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彼岸花

 高田屋の賭場で、新三は壺の中の目を読みながら、どこか苛々する自分を感じていた。それはもうひとつ高田屋に入り込めず、これといった情報が取れなくなってきたことからであった。あれほど勝ち続けていた運も最近は、嘘のように鳴りを潜めている。金がなくなったわけではないがこのままでは、お静から鉄拳を喰らいそうで背中に冷たいものが走った。そもそも自分には関係のない話だ。それにこの分だと天竜組にも帰れそうにないし、このままおっぽり出して江戸から逃げ出そうかとも考えたが、心のどこかでまだお静と一緒にいたい気持ちが強くある。好きだという感情ではない。何だろうと新三は考えた。

 お静の悪を憎む真っ直ぐで、何者にも屈しない熱い心。お静の傍にいれば自分も何者かに変われそうな気がする。惣太もいい奴だし、源造の親分も寝たきりとは思えない存在感がある。

 もう少し、みんなの傍にいたい。

 みんなの役に立って褒められたい。

 自分を認めてもらいたい。

 そんなことを考えている間に、喉の潰れた中盆の「半方ないか、半方!」と呼びかける声に我に返った。

 新三は促されるまま半に賭けて、成り行きを見守った。

 壺が開いて中から、二六の丁目が現れた。喜びと嘆きの入り混じった軽いざわめきが起こった。

「賽を改めさせろ。イカサマ野郎!」

 壺振りに難癖をつけたのは初めて見る顔だった。来てから一度でも勝ったのを見ていない。

「てめぇ、そこまで言うからにゃ、覚悟はできているんだろうな!」

「丁目が七回も続くかい。ありえねぇだろ」

「馬鹿かい。ど素人がっ、それのどこがイカサマだってんだ」

 壺振りも中盆も難癖をつけた男同様立ち上がって唾を飛ばしている。気の短い男達が一触即発の状態で睨み合った。すぐに高田屋の若い衆が他の客を安全な所へ誘導し始めた。この賭場に来る連中は堅気の人間が多いのだ。

 博打場でのいざこざをいつも収拾させている代貸の松五郎の姿が見えなかった。

 引っ込みのつかなくなった男は懐から匕首を引き抜くと中盆に向かって切りつけた。大した傷ではなかったが白い布をかけた盆御座の上に鮮血が散った。

 高田屋の連中が一斉に色めきたったが、むやみやたらに匕首を振り回す男に近寄れないでいる。またひとり背中を大きく切られた男が出た。

 新三は男の前に飛び出すと突いてきた匕首を払いのけ、鼻の辺りを思い切り殴りつけた。匕首を持って震えている男など恐くもなかった。

 男が吃驚して匕首を落とした瞬間、四方から取り囲んだ高田屋の男達がその男を取り押さえた。

 ケチがついたとその夜の賭場はお開きになり、三々五々帰り支度を始めた客に交じって新三も帰ろうとすると、どこから現れたのか酒臭い松五郎から声をかけられた。

「兄さん、いい腕してるじゃねぇか。助かったぜ。堅気じゃねぇだろう? 何? ただの遊び人だとォ。そんなはずはねぇ。ともかく礼に一杯御馳走させてくれよ」

 松五郎と話をするのは初めてだった。新三は人懐っこい顔を見せて頷いた。

「ちょっと歩くが、いいかい? 若けェ奴等は誰も連れて行ったことのねぇ店だ。肴が吃驚するほど美味ェぜ」

 俺は、こいつに気に入られちまったかもしれねぇ。肩を抱かれた松五郎の腕の温もりにぞっとした。

 

 提灯を持たされた新三は永代河岸まで歩いた。

「兄貴、あの男はどうなるんで?」

 兄貴と呼ばれて松五郎は機嫌が良さそうだった。すでに三十五を過ぎていて独り者だそうだ。

「今頃、簀巻きにされて大川の鯉の餌になってる頃だ」

 新三が大袈裟に震えてみせると、松五郎は調子に乗ったようだ。

「この前も酔っ払いにしたてて、ひとり永代橋の上から放り投げてやった」

「ひょっとして越中島に流れ着いた土左衛門のことですかい?」

「お、詳しいじゃねぇか、ありゃあ俺等がやったのよ」

 少し酒が入っているせいか新三のことを寸毫疑うこともなく、松五郎はより饒舌で傲慢になった。

――俺を脅かしてやがるのか? それとも自慢したくてたまらねぇのか? どっちにしてもその辺の頭の足らねぇガキと変わらねぇぜ

 新三は分らないように唾を吐き捨てた。

 ずっと新三から持ち上げられているせいで松五郎は縄暖簾で飲み始めても機嫌が良かった。

「俺ァ、新公のことが気にいったっぜ。どうだ? 高田屋に入らねぇか。俺の右腕にしてやるぜ」

 小上がりに上がって蛸の足の煮物を肴に酒を酌み交わした。松五郎が来てから客が分らないようにそっと帰って行く。店の女将が泣きそうな顔をして出て行く客に謝っているが、松五郎にはまったく気にした様子もない。

 それどころか新三のすすめ上手に松五郎は気を許したのか呂律の回らない口で愚痴をこぼし始めている。

「安助の野郎っ……」

 ちろりを片手に突然大声を出した。

 駒吉に算盤の使える安助が重宝がられているらしい。その分松五郎が蔑にされているようだ。男と女の関係かと聞くと松五郎は酒を吹き出して笑い飛ばした。

「犬に陰嚢喰い千切られた奴なんぞ、役に立つもんかよ。奴は便利に使われているだけよ。それを勘違いしやがって……陰嚢無し野郎が」

 高田屋が実質的に駒吉へ代替わりして以来、どうも格下の安助から見下されているらしく松五郎は悔しそうに畳を殴った。

「それじゃあ、姐さんがひとりで高田屋を仕切ってるんですかい。たいした器量じゃねぇですか。一度会ってみてぇもんだ」

「へっ、女に何ができるってんだ。後ろ盾がいるのよ。それも八丁堀の方にな。与力だか同心だかしらねぇが、夜鷹の手管に骨抜きにされやがってよ。ま、お陰で人を殺そうが何をしようが、俺達には怖いものなしだがよ」

「いくらお奉行所が後ろ盾でも、人を殺しちゃあさすがにまずいんじゃねぇですかい?」

 松五郎が鼻で笑って、自分の頭を指さした。

「ここよ、ここ。なるべく俺達が殺したとわからねぇように細工すりゃあ奉行所もうまく取り扱ってくれる。他に下手人がいるように見せかけるのさ」

「たとえば、どんなふうに見せ掛けるんで? ぜひ教えて欲しいもんだ」

「そんなこと簡単に教えられるかよ」

「だって、おいらのこと右腕にしてくれるんでやんしょう? 後学のために教えてくだせぇよ。おいらも男だ。兄貴に着いて行くと決めたらとことん唐天竺までだってついて行きますぜ」

「駄目だ、ダメだ。それに男として自慢できることじゃねぇ。殺るんだったらドスでブッスリ一突きじゃなきゃ男じゃねぇ。女が恨んで殺したように見せかけて包丁でブスブス刺すなんざぁ我慢がならねぇ」

 新三には理解し難い話であったが、松五郎にとってはドスと包丁では意識が違うのであろう。ただ、惣太から聞かされた西亥堀河岸の一件に殺し方が似ていると直感で思った。質屋の娘を殺ったのはすでに高田屋一味だと察しがついている。

「兄貴の意に染まないやり方をやらせるのは、姐さんですかい?」

「ああ、だがな、さすがにあん時ァ、若けェ奴にやらせたぜ。胸糞が悪くなって酒が不味くなるからな。そしたらよ、嫌な物見ちまった……思い出したくもねぇ」

「嫌なものって? 何を見たんで、兄貴よう。寝たら風邪引くぜ」

 涎を溢して後ろの壁に寄りかかる松五郎を揺り動かした。新三も調子に乗って酒をすすめ過ぎたのを後悔しながら何度も松五郎の体を揺すって耳元に話しかけた。

 やがて店の女将が調理場にいた主人と一緒にやって来て、暖簾をしまいたい旨をおずおずと新三に申し出た。

 新三は、仕方なく松五郎を背負うと店を後にした。迷惑賃だと渡した一両をしっかり握りしめた夫婦が喜んで何度も頭を下げている。蛸の足とおでんに鯖の味噌煮では渡し過ぎたかと自分の気前の良さを悔やみながら永代河岸を歩いて行った。

「どこに連れて行くか、だな……、それとも大川に捨てちまうか」

 仮の住まいがある材木町が一番近かったが、高田屋に放り込んでしまおうと決めた。うまくすれば駒吉に会えるかもしれない。賭場に顔を見せない駒吉の顔をまともに拝んだこともないのだ。背中に背負った松五郎が重かった。その上酒臭い息が新三の顔にかかるのには閉口したが、木場で担いでいた材木よりは軽い。

 いつしか油堀河岸を歩いている内に材木町を通り過ぎ、丸太橋を渡った。

 新三は縄暖簾で断片的に松五郎が口にした判じ物のような言葉を繋ぎ合せながら歩き続けた。

 松五郎が見たくなかったものたぁ、何だ……

 新三の聞き方が間違っていなければ、どんな事情があったのか、どうも死んだお佳代に馬乗りになって包丁で突きまくっていたのは弥七かもしれない。

 無理やりやらされたのか? 自分も殺されると思って言いなりになったのか、それとも……

――ありえねぇ。自分の惚れた女だろ。しかし、惚れた女なら無理やりだろうが、殺されようが言いなりになるだろうか。それもありえねぇ話だぜ

 万年町の甚兵衛長屋で床に伏せている源造の考えを聞いてみたくなり、自然と足が向き始めた。

 だが、すぐに思い直して新三は首を横に振った。

――つなぎは武吉さんの仕事だ

 約束を破るわけにはいかない。それよりも高田屋の探索が自分の仕事だと思い直して、ずり下がった松五郎の体を背負い直した。



 その頃、お静と惣太は谷中の瑞林寺にいた。

 門前に大きな銀杏の木があり、黄色く色づいていた。夜気に銀杏の匂いが立ちこめている。

 日本橋で駒吉の聞き込みをしている内に、駒吉の家の菩提寺がここだと聞かされて廻って来た。

 日本橋での駒吉の評判は決して良いものではなかった。懇意にしていた芸者仲間もいなかった。駒吉が他の芸者の客を取って総スカンを喰った時の余波が昔のことなのに色濃く残っていた。

 ただ二人、かつて付き人をしていた雛妓おしゃくの女達だけが、駒吉を庇った。

「駒吉姐さんは、みんなの言うようなお人じゃありません。わたしのおっ母さんが病気になった時、薬代だと過分なお金に高価な帯をいただきました。それだけじゃないんです。この人のおっ母さんが死んだ時も、ちょうど姐さんのおっ母さんも亡くなられたらしくて、おまえもちゃんと供養しなって埋葬料を出してくだすったんです。それに、それに……」

 駒吉から厳しく育てられたその女達は、今では日本橋でも指折りの芸者になっていた。

 お静の母親も早くに死んでしまっている。だからかもしれない。おっ母さんという言葉が、駒吉と関連づける響きでお静の胸に残った。

 寺の住職が夜着を着替えて出てきた。

 やっと出てきた住職にお静はほっとした。惣太と二人きりで暗い本堂で待たされるのは堪らなかった。

 蝋燭の灯りも廻りの闇にほとんど吸収されている。

 惣太はお静が寺を、特に墓所を嫌っていることを知っている。昔、苛められた時は墓石の間に逃げ込めばお静が追いかけてこないことを何度も経験した。

「お駒殿の娘のことを聞きに来なさったか」

「……お駒殿?」

 駒吉の名と今初めて聞いた名前がお静の頭の中でごった煮になった。

「千世殿の母御のことじゃが、知らなかったのか」

 駒吉の源氏名は母親の名前から取ったということをお静は知った。

 住職は遠い所を見るような眼でお静等に話を聞かせてくれた。

 江戸勤番だった父親は藩の取り潰しにあい、家財を売り払ったのち、幼い千世を抱えて心機一転、住み慣れた江戸に出ると谷中の裏長屋に越してきた。貧しくも三人で仲良く暮らしていたが、慣れぬ浪人暮らしに父親は急逝してしまう。やがて哀れに思ったのか、若く美しい武家育ちで貞淑な未亡人に惹かれたのか、ずっとお駒に内職の世話をしてきた太物屋を営む巴屋喜左衛門が二人を引き取ることになった。幼子を抱えて他に身寄りも生きる縁も持たない母親は、やむなく巴屋の妾奉公をすることになった。母親はひとり残された娘を厳しくも溺愛して育てたが、千世と本妻の子との折り合いが悪く、喜左衛門の息子が千世のせいで大怪我をさせられたことをきっかけに、千世は喜左衛門の知り合いの置屋へ預けられることになった。

「千世は頭の良い娘でござった。母親がそうしなければ生きていけなかったことも自分の身の上もよくわかっておったようじゃ。だから千世は芸者になる道を選んだのじゃな。母親のように男に頼って生きていくことを潔しとしなかったのじゃろう。強い目をして入谷を出て行きおった」

「おっ母さんは、まだ巴屋に……」

 お静の先を急いだ問い掛けに、駒吉の小さい頃を知っている住職は、静かに首を横に振って合掌した。

「お駒殿は既に世を去った。巴屋も今は、……もう、ない……」

 住職がしばらく沈黙した。

 巴屋がないとは、どういう意味なのか? 谷中にそれほど明るくないお静には何も思い当たらなかった。惣太を見ても困った犬のような目をお静に向けて、大袈裟に首を傾げた。

「さて、千世じゃが、踊りも三味線もその修業は修羅の如くであったようじゃ。何年かして日本橋一の踊り手に成長したとの風の便りにお駒殿は落涙して喜んだという。しかし、本当の修羅はまだ千世の身には降りてきておらなかった」

 住職が続く言葉を飲みこんで黙った。長い時間が過ぎて言った。惣太が正座に我慢できず泣きそうな目をしている。お静は外で待つように命じると、惣太が四つん這いになって薄暗い本堂から出て行った。

 それでもしばらく住職は瞑目したまま、口を開こうとはしなかった。

 再び語り始めるのをお静は、珍しく、じっと待った。

 住職がだんだんとその後ろの暗がりから見下ろす祖師像に渾然と同化していくような錯覚をしたせいかもしれない。

 


 松五郎を背負った新三は高田屋の勝手口へ回された。

 若い衆が出てきて、うんざりした表情で松五郎を引き取ると代貸専用の離れに運んで行った。

 取り残された新三は、高田屋の内部事情を探ろうとした目論見が外れて、所在なく傍に合った甕の水を柄杓ですくって飲んだ。

――こりゃあ、真面目に松五郎と兄弟の盃を交さねぇとならねぇか。あんまり気がすすまねぇが……

 もう帰ろうと柄杓を甕に戻した時だった。足音に振り向くと息を飲むほどの粋な美女が、半身に腕を組んで新三を見下ろしていた。

 透き通るような肌に涼しげな眼、しかし、その眼の奥には一睨みで相手を服従させてしまいそうな妖しさがあった。真一文字に結んだ口元は、お静に似ている。ただお静はあどけなさを無理に背伸びして隠そうとする一種のおきゃんな可憐さがあるが、この女の口は一度開けば、心に染まないことも抗えなくさせる凄みを秘めていた。

 この女が、駒吉に違いない。さっき聞いた松五郎の言葉に大きな嘘を見つけた。女に何ができると嘯いたのは、松五郎の精一杯な虚勢だったのだと新三は気づかされた。

「お前さんかい。賭場の不始末を収めてくれたお客さんってのは……」

 女を見上げながら斜に頭を下げた。松五郎を送って来たことではなく、賭場の騒ぎを収めたことで挨拶に出てきたらしい。

「いい度胸してるようだね。それに毎日、うちで遊んでくれてるんだって? 何してるお人だい?」

 駒吉に見つめられて、新三の体の奥がぞっと波打った。取り込まれてしまいそうになる心を、お静の鉄拳の痛さを思い浮かべることで鼓舞させながら駒吉を真っ直ぐ見据えて答えた。

「いい度胸かどうかは知りやせんが……、ただの遊び人でさぁ。天涯孤独の独り者ですがね」

 源造の親分から聞かされた話だと日本橋で仁義を外した客の取り合いをして追い出され、そのまま夜鷹まで落ちぶれたと聞いていたので、美しいと評判の駒吉だったが、とんでもない擦れ枯らしの険阻で醜悪な女を想像していたのだ。完全に新三の思惑を打ち砕かれてしまった。

 気を引き締めないと、このままお静等を裏切って駒吉に取り込まれてしまいそうだ。

 何が原因か知らないが、人の客を取らずとも大人しくしていれば日本橋一の、いや江戸一の芸者でいられたのではないか。この女のどこにそんな魔物が棲みついているのだろう。

 そして、その魔物は周りの者だけでなく自らも滅ぼそうとしている。

 どうしたらこの女の胸の内に飛び込めるのだろう。男にうまく取り入る自信はあるが、女にはさっぱりちやほやされた覚えがない。新三は折角の目の前に現れた機会に為す術もなく途方に暮れた。

 ところが思いがけず駒吉の方から新三を招き入れてくれた。

「どうだい? うちで働いてみる気はないかい。賭場の仕切りを全部任せてあげようじゃないか」

 新三を値踏み為終えたといった面立ちで、駒吉は勝手口の板の間にゆっくりと膝をついた。

 思わず新三は女よりも頭が下になるように土間へ片膝をつけて屈んだ。新三についそうさせてしまう威厳が女に備わっていた。

「……でも、松五郎の兄貴がいらっしゃるんじゃ」

「あの男はおしまいさ。早々に追いだすよ。力ばかりでわちきの言うことをちっとも満足に仕上げたことがないんだ。お前さんはいい目をしてるよ。何にでも怯まない男の目だ。名前はなんて言うんだい?」

「怯まないなんて、そんなぁ大層な男じゃござんせん。……新三郎、みんなからは、しんざって呼ばれていやす」

 煽てに聞こえない駒吉の言葉が、新三の心を鷲掴みにした。それから逃れるために、想像で何発お静から殴られたか数えきれない。

「新三さんか、まだ全部お前さんのことを信用した訳じゃないから、しばらくは見習いってことでいいかい? 心配しなくていいよ。わちきの人を見る目に狂いはないからね」

 返事に迷っていると、小走りに安助が割り込んできた。新三に気付くと、用心深く駒吉に耳打ちをした。駒吉はかかる安助の息を嫌って、扇子を広げて耳を塞ぐようにしたので、耳語にしては間抜けな声が土間にいる新三の所まで聞こえてきた。

――質屋の娘とつなぎがつきやした。弥七に会わせる算段を……

 新三は竈の上の方に貼り付けられた鶴岡八幡宮の御札に目をやりながら聞いてない風を装ってみたものの、聞こえてきた何個かの語句が激しく胸を高鳴らせた。

「明後日の晩、うちに呼びな。ちゃんと質屋の株札を持って来させるんだよ」

「明日じゃなくていいんですかい?」

「ちょうど明後日、旦那が来るんだよ。面倒なことが起きた時にいてくれた方がいいだろ。なんかこの頃岡っ引きがうろちょろしてるんだ。取り越し苦労ならいいんだけどね」

「じゃ、ヤットゥの先生方にもそう言っときますぜ」

 新三は何食わぬ顔をして頭を下げた。早く帰って武吉に今聞いたことを報告しなければならない。

「おっと、新三さん、あんたは今からうちに住み込んでもらうよ」

 会釈して帰ろうとする新三に駒吉が鋭く声をかけた。一瞬新三の足が抵抗できない力で土間に張り付けられた。

「いえ、荷物もありますし、明日からってことで」

 駒吉はちょっと考えたようだが、強い口調で拒絶した。今の話を聞いたからだろうか。他人が聞いても何のことかわかないことにも気を配るほど用心深い女なのか。新三には駒吉の真意がつかめなかったがお静等に連絡を取る方法が無くなったことに焦りを感じた。

――明後日の晩だっていうのに、どうすりゃいいんだ

 新三に逡巡している暇はないのだが、今飛び出すわけにもいかない。

「安っ、今度松五郎の後を任せようかと思っている新三だ。どっかいい部屋、空けとくれ」

 体の向きを変えた安助から蛇のような目でじっと見詰められた。

「知ってるよ。いい男っぷりでうちの若けェもんが随分世話になったみてぇだな。今夜、あんたが取り押さえてくれた野郎は八幡様の裏に埋めといたぜ」

 まるで正体を見透かしたような神経を逆撫でる安助の高笑いに、新三は軽く会釈をして見せて、心の中で唾を吐いた。

 空笑いの安助が、俄かに真顔になって駒吉の顔色を窺った。

「松の野郎は? 始末しますかい。今ならぐっすり眠ってますぜ」

 一瞬、新三の喉奥に嫌な苦みが流れた。

「もう少し先に延ばした方がいいね。蔵にでも放り込んどきな。今夜もひとり殺ったばっかしだろ。今、足元で騒がれたくないよ。与力の旦那に恩を売られて、あんまり偉そうな顔させたくないんだ。あの脂ぎった手で触られると思っただけで鳥肌が立つよ」

 安助が新三に手を貸せと高飛車に命じた。

 新三はほっと胸を撫で下ろした。松五郎を始末することになれば、おそらく成り行きで自分が手を下さなければならなくなるかもしれなかった。それだけは何としても避けなければならない。



 お静が真っ暗な山門を後にすると惣太が懐に一杯の銀杏を拾い集めていた。

「ずいぶんと遅かったじゃねぇですか。そいで何かわかりやしたか」

「なぁんもねぇ、くだらねぇ話さ。住職さんも檀家から聞いた話が、あんまりにも下劣過ぎて、口が重くなっただけだ。まぁ檀家においら達が乗り込んで迷惑かけるよりてめぇで話した方がましだと思ったんだろ…………」

 惣太は提灯を小脇に挟み、膝の上に大福帳を広げて、記録できる態勢を整えた。

「すげぇ金のかかる襟変えの時に名乗りを上げた旦那が、こともあろうに巴屋の親子だったんだと。初めは息子の筆おろしのつもりだったんだろうが、美しく成長した千世を見て、興に乗った親父も、無理やり駒吉に……乗っかっちまったんだとよ」

 惣太に話してきかせながらお静は体中が粟立ってきた。こんな話をしたくもなかったが暗い中で提灯の灯りをたよりに大福帳へ懸命に記録している惣太を思うと無下にもできない。口が曲がりそうだった。

「おっ母さんと娘も犯っちまったんだ。親子南蛮、鴨肉加えて卵とじってなもんか。とんでもねぇ色爺だな。それで人間が変わっちまった」

 筆を舐めながら不用意な言葉を発した惣太の頭をお静は拳で殴った。

「まだ続きがあるんだよ。トットと、書いちまえ。どっかでそれを伝え聞いた駒吉の母親が怒ったのか、悲しんだのか、わからねぇが自ら命を絶っちまった」

「弱り目にたたり目。泣きっ面に蜂ってやつだ。おまけにおいらも泣きっ面っと」

「そんで、駒吉は狙いをつけた太物問屋の集まる会所の行司(会長)に取り入って情人になってな。裏から巴屋の親子が心中するほど甚振り続けて、見事母親の仇を討ったって話よ。巴屋のことはひょっとして奉行所に記録が残っているかもしれねぇからちょっと読ませてもらおうか」

「よかったじゃねぇですか。恨みを晴らせて。めでたしめでたしってなもんだ。何でも金で解決できると思ったら大間違いだぜ。そこんとこだけ聞いてると、駒吉に肩入れしてしまいそうだ」

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ」

 お静は、惣太を睨みつけて、口に持ってきた拳に息を吐きかけた。

 惣太は何で殴られるのか分からないらしく素早い動作で顔面を庇おうとした。

「惣太! その臭ぇのを持って帰ぇるつもりだったら離れて歩け。おいらは納豆の次にその臭いが嫌いなんだ」

 惣太が、慌てて懐を抱えるや、後ろへ大きく跳んだ。



 偉そうに振舞う安助の監督のもとで新三は若い者と一緒に松五郎を縛り上げて蔵へ運び入れた。

 ぐっすり寝込んだ松五郎から抵抗はなかったが、さっき背負っていた時よりも重くなっているような気がした。

 安助の持つ提灯の灯りで蔵の中が照らし出されている。奥に柱に縛り付けられて憔悴しきった先客がいた。

「安助の兄貴、あいつは?」

 新三は弥七だと承知の上で指さすと、安助がまた癇に障る声で笑った。

「女の顔を切り刻むのが好きな風狂者だよ」

「ぞくっとするほど二枚目じゃねぇですか。変わった趣味持ってやがるんですね」

 安助は新入りの新三の前で虚勢を張ってみせたかったのか、蔵の奥へ進んで縛られた男の髷を掴んでみせた。

「もうじき、お満津って娘が、おめぇに会いてぇと、のこのこやって来るぜ。今度はどこを切り刻むんだい?」

 弥七がぎろっとした目で安助を睨んだが、声が出ないほど衰弱しているようだった。

「けっ、恨みがましい目で見るんじゃねぇぜ」

 安助は弥七の顔を一発殴ると新三と子分を引き連れて出て行った。


 新三のことは高田屋で知らない男はいなかった。何かあれば酒を振舞ったりしていたので、効果があったのか、誰も疑いの目で見る者はいなかった。それよりも松五郎の人気がひどく悪く、その分新三に期待している空気が感じられた。

 若い奴等は思いの外無邪気だった。どこに行くあてもなくここにいるという風である。みんなまとめて善次郎の頭に預けたい気になってしまう。

 しかし、安助や駒吉が仕事の流れを教えるつもりなのか、ずっと新三を連れ回すものだから、一人になる機会がない。材木町に越して以来、一晩家を空けたことがない新三のことを武吉は心配してくれているだろうか。それが気がかりのまま刻が過ぎていく。

 途中、うまい具合に弥七に飯を届ける男と代わることができて、蔵へ入る機会を得た。

 中には棺桶へ片足突っ込んだほど衰弱した松五郎もいて、二人の排泄物の嫌な臭いが蔵の中に漂っていた。

 握り飯を食べさせるために、新三は弥七の後ろ手に縛られた縄を解いてやった。

 喋れないほど心身が疲弊しているのか、新三が語りかけても口を閉ざしたまま弥七は、緩慢に血のめぐりの悪くなった手首を揉み続けている。右手中指の内側に珊瑚の根付けが結わえつけられてあるのを見つけた。不思議に思って新三が手を伸ばすと、弥七は打って変わったように素早く右手を腹に抱え込んで触らせまいと必死な形相を浮かべて、興奮した。

 仕方なく新三は、弥七を落ち着かせることに専念した。

――根付けのとれた巾着

 ふと新三は、惣太の大福帳に書いてあった西亥堀河岸の遺留品に思いが至った。無くなった根付けは珊瑚細工だったこともわかっている。藤紅屋で珊瑚細工の売出しを行った時、一番成績の良かった弥七が、報奨として店から授かったものである。それを夫婦固めのしるしとして弥七がお佳代に贈ったとお満津から申し立てがあった。

 ならば、弥七が今握り締めている根付けはお佳代の持っていたものだということになる。

 聞くところによれば、死んだお佳代に馬乗りになって顔を切り刻んだのは弥七だというではないか。理由は分らないが憎んでいたのではなかったのか? ならば、なぜ憎んだ女の物を身につける? それとも大事な自分の成果を取り返したのか……。

 不条理ともいえる弥七の精神が覗けない新三は、頭の中がひっ掻き回される思いだった。まともに女と付き合ったことのない新三は考えることを諦めた。

 弥七を助け出した後、ゆっくりと酒を酌み交わしながら胸の内を聞いてみたいもんだと思った。

 新三は、思い直して松五郎には聞こえないように弥七の耳元ですぐ助けてやるからなと囁いてみた。

 しかし、虚ろな弥七の目が揺らいだだけで新三の声が届いたのかどうかはなはだ心もとなかった。


 夜は新三の歓迎会が開かれた。高田屋が借金の形で押さえたというくだんの居酒屋へ連れて行かれた。

 駒吉は酒の手配をした後、すぐに店へ戻って行ったが、二十人近い若者が、固めの杯のつもりなのか、兄弟分の杯なのか、ちろりを片手に新三の周りに集まった。

 安助が新参者への儀式だと嘯いた。ここで負けるわけにはいかないと思った新三は、随分飲まされた。さらに男気を自慢する若い者達から腕相撲を挑まれてなおさら酔いが回ってしまった。

 どんちゃん騒ぎの末、一晩明かしてしまった新三は、いつの間にか高田屋であてがわれた部屋に運ばれて眠り込んでいた。


とぉんとぉぅん とんがらし、

ぴりりと辛いは山椒の粉、すぱすぱ辛いは胡椒の粉、

黄麻の粉、陳皮の粉、なかでも良いのは娘の子、

居眠りするのは禿の子、

とぉんとぉぅん とんがらしは辛いよ


 表から聞こえてきた七味売りの、聞き覚えのある声に、新三は跳ね起きた。心配した武吉が、高田屋まで様子を見にきてくれたのだ。急いで仙台堀に知らせなければ、と焦った。もう陽は西に傾き始めている。

 新三は二日酔いの頭を押さえ、大声で唐辛子売りを呼びこんだ。



 武吉が源造の長屋に駆けこんで新三の伝言を告げるや、お静が源造の止めるのも聞かず惣太を連れてすぐに飛び出した。

 先に岡崎の旦那へ知らせろと源造が床の中から大声を出したが、奉行所は信用できないと思った。

 武吉がお静の行動に慌てて、その足でどこかへ飛んで行った。おそらく徳次にも連絡するつもりなのだろう。

 お静はまだお満津が出かけてないことを祈り清兵衛の質屋へ走った。

「お手柄ですね。新三さんは、そこまで高田屋に信用されちゃったんだ」

 駆けながら惣太が目を輝かせて新三を褒めた。

「怪我の功名だろ、今頃知らせに来やがって、何してたんだ。寝ぼけてんじゃねぇぞ」

 素直にお静が喜べないのは、おそらく嫉妬かもしれない。自分の調べで上げたかった特大の情報だ。

 仙台堀に架かる正覚寺橋を渡り、霊巌寺横を駆け抜け、小名木川沿いから大横川に出る。

 菊川町に入り、やっと質屋の看板が見えてきた。

「駒吉はあの質屋を狙ってたんでやんすねぇ」

「弥七恋しさのお満津の気持ちなんざ、利用しやがって。親父の清兵衛もしっかりしろいって言ってやんなきゃな」

 しかし、店は既に雨戸が閉められ、中から閂がかかっていた。

「まだ、店閉める刻限じゃねぇだろうっ」

 裏に回ったが人の気配が無かった。

 惣太を馬にして、お静は土塀を乗り越えた。

「姐さん、あっしも中に入れてくださいよ」

 外で惣太が喚いた。

 だが、お静は、障子が飛ばされ、襖が破られて荒らされた部屋を茫然と見つめ続けていた。

 惣太が、塀に隣接していた水溜桶を器用に登って中に入って来た。

「清兵衛さんもいねぇんですかい? 相当暴れ回った様子ですねぇ」

 土足のまま部屋に上がり込んだ惣太は倒された箪笥や掻きまわされた引き出しを眺めて、立ち尽くした。

「金目のものを狙った感じじゃねぇですね。まさかお満津と親父が取っ組みあったんじゃ……」

「いや、足跡が残っている。一人や二人じゃねぇ」

 突然納戸から物音が聞こえた。

 惣太が十手を構えて注意深く引戸を開けると中から雁字搦めに縛られた番頭が転がり出てきた。小僧も一人奥で頭から血を流してぐったりしている。だが、死んではいないようだ。奉公人はこの二人だけである。お静が番頭の猿轡をはずしてやった。

「旦那様とお嬢様が……」

「誰にやられた?」

 番頭はただ首を振るばかりで心当たりがないようだった。

「すぐ医者を呼んでやるからな、気をしっかり持つんだぜ」

 お静は、小僧の縄を解いて簡単な治療を終えた惣太に振り返った。

「惣太、高田屋まで走るぞ」

 暗い部屋から駆け出たお静は縁側から勢いよく飛び降りた。

「あっしらだけじゃ、……応援頼みましょう」

「へっぴり腰の下っ引きはいらねぇ。うちに帰って銀杏でも喰ってろ!」

 続いて飛び降りた惣太が庭石に躓いて転んだ。

 閂を外し、潜り戸から表に出たお静を見て、近所の八百屋の女房が飛び出してきた。

「よかった、親分さん! うちの宿六が番屋へ知らせに走ったんだが、入れ違いだったみてぇだね。いつもより早くに店じまいしてるからおかしいなと思っていたら、あっという間に、裏口から、清兵衛さんと、お満津ちゃんが、……」

 太っているせいか、大きく息をして休み休みに、それでも慌てまくって先を急ごうとする女の肩をお静はがっしりと掴んだ。

「どうした! 何があった?」

「十人くらいの、やくざ者に囲まれて、無理やりそこから舟に乗せられて……筵おっ被せられて」

「どっちに行った!」

 八百屋の女房は、大横川の川下を指さした。

「わかった! ありがとうよ。中に番頭さんと小僧さんが怪我してるから早く医者、呼んでくれ。頼んだぜ」

 すぐにお静と惣太は蛤町までの最短距離を頭に描いて駆けだした。

 空はすでに薄暗くなり始めている。


 その頃、岡崎長十郎が、秘密裏に提出していた西亥堀河岸の事件に関わる報告書について吟味方与力橘主馬に呼びだされていた。

「岡崎、おぬしの報告を受け、わしもこの件につき、同様な不審を覚えたため、影同心に探索を依頼した。彼等からの報告もおぬしの調べが全て正しいことを裏付けてくれたぞ。ご苦労であった。北町奉行所のため、綱紀を粛正するよい機会である。後はわしに任せよ」 

 長十郎が畏まって平伏した。床に擦りつけるほど頭を下げているので与力には顔が見えないが、つい嬉しさで笑いを噛み殺すのが苦痛な長十郎だった。

 源造や徳次とともに画策した作戦がまんまと成功した。

 権力を嵩にきる奴には、さらにその上の権力に働きかけるのが、話が早い。そう言った源造の顔を思い出した。

 与力永井藤樹と吟味方与力橘主馬の奉行所内の人と力関係も全て調査済みである。そして、どちらも同じ穴の貉だった。

 長十郎らは、より強くて狡賢い貉の方に言い寄っただけだ。

 ただ長十郎の前に座す貉は狡賢さの分だけ正義というものに対して敏感であり、吟味方と三文字ついた分だけ自分の血に誇りを持っていた。

 大貉の前を辞そうとした時に、血相を変えた徳次が急用だと奉行所へ駆けこんできた。

 話を聞いて長十郎が怒鳴った。

「何てことしやがる。死にてぇのか、金太郎は! すぐに捕り方を集めるんだ」

 長十郎は北町奉行所のある呉服町御門内から八丁堀を抜け永代橋までの距離を思い浮かべると心ばかりが急いて土間へ飛び降りた。

 


 蛤町の高田屋に着いたお静は屋敷のまわりを、物陰に身を隠しながら調べた。土塀の内側から喧騒が漏れてくる。時々怒声が混じっていた。まさか正面突破するわけにはいかない。先日、内偵した屋敷の中をお静は必死に思い出そうとしていた。やはり庭木の生い茂った庭の中に紛れ込むのが一番だと判断した。後は、どうやって忍び込むかである。

 惣太がお静を突いて水溜桶を指さした。つい先ほど清兵衛の質屋に乗り込んだ時の印象が惣太の頭の中に残っていたのだろう。ちょうどいい具合に桶のある土塀の上に中から太い梅の枝が伸び出していた。

 お静と惣太は周りに人影が無いことを確認して、積み重ねられた水溜桶に駆け寄った。

「いくぜ!」

 注意深く音を消してうまく潜り込めたお静達は、庭木の影をぬって座敷に面した泉水の裏に辿りついた。

 泉水に被さるようにして枝を張り巡らした躑躅の葉影に隠れて様子を窺った。

 縁側に刀の手入れをしている浪人者が二人腰掛けている。泉水の前で別のひとりが刀を抜いて奇声を上げながら素振りをしていた。たぶんに座敷の端に座らせられたお満津への恫喝の意味が含まれているように思える。その証拠に座敷の障子と襖が開け放たれていた。お陰でお静にとっては一目瞭然だ。

「弥七さんに会わせてください。お願いします」

 薄紫色の小紋を着たお満津の背中が震えて見えた。いつもの伝法で気丈なお満津ではなかった。

「お前さんが聞きわけの良い返事をしてくれれば、すぐにでもここへ連れて来てやるさ。悪い話じゃないと思うけどねぇ。お前さんが死ぬほど恋い焦がれた弥七と一緒になれるんだ。それで菊川町の質屋を繁盛させる。どうだい? うんと言ってくれればすべて丸く収まるんだよ」

 憔悴しきったお満津が、何かを堪えている。畳に片手を突いて時々崩れそうになる体を支えていた。

「なんでこうしてわちきがこんなに頭を下げているのか判るかい? 実はね、前に手に入れた小さな居酒屋なんだけど、繁盛してたのにわちき等が店を継いだ途端、左前さ。いくらただで手に入れた店だといっても、そんなのはこりごりなんだよ。餅は餅屋っていうだろ。結構、熱心に店の手伝いをしていたらしいじゃないか。お前さんも若いのに刀と茶道具についちゃ結構な目利きだってね。もう、お父っつぁんはいないんだし、お前さんがしっかりしなきゃ」

 お満津が突然泣き叫んだ。

「お父っつぁんを殺したのはあんたじゃないか!」

 お静は、息を詰まらせた。無意識に手元に植わっていた万両の葉を握りつぶしていた。

――しまった、遅かったのか……、駒吉、てめぇ何人殺しゃあ気がすむんだ

 直接手を下してないにしても、お佳代とその父親清兵衛、藤紅屋の仙太郎、さらに新三の話では、乗っ取った居酒屋の亭主と女房も行方不明だという。亭主の高田屋繁蔵と身代りに出た浅吉の母親も虫の息だ。

 それに、巴屋の隠居と息子の若旦那…………

 駒吉に唆された太物問屋会所の行司及び年寄り連中からの不当な圧力で、追い詰められた巴屋であったが、巴屋の親子の最期の夜、御高祖頭巾を被った年若い娘が借金の督促に現れたという。その娘が店を出た様子がなかったが、しばらくして奥座敷から火の手が上がった。そして焼け跡に首を短刀で突かれて死んでいる隠居と若旦那の焼死体が発見されたのだ。若旦那の手に短刀が握られていたことから、町方は覚悟の自殺と判断した。焼け出されて助かった手代が突然訪れた見知らぬ娘の存在を役人に必死で訴えたが、死体もなく他に見た者もいなかったのでそのままにされたという記録が奉行所に残っていた。

 それを読ませてもらった瞬間、お静は駒吉の仕業だと直感したが、今となっては調べ直す術がない。

 しかし、それが駒吉の原点ではないかと思った。

 母親が死んで天涯孤独となった駒吉が自暴自棄ともとられる生き様を晒す様になったのは、聞き集めた話によると、それからのようだ。

 お静から見える駒吉は、床の間に活けられた真っ赤な寒牡丹を背に長煙管を銜え、秋の夜風も凍るような薄笑いをお満津に向けている。

「どこにお父っつぁんを殺さなきゃならない理由があるんですか!」

 お満津が詰め寄ろうとした。

 駒吉が形相を一変させ力一杯吐月峰に煙管の雁首を叩きつけた。部屋の空気が即座に締まり、息を詰まらせ強張ったままのお満津は、がっしりした男二人に肩を掴まれると、元の薄い座布団の上へ引き戻された。

「人聞きの悪いことを言う子だねぇ。あんたのお父っつぁんは、お前の姉さんの後を追って、女郎花の一杯咲いた土手から飛び込んだんじゃないか。あんな業突張りの娘でも父親としちゃあ可愛いらしいね」

 お満津がはっとして顔を上げた。

「そうか、思い出した。あん時、暗くてよく見えなかったけど、あそこで姉さんとキンキン言い争っていたのは、あんただったんだ。弥七さんの付文だと言って書付けをヒラヒラさせてるあんたに向かって、姉さんが、そんな男なんか熨斗付けてお前さんにくれてやるよって叫んでいた。他にも似たような背格好の男衆がここにもいるよ」

 お満津が気丈にも廻りを睨み回した。

「どういうことだい! 見て来たようなこというじゃないか」

「ああ、もう私が見てたってことはお奉行所にも仙台堀の親分さんにも喋っちまったんだからね。すぐにみんなお縄になるんだから!」

「そりゃあ残念だったね。もう遅いよ。手遅れだね。お前の性悪な姉さんを殺した奴は、島流しって決まったよ。お奉行所じゃ、もう終わったことなんだとさ。誰も穿り返せないよ。何たって、奉行所もわちき等の味方なんだからね」

 お満津が怪訝な顔をして何か喚いているようだが、お静の所まで聞き取れなかった。まだ、出て行くわけにはいかない。刀を振り回している浪人者をどうして擦り抜けていくか、そして、何よりも引き摺りこんでしまった惣太の身の上が危険に晒されるのは、避けなければならない。

 何とかお満津が駒吉の神経を逆立てず、穏便にこの場が終わらないかと祈った。弥七と一緒に蔵にでも閉じ込められたら、助けにも行きやすい。

「しかし、困ったねぇ、見ちまっていたのかい。ぺらぺら喋られたんじゃ、面倒くさいねぇ。安助、あんた質屋の仕事ができるかい。折角店が手に入ったのに、切り盛りできないとあっちゃあ、宝の持ち腐れだからね。それとも質草全部売っちまおうか」

「大事なお客さんからの預かり物に、そんなことさせられるもんか!」

 精一杯の強がりをお満津が見せた。

「この小娘を殺っちまうんですかい?」

「弥七との相対死ってことでいいんじゃないかい? この子も本望だろうよ。全く情け心出したのが間違いだったねぇ」

「新三、弥七を連れて来やがれっ」

 安助の昂った訛声に、襖の陰で大きな影が動いた。

 新三だった。そのまま隣の部屋へ消えた。

――新三の野郎、何してやがる! すっかり駒吉の手下になっちまったのかい

 知らせをくれたのは、確かに新三だが、そんなことも忘れてしまいそうな、見事に廻りの男達へおもねる挙止だった。

 しばらくしてその新三が苦虫を潰したような顔で、縛られた弥七を連れてきた。

 弥七に駆け寄ろうとしたお満津が薄汚い浪人者に刀で威嚇され止められた。

 お静が飛び出そうとするのを惣太が必死に止めた。

「新三さんに、考えがあるのかも知れねぇ。もう少し見ていやしょう」

 新三さんを信じて……、と惣太は、お静だけに聞こえる小声で繰り返した。

――新三のどこを信じるんだ。調子のいい奴だとは思っていたが、駒吉の飼い犬になり下がりやがったのかよ。お満津に手ェ出したらただじゃおかねぇぞ

 簪を引き抜き、新三に狙いを定めたお静は耳を澄ませた。

「相対死なら、なおのこと弥七さんに殺らせちゃどうです。西亥堀河岸の時のように」

 新三の突飛な提案に安助が、異様に興奮しながら同意をみせた。

「そうだ。死んだ女の体を切り刻むのが大好きな風狂者に殺らせるか。強情女さんよ、俺達を覗いていたんなら、弥七がてめぇの姉さんを切り刻んでいることを見てたはずだよな」

 安助がお満津に振り向いて引き攣った笑い声を立てた。お満津が泣き出しそうな顔で立ちつくしている。

「新三、縄を解いてやれ。俺達を楽しませてくれたら、おめぇだけは助けてやるぜ。ね、姐さん、それでようございましょう?」

 安助のはしゃぎように、弥七の顔が冷たく笑ったように見えた。

 駒吉は軽く頷いただけだった。

 縄を解いて、新三は抜き身の匕首を弥七に渡した。弥七は素直にそれを受け取ってお満津を睨んだ。腹をくくった目をしていた。

 お静は簪の狙いを弥七に変えた。

 弥七は二三歩、ゆらりとお満津の方に近づくと、急に真顔になって、動けなくなっているお満津を呼び寄せた。

「お満津ちゃん、こっちへ来るんだ!」

 回りも少し油断していたのかもしれない。弥七がお満津を抱き寄せて守るように匕首を突き出して構えた。

「俺は、死んだっていい。でもお満津ちゃんだけは殺させねェ。そこをどきやがれ」

 隙をぬって、新三も弥七とお満津を庇うように長ドスを構えて立った。

「新三、てめぇ、裏切りやがったな」

「おめぇ等のやり方には金輪際愛想がつきたぜ。さっき、弥七さんを連れて来る時に、耳打ちしておいたんだ。こんなに上手くいくとは思わなかった」

「うまくいったかどうかは、この家を出てからほざきやがれ。やっておくんなさいよ。先生方」

 安助が下がるのと同時に一人の痩せた浪人が新三を威嚇しながら刀を振りかぶった。まさに振り落とそうとする瞬間だった。浪人者が、呻き声を上げ、右腕を押さえて蹲った。お静の簪がしっかりと刺さっていた。

 皆が動揺した刹那、泉水を飛び越えて二つの影が座敷まで一気に駆けあがって来た。

 薄紅房の十手を振りかざしたお静と、逆手に十手を構えた惣太がお満津を庇った。

「夏の虫が舞い込んできたよ。構わないから殺っちまいな」

 駒吉が、子分を叱咤しながら後ろへ下がった。

「新三さん、見直したぜ。後は任せな」

「惣太の兄貴、任せなって言われても、そんな状況じゃねぇぜ」

 きちんと周りが見えている新三のことを変に糞度胸のついた男だとお静は感心したが、確かに、一人刀が握れなくなったけれど、まだ二人の用心棒が残っている。加えて高田屋の若い衆が異変に気付き、ぞくぞくと得物を手にして出てきた。まさに飛んで火にいる夏の虫だった。

 ただ、高田屋の手下どもが新三を見て腰が引けていた。誰も腕相撲で深酒状態の新三に勝てなかったのだ。

「お前達、畳を血で汚すんじゃないよ。ちゃんと庭で始末しな」

 厄介な子供に頭を抱える母親の風情で駒吉は、溜息と一緒に床の間を背にして座り込むと、長い赤塗りの煙管を引き寄せて銜えた。余裕を気取っているのかと思うと、お静は次第に腹が立ってきた。

「駒吉、いや千世さんよ。たとえ殺されたって、てめぇだけは道連れにしてやるぜ」

 握る十手に力を込めた。

 用心棒の一人がお静に突きだした刀を素早く横に払いながら、お静は十手の鉤手に刃を挟み込んで動きを封じると、下から下腹部を強かに蹴り上げた。男は悶絶して蹲り、刀が用心棒の手から外れて、泉水の中まで飛んで水飛沫をあげた。

 だが、多勢に無勢。お静等は、徐々に庭の方へ押し出されていく。

 惣太が、いきなり袂に入った袋から五寸釘の束を取り出すとお静に渡した。

「簪の代わりになるかどうかわかりやせんが、使ってくだせぇ。こんな時が来るんじゃねぇかとこさえたんで」

「いつの間にこんなもん作りやがった。すげェぞ、惣太」

 五寸釘の先がやすりで一本一本丁寧に研いであり、投げやすいように頭を潰してあった。

 十手を口に銜えたお静は、足や腕を狙って、投げまくった。

 この場を去ろうとしていた駒吉の目前にも投げて、動きを止めた。

 するとお静等に近寄れない駒吉の手下の何人かが竹竿を持ち出して、やたらと突き始めた。避け切れなくなった新三が腹に一撃を受けて倒れた。お静がすぐに新三の前に出て無作為に釘を飛ばしながら庇った。

「惣太、お満津を守れ!」

 竹槍を精一杯避けている惣太に声をかけた。

「そんなこと言ったって……」

 惣太が泣きそうに返事した。気付くと、お静の手元に惣太特製の五寸釘が無くなっている。惣太が竹竿を避けて後に下がったためにお満津が泉水の中に落ちそうになり、弥七にしがみついて悲鳴を上げた。

 夜空に反響する呼子のような悲鳴だった。

 まるでそれが合図と決めていたように、いきなり土塀に甲高い音を立てて梯子が何本も打ち掛けられた。

 お静も駒吉側も一瞬何が起こったか事態がつかめなかった。

 だが、すぐにお静の顔見知りの男達が、ぞくぞくと塀を乗り越えて飛び降りてくる。天竜の文字を染め抜いた半纏を翻して川並鳶特有の細い股引きと、小鉤足袋を履いた男達であった。手には、先端に刃のついた長鉤を握って構えている。川に浮かんだ丸太を押したり、突いたり、手もとへ引き寄せたりする時に使う道具だ。鳶口のついた大鳶を構えている者もいた。

 最後に着流しに印半纏を羽織った善次郎が土塀の上から飛び降りてきた。

「新三、てめぇが呼んだのか?」

 お静が新三を睨んだ。

「まさか……。武吉さんにいつものように頭にも知らせてくれとはお願いしやしたが……。いらっしゃるとは」

「いつものようにだと! そんなこと初めて聞いたぞ」

 お静に怒鳴られて萎れる新三に向かって、善次郎が藍染の半纏を投げてよこした。

「新三、受け取れ、おめぇのだ」

 顔を綻ばせて一礼すると新三はその半纏をくるりと回して袖を通した。袖を通した瞬間に腹の痛みも消えたようだ。

「てめぇら、光モンを引っ込めねぇと、おいら達が相手になるぜ。長鉤の扱いならそん所そこらの三一が振り回す刀なんぞ、屁のツッパリにもならねぇ。下がりやがれ!」

 木場の天竜組六十人、孫の組まで入れると総勢二百人を束ねる善次郎の男気に逆らえる者はいない。

 岩山のような威勢に押されて半数以上が手に持ったドスや匕首を捨てた。

 捨てないで根性を見せた者には、元気のよい天竜組の若者が、長鉤を振り回してそれをたたき落とし、一気にその場を制圧してしまった。

「やいやいやい、勝手に他人の家に踏み込みやがって、赤穂浪士にでもなったつもりかい。関係ねぇのは引っ込んでな」

 斜に構えた駒吉一人が啖呵を切って善次郎に食ってかかった。

「新三はおいらが送り込んだ密偵だ。知らせがあって駆け付けた。おめぇさんの悪事は全部お見通しだぜ。さぁ、金太郎、駒吉を縛り上げろぃ!」

 善次郎の切り返しに、お静が口を尖らせて反論した。

「新三を送り込んだのは、仙台堀の源造、おいらの親父だ」

「くだらねぇこと言ってねぇで、早ェとこ、ふん縛れっ」

 お静がふんと鼻を鳴らして善次郎を睨み、駒吉に手を掛けようと座敷に駆け上がると、後退さった駒吉が、隣の部屋に向かって甲高い声を上げた。

「八丁堀の旦那、こっちへ出てきて、この岡っ引きを何とかしてくださいな。わちきに身に覚えのない罪を着せようとしてるんでやすよ。煩いったらありゃしない」

 煩わしげに隣の部屋の襖が開いて、見覚えのある男が出てきた。

「北町奉行所与力、永井藤樹である。女だてらに十手なぞ持って、誰のお手先だ。高田屋は真っ当な商いを営んでおる。駒吉の罪名を申してみよ。ことと次第によってはその十手を召し上げるだけではすまぬぞ」

「うるせぇ、何を与力がしゃかりきに怒鳴ってやがるんだ。てめぇこそ高田屋の駒吉とグルになって恥ずかしくねぇのかい!」

 お静が我慢の限界を超えて、与力に十手を向けた。

「無礼者! 証拠もなく勝手に人の屋敷に入り込みおって。この狼藉、許さぬぞ。追って沙汰するゆえ、家に帰って謹慎しておれ」

「証拠は、おぬしがよく知っておろう」

 唐突な背中越しの大声に振り向いた永井の顔面が蒼白になった。

「橘様……、何故かような所に」

「影同心の調べでおぬしの悪事は明々白々じゃ。岡崎長十郎、永井と駒吉に縄を打て」

 冷徹な吟味方与力の声に呼応して、白襷に鉢巻を巻いた長十郎が、配下の捕り方を従え二人に縄を掛けた。高田屋に従う者も順次捕り方に縄をかけられていった。

 お静の横まで引き立てられて来た駒吉が不敵に笑って立ち止った。縄端を持つ役人が渋面をつくって押し出そうとしたのを駒吉が睨むと苦りきった顔で力を緩めた。縛られてもなお駒吉の妖しい眼力は健在のようだった。

「まさか金太郎親分に足元掬われるとはねぇ。情けないけど、わちきは足柄山の熊さんかい?」

 お静は、縁側に立つ駒吉を見上げた。

「そんなに可愛いもんじゃねぇよ。悪さから言ヤァ大江山の方だろ」

「格上げしてくれたんだ。そいつぁ恩に着るよ」

 駒吉が口元だけで笑った。

「口入れ屋だけで満足できなかったのかい? 何でそこまで手を拡げなくっちゃならねぇ。金か?」

「馬鹿じゃないかい? 何惚けたこと言ってんだい。確かに道楽には金が必要だが、生憎わちきは守銭奴じゃない」

 駒吉がお静を嘲笑った。子供を見る大人の目だった。そんなもので怯むお静ではなかったが、駒吉の瞳の奥を覗いても、心の中までは読み取れなかった。

「じゃ何のために大勢殺しやがった!」

「お前さんみたいに毎朝お天道様が東の空から上って来るのを当たり前だと思って、ありがたくも何とも思わない人間にはわかりゃあしないよ」

「ああ、わかんねぇよ。いきなり親父さんが死んで、理不尽な理由でおっ母さんも死んで、理不尽をやらかした奴等を刺し殺して、やけっぱちになったってことぐれェしか、わかんねぇよ」

 刺し殺してという言葉を聞いた時だけ一瞬目が泳いだように見えた。しかし、駒吉は、力なく小さな溜息を吐いて笑った後、自分から歩き始めた。

「やっぱり、なぁんにも、わかっちゃいない」

 お静は思わず駒吉を追いかけた。

「でも、もう気が済んだだろう? あんたのことを慕ってる元半玉さんに会ってきたぜ。今じゃ押しも押されもしねぇ日本橋の芸者さんだそうだ。とっても感謝していたぜ。これを機会に千世に戻りな」

「おまえみたいな小娘が指図するんじゃないよ。わちきのことは、わちきで決めるさ」

 駒吉がお静を鋭く睨んで顔を背けた。顎を少し上げて粋に遠い夜空を見上げたのは、最後の意地尽だったのかもしれない。

 しかし、引かれて行く後ろ姿は駒吉の言葉の響きとは裏腹に、常に張っていた虚勢が消えて見えたのはお静の思い過ごしだろうか。

「あの女、お縄をかけられてるってぇのに、笑ってたじゃねぇか。何か面白いことでも言ってやったのか?」

 善次郎が後ろに立っていた。まるで駒吉の度胸を褒めるような口ぶりだった。

「人殺しの大罪人だぞ。惚れたのか?」

「まさか、お袋の若けぇ時分に似てるなと思っただけよ。お袋に惚れるかい」

 たしかに駒吉の体から漂う艶といい、凛とした物腰といい善次郎の母親に似ているかもしれない。

「駒吉は芸者崩れだ。そんな女と比べちゃあ女将さんが気を悪くするぜ」

「生業に貴賎はねぇよ」

「本気でそう思ってるのか?」

 少し口籠ったかもしれない。「大店の娘とばっかりお見合いしやがって」という言葉は呑みこんだ。だが善次郎はそんなお静を気にすることもなく駒吉の後ろ姿を追っていた。

「おめぇ俺と一緒に何年いた? そんなことも判らねぇ馬鹿か」

 頬を膨らませたお静が善次郎に返す言葉を探している時に、弥七が近付いて観念したように両手を差し出した。

 お静も弥七を見て軽く頷いた。

「何で? 弥七さんは何も悪いことしてないじゃない」

 お満津が必死の形相でお静に喰い下がる。

 惣太がお満津をお静から離して体を押さえた。羽交締めにしたといった方が近いかもしれない。それほどお満津は手を焼かせた。

 弥七には聞きたいことがある。だが縄を掛けることにお静が躊躇していた横で、徳次が気を利かせて弥七を引き取って行った。お満津が惣太を振り払って徳次の後を追った。

「天竜善次郎、並びに仙台堀のお静、この度のそち等の働きは天晴れ見事であった」

 吟味方与力橘主馬の労いの言葉を、どうでもいいように軽く斜に頭を下げて受けた善次郎は、「帰ェるぜ」と川波衆に手を上げて合図した。一糸乱れぬ動きで隊列を組んだ川並衆の一番後ろに新三が慌てて並ぶと、組頭の忠吉を先頭にして玄関へ廻って行った。

「何で、頭が……。そんな喧嘩支度で」

「武吉さんとやらが、血相変えて心配してたぜ。お静坊が奉行所の動くのも待たず、とっくに飛び出したって聞いたもんだからよ。先走りするおめぇのやることなんざ、お見通しよ。表からずっと中の様子を覗いていたら、案の定だ。それでも出しゃばるつもりはねぇから、暫くは奉行所が来るのを待ってたんだぜ。待ちきれなくなったってことよ」

 お静にとっては憎らしいほど得意げに善次郎が笑った。大人げないほどの過度な恩着せがましさは、喧嘩を売っているのではないかと勘繰りたくなるものだったが、助けてもらった事実がその屈辱を甘んじて受けさせた。天竜の若い衆が見えない所では、いつもやんちゃなガキ大将のようにお静へ絡んでくる善次郎だった。

 何故か口喧嘩に負かされた気分になって、唇を噛みしめた。

「糞ッ、おいしい所だけ頭が持って行きやがった」

「不満か? 金太郎親分さんよ。もう少し感謝してもらいてぇな。俺達が来るのが遅れていたら、今頃三途の川を渡ってる頃だぜ」

 ふと思い出したように善次郎が形見の簪を懐から取り出して、お静に手渡してくれた。血の汚れをきれいに拭き取ってあった。

 気になって探していたのだ。用心棒が簪を引き抜いて投げ捨てたのを最後に、いつの間にか見当たらなくなって焦っていた。

 それを善次郎が拾っていてくれた。

「……ありがとう」

「気色の悪ィ声、出すんじゃねぇよ。見ろ、鳥肌が立っちまった」

 善次郎が笑いながら腕を擦った。

「素直にありがとうって言ったんじゃねぇか。おいらがありがとうっていうとそんなに可笑しいか!」

 お静が善次郎に食ってかかっている時、長十郎が戻って来た。

 長十郎が険しい顔をしたまま、いきなり拳骨で殴りつけた。

 お静が吹っ飛ばされて庭に転がされるほど、強い怒りが拳に込められていた。

「馬鹿野郎、一人で何ができるってんだ。どうして俺等を待てなかった。死んじまったら、……おめぇが死んじまったら源造に何て言い訳すりゃあいいんだ。源造からお仙だけじゃなく、てめぇまで取り上げたとあっちゃあ俺は、生きちゃいられねぇじゃねぇか」

「何しやが……」

 頬を押さえてむっと長十郎を睨んだお静は、声を震わせて詰る長十郎の涙を溜めた真っ赤な目を見た途端、言葉を飲んだ。

「……すまねぇ」

 悪いことをしたとは思っていない。が、岡崎長十郎が本気でお静のことを心配している気持ちだけはひしひしと伝わってきた。

「馬鹿野郎」

 長十郎はもう一度お静を殴った。血相を変えた徳次が飛んできて長十郎の腕を抱き込んだ。

「旦那、落ち着いてくだせぇ、な、な、落ち着いて!」

「お静っ、おめぇには十手は渡さねぇ。返ェせ!」

 徳次に宥められて、お静の十手を取り上げた長十郎が捨て台詞のように吐き捨てて行った。

 茫然と座り込んでいるお静は、両手の掌をぼんやりと眺めた。十手の重みが掌になかった。

 そっと後ろから肩に手を添えられてお静は善次郎から耳打ちされた。耳に川の風を感じた。

「ばかっ、てめぇの命ぐらいてめぇで守ってみせらぁ」

 お静は悪態を吐きながら善次郎を殴ろうとした。大袈裟にお静の拳を避けて笑いながら善次郎は先に出た川並衆を追いかけて行った。

 泣きそうになった。「おめぇを殺させやしねぇよ。いつも俺が守っていてやるから安心しな」と言った善次郎の声が耳の中に残った。素直になれない自分を呪った。

――いつも俺が守るからって、どういう意味なんだよ。紛らわしい言い方するんじゃねぇよ

 長十郎に殴られた頬にさらに痛みが加わった気がして、ずっと癒えなかった。



 長屋に戻ってから、源造に高田屋での捕り物を報告して最後に、十手を取り上げられたと言うと、寂しそうに笑ってくれた。

「ま、岡崎の旦那の気持ちも判らなくはねぇわな」

 そう呟いたきりであった。

 何事もなく五日が過ぎた。あれ以来惣太も変に気を使って顔を出してもすぐ帰って行く。気付くといつも腰にぶら下げていた大福帳がなかった。

「ちょっと身を入れて塩売りやらねぇと、おっ母さんに怒られちまう」

 答えになっていない理由で惣太は、笑った。

 外で訪ないを告げる声がした。新三の声だとすぐに分かった。

「すみやせん。ご挨拶が遅れました。つまらないものですが……」

 おそらくお初にお静の好物を聞いてきたのだろう。お萩と金鍔のはいった包みを差し出した。

「わぁ、おいしそう。今からお茶入れるから、新三さんも食べていきなよ」

 お静が土産に娘らしい反応を示して、立ち上がろうとするのを新三が首を竦めてとめた。

「あっしは甘いものはどうも苦手で」

 新三が顔の前で手を振ってみせると、惣太が嬉しそうにその腕を掴んだ。

「ほら、新三さんも鳥肌が立ってるぜ、おいらと一緒だ」

 惣太が袖を捲りあげて腕を突き出した。新三も惣太と顔を見合わせ笑った。

 訝しげに首を傾げるお静であったが、源造がわざと怒って見せた。

「どいつもこいつもお静が娘らしい仕草をすると、笑いやがる。俺の娘だというのに先が思いやられるぜ」

 瞬間、惣太と新三が顔と頭を防御した。お静と行動を共にした者同士の習性であったが、お静は別に茶を入れる手を休めることもなく、ちょっと頬を膨らませただけで源造の冗談に微笑みすら浮かべている。

 惣太の背中にお寒が走った。どことなく覇気がないお静を元気づけようと殴られることを覚悟であからさまに嘲弄したのに、お静らしさがどこかに飛んでいた。

 息を詰まらせた惣太が、我慢できずに新三へ話しかけた。

「と、ところで新三さん、今日は何の用ですかい? まさかぼた餅を届けに来ただけじゃないでしょうよ。事件の解決を祝って善次郎の頭が祝勝会に招待してくれるとか?」

 惣太が不用意に善次郎の名を出した時、一瞬お静の目が光ったが、新三が手を横に振ったので小さな溜息を漏らしただけだった。

「とんでもねぇ、頭が勝手に天竜組を動かして捕り物の真似をしたってんで、女将さんがカンカンなんで。こっぴどく怒られちゃいまして、組の中であの日のことを口にすることさえ憚れるってもんでさぁ。忠吉さんが間に入ってオロオロしてますぜ。もっとも頭に面と向かって文句が言えるのは、お母上しかいませんからね。あの帰りに打ちあげの飲み会をやっといてよかったって、みんなホッとしてやす」

「お奉行所から感謝状が出るっていうのに、そりゃ大変だ」

 惣太がお義理で同情した。

 天竜の女将さんに鍛えられたお静は、あり得る話だと思った。青菜に塩の善次郎の姿が浮かんで笑みが毀れた。

「そんな訳でお礼の挨拶に伺うのが遅くなっちまいました。あっしなんか女将さんの前じゃ肩身が狭くって。いや、そんなこと言いに来たんじゃねぇんだ。お陰さまでまた天竜の半纏を着ることができました。それもこれも源造親分をはじめお静の姐さんのお陰でございやす。つきましては先日お借りいたしました博打の金を返ェしに参りました。足りねぇ分は頭に言って出して貰いやした。笑って納めてくだせぇ」

 畳に両手をついて新三は紫色の袱紗を開いて切り餅ひとつ源蔵に差し出した。

 怪訝な顔をした源造にお静が答えた。

「新三さんを鍛え直してくれって、組頭に貰ったのよ。それを賭け金に使わせてもらった」

 それからしばらくは源造と新三の受け取れ、受け取れねぇのやり取りが続いた。

 そんな中に岡崎長十郎が苦虫を潰した顔で足音高く入って来た。無言で乱暴に草履を脱ぐとお仙の位牌の前に座り、しばらく手を合わせて瞑目していた。何か詫びているようにも見えた。

 ただならぬ様子に、源造も新三も手を止めて長十郎を見守った。

 徐に目をあけ体の向きを変えると持ってきた細長い桐の箱を荒々しく開けた。さらに奉書包みを破くと中身を取り出して、ぞんざいにお静へ投げてよこした。

 桜房のついた真新しい十手だった。

 十手を見詰めるお静は、体が熱くなった。ひんやりとした感触が懐かしかった。

 紅潮するお静の頬を惣太が安堵の目で見た。

「俺が許したんじゃねぇぞ。吟味方与力の橘様の気まぐれよ。俺は反対したんだが、娘岡っ引きをいたく気に入ったと考え違いおこしやがって。どこが今回一の功労者だ。娘岡っ引きは江戸の華だなんぞと馬鹿なことまでぬかしやがった。何が万民に愛される奉行所だ。奉行所が愛されてどうする」

 惣太が口を押さえて笑いを堪えた。

「二度と危ねぇ真似をしねぇって俺に誓え! そうしねぇと十手を持たせても使わせねぇぞ」

 お静の目が爛々と輝いた。

「何、わけのわかんねぇことぐだぐだ言ってんだよ。要は吟味方与力様のお墨付きをもらったわけだろ。文句は言わせねぇ。行くぜ、惣太」

 お静が十手を腰に差して框から飛び降りた。

「ほい、来た、合点承知の助だ」

 惣太がすぐにお静を追いかけた。お静が元に戻ったことが嬉しくて、裸足で駆けた。気がつくとすぐ後ろを新三が走っている。

「しまった。癖になっちまったぜ。ま、今日だけは下っ引きに戻るか、な、惣太の兄貴」

 新三が惣太の肩をポンと叩いて追い抜いて行った。


 取り残された源造に長十郎が詫びた。

「頭を上げて下せぇ、旦那。あれでいいんだよ。お静もあれで気が紛れていいんだ」

「気が紛れる?」

 一人納得して頷く源造に長十郎が問い返した。

「あっしは、お静をなんとか女らしくさせようと、懇意だった先代の天竜の親分を頼って行儀見習いに出したんだが、それが悪かった。そこの三代目にどうも惚れちまったようだ」

「天竜善次郎か、奴に惚れぬ女はいねぇだろう。男だってあいつと目が合っただけで命を投げ出してもいいと思うらしいじゃねぇか」

「お静も女だったってことさね。身分違いだって思ってるんだろうな。懸命にお務めに励んで忘れようとしてる。不憫だがあれでいいんだ。また十手を持たせてくれて礼を申しあげやす。大丈夫だ。うちのがちゃんと見守ってくれてる」

「お仙がか……」

 長十郎はもう一度線香を立てて、手を合わせた。


 お静は菊川町まで走った。

 お満津の住んでいた屋敷が空き家になっていた。

「品川の親戚の家に引き取られたらしいですぜ」

 近所の聞き込みを終えた惣太が、汗を拭きながらお静に報告した。

「引き取られなくてもひとりで生きていけそうな娘でしたけどねぇ。深川は厭な思い出が多すぎるんでしょうね」

「惣太の兄貴もお満津のことをよくわかってるってぇ言い草じゃねぇですかい」

 新三に褒められたと勘違いした惣太が得意そうに指で鼻の下を擦った。

「お満津と言やぁ、弥七はどうしたんだろう? お白州でちゃんと胸の中をさらけ出せたんでしょうかねぇ」

 高田屋に潜入し、そこで聞いた弥七のお佳代に対する所業は新三の理解を越えていた。

 惣太が自慢げに新三の知らない事実を明かした。番屋でお満津が語った、祝言の時に貧乏くさい弥七の両親の代役を立てることを承諾させようとした話である。

「米糠三合あれば、入り婿にいくなって、言うじゃねぇか。またそんなこと平気でいう女に愛想が尽きたんだぜ、きっと」

「自分より金持ちで気の強ぇ女と一緒になるのに気持ちが重くなったってことかい? 相手の顔を切り刻むほど追いつめられた。それならきっぱりと別れりゃいいじゃねぇか」

「気が弱かったんだろ、お佳代が恐くて言い出せなかったんだ。影じゃきつい性格だったっていうぜ。気の弱い奴ほど切羽詰まると何しでかすかわかりゃあしねぇからな」

 新三はお満津を必死で守ろうとした弥七が、気が弱いとは考えられなかった。また、なぜあのように身を挺して守ろうとしたのだろう。妹のようにと思っていたのか、それとも贖罪なのだろうか。縛られた弥七を連れてお満津の前に出る僅かの間に新三は短い言葉を交わした。あの時感じた弥七は、惣太の大福帳に記されている弥七ではなかった。

 それに握りしめていた珊瑚細工は弥七にとって何だったのだろう? 

 新三の心が晴れそうもなかった。

「あとはお白州の結果待ちだ。そのうちわかるだろうよ。弥七もすぐ牢から出てくるはずだから、そん時ァ、誘って、ゆっくりみんなで飯でも食おうや」

 お静が新三と惣太の終わらない議論に水をかけるように二人の間で十手を振り回した。

「姐さん、三人で天狗に行きやせんか。十手が戻って来た祝いをやりましょうよ」

「また、飯と漬物だけじゃないでしょうね」

 新三が遠慮がちにお静の機嫌を窺った。

「酒もつけてやるよ。ただし、さっきお父っつあんから突っ返された金、持ってきたろうな」

 新三が心得た顔で重たい巾着を懐から取り出した。

「じゃ、天狗じゃなくて居酒屋の格をあげましょうよ」

 調子に乗った惣太が久しぶりに感じた懐かしい後ろ頭の痛みに、思わず涙を溢しながら笑っている。その場に笑いが伝染した。

 だが、一緒に酒を酌み交わしながら、弥七の本心を聞いてみたかった新三の目論見が叶わなくなった。

 弥七が何も語らず牢内で首を吊ったと聞かされたのは、それからすぐのことであった。どうやって持ち込んだのかお佳代の根付けを手首に巻きつけていたという。


 秋も終わりに近付いた頃、お静は小塚原の刑場にいた。

 お駒の仕置を見届けた後、長十郎に無理を言って、亡骸を引き取らせてもらった。

 普通は、刑場のすぐ隣にある両国回向院の別院で寿国山回向院に葬られるが、大八車に乗せて日光街道を谷中まで運んでいった。瑞林寺には駒吉の父と母が弔われている。長十郎から理由を問い質されたが、無縁仏になるなら両親の傍がいいだろうと単純に考えただけである。千世の話を聞かせてくれた住職が憐れんで、駒吉の両親の墓に埋葬し、経を上げてくれた。

 駒吉の父母の墓は、真新しい御影石の立派な物であった。駒吉が建て、少なくない供養料を寺に寄進していた。

 墓の裏をひょいと見た惣太が驚いた声を上げた。

「千世、享年十八って彫り込んでありやすぜ。てめぇの墓、造ってあったんだ」

 お静は別に驚きはしなかった。駒吉のやりそうなことに思えた。

 住職が、駒吉は死して千世に戻り、仏となって生前の罪も消えたとひと渉りの説法をたれて本堂へ戻って行った。

「おざなりにしても馬鹿なこと言いやがる坊主だぜ。あんだけ人を殺しやがって、成仏できるわけがねぇだろう」

 お静の独り言を惣太が不思議そうに聞いた。惣太は途中畦道で引き抜いてきた真っ赤な彼岸花を駒吉の墓に供えていた。

「じゃあ何でこんなとこまで駒吉を運んできたんですかい?」

 確かに、なぜあれほど長十郎をはじめ小塚原に居合わせた役人達を手こずらせ、こんなことをしたのかお静自身判らなかった。

「惣太、気の利いた花を選んだじゃねぇか」

 真っ赤な彼岸花は、駒吉に似ているかもしれない。根には毒もあるという。

「教えてくだせぇよ。ずっと大八車後ろから押してたんですから。時々筵が外れて中から駒吉が睨んでるもんだから恐かったんですぜ。内緒にしときますよ。ひょっとして姐さんにちょっとばかり似てるから同情したんですかい?」

「当たりだ。後で聞いたら駒吉も納豆が嫌いだったんだと」

 弔いの花は用意できる配慮があるくせに、物事を深く考えない惣太などへ心の内側など教えてやるつもりはない。お静は、空惚けて駒吉の話を切り上げようとしたつもりだったのに、惣太がそのいい加減な返事に喰いついてきた。

「そうか、嫌れェな銀杏の匂いに埋まって苦しむ駒吉を楽しもうって寸法なんだ。恨み骨髄ってやつですね」

「恨んじゃいるが、駒吉が銀杏を嫌れェかどうかは、聞いちゃいねぇ。さ、終わった。見廻りに行くぜ」

 途中団子が喰いてぇとか饅頭が欲しいとガキのように駄々をこねる惣太を往なしながら、上野……浅草……、そして両国橋と渡って深川に帰って来た。


 そのまま見廻りをしているうちにお静と惣太は木場の近くに着いた。

 夕映えに背の高い男の影が伸びている。要橋の上だった。男は一人で立っていた。

「ありゃあ、木場を眺めているのは天竜の頭じゃねぇですかい?」

 惣太がお静を見たが、そんなことは惣太よりとっくに判っている。

 すぐに気付き、他愛のないことを考えていたのだ。

 日本橋一の踊りの名手と言われた駒吉がどこで道を踏み違えたのか知らないが、善次郎のような男が傍にいたらまた別の人生を歩めたかもしれないと……

「もう夕暮れだ。しまいにしよう。惣太、帰っていいぜ」

 きょとんとした間抜けな顔で善次郎を指さしていたが、お静に強く言われた惣太はぶつぶつ独り言を言いながら痛みの残った後ろ頭を押さえて帰って行った。

 要橋に向かうお静の足が心なしか震えた。

「飛び込めねぇんだったら、おいらが背中押してやろうか」

 心とは裏腹にお静の口からは悪態しか出てこない。

 振り向いた善次郎は、左肩を少し上げて冷たく鼻で笑った。

「バカヤロウ、そんなことしたら泳げねェことが、バレっちまうじゃねぇか。お袋が煩ぇからちょっと出てきただけだ。早く孫の顔が見てぇなんぞと馬鹿の一つ覚えみてぇに言いやがる」

 泳げないというのは、いつもの善次郎の戯言である。泳ぎだけでなく角乗りも右に出る者がいない。先代と忠吉の鍛練は、生半可ではなかったのだ。木場の初乗りで三宝に乗る善次郎を何度も見たお静はその度に胸躍らせていた。

「偉そうにしててもおっ母さんには頭が上がらねぇんだ。ガキだねぇ。高田屋に乗り込んだことで叱られたんだってね。いい気味だ」

「深川の平和を乱す奴は許さねぇ」

 夕焼けを映して色の変わった川面を眺めながら、腕組みした善次郎が胸を張った。

「何恰好つけてるんだい。またお見合いしたらしいじゃねぇか。廻船問屋の娘だって? すぐに孫の顔、見せてやれるぜ」

 木場界隈で噂になっている話である。そんなことを問い質す自分をひどく惨めに感じた。

「おっ母さんの顔を立ててみたものの、我慢できずに途中で逃げ出した。どうも堅苦しい女は嫌れェだ」

「そんなこと言ったって……」

 破談したことにどこかほっとしてお静は、心の中が表れそうになっている顔を善次郎に見られたくなくて、仙台堀と繋がった三十間川を覗きこんだ。

 いきなり善次郎が並んで立つお静の臀部を掴んだ。

「金太郎、おめぇが産んでくれ。いい尻してるじゃねぇか。じゃんじゃん子供が産めそうだ」

「豚じゃねぇぞ、じゃんじゃんなんか産めるかよ」

 顔を真っ赤にして怒ったお静が善次郎の腕を払って殴りかかったが、その腕を掴まれて抱きしめられた。橋の真ん中での突然の出来事に体中が火照るのを感じた。人通りがないのが幸いだった。川波鳶の誰かにでも見られたら大変なことになる。

「離せ! 離せったら。こんなとこ誰かに見られたらどうすんだ」

 まじかに接した善次郎の体から男の匂いがした。滔々と流れる大川の風の匂いに似ていた。

 そして、気付くと抗わずに善次郎にしがみついている自分がいた。

「おっ母さんは自分が日本橋の芸者だったことを忘れて、俺に大店の娘ばっかり見合わせやがる」

 知らなかった。お静はずっと女将さんが小田原の方の材木屋の娘だと聞かされていた。そう言えば高田屋に初めて乗り込んだ時、駒吉に仕込まれた女中の立ち居振る舞いが、天竜組の躾に似ていると感じたのはそのせいだったのかもしれない。思わずお静は、芸者と岡っ引きの貴賎の上下に思いをはせた。

――やっぱ、岡っ引きは、所詮岡っ引き……、最低だ

 お静は自由を奪われた腕を必死で動かして十手を引き抜くと二人の体の間に割り込ませた。

 善次郎がお静を抱きしめている力を緩めて、十手の先に視線を移した。お静の心組みがそこから溢れ出ている。おそらく善次郎は気づいてくれないだろう。

「頭なんか大きらいだ!」

 お静は善次郎をどんと突き放して駆けた。少しは期待したが追いかけて来る気配はなかった。

 万年町の長屋に向かって走り続けた。

 バカヤローっと大声で叫んでいた。

 仙台堀に沿った平野町の土手まで来ると、善次郎ではなく惣太が手を振りながら正面から駆けよって来る。若干うんざりして涙を拭いた。めっきり冷え込んだ空気に体が勝手に震えた。

「姐さん、大変だ! 佐賀町河岸で土左衛門ですぜ。背中にバッサリ斬られた痕が……」

「わかった、すぐ行く!」

 お静は、桜房の十手を振り上げて惣太に叫んだ。

 そして、仙台堀の流れに沿って吹く冴えた風を撥ね返して走り始めた。







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