勝負
翌朝、仙太郎の水死体が越中島新田に流れ着いた。
お静が惣太と駆け付けた時は、検死が終わっていた。酒に酔って足を踏み外し大川に落ちたというのがその場にいた若い八丁堀同心の見立てだった。確かに酒の匂いが微かだが濡れた着物に残っている。
五本松の徳次が遅れて顔を出した。お静は誰もいない物陰に徳次を引っ張っていった。
「溺れたにしちゃ着物が乱れていねぇ。顔だけ水桶につけられて殺された後、酒をぶっかけられて大川に放り込まれたか、そんなとこだと見たよ。親爺さんは、どう見る?」
「ちょっくら、待っててくんな」
徳次は早足で戻ると同心に挨拶しながら仙太郎に掛けられた筵を捲った。いきなり十手で仙太郎の口をこじ開けると顔を寄せて臭いを嗅ぐ仕草を見せた。
同心に何か注意されていたが、徳次は腰を低くし愛想笑いで誤魔化しながらお静の元へ帰って来た。
「水を飲んでる様子もねぇし、口の中から酒の匂いもしねぇな。最近の若けェ八丁堀は、困ったもんだ。酔っ払いの水死体が上がったから見て来いと言われて来たそうだ。着物が酒臭ぇのに気付いただけで有頂天になってやがる。修業が足りねぇや。証拠はねぇが、仙太郎が赦免されてすぐだ。やっぱ、ここんとこは高田屋の奴等に殺されたって考えるのが筋だろうな」
「あいつ等、ずいぶんと姑息な殺し方をしやがる」
仙太郎もトカゲの尻尾だったのかと、お静は多少哀れに思えてきた。
「そいつぁともかく、ゆうべ名乗り出た若けェ者は、どうも遠島ぐらいに収まりそうだぜ。自ら出頭するとはその心がけ殊勝であるだとよ。罪一等を減じられ……ってやつさ」
「親爺さん、よくそんなこと仕入れてきたね。それじゃ、五年もすりゃ恩赦で帰ってくるってことだ」
「五年もかからねぇかもしれねぇ。裏でかなりの金が動いているって噂だぜ」
お静に褒められてちょっと嬉しそうに顔を歪めた徳次だったが、すぐに仏頂面に戻して足元に唾棄した。
「事情を知ってるんなら話が早ェや。お父っつぁんが徳次の親爺さんに話があるって言ってた」
「お上が一度下したお裁きに立て突こうって腹かい。覚悟はできてるんだろうな。失敗できねぇぜ」
「親爺さん、怖気づいたのかい?」
凄んで見せる徳次の心を覗き込むようにお静は上目づかいでからかった。
「置きやがれ!」
徳次が不敵に笑ってお静の頭を指で突いた。
惣太が息せき切って駆け込んできた。
お静は徳次と一緒に出て行った後だった。一方新三は朝から家探しに出かけている。
「繁蔵は達者にしてたかい?」
源造の皮肉を含んだ問いに惣太が首を振った。浅吉の住む長屋の聞き込みを終えて帰って来た惣太に、一抹の不安を感じた繁蔵の見舞いに行けと命じていた。源造のただの勘だったので、無駄足になっても仕方ないと思っていた。
「達者どころか、口も利けねぇほど弱ってましたよ。声をかけても聞こえてねぇのか返事もしやせん」
脱いだ草履を揃えるのももどかしく源造の寝ている床の傍まで惣太が駆け寄った。
金で雇われた耳の遠い婆さんがひとりで繁蔵の世話をしているらしい。最近じゃ駒吉も顔を出していないということだった。
「それだけじゃねぇんだ。時々訳のわからねぇうわ言を言うし、皮膚が黄ばんで普通じゃねぇんで。枕元に薬が置いてあったから一袋くすねてきやした」
先に廻った浅吉の住む一色町の長屋でも同じ症状で寝込んでいる母親がいた。同じ薬包紙が手元に置いてあった。店子連中の話では、医者が来てからよけい具合が悪くなったと話している。
惣太は、突然現れたという、二人の供を従えた坊主頭で恰幅の良いその徒歩医者を捜してみたが突き止めることができなかった。
源造は惣太の大福帳を捲った。一色町及び蛤町界隈の医を生業とする名簿が書き写されており、その名前の横にびっしりと惣太の書き込みがしてあった。
「ご苦労だったな。短けぇ間によくこれだけ調べたもんだ」
「その藪にもなれねぇ医者の面体が繁蔵の世話をしてる婆さんと長屋で聞いたのが一緒なんで調べてみたんですが……」
「下っ引きにしておくのが惜しいぜ、全く。おめぇの身の振り方についちゃあ俺も考えるが、今はお静を頼んだぜ」
深々と頭を下げる源造に恐縮する惣太だった。
丁度外でメダカ取りから帰って来た子供たちの声がした。惣太がすぐに飛び出して何匹か手桶の中に分けてもらった。惣太から駄賃を貰って子供達は嬉しそうに帰って行った。
「さぁ、惣太の目論見通りになるか見ものだな」
源造から声を掛けられた惣太は自信ありげに笑いながら、薬包紙を開いて中の錆色の粒の混じった白い粉を手桶の中に溶かしこんだ。
しばらくして泳いでいたメダカが腹を見せて浮いた。
「とんだ女房だな。もう繁蔵は用済みかい」
「浅吉もどんな美味しいことを言われたか知らねぇが、……。母親思いの気持ちを利用しやがって」
床の中の源造と惣太が顔を見合わせて同時に頷いた。
新三は徳次の下っ引き武吉と、お静の住む万年町にも賭場のある陽岳寺にも近い深川材木町に家を借りて賭場に通い始めた。大横川の西では馴染みの薄い武吉が七味売りの行商に扮装し新三と源造のつなぎの役目をしている。新三が調べてきたことを武吉が毎日源造へ知らせるという日課が続いた。武吉を使うことは、徳次の了解を取り付けてある。
木場で鍛えられた新三は男っぷりもよく押し出しがきき、一見軽薄そうだが人懐っこい性格からか、遊び人の新三として賭場の中でも次第に信用を得てきていた。運よく賽の目が的中し、勝ち続けたことも功を奏したのかもしれない。
そんな新三からとんでもない知らせが入ってきた。
新三は、勝ち続けた祝儀だと、うまくたらし込んだ賭場を仕切る若い衆の何人かを酒に誘った。この界隈の店を知らない新三が案内されたのは、借金の形に高田屋が取り上げた居酒屋であった。店を切り盛りしていた老夫婦は行方不明、年頃の美しい娘がいたが岡場所に売られたらしい。しかし、その店の如何わしい噂に客もいつしか遠のき、ほとんど貸し切り状態といってよく、高田屋の面々は傍若無人に振舞っていた。酔いもすすんだ頃、隅の方で離れて飲んでいる二人の会話が新三の耳に飛び込んできた。
「蔵の中に閉じ込めてる男の世話は、おめぇがしてるんだって?」
「姐御に言い付けられちゃ、断れねぇだろ」
「匿ってくれと連れてきた鶏野郎は、もう殺っちまったっていうのによ」
「ああ、あの甲走った声を出す半端野郎だろ。松公に手伝わされて、桶の中に押え込んだら、危うく指を噛み千切られるところだったぜ」
鶏野郎は仙太郎、松公とは代貸しの松五郎のことだろう。新三は聞いていない風を装い、二人の近くに移って周りに酌をしながら聞き耳を立てた。
「さっさと殺しちまえばいいのに、面倒くせえったらありゃしねぇ」
男達の会話の中に、藤紅屋だとか、色男という言葉が出てくる。
どうも行方不明の弥七が、蛤町の高田屋の蔵に閉じ込められているらしい。
そして、弥七を連れて来たのは仙太郎に違いない。
匿うとは、どういう意味だろう?
弥七が何に絡んでいるのか?
そして、弥七が殺されない訳とは?
西亥堀河岸のお佳代殺しは、高田屋の仕業だと確信していた新三の頭が混乱した。
武吉から新三の伝言を聞きながら、お静が体中を震わせて立ち上がった。すぐにでも蛤町の高田屋へ乗り込みたかった。
「やっぱ、あん時帰って来た仙太郎をもっと締め上げとくんだったぜ」
あの時とは、弥七を捜しに藤紅屋へ乗り込んだ時のことである。仙太郎は、高田屋へ弥七を届けた帰りだったのだ。
「座れ、お静」
歯ぎしりするお静に冷静になれと源造が諭した。
新三の報告と惣太の外からの探索で、駒吉の日常と子分衆の動きが大凡つかめてきた。
「お父っつぁん、一度高田屋に忍び込んでみていいかい。弥七の様子が気になるし、いざという時のために屋敷の造りも頭に入れときてぇ」
「おめぇは駄目だ。熱くなっちゃあ見境がなくなる。それにまだ弥七もしばらくは生かされているだろうよ」
「どうしてそんなことが言える?」
「仙太郎や繁蔵を見ろ。駒吉に用がなくなれば殺されている。生かしておかなきゃならねぇ理由があるんだ」
「自分の情人にでもしてぇんですかね。なのに言うことを聞かねぇから蔵に軟禁してる……」
惣太が自分の直感をそのまま口にした。小間物屋の人気手代で数多くの女性客が羨望の眼差しを送っていた事実から導き出された推測である。
「お静、おめぇは弥七のこと好きか?」
父親から唐突に聞かれたお静は返答に窮した。源造がなぜそんなことを聞くのか意図が判らなかったからだ。ただ、好きかと聞かれて、自然と木場の善次郎の顔が浮かんだ。善次郎と比べれば、弥七なんかは男ではない。なぜ、お満津が弥七を殺して自分も死のうなどと包丁を持ち出すほど惚れているのか、理解できないでいたほどだ。
「あんなのは男じゃねぇ……、好きかどうかなんて考えたこともねぇぜ。改めて聞かれると反吐がでそうな気分になる」
「惣太、聞いた通りだ。みんながみんな色男の優男を好いちゃあいねぇ。おそらく駒吉も弥七を見ればお静同様、反吐が出る部類だぜ」
得心して頷く惣太の頭を殴ってお静が口を尖らせた。
「お父っつぁん、それじゃあ、なにかい。おいらと駒吉は好きな男も反吐が出るほど嫌いな男も同じだっていうのかい! おいらが納豆嫌いだったら、駒吉も納豆が嫌いなのかい?」
惣太の首を締め上げながら怒るお静を源造は笑って眺めていた。
「娘をからかってそんなに楽しいのかい?」
「高田屋に忍び込むこたぁねぇ。正面から行きな。惣太は聞き込みで駒吉がどんな女か見えてきたようだ。実際に会ってどんな女か自分の目で確かめてくるんだ。ただし、徳次と一緒じゃねぇと許さねぇ。惣太じゃおめぇが暴走した時止められねェからな」
そして、源造は惣太に高田屋に出向くための材料がないか聞いた。
「ええっと、これなんかどうです。高田屋で屋敷奉公を頼んだ女が奉公先で旦那に乱暴されたってのは? 給金も約束の半分しかもらえないと怒っていました」
惣太が腰の大福帳の中身を吟味しながら答えた。
「それでいいぜ、別に駒吉を引括りに行くわけじゃねぇからな。しっかりどんな女か見て来るんだぞ」
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからずってやつですね、親分。手習い指南所で教わった」
得意げに惣太が鼻の下を擦る。子供の頃、遊びは一緒だったが、お静とは寺子屋が別だった。
「どこだよ、そんなつまんねぇこと教えんのは? 戦国時代か、今は」
「吾妻橋の指南所……」
男先生は行儀の悪い悪童に厳しかったが、優しくて綺麗な女先生の顔を思い浮かべる惣太であった。
高田屋を前にしてお静は大きく息を吸った。空には一面の鰯雲が広がっている。漁師であれば吉兆だと喜んで漁に出る空模様だろう。
五本松の徳次がお静の背中を軽く叩いた。
それが合図になった。
腰の十手を引き抜いてお静は気合を入れると、高田屋の敷居を跨いだ。
「野暮な用事で申し訳ねぇんだが、御新造さんに取り次いでもらいてぇ」
肩に高田屋の半纏を引っ掛けた目つきの悪い男が、何か言いかけたが徳次に睨まれて奥へ下がった。
「親爺さんの貫録だね。たいしたもんだ」
「煽てるんじゃねぇよ。だてに三十年も十手を預かっちゃいねぇ」
「そうか、じゃ、お父っつぁんも三十年になるんだ」
そんな話をしている内にお静の肩から自然と力が抜けてきた。
――まだまだ、おいらは十手を握って半年も経たねぇ、駆け出しだ
握りしめていた十手を腰に差し戻した時、妖艶で、凛とした目元の涼しい女がそそくさと出てきた。黒羽二重の紋付が女にそこはかとない威厳を醸している。
お静に目をとめた女の顔が桜の花でも咲いたようにぱっと輝いた。
「その桜房の十手は仙台堀の金太郎親分、そちらは?」
「五本松の徳次だ」
無愛想に返事した徳次に対して駒吉は慇懃に笑顔で頭を下げた。
「さ、玄関先ではなんですから、奥へお入りくださいまし」
駒吉が愛想良く二人を中へ引き入れた。庭に沿った片廊下は日当たりの関係で薄暗かった。よく手入れされた庭に目を止めて歩みを緩めると、駒吉が嬉しそうに笑った。
「うちの若いのに元植木職人がいましてねぇ。しょっちゅう気を配ってくれるんですよ。その子が来るまでは荒れ放題。主人が無頓着だったものですから」
躑躅の覆いかぶさった泉水の後ろには水を落とす滝石が組まれていた。太った鯉が悠然と泳いでいる。
庭木の配置を眺めながら、お静は身を隠せそうな場所を頭に入れた。
「西側の奥の建物は蔵かい?」
駒吉が嫣然と頷いた。
「中には何にも入ってないんですよ。ずっと使っていませんの」
「仕置き部屋にちょうどいいんじゃねぇか。誰か閉じ込めとくのによ」
お静は駒吉の顔を見据えたが、駒吉の微笑は少しも変化が見られなかった。
「面白いことを言う親分さんですこと。そうですね、今度悪さをした若い者を閉じ込めておきますか。やんちゃな子が多いものですから」
座敷に入ると同時に女中が茶と菓子を運んできた。女中の立ち振る舞いに駒吉の躾の厳しさが窺えた。厳格な善次郎の母親に指導を受けたお静だから、容赦ない駒吉の性格が見えてくる。
「先日は源造親分さんから主人へ過分なお見舞いをいただき恐縮しております」
お静等を上座に座らせた駒吉は畳の上で恭しく頭を下げた。それに対し、お静は目礼を返しただけだった。
「随分悪いって話だが……」
徳次が差し出された茶に手を伸ばそうとして、突然駒吉の眼から毀れた一筋の涙に動きを止めた。惣太の報告を聞いている徳次にしてもつい心を動かされたようだ。
「申し訳ござんせん。夫のことを思うと不憫で……、折角高田屋の先行きが見えてきた矢先でございましたのに、……、あちきは繁蔵の夢の灯を消さないように踏ん張るしかないんですよ。高田屋を大きくする夢でござんす。あちきを拾って下すった旦那様のためにも労は厭いません。親分さん方も高田屋の力になっておくんなまし」
駒吉は懐紙をそっと取り出すと涙を拭った。
「御新造さん、おいらも高田屋の商売が繁盛して深川が盛り上がるんだったら、願ってもねぇことだ。だがよ、ある女から相談を受けちまった」
抑揚のない声でゆっくりとお静は話をすすめた。冷静さを失うと早口の巻き舌になってしまうことを自分でも知っている。
「口入れ屋だからピンはねすることは百も承知のことだ。だが約束の半分も貰えねぇっていうのは、ちょっと阿漕じゃねぇかい? ここの紹介で本所石原町の武家屋敷へ女中奉公に出た女なんだがね」
小首を傾げて身に覚えがない振りをする駒吉は手を叩いて、客の台帳を持って来させた。
台帳を持って来たのは若頭の安助だった。商才に長けたというより小狡そうな顔をしている。惣太の調べでは店の表向きの役割を担っているようだ。そして、代貸の松五郎が裏の荒事を任されている。
「ああ、本所石原町ならお梶さんだね。親分さん、これがお梶さんと結んだ証文ですよ。ご覧になっておくんなさい」
お静の前に一枚の証文が差し出された。
「この一両一分二朱の貸付ってのは何だい?」
「但し書きに書いてございますが、この女は、奉公に上がるのにそれなりの着物も持っていなかったんでございますよ。呉服屋で作らせたものを高田屋が立て替えた分でございます。それを月割にして引くと、ほれ、相場の賃金でございましょう?」
呉服屋からの請求書と受け取りも糊で貼り付けてあった。本物か疑わしい書付けであったが、簡単に調べがつかぬよう店と口裏を合わせていることだろう。いかがわしいとは思っているが、お静にはそれをとりたてて調べる気はない。
「高ェ着物を拵えたもんだが、そんなこと一言も言ってなかったぜ。ついでに屋敷の主人に……、手、籠……にされたと怒っていやがったが……」
お静は自分の口が曲がりそうな台詞を吐いた。虫唾が走る胸の悪さである。
――惣太ももっとましな揉め事の調べはなかったのか、帰ったら絶対ぶん殴ってやる。
お静は湧きあがる怒りに次第に体が熱くなってきた。
「それもうちが仕事を斡旋したからですか? 冗談じゃありませんよ。お梶に隙があったんでやんしょ? 嫌だいやだ、まるでうちが女郎を送り込んだような噂が立っちまう。親分さん、何とかしてくださいまし。恩を仇で返されたんじゃ黙っていられませんよ」
目眩を我慢するお静の小さな変わりように気付いた徳次が駒吉の話を拾った。
「尤もだ。ま、訴えが出たわけじゃねぇ。お梶には俺がよっく言い聞かせておくから心配しねぇでくんな。話はこれまでだ。邪魔したな」
そろそろ切り上げ時だと判断した徳次が話を切り上げて腰を上げた。遅れずにお静も徳次に続いた。
――今日は挨拶に来ただけだ。別に負けたわけじゃねぇ
二人の岡っ引きをやりこめて得意げな笑みを浮かべる駒吉に一瞥すると、お静は廊下に出た。
お静はもう一度蔵に目を止めた。お静の歩く速さが変わった時、まるで見計らったように駒吉はお静とそれから徳次の袂へすばやく御捻りを突っこんで丁重に微笑んでみせた。ずしりとした重みを感じた。
このまま帰ることにお静の心が乱れた。大人しくしておくのは、父親源造との約束である。しかし、このまま蔵まで戻り弥七を救い出して、駒吉の鼻を明かしてやりたかった。
でもそれはお静の自己満足に過ぎない。源造の指示でみんなが自分の責任を果たすべく動いている。その動きを乱してはならないとお静は強く時分に言い聞かせた。
苛立って草履に指をかけるのももどかしく外に飛び出すと、危うく人にぶつかりそうになった。
慌てて謝りながら道をあけるために飛び退くと、頭巾で顔を隠した男は蠅でも追うようにお静を避けて高田屋へ入って行った。
お静と徳次は腰を深く折り曲げてその侍を見送った。二人にそうさせるほど人品卑しからざる出で立ちであったためだ。
ふと頭巾の奥を覗き見た徳次の顔が驚きに震えた。
そのまま徳次は考え事をしながら高田屋から逃げるように早足で歩いて行く。訳が判らずお静も後を追うしかなかった。
「奉行所の誰かと繋がっているとは思っていたが……、金太郎、今日の大収獲だぜ」
蛤町から一気に江川橋を渡り切った所で徳次は足を緩めて、溜息を吐くと大空を見上げた。
「あいつぁ誰だい? そんなに偉れェのか!」
「……与力の永井様だ。そうかあの野郎が西亥堀河岸の一件に口を出しやがったのか。読めてきたぜ」
珍しく熱くなった徳次が、がっとお静の両肩を掴んだ。
「おめぇはどうやって駒吉をお縄にするかだけを考えろ。それ以外のことは俺と源造に任せておけっ」
――それ以外のこと?
それ以外のこととは、さっき見た与力のことに他ならないが、徳次がどう動くつもりなのかお静には想像がつかなかった。