年長者は敬うべきか?ー人生の攻略本ー
「年長者は敬うべきか?」という命題がある。
年長者は敬うべきであるというのが一般的な社会常識であるということは周知であるとする。
年長者、特に扶養者の場合、つまりは両親や保護者を敬うということは、ただ単に年長である他人を敬えというよりもはるかに納得がゆく。
社会経験のない子供はいざ知らず、多少でも自身で職を得、その手足で社会生活を送ったことのあるものならば、いかに子育てというものが煩雑かつ厳しいものか想像することも不可能ではないだろう。
子供一人を育てるためには持続的な収入が必要であり、なおかつ毎日決して欠かすことのできない養育が必要となる。そのためには自身の自由を投げ打ってまで子供に懸けることになるだろう。しかも、それは自身のためではなく、全く子供のみのためになされるのだ。
扶養される側では、なぜそのような面倒なことをと理解し難い面もあるかと思うだろうが、親の心子知らずとよく言うように子供を養う親の気持ちはばかりは親にならなければ分からない。
しかし、曲がりなりにも想像することは可能だろう。もし自分が親なら自身のようにワガママ放題のガキの養育に耐えられるだろうかと自問するといい。
とてもではないが耐えられる自信はない。
あるいは自信があると言う人もいるかもしれない。もしここで自信があると言うならば、本当にそうか自問して欲しい。父親、あるいは母親と自分の立ち位置を入れ替えて想像して欲しい。それも一日分ではなく、自身が今まで育ってきた分すべてだ。
他人の子供を何人も育てている保母さん保父さん、あるいは小中高の教師でさえ、自分の子を育てるのは他人の子とは勝手が違うと悪戦苦闘するというのは良く聞く話だ。
よく子供はいや、子供に限らず、自身に対して自分以外の視点、つまり他人から見て自分がどのように見えるかということを考えることができない者には、親に限らず他人の苦労や心情を理解することは難しいだろう。
そういう幼さの抜けない人間には親にありがたみを感じ、感謝と尊敬の念を向けることはできない。
親を尊敬するということはある意味自身が客観性を持つだけの能力があるということの逆説的な証明となりうる。
では、親ではなく、ただ年長者であるだけの他人はどうかという話になる。直接指導を受けた教師や先輩はある意味親と相似関係にあるとしても、それ以外の年長者はどうか?
恩を受ければ尊敬が生まれるという理屈では、単なる年長者には尊敬の念は生まれないだろう。
では、そもそも年長者とはなんだろうか?という話になる。
彼らは人生において我々の先を行く存在である。そう考えれば、彼らは数年後の我々の姿の見本と言えるかもしれない。
例えば人生における成功者と呼ばれる人たちの生き様を観察すれば自信が成功する可能性は高まるだろう。なにしろ、彼らはすでにその正解のルートを開拓してくれている訳で、多少の修正は必要だろうが我々はそれをなぞるだけで良い。
また逆に、失敗者とみなした人たちであっても、何に躓き、どこで間違ったのかを参考にすれば同じ轍を踏むことは避けることができるだろう。ああはなりたくないという気持ちは状況打破のための努力の糧となる。
よく成功者は才能があるからと言う者は言い訳がましく、単に思考停止に陥っているだけだ。なぜなら、自身よりより才能が劣っていながらも成功している先人を参考にすれば良いのだから。
確かに、人の人生は人それぞれで異なるし、先人がつかんだチャンスが自身の時も同じように転がっているとは限らない。誰かを参考にするにしても自分なりのアレンジは必要だろう。しかし、何よりも無駄な努力や明らかに間違った選択を取ってしまうことは避けられる。
そうすると、年長者という存在について考えを改めることになるだろう。
彼らは人生という道しるべのない荒野を進み、その身を持ってその行き着く先を示してくれているのだ。しかも、彼らの生き様は全くの無料で公開されている。
いかに事前情報がなければ攻略不可能な難題であっても、視野を広く持てば自身の前には既に先人の足跡によって地ならしされた道が延びていることに気付けるだろう。彼らはこの人生という果てしないゲームにおいて唯一の攻略本なのだ。
利用するといえば浅ましいかもしれないが、事実、年長者という存在は誇張なしに人生をかけて自分の未来の似姿を作ってくれているのだ。
そこには栄光からの転落もあれば日の目を見ない日陰からの脱出劇もあるだろう。
確かに、チャンスを当てにして一発逆転を狙う時や、全く前例のない境遇に立たされた人には先人の一生涯の軌跡は直接的には当てにはならないかもしれない。
しかし、多くの場合、年長者の存在というのは求めるものにとっては何かしらの示唆に富んでいるものなのだ。
そうすると、もし自身がより良い人生を求め、成功を渇望するならば、先人の存在というのは得難い、そういう意味では非常に「有難い」存在ではないだろうか?
人生をかけて道を示してくれるその姿に尊敬の念は自然と湧いてくるだろう。
逆に考えれば、年長者を尊敬できる人間というのは、年長者の先人としての面をよく観察し、職人でいうところの技を盗み、自身の向上に当てている、つまりは自身の未来を見通すだけの先見性がある人間であるといえるだろう。
「年長者は敬うべきか?」
別に敬う必然性はどこにもない。けれど、己の中に客観的な視点を持ち、尚且つ自身の未来を見通す力のある者、それを大人であると定義するとすれば、
「大人なら相手がどうであれ年長者を自然と敬うものである」
と答えることができるかもしれない。