たった二人の逃避行
モネは一連の破壊を全て目にしていた。光の矢でも竜の咢でもないクロードの三回目の魔法。それは槍だった。オルタナの髪の色よりも濃い金色をした短めの短槍。魔法の発動と同時にクロードの手に収められたそれを彼は迷いなくモネに向かって投擲した。
空を飛ぶ槍は光の矢ほどではないが十分な速度を持ってモネを貫こうと襲いくる。黄金の槍は既に展開されていたモネの青の炎の魔法をいとも簡単に刺し貫いた。魔法の崩壊と共に炎はルーンとなって消える。魔法を破壊された瞬間回避行動を取っていたおかげで槍は直撃こそしなかったが、モネの足元に着弾。それが視界を埋め尽くすほどの金色の光と周囲を吹き飛ばす爆風を生み出したのは、モネの作り出した不安定な空間魔法が崩壊した一瞬あとの事だった。
嵐にも似た暴風で身を弾き飛ばされ、モネは地面を転がり何かの建物のの壁にぶつかった。眩暈と痛みが体を駆け巡っていたが、構わずに立ち上がろうとする。そんな彼女に一人の男が近づいてきた。モネの命令で先に空間魔法を脱していた部下の一人だ。
「隊長殿、ご無事ですか!?」
一体何があったのです、と騎士団の青の制服を来た男がモネに尋ねる。男の質問にモネは問いで返した。
「住民は!? 今の爆風で被害はないのですか!」
モネの剣幕に気圧されながらも、男は答える。
「もしもの時を考えて、周辺住民の避難は済ませてあります。目立たないようごく小さな範囲ですが……」
「優秀な部下で安心しましたわ」
言いながら、モネはふらつく足で立ち会がり辺りを見渡す。そこにはクロードの姿も、オルタナの影もなかった。ただ大きくえぐられた地面だけが戦闘の跡として残されている。
一度、二度、三度とクロードは合計三回アルマ=カルマを発動させた。そのどれもが形の違う別の魔法だったことも勿論驚くべきことだが、それ以上にモネはそれぞれの魔法の威力に着眼していた。
三度、なんとか凌ぎ切ったが、どれもが当たれば一撃で勝敗が決まってしまうような強力な、魔法だった。
自分がオルタナと契約を結んだ際は無い方がマシだとしか言いようのない魔法だったはずだ。
この差は一体……。
「……クロ」
誰にも聞こえないような声で、モネは一人弟の名を呟いた。
+
オルタナの手を握って、クロードは王都を走る。すでにモネと戦闘を行っていた広場からは遠く離れている。それはクロードの迅速な行動のおかげだった。クロードは早い段階でモネからの逃走に動いていた、具体的には三回目の金色の槍の魔法。あれを投擲してすぐ、着弾を目にすることもなくオルタナの手を引いてモネから離れるように走り出したのだ。おかげで爆風で体勢を崩すこともなく、空間魔法の崩壊と同時に戦場を離れることが出来た。
それらの行動は『どうあっても姉には勝てない』という後ろ向きな考えから来た選択だったが、その機転の速さにはモネもオルタナも驚く事だろう。
戦場を離脱したあとは闇雲に走った。とにかく逃げなくては、その思いだけで走り続けた。大きな通りを、小さな通りを、広場を、曲がり角をめちゃくちゃに走ってたどり着いたのは、あの不思議な空間だった。
左右を背の高い真っ白な壁に挟まれた空間。
どうしてかここにたどり着いた瞬間、クロードは溢れるような安堵に捕らえられオルタナと繋いでいた手も放し、全身の力が抜けてその場に倒れてしまった。
「クロ!」
オルタナが心配そうな声をあげて倒れたクロの頭を抱えて抱き寄せた。
「どうしたのよ、しっかりしなさい!」
すぐには返事ができなかった。呼吸は乱れ、空気を吸い込む度に肺は焼けるような痛みを訴えた。
なんとか絞り出した声は酷く掠れていた。
「……最後の、魔法。術符二枚分のルーンじゃ少し足りなかったみたいで、ほんの少しだけまた持っていかれちゃったんだ」
最初に発動した時ほどではないにせよ、最後の魔法でもクロードは代償を払っていたのだ。ほんの少しとはいえ、それは確実にクロードの体を追い詰めていた。
「もう、僕は動けない……から。君だけでも、にげ……て――――」
「そんなことできるわけないじゃない! 今更、あんた一人置いて逃げるなんて……」
クロードの憔悴が目に見えたのだろう。オルタナは悔しそうに唇を噛んだ。
「ごめん……ごめん、クロ。私は、あんたを傷つけた」
悔しそうだった彼女の顔は徐々に悲しみを浮かべる。オルタナは本当にらしくもなく泣きそうな声を出した。
「いつもこうだ。いつも、私のせいでみんな傷つく……私はただ、ただ遠くに行きたいだけなのに!」
違う。君は悪くない。僕が傷ついたのは僕が弱いせいだ。
そう言ってあげたい。だけどもうすでにクロードの体は指一本動かせない疲労に包まれていた。しかし、体の疲労とは対照的に頭の中ははっきりと動いていた。思考だけは鮮明だった。
だから、クロードは願った。神に、世界に、願う。ここに集まってくれと。
そうして集まったのは蛍の光よりも小さな極小のルーン。それだけで構わない。この魔法に多量のルーンは必要ない。ほんの少しの世界と、まともに動く頭さえあればそれでいい。
ただ、想像すればいい。そうして胸の内で、ただ一言呟くのだ。描きたいものを、彼女に見せたいと思ったものを。
それは緑のオーロラが降り注ぐ丘だった。
それはクジラの形をした白い雲だった。
それは広がる青い氷の大地だった。
それは水色の飛沫をあげる滝壺だった。
それは星の瞬く紫の夜だった。
それは獣の眠る褐色の森だった。
それは風の走る群青の草原だった。
それは鳥の舞う橙色の大空だった。
見たことなんてないはずの景色。しかしどこか懐かしい。そんな風景をクロードは白の壁に描き続けた。頭に浮かんだままに、感じたままに書き続けた印象深い絵画たち。一つ一つ小さなそれはやがて数を増やし壁一面を花畑のように彩った。様々な色を乗せたその花畑はまるで一つの世界のようだ。
大丈夫。
きっと君はどこにだって行ける。
いつか、この景色の全てを見ることだってできるはずだよ。
そしてどうか叶うのならば、その時僕は君の隣に――――
「見つけた……――」
クロードが描く絵画をじっと見つめながら、オルタナは小さな声で呟いた。
「やっと、やっと見つけた」
彼女の横顔に、クロードは目を奪われた。それは嬉しさや、悲しさ、達成感や虚しさ。とにかく、色々な感情をごちゃまぜにしてその上から驚愕の色を塗りつけたような、そんな表情。ずっとずっと、探していた。求めていた何かを見つけた時、人はああいう顔をするのだろうと、クロードはそう思った。
一体、彼女は何を見つけたのだろう。
何が、彼女にそこまでの表情を作り出させたのだろう。
その疑問に答えが得られるよりも前にクロードの意識は夢の中に消えていった。
+
意識を失ったクロードを抱きしめながら、オルタナはじっと彼が壁一面に描いた絵画を見つめていた。
「ごめん……」
彩られた空間に、少女の声が響く。
「ごめんね」
彼女は誰に許しを乞うているのだろう。
「でも、大丈夫だから。絶対にクロを不幸にはさせないから」
少女は呟いた。
「クロ――私があんたを英雄にしてあげる」