俺は、彼女を愛していました
夕日のように燃える赤目、雪原に紛れる見事な銀髪。
そして、乱暴な口調と強気な笑み。
それ等全て、俺にとって大切な物だったのだと、失ってから初めて気付きました。
……在り来たりで、有り触れていて、だからこそ、俺は歪だと実感させられます。
俺が張った“光属性”の“精霊術”によって隠された、森林の一角。
そこは、季節外れの雪景色が広がっています。
まるで、冬の季節を切り取って時を止めたかのように、押し寄せる風は冷たく、足元は深い雪で覆われ、木々は茶色く染まり、
「……お久しぶりです、クリス」
凍った真っ赤な薔薇によって覆われたその場所に、彼女は眠っています。
寒さによって赤く色づいた頬、僅かに紅が差した唇、水流によって揺れる美しい銀髪……あの頃と何一つ変わらない、姿。
……彼女が居る場所は、凍った泉の中です。
表面だけ凍り付き、透き通った氷は太陽の光を透過して彼女の姿を浮かび上がらせてくれます。……これを第三者が見たら、何と言うのでしょうか。
イヴならば、きっと俺をぶん殴った後に、彼女に今度こそ永遠の眠りを与えるのでしょうね。
そして、アル達が見たら……俺に、同情するのでしょうか。それとも、俺をまるで狂人のように見るのでしょうか。
……どんな罵詈雑言も、俺の心には響きません。
俺には、これが間違っている事だと、思わないのですから。
彼女――クリスは、心が死んでいます。
その切っ掛けとなったのは、あの冬の日。待ち伏せされた俺達は“守り人”によって壊滅しました。
俺は、この身を拷問されて。
クリスは、目の前で行われた残虐な行為に精神を壊されて。
シュウは、頭を強打して上に洗脳の術によって。
そして、イヴは自らが生贄になるのを避けようと自害して。
生き残ったのは、全員。
元通りになれたのは――イヴ、ただ一人。
クリスは言わずもがな、シュウは記憶を失って『騎士団』の手駒となり、俺は正気で狂いました。
何が正義で、何が悪なのか。
理解出来ないと言い始めたのは、これが切っ掛けです。最も、それ以前から俺には理解出来ないものがかなりあったのですが。
……辛うじて繋ぎ止めた自我を取り戻した俺は、クリスと共にあの雪原の中で雪に埋もれていました。
幻痛を感じる腕を必死で動かして這い上がり、クリスを抱えてこの場所まで逃げました。
逃げて、そしてクリスは目を開け……そこには、心というものが無かったのです。
俺が何度呼びかけても、馬鹿みたいに泣き叫んでも……クリスは、返事を返してくれませんでした。
肉体は生きていても、精神が死んでいた……その状態まで行ったら、それはクリスという一人の女性は死んだのだと、そう断言出来る状況です。
けれど、俺は彼女を殺せませんでした。
短剣を持つ手が震え、勝手に涙が溢れて止まらず、胸が苦しくて堪らなくなり……俺は、彼女を愛していたのだと気付いたのです。
もしも、これがイヴやシュウであったのなら……俺は、悲しむ事はあっても、殺す事がは出来たでしょう。
ですが、彼女だけは殺せなかったのです。
……愛しているからこそ、殺せない。
そんな感情、理解出来ない……とは、もう言えませんね。
愛しているからこそ殺し、愛しているからこそ殺せない。
俺の場合は、後者だったという事です。
彼女を殺せなかった俺は、精神系統の“魔術”で彼女を眠らせ、身体が完全に再生した所で、彼女が死なないように創意工夫を重ねてから、彼女を泉の中へと沈めました。
時が、いつか彼女の心を取り戻してくれるように……そんな願いを込めて。
景色を切り取り、“精霊術”で一角を覆い隠し、彼女が好きだった赤薔薇で周囲を覆い……俺は、一体何をしているのだろうと自問自答し、彼女が再びクリスとして目覚めてくれる事を望んでいたのだと知りました。
……俺には、一生縁がないと思っていました。誰かを愛し、他人の為に尽くすという……かつて、馬鹿にしていたその行為を、身をもって思い知ったのです。
そうして、俺は日常へと戻っていきました。
……いえ、まだありましたね。
クリスは死に、永久の眠りを与えたのはイヴです。……それは、間違っていません。
では、何故彼女は生きており、イヴもまた生きているのか……その疑問の答えを、俺は知ってします。
ですが、それは例え自分自身でも、語ってはいけない事なのでしょう。その事実は、忌避すべきものだという事は分かっていても……俺自身は、その事実が些細な事にしか思えなかったので。
ただ一つ、言える事があるのなら……俺達は、どこまでも愚かで罪深い、哀れな“人間”だという事です。
死んだ筈の俺達は生きており、それは、『エルフ族』を反映させたグローアイディンでさえ……予想、していなかった事なのでしょうね。
ですが、俺は感謝しています。
イヴに嘘を吐き、彼女を密かに生かしている俺は“裏切り者”です。
そんな俺が、味方の振りをして彼等と行動を共に出来ているのは、俺達がどこまでも愚かで哀れな存在だったからこそなのです。
俺は……誰よりも弱い、です。
一度芽生えた感情が絶望に変われば、俺は即座に喉を掻っ切る事でしょう。
彼を亡くしながらも、生きる事に意味を見出したグローアイディン。
様々な別れを幾度も繰り返しながら、ただ只管に忠義を誓うイヴ。
そして、最愛の人を目の前で亡くした、“巫女”。
俺は、彼女達のように強くある事は出来ません。もしも、クリスが死んでいたら……俺は、絶望を抱いて死んでいました。
それは、少し寂しく……少しだけ、悲しい事ですから。
死ぬのなら、誰かと共に。
俺が最初から持っているのは、寂しさだけでした。
だからこそ、糾弾される事も、拒絶される事も……俺は、恐れたんです。
きっと、兄はそんな俺を見抜いていたのでしょう。だから、矛盾していたんです。
……似た者同士という言葉は、当て嵌まるのでしょうか?
凍り付いた赤い薔薇の中にまた新たな赤い薔薇を足し、俺はそっと手を伸ばします。
冷たい氷は、俺とクリスの心の距離を表しているようでもあり、同時に、どちらかが既に死者である事を示しているような気もします。
「……クリス。俺は、貴女を愛しています」
けれど、この愛を押し付けるつもりも、共有するつもりもありません。
これは、俺自身の身勝手な願いで行動です。
真に彼女を思うのなら、馬鹿な希望に縋っていないで、彼女を殺す事で救うべきなのです。
一度失った心は、二度と取り戻せません。それは、死者は蘇らない事と全く同じ事でもあります。
だというのに、俺は……、
「……俺は、罪深い。クリス、貴方の隣に、俺が立つ資格など……ないのです」
理解出来ないからこそ距離を深めるのではなく、一生分かり合えないからこそ距離を取る。
その為に、俺は誰に対しても他人行儀な態度を崩さず、クリスが死んでから……自分自身すら、理解出来ないと距離を取りました。
俺にだって、心はありました。
悲しければ泣き、楽しければ笑う……故郷は、そんな心を摩耗させていったのです。
俺は、弱く、臆病で、寂しがり屋です。
一人は怖く、一人は寂しい。
だから、どっちつかずで兄を亡くし、クリスを巻き込んでしまいました。
……もっと罪深いのは、この選択を後悔していない事です。
ああ、どこまでも救いようが無い……愚か者です、俺は。
「クリス。貴方なら、今の俺を見て、一体どう思うでしょうか? らしくないと笑い飛ばしますか? 馬鹿な事をするなと怒りますか? ……俺にも心があるじゃないかと、優しく手を差し伸べてくれますか?」
そのどれも、答えは分かりません。……一生、見つかりません。
けれど、それでいいのです。
これは、あくまでも俺の自己満足で……何とか生きる理由を作る為の、言い訳なのですから。
ええ。俺は、まだ死ぬ訳には行かないのです。
俺は……、
「……また、来ます。いえ、また、来てもいいでしょうか、クリス……?」
俺は、何故クリスを愛しているのでしょうか。
その感情が理解出来ず、理解したくありません。
俺は、心を失くした人間の形をした人形なんです。
理解してしまったら、俺は人間に戻ってしまうではないですか。
……人間に戻ってしまったら、俺はクリスを殺さなくてはなりません。
そんな事……したく、ありませんから。
俺とクリスを隔てる氷のように固まった表情は、笑みを浮かべようとしてもぴくりとも動いてくれません。ですが、それでいいんです。
彼女にだけ笑いかけるなど、特別な証のような気がして……少し、戸惑います。
それに、みすみす弱点を増やす訳にも、いきませんから。
……彼女に別れを告げて、俺はこの場を立ち去ります。
肌を切る寒さは消え、どこか蒸し暑い、湿気を多分に含んだ風が通り過ぎていきます。
……彼女が死んだ冬の季節は、嫌いではありません。
あの冷たさは、まるで俺自身のようでもあり……自分が心を失くした人形なのだと、思わせてくれるのですから。
「それでは、クリス、さようなら。――二度と会う日が無い事を、祈っています」
~To be continued~
第三章終了、お疲れ様~。
……はい、作者のAnzuです。ストックなしでまたもや乗り切りました。……有言実行、したいですね。
さて、書きたい事は幾つかあるのですが、ちょっと時間が無いので後で付け足します。
……この話にも、少しだけ付け足したい事があるので、後で改稿します。
って事で、第三章終了と百話突破を記念して、皆さんに有りっ丈の感謝を!
どうも、ありがとうございました!
……それでは、また後で。