、せめて自由になったら話をしようぜ。なんでもいい。俺様の悪口とかでも構わない。俺様はお前と話がしたいんだ。俺様はお前の望みを聞きたいんだ」
望み。オルタナの望み。それを知ったら、今ここでそれを語ったら、この青年はどんな顔をするのだろうかと想像してオルタナはおかしくなってしまった。それはそれで面白そうであったが、しかしその選択は取れない。自分の望みを知る人はただ一人。ただ一人であることが重要なのだ。そのことが、何より強い意味を持つ。
意味の強さは、そのまま重さになるのだ。
アルフレッドはそれきり何も言うこともなく黙ってしまった。ただ俯くような視線でこちらを見つめている。
面倒だ、とオルタナはため息を吐きたくなる。早くどこかに行ってほしい。オルタナは彼がここにいることを望まない。アルフレッド・アドルフ・オードランとの個人的な関係を望まない。オルタナが彼に望むのは王であることだ。この国の王であることだけだ。あまり強い情を持たれても困る。今日まで彼の情に助けられたことは確かだが、必要以上の想いはアルフレッドの王としての立場を揺るがしてしまう。いざという時、迷ってもらっては困るのだ。
あんたには、王としての決断をしてもらうんだから。
オルタナの頭にある計画。それを一つ一つ頭の中で整理していく。もう何度も繰り返したことだ。アルフレッドへの警戒と拒絶は忘れないまま、しかし彼の存在を意識しないように何度も繰り返した作業に没頭する。そうすることでより、オルタナの拒絶は強まったように見えたのか、アルフレッドはその視線をオルタナから外した。
「明日だ。オルタナ。明日、また会おう」
それだけ言って、アルフレッドは部屋を出て行った。彼の足音が聞こえなくなるまで待ってから、オルタナはフードを外して、しまわれていた髪を振るった。それは閉じていた羽を伸ばすような動きだった。そしてそのまま、膝を抱えたままベッドの上に横になる。掛布団に頬を擦りつけながら、オルタナは小さな声で呟いた。
「違うわ、アルフレッド。そうじゃない」
その声は誰の耳にも届かず、消えていく。
「私は、明日なんていらないんだから」
――――そんなものは望んでいない。
ならば、彼女の望みはなんのか。それを知るのはただ一人。
ただ一人だけなのだ。
+
アルフレッドが出て行ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。オルタナは頭から布団を被りながら、一人眠れない夜を過ごしていた。窓のないこの部屋では確認することはできないが、さすがにまだ朝ではない。少し肌寒くも感じる気温が、未だ陽の昇らぬ時間であることを告げていた。部屋には気温を最適に保つための術符も取り付けられているはずだが、ルーンが切れたのか機能していなかった。
体は酷く疲れている。だが、とてもじゃないが寝れる気分ではなかった。願いが叶うかもしれないという興奮が、オルタナの意識を掴んだまま放さないのだ。
これはもう諦めて、本でも読んでいた方がいいかもしれないわね。
確かアルフレッドが置いて行ったものが何冊かあったはずだ。国の意向により、オルタナは明日の力の証明まではこの部屋から出ることはできない。暇を持て余すと思ったのだろう。その結果の気遣いだ。アルフレッドの予想は当たったが、それはそれでオルタナとしては少し面白くなかった。
しかし眠気はやってこず、暇ばかりが顔を覗かせる。観念して、本を読んでいようと体を起こす。その内、眠くなるはずだと。その時だ。
廊下。この部屋の唯一の出口で、入口である扉の向こう側から、夜中だというのに何者かの足音が響いたのだ。見回りの兵士ではない。最初は監視を付ける話もあったそうだが、アルフレッドの反対によってそれはなくなったはずだ。
だとしたら、誰なのか。
間違いなく、私に用がある……。
足音は規則正しく、几帳面なほどに一定のリズムを刻んで扉の前へとやって来て、止まる。
「……来る」
ともすれば自分でさえも聞こえないほどに、小さな声でオルタナは呟く。布団を剥いで体を起こすのと同時、扉はゆっくりと開かれ来訪者が顔を出す。
手には証明術符の入れられたランタンを持ち、こちらへ鋭い視線を送る人物。
「久しいな、人を模した術式よ」
右大臣シャーブル。深く刻まれた皺に、白髪の薄い髪。真っ白な長い髭をたくわえた老人だ。
「久しぶり、か……。最後にあんたにあったのは、半世紀くらい前だったと記憶しているのだけど、あっているかしら?」
「間違ってはおらぬ。正確には四十五年前だ。あの時の屈辱は忘れぬぞ!」
はて、とオルタナは首を傾げる。自分がこの男に会ったのは数えるほどの回数だが、その中で何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
全く覚えがないわね……。
基本、自分が相手を小馬鹿にしたような態度である自覚はある。気づかない内に怒らせることは充分にあり得るが、勿論気づかない内なので記憶にはない。考えるだけ無駄だと思いオルタナは思考を封じ、別のことへと考えを向ける。
「で、王国議会の下っ端風情のあんたが、お供も連れずに何の用かしら?」
ピクリ、とシャーブルの表情に微妙な変化が現れた。オルタナがそれに気づくことはなく、平気な顔で続ける。
「こんな時間の来訪って時点で、まともな用事だとは思えないのだけど、どうなのかしら? あんたは一体、何をしに来たの?」
投げかけた質問の向こう、シャーブルは深く刻まれた顔の皺の数をより一層増やした、表情を強く歪めたのだ。
「取り消せ」
「は?」
「この私を、下っ端などと蔑んだことだ。貴様のような術式が、決して語ってよい言葉ではない!」
激昂するシャーブル。その強い感情の起伏を見て、オルタナは一つだけ彼についてのことを思いだした。
そうだったわね。この男は確か、プライドだけは高い男だったわ。
高く積み上げられた自尊心は、この半世紀でさらに大きくなったようだった。老人の瞳には決して他人に踏み込ませたくないものが見え隠れしている。
面倒な男だと、心の中で嘆息しながらもここで折れるのはなんだ悔しいので、取り消すことはしなかった。
「いいから、答えなさいよ。あんたは一体何をしにここへ来たの?」
私も中々面倒な奴よねー。そう思う先、シャーブルはしばらく怒りの表情でいたが、これ以上それを追及しても無意味だとわかっていたのか、素直にオルタナの質問に答えた。
「簡単なこと。私は国のためにここに来たのだ」
「国のため?」
どうももったいぶった言い方だと、苛立ちを覚えながらオルタナは更に問う。
「国のための行動が、どうしてこんな夜中に行われる必要があるのかしら? さっきも聞いたけど。あんたみたいな人間が、お供も連れずに一人でいる時点で、もう怪しいってレベルじゃないわよ。後ろめたいことがありますって、自分で証言してるものよ」
馬鹿みたい、と最後に吐き捨てるように言ったオルタナに対して、シャーブルはどこかニヤついた表情を見せる。
「国のために、時には自ら泥を被る必要もあるのだよ。……他人には、見えない泥だがな」
言いながら、シャーブルはゆっくりと扉を閉めた。それはまるで、オルタナを閉じ込めるためにそうしたかのような動きだった。
「アルフレッド様もまだ若い。貴様がいくら術式と言えど、見た目はただの少女だ。その色香に惑わされることもあるだろう」
「……何か勘違いしているようだけど、私はアルフレッドを誘惑した覚えなんてないわよ。そもそも、口を聞いたこともないわ」
「語らぬこともまた、一つの誘惑だろう。少なくとも、現国王殿はそう受け取ったようだ。愚かにもな」
「話が見えてこないわね……」
オルタナは不機嫌を隠すことなく、鋭い視線を目の前の老人に向けた。
「もう一度だけ聞くわよ。あんたは一体何をしにここへ来たの?」
シャーブルは笑った。オルタナの問いに声を押し殺すような笑いを漏らしたのだ。その行動を怪訝に思ったオルタナが首を傾げるのと同時、老人は口元だけの笑みを見せながら言った。
「言っただろう。国のためだ。私はここへ国のために、貴様と話をつけに来たのだ。アルマ=カルマよ」
明日の証明。
そのことをシャーブルは口にした。
「貴様にはわざと、手を抜いてもらおう」
なるほど、そういうこと……。
オルタナはシャーブルの言った言葉の意味を即座に理解した。その意図を読んだのだ。
「つまり、あんたは何があっても私を表舞台に立たせたくないってわけ」
明日の証明。そこで力を示すことに失敗すればどうなるか。当然、クロードの騎士見習い昇格の件はなかったことになり、彼の現在のパートナーである自分も、表舞台に立つことはできなくなる。それはつまり、昨日までの生活が続くということ。
「どうあっても、私をここに縛り付けておきたいみたいね」
アルフレッドはオルタナの生活における制限を次々と緩和し、最後には自由にしようとしていた。そのことに一番強く反対したのはこの老人だったことを、オルタナはきちんと覚えている。ネルバというもう一人の老人も物腰こそ柔らかいが、基本的には反対していた。だがそれでもシャーブルほどではない。目の前の人間は、自分が自由になることに対して異様なまでの反発を見せていたのだ。
「貴様はな、宝物なのだ。忌み嫌われる財宝であり、そしてこの国にとっては宝の持ち腐れでもあるが……しかしそれでも価値あるものであることに変わりはない。そんなものに勝手に外をうろつかれ、あまつさえ自由を許すなど、あってはならぬ。それはこの歴史あるオードランを守り、受け継いできた全ての王族への裏切りだ。そのことを、あの若造はわかってはいないのだ」
「…………」
オルタナは呆れたような瞳をシャーブルに向ける。今、この男はアルフレッドのことを若造だと言った。現国王を罵ったのだ。それはつまり、
こいつの忠義は国にあって、王にはないのね……。
使えるべきは国であり、王ではないということなのだろう。先々代のころから王宮に使えている人間なのだ。アルフレッドのことが子供に見えても仕方はない。
「だけど、それで現国王の意向に逆らおうっていうの? これ、結構な国家的犯罪だと思うんだけど。ばれたら普通に首が飛ぶわよ?」
それも、物理的に。そんな刑が執行されてもおかしくはない。それだけのことを、それだけのリスクを、目の前の人間が背負えるかどうか――――オルタナにとってはそこが一番の不思議であった。
オルタナの疑問を、シャーブルは鼻で笑う。
「現状、貴様の味方は国王と青騎士。それとあの、頼りなさげな少年だけだ。私が本気で便宜を図れば、それ以外の全てが味方につくであろう」
「勝てる博打だと見込んで来たってこと」
それはそれで随分と小心だと、オルタナは内心でせせら笑う。そんな彼女の機微に気づいていないのか、シャーブルはいかにも得意げな態度で続ける。
「全ては国を思えばこそ。例え現国王に恨まれる結果となろうと、このオードランのために忠臣は動くのだ」
その言葉を聞いて、オルタナは思わず笑ってしまった。軽く、漏れるような笑いだったが、しかしそのわずかな動きですらシャーブルの気に障ったようで、老人はキッと、視線を鋭くして怒りを声にした。
「何がおかしい! アルマ=カルマ!」
オルタナの口から漏れるのは相手を馬鹿にするような、嫌な笑いだった。それを止めることなく、続けた。
「国のため? オードランのため? 何を言っているの。私を手元に置いておいても、あんたたちにはたいした利益なんてないじゃない」
そのことをシャーブルは否定しなかった。それは彼にとっても承知の事実だったのだろう。
「あんたの言う価値っていうのは、ただの《稀少価値》でしょう? そりゃそうよね。私たちは、アルマ=カルマはファウストにしか作れない。オードラン国内で存在を確認されているアルマ=カルマは私だけ。だからあんたたちは必死になって私を縛り付けるんでしょう? 役になんてたたなくても、持っている意味なんてなくても、稀少だからという理由で縛り付ける。手放すのが惜しいから」
嘲笑はついに大きな音となり、部屋中に響かせた。
「愚かね、人間。その浅ましい強欲のために、この国は滅びるのよ」
「何を、馬鹿なことを……」
「冗談じゃないわよ? オードランは滅びるの……ねえ、愚かで惨めなあなたに教えてあげる。アルマ=カルマはね、ファウストの作りあげた究極の禁忌なのよ。それ自体が人にとっては触れてはならない領域。〝私たち〟は禁忌の体現なの。それを人間が三百年も縛り続けた。その罪を問われる時間が来たのよ」
オルタナの口調は少しだけ芝居がかったように聞こえた。だがその違和感こそが、まるで彼女がこの世のものではないと言っているようで、シャーブルの恐怖は容易に刺激された。
「宣言するわ。この国は滅ぶ。オードランは滅ぶ。それも、私の手によって……他ならぬ私の手で、この国を滅亡させてあげる」
三百年前と同じようにね。
最後の言葉は聞こえていなかったのか。むしろ、もう聞きたくはないとでも言うように、老人は恐怖をあらわに声を荒げた。
「馬鹿なことを。馬鹿なことを! 知っているぞ、人型術式! 貴様らは契約者の承諾なしでは自らを行使できないはずだ! あの少年と離れている今、貴様はなんの変哲もない少女と変わらぬではないか!」
「少女、ねぇ」
オルタナの含みを持たせた言葉にシャーブルは恐怖よりも怒りを覚えた。その皺だらけの顔を歪め、叫ぶ。
「あまり調子に乗るなよ……! 貴様の態度次第では、私にも考えがあるのだ」
そう言って、シャーブルは自らのローブの胸元軽くはだけさせる。そこから覗かせたのは、豪奢な装飾が付けられた短剣だった。オルタナは最初、趣味の悪い剣だと呆れた気持ちになって、そのすぐあとにシャーブルがわざわざ勿体つけるようにこちらに短剣を見せつけたことの意味を悟ると……背中を曲げて、体を震わせた。
苦しんでいるのではない。笑っているのだ。背を曲げ、体を震わせ。笑いを堪えている。だがすぐにそれはこらえきれなくなり――――――
「あははははははははははははははははははははははははははは!」
部屋中を埋め尽くす大音量へと変わった。
その笑いは、彼女の今までのどの笑いとも違っていた。嘲るような笑みではない。馬鹿にするような笑みでもない。ともすれば自嘲にさえも聞こえるような、何かを吐き出すための狂気的な笑いだった。
オルタナの異様とも言える笑い声は、ただ一人で彼女と相対する老人に抗いようのない《恐れ》を抱かせるには充分すぎた。
「ここに来て、まさか私を脅そうだなんて……! この私を! アルマ=カルマを! 禁忌の体現を! 恐怖で使役できるとでも思ってるの!?」
そんなものには屈しない。恐怖の度合いが問題ではない。恐怖そのものが、自分には全く通用しないものであることをオルタナは知っていた。嫌という程、わかっていた。
「滑稽ね。そしてたまらなく愚かだわ。所詮人間の浅知恵なんてこの程度なのね。可哀そうに、あなたたちは私の三分の一も生きられない。だからそんなに、お馬鹿さんなのかしら」
いえ、とそこでオルタナは自分の言葉を否定した。
「人間だからってわけじゃないわね。ファウストはあなたと同じ人間だけど、頭はよかったものね…………ええ、そういえばそうだったわね。思い出したわ、シャーブル」
初めて、オルタナは老人の名を呼んだ。その時になってようやく、オルタナは彼の目を見たのだ。その時、自分がどんな顔をしていたかはオルタナにもわからない。ただ耳に響く自分の声が、とても冷たいものだったことだけはわかった。
「――――あんたは昔から、愚かで惨めな凡人だったものね」
オルタナの言葉は、シャーブルという名の男の、決して人には触れられたくない部分を殴りつけるようなものだった。肥大化した自尊心。その触れてはならない領域に土足で踏む込むような行為だったのだ。老人の皺だらけの醜い顔は怒りとも恐怖ともしれぬ激情に塗れ、歪み、瞳は確かな殺意を持って人型術式を睨みつけた。
「術式ごときが……人ですらない怪物が! 私を、この私を愚弄するな! 馬鹿にするな! 貴様ごとき、貴様ごときが…………ああああああああああああああ!」
最後の方は、ただの叫び声だった。言葉にすらならぬ感情だった。シャーブルの手は短剣に伸びようとしていた。もはや目的も何も忘れ、ただ襲いくる獣を払うかのように彼はオルタナに刃を向ける気なのだ。不必要に大きなプライドのために、オルタナを力で圧倒しようとした。
だがそれは叶わなかった。ついにシャーブルは目の前の少女の形をした術式に力ですらも、抗うことができなかったのだ。
シャーブルは短剣を抜こうとしていた。だが、彼の細い腕が短剣の柄に達するよりも先に、オルタナが動いたのだ。反射ともいえる速度で、しかしそれにしてはあまりに正確に彼女はベッドから飛び降り、真っ直ぐにシャーブルの懐に潜り込むと、なんと彼よりも早く短剣の柄に手を伸ばし、その豪奢な刃を奪い取ったのだ。
オルタナの一連の行動は殆ど一瞬の内に行われた。あまりに迷いのない、的確な行動にシャーブルは何も言うことができず、ただ本来なら自分が握るはずだった短剣の柄を探すかのように、手を開いたり閉じたりしていた。
「は――――」
笑い声だ。オルタナの口から漏れたのは笑い。自嘲でも嘲笑でもない。勝ち誇ったような笑み。
「ははははは! あっはははは!」
それは確かに、オルタナが勝利を確信した笑いだったのだ。自分の目的が達成されたことを喜ぶ真っ当な笑顔だった。
反射ともいえる速度。迷いのない行動。間違いではない。むしろその通りだ。それは反射であったし、迷いなんてあるはずがないのだから。
――――意識などしなくとも、体は勝手に動くのだ。
「防衛機能!」
オルタナが叫ぶ。手にした刃を真っ直ぐにシャーブルに突きつけて。
「私たちアルマ=カルマをこの世に縛り付ける生存本能の強制! まさか知らない訳じゃないでしょう? ねえ、シャーブル。あんただって、そこまで馬鹿ではないはずでしょ?」
「…………!」
驚愕と共に、シャーブルの止まっていた時が動き出す。突きつけられた刃に視線を向けながら、裏返るような声で老人は言った。
「だ、だが! 防衛機能は貴様らが生き残るための動きを強制するはずだ。それがこんな、積極的に相手の武器を奪う方向に働くなど……」
あり得ない。と、シャーブルは叫んだ。まるで現状を否定するかのように。それに対し、オルタナは冷たく現実を示した。
「ええ、確かに普段ならあり得ない。でも、この部屋の環境が、今の私の動きを可能にしてくれた。何、そんな難しいことじゃないわ。――――だって、この部屋には出口があんたの後ろのその扉しかないんだもの。逃げようにも、逃げられない」
出口のない部屋。逃げ道のない空間で、武器を向けられればどうなるか。
「手詰まり、よね。そんなことになってしまえば、もうあとは〝武器を持った相手を倒す〟くらいしか選択肢は残らないわ。だからこれは、順当な結果なのよ?」
あんたが馬鹿だっただけ、とオルタナは心底楽しそうに告げた。
「ま、それでも賭けの部分は大きかったわ。いくら反射と同じような速度で動けたとしても、私は多少動けるだけの素人だもの。訓練を受けた兵士にはきっと通用しない。アルフレッド相手でも無理だったでしょうね。あいつあれでも、アルケミアを卒業するだけの実力があるんだもの」
自分よりも明らかに強い相手と相対した場合は、こうはならなかっただろうとオルタナは推測する。その場合はきっと、相手をこちら側に引き寄せて扉から離したうえで逃走を図ったはずだ。そちらの方が生き残る確率は高いと、機械のように選択し、動いただろう。
「だけど今、私の防衛機能はあんたを倒せると判断した。その方が、生き残る確率は高いはずだと、選択したのよ! 私は賭けに勝った! 私の防衛機能は、私の意志を超える形で、私の意志に応えてくれた……!」
オルタナは囁くように言葉にした。
「感謝するわ、ファウスト。これでようやく、私は私の望みを叶えられる」
やった、やった。私は勝った。勝てた。ようやくだ。ようやくだ。
まるで子供のようにオルタナは喜びの声をあげた。だがそんな言葉とは対照的に、笑みを見せていたはずの彼女の表情は段々と消えていき、冷え切った無表情へと変わって行った。その様子はまるで、人から術式へと意図して変わっていっているようにも見えた。
「望み……だと?」
恐怖に耐えかねたシャーブルが震えながら声をあげた。
「一体何が目的だアルマ=カルマ! 貴様の望みはなんだ!?」
「それをあんたに教えるとでも?」
わかってないわね、と吐息するようにオルタナは言った。
「それを知っているのは一人だけ。そして一人であることが重要なの。それこそが意味を持つ。重さになる。きっとあの子は、私の思った通りに動いてくれるわ」
「何を言っている! 私の質問に答えろ! 望みはなんだ!? 目的を言え!」
シャーブルが声を荒げた次の瞬間。オルタナは一切の躊躇いもなく手にした刃の先端でシャーブルの右手の甲を突き刺した。オルタナの力では貫通こそしなかったが、それでも短剣はシャーブルの手に深く刺さる。
「悲鳴、上げないでよね。誰か人が来たら困るじゃない」
シャーブルの中で痛みが意識されるよりも先にオルタナはそう言った、有無を言わさぬ迫力に、老人は完全に委縮し、オルタナの言う通り一切の悲鳴をあげることはなかった。
「いい子ね。じゃあ、そのまま私の頼みを聞いてくれるかしら? 聞いてくれるわよね。ほら、返事」
掠れて消え入りそうな声で、シャーブルは返事をした。満足したのか、オルタナはよろしい、と言って首を縦に振ると、突き刺した短剣を無理矢理に抜いて、再びシャーブルの首元へと突きつけた。刃の先端に赤黒い血が滴るのと同時、オルタナが鋭い声で告げた。
「さあ、頼みを聞いてもらうわよ。もう拒否権なんて、ないんだから」
「……私は、何をすればいい」
「案内してもらうわ。あんたと、国王。そしてネルバ。たった三人しか立ち入りを許されない場所へ。この国にとっては私以上の秘匿の場にね」
それだけで、シャーブルにはオルタナのいう場所の見当がついたのか、驚愕というよりも不可解といった顔を見せる。
「あそこに、一体なんの用がある……いやあそこではない。目的はアレか? だがアレは……」
「私がいつ質問を許したのかしら?」
オルタナが手にした短剣をほんの少しだけ揺らしてやると、老人は怯えたように潜めるな悲鳴をあげた。その姿は完全に恐怖に屈しており、オルタナは優越感よりも同情を先に覚えた。
だがそれで、彼女の意思が弱まることはない。目的のために、彼女は既に手段を選ぶつもりはないのだ。
「思考もとめなさい。あんたは何も考えなくていいの。ただ、私を案内すればいい」
そうしてオルタナは告げた。これから自らが向かう場所。その目的の物の名を。
「獅子王の間。《封剣リオンハート》のある場所へと!」
流れ出る血を止めるために右手を押さえ、恐怖と驚異によって小さく縮こまってしまった老人の姿を見ながら、オルタナはまるで言い訳をするように、取ってつけるように続けたのだ。
「私は今日、この国を滅ぼすのよ」