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仙台堀の金太郎登場

 朝日が翳ったかと思うと川面が揺れ俄かに霧雨が降ってきた。

 まだ若い川並鳶の新三は空を見上げて顔を顰めた。手鉤を操りながら栂材の上に乗っている身には、雨宿りの術がない。心持ち蹴る回転が早くなった。本式な雨に変わりそうな空模様の鬱陶しさが足に伝わったのかもしれない。

「馬鹿野郎! 調子がずれてるじゃねぇか。そんなだからいつまで経っても三宝に乗れねぇんだ」

 前で飛沫を浴びた兄貴分の鉄次に怒られて、新三は首を竦めた。角乗りは、川並の余技である。その中でも一番難しいのが三宝乗り。これは、角材の上に三段重ねの三宝を乗せ、その不安定な上に立って演じる。野中の一本杉から義経の八艘飛び、鵜の餌拾いへと高度な技を繰り出して行く。最後は獅子の子落としでございと三宝をばらし、角材に飛び移れたらご喝采となる。研ぎ澄まされた集中力と洗練された身のこなしがなければできない芸であった。

「すいやせん!」

 気合を入れた返事を返しておかねば後で岸に上がった時に殴られる。新三は見えもしない愛想笑いを浮かべて兄貴分の背中を窺った。ススキと女郎花が群生する岸がその目線の端にそれとなく入ってきた。

 眼のいい男だったのが幸いしたのかもしれない。いつもとは違う景色に新三は思わず目を凝らした。

 一面に拡がった女郎花の黄色い花に紛れて、小さな蘇芳色の盛り上がりが覗けた。その周りの草花を乱暴に押し倒している。

 新三は、その照り返しの加減に布の沢色だと気付いた。遠目で何か細長く大きなものを包み込んでいる膨らみがある。

――要らねぇモンでもあんな所に捨てちゃあいけねぇな。勿体ねぇ……、まさか、中に小判がザックザクってなことは……ありえねぇか。いや、どっかの間抜けな金持ちが見つからねぇようにと隠したもんかもしれねぇ。

 博打に負け続けてオケラの新三は、自分勝手な夢想に執着してしまった。昨夜仲間と飲んで、何度買っても当たらぬ富籤に悪態を吐く若い衆へ地道な生き方を講釈したことなどすっかり忘れている。根拠のない慾に目の眩んだ新三が、思わず角材の向きを岸に変えようと蹴り出した矢先だった。いきなり振り向いた鉄次の怒声に足を滑らした。

「ドジっ! 川並が川に落ちてどうする」

 新三の上げる大仰な水飛沫に呆れ果てた鉄次は、乗り手が落ちて漂う角材を長鉤で手繰り寄せ、自在に操りながら、川に潜ってしまった新三に向きを変えた。何度も川の中へ落ちている新三が溺れる心配はない。

「今度落ちやがったら、木場から追ン出してやっからな。早く浮かんで来やがれ!」

 鉄次は、浮かんでくる新三の頭めがけて角材をぶっつけてやろうと狙っている。

 その待ち構えた鉄次の二間先に勢いよく水を吹き出しながら、新三がひょっこり顔を出した。岸を向いて立ち泳ぎする新三は、後ろから巧みに飛ばされて来た角材を毎度のことと心得ており、勘よくひょいと首を曲げて避け、それにつかまってみせた。

 岸に少し近づいた新三の目に、紅梅の柄がはっきりと見えてきた。

 ちょっとした娘に人気のある粋な絣の小袖に違いない。濃紺の八寸帯と乱れた黒髪も垣間見えた。

「兄貴ィ、ありゃ人が倒れてるんじゃねぇのかい? 若けぇ女ですぜ」

「てめぇ、いい加減なこと言って、話を逸らすんじゃねぇぞ」

 自信を持って狙った角材を外されたことで鉄次は余計に腹を立て我鳴り続ける。

 それでも懸命に媚び諂って必死に指差す新三の指先へ鉄次の目を向けさせることができた。

 鉄次の立ち位置の方が高い分だけよく見えるようだった。

 細い眉を険しく寄せた鉄次は、一瞬棒立ちになって流された。

「新公、……へらへら笑ってる場合じゃねぇ。トットと岸まで泳ぎやがれ。女が血塗れだ!」

 我に返った鉄次が、態勢を整えてまた怒鳴り始めた。

 斜めに浮いた栂材を小脇にかいこみ、後ろから長鉤を振り回す鉄次に煽られて新三は懸命に足で水を蹴った。

 雨に煙り始めた西亥堀河岸で、女郎花に埋もれた娘の死体を最初に見つけたのはずぶ濡れ川並鳶の新三だった。

 

 北町奉行所定廻り同心岡崎清十郎が現場に到着した頃にはすっかり雨になっていた。

 小者に傘を差しかけさせて検死を始めた清十郎は、十手で娘の裾を捌くと慣れた手つきで股間に手を入れた。

 年の頃は、十七、八か、いっても二十二というところだろう。四十を越えた清十郎にも同じ年頃の娘がいる。

「犯されちゃいねぇようだな」

 清十郎は傍の水溜りで手を洗うと、中間の差し出した手拭で手を拭いた。

「物取りですかね、旦那。近くに空の巾着が落ちてやした。お佳代のものだと思いやすが」

 小名木川五本松の老岡引き徳次が、根付けの飾りがとれた赤い縮緬の巾着を差し出した。

「この仏を知っておるのか?」

「顔は切り刻まれておりやすが、近所じゃ有名な美人姉妹の上の方でさぁ。質屋清兵衛の娘で名前はお佳代。お袋は早くに逝っちまって、親父とお満津っていう妹の三人暮らし。婿取りが決まったって親父が喜んでいたばかりだったのに……」

 確かに傷を入れられたその娘の顔は、おみな(女)を圧すほど美しいと名付けられた女郎花に負けぬ器量であった。

「婿になる男も残念なことしたもんだな。臍噛む様子が目に浮かぶぜ。何処のどいつだい?」

 殺された娘の相手は、永代寺門前山本町藤紅屋の人気手代、弥七である。錦絵から抜け出たような美男美女の取り合わせに深川界隈では評判のふたりであった。羨望の眼差しで見る者もいれば、当然嫉妬に身を焦がす者も数多くいた。

「親父の清兵衛には知らせたのか?」

「武吉を走らせやした」

 武吉は徳次が使っている下引きである。

 五本松の老岡引きが、ぬかりない顔で清十郎を見上げた。

「清兵衛より先に金太郎が走ってきたぜ」

 清十郎の声に徳次は大栄橋の方を振り向いた。

 尻端折りして、十手を振り回しながらまだ若い娘が駆けてくる。結び髪に横櫛を挿しただけで化粧っけもない。その後ろを必死の形相で天秤棒を担いだ若者が遅れまいと走っていた。清十郎は金太郎と呼んだが決して五月人形の飾りのようにぶくぶく肉付きがよいというわけではない。岡引きの娘で、母親は早くに死んだ。八つの頃より川並鳶の頭の家で女中奉公していたのだが、父親の病がひどくなり暇を貰って看病に専念しているはずであった。

「清十郎の旦那。殺しだって?」

 息せき切って駆けてきた娘は、同心への挨拶もそこそこに腰を屈めて娘の亡骸に近づいた。しばらく瞑目して合掌すると、すぐに死体を調べ始めた。

「金太郎。おいら、お前ェに十手を預けた覚えはねぇぜ」

「金太郎って言うな! お静って呼べ。十手は親父の名代だ。それにここは親父の島内、黙っちゃいられねぇってもんだ」

 刃物で突かれた胸と首の辺りを丹念に調べながらびしょ濡れの娘が怒鳴った。刺し傷は五本あったが切り傷は無数にあった。首筋を切られたのが致命傷になったようだ。懐にも袂にも何も手がかりになるようなものはなかった。

「どこがお静だ。お前ェが小せぇ時、金太郎の腹掛けして、俺の背中で小便漏らしたのを覚えちゃいねぇのかい」

「そんな赤ん坊の頃、覚えているわけがねぇだろ! いつまでも昔のこと、ぐずぐず言うんじゃねぇ」

 徳次が苦笑いして、口元を押さえた。自分の娘とは口を聞いてもらえない清十郎にとってお静とは擬似親子かもしれないと徳次は見ている。

「それで何かわかったのかい?」

 冷やかすように徳次が尋ねた。

「財布が空で物取りだって? そんなの姑息な誤魔化しさ。殺した奴の頭はよくないよ。行き当たりばったりの殺し方だ。これは、匕首でできた傷じゃねぇ。刃渡り七寸の柳葉包丁だ。素人の仕事だね。間違いねぇ。死んじまうまで何度も無駄に突き立てている。力もあんまり強くねぇみたいだ。女の仕業か? 顔に何本も切り傷があるのは、恨みかもしれねぇな。第一、殺されたのは昨夜ゆんべだぜ。何故こんなところに若けェ娘がのこのこ独りで出てきたんだい。殺されてここに運ばれてきたんじゃねぇ。ここで殺されたんだ」

 押し倒された女郎花とススキに娘の抵抗した後が残っていた。

 十手で指し示しながら説明するお静に、一々頷きながら聞いていた清十郎であったが、はたと思い直して胸を反らせた。

「そんなことは、判っておる!」

「じゃ、そんなところに突っ立ってねぇで、近所の聞き込みから始めな」

 滴り落ちる雨の滴を振り飛ばして顔を振り向かせたお静が清十郎を睨み上げた。

 うるさいっ! と怒鳴った清十郎を宥めながら徳次が割って入った。

「お静坊、源造のお父っつぁんは相変わらずかい?」

 五本松の徳次と仙台堀の源造は歳も近く、同じ岡崎清十郎のお手先で競争相手だった。理詰めの源造と猪突猛進の徳次は、互いを補って数多くの事件を解決に導いた。馬も合ってよく一緒に飲んだが、徳次が独り身だということだけが違った。

 源造の娘は怒った顔を徳次に向けた。お静にとって徳次も清十郎も肉親みたいなものである。遠慮は全くない。

「相変わらずさ。寝たきりのまんま」

「だったら看病に帰ェんな。こりゃあ捕り物ごっこじゃねぇ」

 金太郎のように真っ赤な顔で膨れたお静と仏頂面の清十郎が顔を寄せて角突き合わせている最中、殺されたお佳代の父親と妹が慌しくやってきた。

「金太郎、戸板を持って来い。仏さんを小名木川裏の辻番へ運べ!」

「小名木川裏は、俺の縄張りだ」

 徳次がお静に笑ってみせた。

 膨れっ面のお静が天秤棒を担いだ下引き惣太とぶつぶつ言いながら戸板を探しに駆けていった。

「あらあら、仕事を頼んじまったよ、旦那は……」

 困った顔をする徳次はどこか嬉しそうだった。

「旦那、見ましたかい? 金太郎の髪に刺さった簪は、死んだお仙さんのもんだ」

「お仙が隠し武器に使ってたやつだ。忘れるわけがねぇ。使いこなせるのかねぇ、あいつに……」

 清十郎は感傷に浸りそうになったのを抑えて、突然の娘の死で茫然とした質屋清兵衛に向き直った。




 清兵衛は事が事だけにお佳代の葬儀は密葬にして、しめやかに執り行うつもりでいたようだ。しかし、どこから聞きつけたのか生前のお佳代の人徳で焼香に訪れる者は引きも切らず、誰からも故人の悪い噂は聞けなかった。

 お静は下引きの惣太と手分けして聞き込みに走ったが、誰もその夜お佳代の姿や不審な人物を見たものは出てこない。質屋のある本所菊川町三丁目から大横川に沿ってほぼ一本道だ。それほど離れた場所ではない。

 扇町の西亥堀河岸から菊川町河岸まで虱潰しに歩きながらお静は、清十郎が所得顔に采配した番屋での取り調べを思い返していた。

 お佳代と所帯を持つことになっていた小間物屋手代の弥七も呼ばれていたが、昨日は一日中忙しく逢う約束はしていなかったという。

 妹のお満津は、いそいそと出て行く姉を見て、てっきり弥七との逢引に出かけるのだと思っていたらしい。お満津の記憶が正しければ夜の五つを過ぎていたようだ。父親はいい顔をしなかったが弥七との逢瀬で何度か出会い茶屋からの朝帰りがあったという。そうそうあることでもなく、弥七の人柄も信用できたし、じきに一緒になるからと黙認していたらしい。

「てぇことは、お満津が仏さんを見た最後の人間ってことになりやすかねぇ」

 下引きの惣太が塩売りの天秤棒を担いだまま俄か親分のお静に聞いた。

「今のところは、な……。だがそれを裏付けるもんがねぇ」

「でも実の妹ですよ。近所でも仲が良かったって言われてますし」

「本当に良かったのかどうか……」

 辻番でのお満津の態度が気になった。仲の良かったと世間で評判の実の姉が殺されたのだ。それなのにお満津は、自分のことより気落ちした弥七を懸命に励ましていた。父親の清兵衛はずっと俯いて何も語らず、涙を流すことさえ忘れてしまったように心が死んでいた。

 二人の男の不甲斐なさに、余計お満津の気丈さが目についた。

「あっしは、さすが深川の女だって感心しやしたぜ。金太郎の姉さんだって似たようなもんでやんしょう?」

「おまえまで金太郎って言うな!」

 拳で惣太の頭を思い切り殴った。惣太とは幼馴染である。いつもお静に泣かされていた。惣太が弱いのではない。気構えが違うのだ。その上奉公に出た先で気の荒い川並鳶に自然と鍛えられ、さらに磨きがかかった。

「じゃ、お静の兄さんは、お満津を疑っているんですかい?」

「ありえねぇ話じゃねぇだろ!」

 兄さんという言い方に怒ったお静の拳をひょいと避けて惣太が得意げに笑った。

「ところで弥七はどうしたい?」

「わざと仕事を増やして、寝る暇もなくってやつでさぁ。じっとしてりゃ色々と思い出しちゃうんでしょうね。ま、俺なら何もかもおっぽり出して酒かっ喰らって寝ちまうけどね」

「弥七が人から怨まれてるってことはねぇかい? あるいは新しい女ができたとか……。ちょいと本人に聞いてみたいね」

 推し量るお静の言葉が終るか終らぬかの間に、惣太が手振り身振りも仰々しく否定した。

「弥七も疑ってるんですかい? ありゃ大それたことのできるタマじゃありやせんぜ。なよっとした色男だが、金はともかく力はなさそうだ」

 てめぇの見当を聞いているんじゃねぇという台詞が喉まで上がってきたが、お静は言葉を飲みこんだ。

「弥七の人気で小間物もたいそう売れているそうじゃねぇか。岡惚れされたってこともありうるしよ」

 お静の「行くぜ!」の掛け声に呼応して、惣太は棒のようになっていた足に気合を入れた。ここで弱音を吐けば、お静からどんな仕打ちを受けるか想像に難くない。今いる大横川沿いの菊川町から永代寺の隣に店を構えた藤紅屋までは実際にたいした道程ではない。同じ深川じゃねぇかと惣太は空元気を漲らせ、お静の前に飛び出した。



 お静は暫らく外から弥七の仕事振りを窺っていた。悲しみに打ちひしがれてはいるもののそれを打ち消すように仕事に打ち込んでいる。それは痛みを伴って見る者に伝わってきた。けっして芝居ではなさそうだ。

 下腹に力を入れてお静は藤紅屋の暖簾を払いのけると、まっすぐ主人へ話を通した。髪の薄くなった主人は人の良さそうな笑みを浮かべて快く奥座敷へ案内してくれた。さすが流行りの小間物屋らしく贅を凝らした庭に面して板の廻り廊下があり、さらにその内側に畳敷の廊下である入側があった。

「源造親分のご名代がいらっしゃった。弥七をここへお呼び」

 主人も番頭も仙台堀の源造をよく知っているらしくお静としては面白くなかったがお蔭で好意的にもてなしてくれた。

 弥七が仕事を一区切りつけるのに手間取ってなかなか姿を現さなかった。

「親分さんにもこんな別嬪な年頃の娘さんがいらっしゃったとは、存じませんでした。亡くなったおっ母さん似なんでしょうね。随分と淑やかで、まるで今小町だ」

 無駄口をたたかず化粧っ気のないお静に、主が商人らしくうち解けた態度で鷹揚に喋りつづけた。お静の褒め方はあながちお愛想ばかりではなさそうだった。

 正坐が苦手な惣太が額に脂汗を流しながら出された茶菓を遠慮もせずに頬張る。思わず殴りつけたお静に好々爺然とした藤紅屋の主が目を見開いて茶を噴出した。

 弥七が気重に腰を屈めて入側に入ってきた。使用人は座敷へ足を踏み入れてはならない決まりらしい。

「早速だが、弥七さん。聞かせてもらいてぇことがあるんだが」

 大きな通る声で語尾を上げたお静に神妙になった弥七が頷いた。落ち着きなく体が震えており、見る者を苛立たせた。

「お前ェさん、最近誰かに恨まれるようなことをした覚えはねぇかい?」

「お佳代が殺されたのは、あっしのせいだと言われるんですか?」

 取り乱すほどではなかったが、弥七が小さく震えた。

「こんな時に野暮なこと聞くようだが、そっちの方面からも調べてみてぇのさ。何にもなけりゃそれでいい」

 首を傾げて遠くを見るような目をした弥七であったが、深い溜息を吐いた。何も思い当たらないようだ。

「横恋慕されてたって覚えは?」

 言いよどんだ弥七に変わって様子を覘きに来た番頭が身を乗り出した。

 可愛い顔した十手持ちに興味を持って入ってきたようだ。慇懃さの中にお静を小馬鹿にした侮りが見える。

「美男美女の取り合わせでしたからね。どっちにも岡惚れしてる者がたくさんいましたよ。たとえば、柳屋の若旦那、若狭屋の若……いやこいつは馬鹿旦那だ」

「番頭さん、いい加減なことを言うのはやめてください」

 弥七が慌てた。無責任な話で人を巻き込むことが耐えられないようだった。

 お静は徐に腰の十手を抜くと畳の縁を思いっきりびしっと叩いた。

 座敷の空気がいっぺんに張り詰めた。

「続けな」

 お静の聞く者を威圧する冷たい声が座敷に響き渡った。

 木場の荒くれ人足や鳶を相手にしてきたお静にとって目の前の二人は生ぬるい男達である。

 威圧した十手の先で番頭を促した。お静に睨まれて番頭の顔から愛想笑いが失われ、唾を飲み込む大きな音が聞こえた。

「それに淀屋の手代の定吉、山形屋の富次郎、魚政の安治……」

「魚屋だって!」

 惣太が色めきたって腰を浮かせた。惣太の頭の中を凶器の柳葉包丁と魚屋が結びついた。

「馬鹿野郎! 職人が商売道具を殺しに使うかよ」

 お静が惣太の頭を殴って往なした。口元だけ笑って振り向いたお静に番頭と弥七が思わず顔を顰めて縮こまった。

「お佳代さんに横恋慕していた奴等はそれだけかい?」

 番頭と弥七が揃って頭を下げた。

「それじゃ、弥七さんに惚れていた娘は?」

「そりゃあ、もう誰が何と言ったってお佳代さんの妹のお満津ちゃんです」

 番頭の告げた名前がお静の心の中で共鳴した。

「番頭さん! いくらなんでも」

 弥七が慌てたが、お満津が大層熱を上げているのは周知の事実だった。

 姉のお佳代が落ち着いて歳よりも大人びて見えたのに比べて妹のお満津は伝法なところを気取ったおきゃんな娘だった。厳しく躾けられた長女と甘やかされて育った末っ子という世間でありがちな姉妹であることは惣太との聞き込みでわかっている。人を介して弥七がお佳代を紹介されるまでは、お満津が毎日のように藤紅屋に入り浸っていた。

「誤解しねぇで聞いてくんな。誰もお佳代さんを仏にした奴を聞いてるんじゃねぇんだ。お前ェさんに岡惚れしていたのは誰かって話だ。他には?」

「怪しいといえばこの店にいらっしゃるお客様は、みいんな弥七目当てみたいなもんでして」

「みんなじゃありませんよ。仙太郎兄さん目当てのお客様だって随分いらっしゃるじゃないですか」

 恨み顔で弥七は番頭の顔を覗いたが睨み返されてすぐに目を逸らした。

「小間物屋はいい男を揃えておかねぇと商売にならねぇからな。そいつぁ繁盛していいこった」

 惣太が訳知り顔で頷いた。

 客の台帳を全て見せてもらった。深川の岡場所で女郎をしている女がほとんどだった。聞き込みはしてみるが夜が彼女等の一番の稼ぎ時である。人数は多くともあの夜客を取っていなかった女を捜し出すのはそう難しいことではないだろう。

「帰ェるぜ」

 そう言ったお静の袂に主がそそくさとずっしり重たい御捻りを押し込んだ。

「すまねぇな。また寄らしてもらうぜ」

 父親の源造を見慣れて育ったお静にとって袖の下を貰っても別に悪びれた様子がなかった。下引き連中の手当てもあったし、父親の薬代も嵩んでいる。

 主が顔を顰めるのを鼻で笑ってお静は立ち上がった。

 店の者達もお静を見送るつもりで腰を上げた時だった。

「ところで弥七さん、お佳代さんが殺された夜は、どこにいなすった?」

 突然振り向いたお静から不意に声を掛けられて弥七が慌てた。

「どういう意味です。親分さん、あっしのことも疑ってるんですかい? なんて馬鹿なことを……私は佳代と所帯を持つ約束をしていた男ですよ。好きな女が殺されたんだ。悔しくて、悔しくて、下手人が見つかったらこの手で絞め殺してやりたいって夜も眠れないんでございますよ」

 弥七が声を震わせた。半分涙声だった。

 怒りを顕わにした店の主人が弥七を押しのけてお静の前に出てきた。

「仙台堀の、あなたのお父っつぁんは人の気持ちをとっても大事にする立派な親分さんでございました。あんまりじゃございませんか。気落ちしていることを健気に隠して仕事をしている弥七に……」

 諭すように責める主の言葉もどこ吹く風か、お静の心までは届かなかったようである。

「因果な商売だと思ってくれていいぜ。これが仕事だ。弥七さんよぅ、それでどこにいた?」

 お静が自分で勝手につけた桜色の房を持って十手を振り回した。

 十手の風を切る音に威圧されて弥七が怯んだ。

「……あの夜はずっと奥で帳面をつけておりました。掛け取りのお金が普段よりずっと多かったものですから。ねぇ、番頭さん」

 縋りつく弥七に番頭は煩わしそうな顔を隠さなかった。

「はいはい、ずっと弥七の部屋の灯りが点いておりました。私もそれが終わるのを見届けてからでなくては帳場を締められませんでしたから。何度か弥七の部屋を覗きに行ったぐらいですよ」

 「何度か覗いた」といった時の番頭の声が引き攣り、空々しくお静から視線をはずした。

 だが、番頭の陰に隠れた弥七は安堵した様子だった。

「そうかい。そいつぁ大変だったな。教えてくれて、ありがとうよ。惣太、今のことちゃんと書き留めておきな。ずっと奥で、ひとりっきり、だったってな」

 顔色の変った弥七の見送りを断って、お静は惣太と勝手口に回った。

 上がり框に腰を下ろしたところで奥から弥七を叱責する甲高い声が聞こえてくる。

「あの鶏冠から声出している奴は、誰だい?」

 お静は、雪駄の鼻緒に指を通しながら隣の惣太に小声で聞いた。

「奴が兄貴分の仙太郎でさあ。おいらの調べじゃ、あいつもお佳代にゾッコンだったって話ですぜ。それに……」

 無理やり客を勾引わかして何人か泣き寝入りしているって噂があることを惣太が小声でお静に告げた。

 得意そうに惣太が鼻の下を擦る。

「そいつぁ飯の種になりそうだが、今度の山に関係ねぇことは後回しだ。そんな顔すんのは、さっき聞いた名前を全部あたった後にしな。現場にいなかった奴からどんどん消していくんぜ」

 お静は、惣太が聞き書きした大福帳を指差した。


 五日が経過した。

 秋だというのにあの日以来ずっと小雨まじりのはっきりしない日が続いている。鬱陶しそうに時々空を見上げる惣太の後ろ頭を殴った。歩き回るのが仕事のお静達にとって汗をかかずに済む空模様じゃねぇかと叱って、惣太の大福帳に記載された名前を頼りに訪ね歩いた。

 惣太の記録を基にお静等は深川中を精力的に聞き回ったが、誰もその時刻西亥堀河岸に居なかったことが証明されていくだけである。手掛かりも何もつかめないまま、大福帳に記載された名前はむなしく線で消されていった。


 お静は、相生橋から少し下った万年町の甚兵衛長屋に住んでいる。

 膝が腫れて曲がらなくなった源造に昼飯を食べさせ、酷くなったという肩凝りを揉み解していた時だった。

 ふらりと清十郎が見舞いに入って来た。

「父っつぁん、調子はどうだい? ちったぁ良くなったかい」

 精をつけなと竹皮に包んだ穴子の蒲焼を無造作に投げた。

「何の様だい?」

 源造の肩を揉みながらお静が無愛想に睨んだ。すぐに源造が娘の非礼を詫び、蒲焼を畏まって受け取った。

「金太郎、早速だが西亥堀河岸の調べがどこまでいったか聞かせて欲しくってな。もうじき初七日だ。ちゃんと成仏させてやりてぇじゃねぇか」

 そこへ肩を落とした惣太が疲労困憊の態でぼっそりと入って来た。

「どうしたい? 惣太。熱でもあるんじゃねぇのか! 雨に当たって風邪でもひいたか」

 清十郎が本心から心配そうに声をかけた。

 お静は惣太の大仰さに、甘えを許さぬ目で睨んだ。

「あの日は雨降りだったてぇのに岡場所は大繁盛でさぁ。誰も客がつかずあぶれた女郎はいねぇ」

 藤紅屋の台帳に載った女郎衆の足取りを調べに行った惣太が報告に戻って来たのだ。

「見せろ! ほんとに男どもはしょうがねぇなぁ」

 お静が惣太の腰の大福帳を取り上げた。清十郎が覗きこむのを隠して見せないように帳面を折り返すお静を源造が叱った。

「ちょっくら貸してみな」

 源造が真っ黒に塗りつぶされた惣太の大福帳を最初から丹念に捲った。

「二人に横恋慕していた奴等か……まぁ、目の付け所は悪くねぇが」

「でもお父っつぁん、何だか砂浜に落とした一文銭を捜してるような気になってきた」

「この程度で弱音を吐くんじゃねぇ」

「そんなつもりで言ったんじゃない。弱音なんてこれっぽっちも考えたことはねぇ」

 むきになってお静が口を尖らせる。源造は、お静が十手の名代をやると言い出した時から、仕事に関しては厳しくなった。

「もう一度、あの晩に戻ってみな。どうして質屋の娘がたった一人で西亥堀河岸に出かけたのかってことからな」

「なぜ、独りで出かけたか……」

 源造の目が光った。

「まさか殺されると思って出かけたわけじゃあるめぇ」

「誘い出された……。てっことは、連れ出した奴がいるってことだ」

「それに、殺された娘がいなくなれば、何が変わる?」

 何が変わったんだろう?

 お静は必死で考えたが、何も思い浮かばなかった。

「弥七との結婚が壊れただけ……。そのことで誰が得したっていうの?」

「わからなけりゃ、もう一度お佳代の身辺から洗い直すんだな。評判の娘だったらしいが、その評判の中身から探りを入れてみるのも一つの方法だ」

 源造が急に咳き込んだのでお静がすぐに後ろへ回って背中を擦った。

「評判が良すぎるってのも気にいらねぇ。行きずりの殺しじゃねぇ。わざわざ殺さなきゃならねぇ理由があった、って訳だ。それに顔につけられた傷。どっかに恨みの線が必ずあるはずだ。それを捜すにゃお佳代さんから洗い直さなきゃならねぇ。まだ気づいちゃいねぇことがきっとある」

「……わかった、お父っつぁん、そうしてみるよ」

 父娘の話をずっと黙って聞いていた清十郎が思い出したように部屋の隅に置かれた小さな仏壇へ目をやった。

「ちょっと上がらせてもらうぜ」

 清十郎は勝手に草履を脱ぐとお仙の位牌の前で線香をあげて長い間手を合わせた。

「金太郎、焦っておっ母さんの後を追うんじゃねぇぞ」

 お静の母親は捕り物に巻き込まれて命を落とした。

 詳しい経緯をお静は知らない。源造の命と引き替えに母親が殺されたとだけ聞かされている。理由を知っているはずなのにいくら聞いても教えてくれないことで清十郎が嫌いになった。

「とっとと帰ェりやがれ! 惣太、塩っ!」

 へいっと塩の壺に手を伸ばした惣太の頭を清十郎は十手で軽く殴ると笑いながら出て行った。



 お静は精力的にお佳代の友人や寺子屋時代の師匠、習っていた小唄の師匠などを訪ねて話を集めた。

 惣太の大福帳に従って最後に訪ねたのは本所菊川町二丁目にある裁縫の師匠だった。そこを出たところで暮れ六つをしらせる鐘がなった。

「お父っつぁんは殺されたお佳代を洗い直せと言ったけど、どいつもこいつもいい人だったの一言だ。気に入らねぇ」

「死んだ者を悪くは言わねぇでしょう」

「でもあんまり褒めるやつばかりだとそうじゃねぇ奴はいねェのかって、臍が曲がってくるぜ」

「やっぱ、一番良く知ってるのは、弥七さんかお満津ちゃんじゃないですかい? 親父は案外娘のことはわからないでしょう」

「よくわかってるじゃねぇか」

「兄貴と親分を見てるとよっく分かりまさぁ」

 惣太はそう言うなり一歩跳び退いて身構えた。お静は振り上げた拳を所在なげに空中で振り回した。

 ちょうど明地にひっそりと建つ榎稲荷まで来た時だった。お静より少し若い娘が二人を待っているように立っていた。

「仙台掘りの親分さんですよね。さっきお師匠さんの所で、お佳代さんのことを聞いてらしたようでしたが」

「おめぇさんもあそこへ通ってなさるのかい? 何か手掛かりがねぇかと聞き回っちゃいるんだが、みいんな気が利いて愛想のいい娘さんだったっていうばっかりで恨みの筋が浮かんでこねぇのさ」

 幾分うんざりした気分だったので、初対面の娘であったが、お静は愚痴のようにこぼした。

「そうですか……私、お満津ちゃんの友達で角の豆腐屋の菜緒と申します。ちっちゃい時から一緒に遊んでいました」

 話を聞くといつも二人は陰で年上のお佳代から苛められていたという。特にお満津が他人から褒められたり、菓子など物を貰ったりするのを見られた時は、理不尽に殴られたり抓られたりされていた。子供の時の四つの歳の差は大きいものがある。幼かったせいで抵抗する術も知らず一緒に泣いていた。お満津と仲が良かったせいで、菜緒も割を喰ったに違いない。

 その為にお満津と遊ぶ時はなるべく人通りの多い所、人の集まる所を選んでいた。そうするとお佳代と居合わせても優しく接してくれる。いや、優しさの表出する方向はお満津達ではなく、他に向けて発していたのだ。そして、外で過剰な演技を発揮した分だけ、内に籠った時の振幅が激しかったらしい。何度かお満津が「菜緒ちゃんチで、お泊り」を口実に避難してきたという。

「だから私、お佳代さんがいい人だって聞くと我慢ならないんです」

 人の悪口をいう後ろめたさからか娘は今にも泣き出しそうな面持ちだった。

 きっと誰にでも平気で甘えられるお満津が羨ましかったのではないかと菜緒は、推測して見せた。お佳代は、姉さんだからとか、おっ母さんの分まで家の面倒を見なければねと、周囲に期待を含めて言われ続けてきたらしい。

 そのように育てられたことは同情できると豆腐屋の娘が最後に付け加えたのは、岡っ引きへ告げ口した疾しさをいくらかでも緩和したかったのだろう。抑揚のない冷やかな物言いだった。

「それを聞いて安心したぜ。まるで観音様みてぇにみんな褒めるもんだから、落ち着かねぇ気分だったのさ。お佳代さんもちゃんと人間だったってわかったよ。ありがとうな」

 お静は、やや興奮ぎみの菜緒の肩に優しく手を掛けた。お満津の幼馴染はほっとした様子で顔をあげた。

「ところでお佳代は最近小間物屋の手代と所帯を持つ話をしていなかったかい?」

「最近は、お佳代さんと顔を合わせても挨拶するだけで……ただ、お満津ちゃんと相手の方が何にも知らずに可哀そうだっていう話はよくしていました」

「弥七さんは、お佳代さんのそんな性格を知らなかったのだろうか?」

「それは、どうだか……? お満津ちゃんに聞いたけど、藤紅屋を大きくしたのは弥七さんの才覚で、だけど奉公人の身で藤紅屋を継げる訳ではないから、何とか自分の店を持ちたいんだって教えてくれました。お佳代さんもそんな弥七さんの夢を叶えてあげると言い寄ったって聞きました」

 半べその菜緒が辛そうに語るのを聞いて、惣太が心底羨ましそうに道端に生えた雑草を思いっきり蹴散らかした。

「そうかい……小間物屋も出してもらえるってか。そいつぁ金のねぇ者にとっちゃ願ってもねぇ話ですね、姐さん。おいらにもそんな福の神が現れねぇもんかねぇ。お菜緒ちゃん、おいら豆腐屋にゃ向かねぇかい?」

 いきなり声を掛けられた菜緒はびっくりして目を見開いた。

「鏡の中のてめぇとよっく相談してみな。どんな仕事が一番似合ってるか教えてもらえるぜ」

 お静の貶しをわざと剽軽に受け流した惣太を見て、菜緒が小さく笑った。笑わせて密告しているのではないかという精神的な負担を軽くさせようとした惣太の思いやりを、お静も承知している。やり方が赤子をあやすようだという不満もないではないが、少しは効果があったようだ。

 しかし、お満津の言う弥七の話は、鵜呑みにはできないと思った。弥七と一緒になれないお満津が考え出した妄想の可能性もある。弥七は決して姉を愛していない。姉と一緒になるのは、自分の夢のためだ。そう思い込むことによってお満津は抗えない現実を受け入れようとしたのかもしれない。

「お満津も好きな男が自分の姉さんと一緒になるってぇと、辛れぇだろうな」

 考え込んだお静に気付いて菜緒が不安を口にした。

「あ、まさか、お満津ちゃんを疑ってなんかいないですよね。お満津ちゃんは正直で曲がったことが嫌いで、絶対そんなことのできる娘じゃないです」

「いや、そうじゃねぇんだ。安心しな」

 お静は菜緒の不安を解くように肩を叩いて笑って見せた。

 お静の胸で、ひとしきり泣いた豆腐屋の娘が、小走りに榎稲荷の前から帰って行った。

 娘が見えなくなったのを確かめてから惣太が、大福帳に豆腐屋の娘お菜緒と書き込み、お満津と線で結んで溜息を吐いた。

「育ちがいいんだ、お菜緒ちゃんは……。人をあしざまに言ったことがねぇんだね。もう少し可愛ければ、おいら惚れちまいそうだぜ」

「あんな泣きべそが惣太の好みだったのかい? ゴキブリ見て泣きだす惣太とはいい組み合わせかもしれねぇな」

「泣きゃあしませんよ。おいら火の玉見たって泣きゃあしませんって……」

 惣太を睨んだお静のこめかみに筋がさっと入った。

 惣太は虫が苦手だった。喧嘩にもお静以外には滅多に負けないすばしっこさを持っており、大事なことはきちんと腰の大福帳に記録する思慮もある惣太であったが、小さい頃、馬乗りになったお静からカメムシを口の中に押し込められて以来、どうも虫全般が嫌いになったらしい。あの悪臭と舌触りをふとしたきっかけに思い出すことがあるという。

 そういうお静にも弱点はあって、人魂を見て以来、寺と墓所が嫌いになった。寺の多い深川である。特にお静の住んでいる万年町の長屋の近くには寺が林立している。だから惣太がお静と喧嘩して逃げ込む先は、法乗院の閻魔堂と決めていた。

 言い返されたお静の気持ちを逆撫でするように、惣太が無垢な犬のような目で擦り寄ってくる。

「豆腐屋のこと考えてたら、急に腹減ってきちまいました。夜泣き蕎麦食べません?」

 菊川橋の袂で夜泣き蕎麦の親仁が提灯に火を灯すのを一瞥し惣太が大袈裟に腹を抱え込むや、お静がチッと舌打ちをした。

 表情が消えて顔色の変ったお静に、普段より戦慄した惣太は殴られるのかと頭を守って身構えた。

「俺達は、見落としていたぜ。あれから何度この大横川沿いを往来したか数えきれねぇってのに……」

 暮れ六つから半刻ほど過ぎていた。お静達は、この刻限に菊川橋付近で聞き込みをやっていないことに気付いた。刻が移れば町の気色も変わる。ここで夜泣き蕎麦屋の屋台を初めて見た。

 お静は早足で屋台に近づいた。

「親仁さん、いつもこのあたりで店を出しているのかい?」

 お静の持つ十手に気付いた親仁は慇懃に対応した。

「へぇ、いつもはもう少し遅いんですがね。毎日この辺りで」

 惣太が一杯のかけそばを頼んだ。賑やかな惣太に初対面の親仁も気軽に打ち解けてくれた。口の達者な親仁だった。

 お静もつき合いでかけそばを頼みながら声をかけた。

「ところで六日程前に若い女が一人で大横川沿いを下っていかなかったかい?」

「若い女って言われてもねぇ」

「あれっ、親仁さん、知らねぇの? そこの質屋の娘が殺されたのをよ」

 惣太が蕎麦を喉に詰まらせ、大袈裟に吃驚してみせた。

「あ、それでこないだ葬式をやっていなさったのかい。誰が亡くなったのかと思ったよ。俺は読売も読まねぇし、蕎麦喰う客もそんなこと教えてくれなかったからなぁ」

「たしかにモノ喰いながら話すことじゃねぇけどな。悲惨な殺され方だったんだよ」

「で、どっちが殺されなすった?」

 蕎麦屋の親仁が惣太の話に乗って来た。

 話を引き出させる巧みさにはお静も惣太に一目置いている。惣太の軽薄な性格が簡単に相手の懐へ跳び込ませるのかもしれない。

 お静はしばらく惣太にまかせることにして、黙って蕎麦を啜ることにした。

「どっちって?」

「だってよう、姉妹とも同じ方向へ下っていったぜ。別々だったが……」

「別々?」

 お静と惣太の箸が同時に止まった。

 蕎麦屋の親仁は二人の驚いた顔を面白がるように、舌が滑らかになって行った。

「最初に姉さんの方が駆けて行って、しばらくしてから追いかけるように妹さんが歩いて行きなすった。この近所じゃ評判の器量良しだ。忘れちゃいねぇ。なんでこんな夜更けにって思ったんだから」

「殺されたのは、その姉さんの方だよ。で、何時だい?」

「そうだ、途中で少し雨が降ってきやがって、妹さんの方は傘差していたから、……おそらく五つ半頃じゃねえか、その頃降り出したのを覚えてる」

 お満津が姉を騙して、外へ連れ出したのかもしれない。そして、弥七を取られて、日頃からの恨みも頂点に達したお満津がお佳代を刺した。お佳代がいなくなれば弥七が自分の方を向いてくれるかもしれないと思う一心で……。そんな絵が浮かんできた。思わず箸で多めに蕎麦を挟んだお静は、乱暴に口の中へ押し込んだ。

「ありがとうよ。父っあん。もう一杯おかわりくれよ、美味いぜ」

 惣太が汁も飲みほして空になったどんぶりを親仁に突き出した。

「ついでに男は見ちゃいねぇか? 年の頃は二十四、五。背はおいらより少し高けェ、華奢な色男なんだが」

 核心をついてきた惣太の聞き込みにお静は蕎麦の喉越しを楽しみながら聞き耳を立てた。

「そいつぁ、わからねぇよ。いい男はここにはごまんといるからよ。そっちの十手に薄紅色の房をつけた兄さんも女物の簪なんか差して、粋な男ぷりじゃねぇか。そいつぁ今の流行りかい?」

 惣太の背中にさっと冷たいものが走った。

「女物の簪だと? 男物の簪って、どこの世界にあるんだよ!」

 柳眉を逆立てたお静の足元には投げつけられたどんぶりが粉々に散っていた。

 いい歳をした蕎麦屋の親仁だったが事態を呑みこめないまま十手を喉元に突き付けられて震えあがっている。

 慌てた惣太がすぐにお静をなだめようとしたが、遅かった。




 昼間ずっと降っていた雨も上がり夕刻からお佳代の初七日法要が始まった。

 水を打ったような静けさの中で、僧侶のあげる読経の声と金の音だけが質屋の広い奥座敷に異様に大きく響いた。

 お静と惣太は五本松の徳次親分の隣で最後列に座っていたが、何の手がかりも得られず顔を出した法事は、重い空気が満ちていた。周囲のお静等岡っ引きを見る視線も冷たいように思える。

 法要の後、精進落としの料理が運ばれてきた。

 喪主の清兵衛も気が紛れるのか参列者の間を巡り、酒を振舞いながらお佳代の話題が出るとことさらその話を引き継ぎ思い出話にお佳代を偲んでいる。自然と清兵衛の周りに人が集まって来た。

 外での応対が良かったために、故人の想い出話が俄かな喧騒をおこしたようだ。

 お茶出しをしていたお満津が紛れるようにして弥七をそっと裏へ連れ出した。

 お静と惣太は、参列者に気づかれないように二人の後をつけた。ずっとお満津の一挙手一投足を探っていたのだ。

 清十郎の目が光ったが、恍けた顔をして奥まったところに座っている。

 お満津は初七日が行われている座敷からほど遠い人気のない庭の隅へ弥七を引いて行った。手ごろな高さの庭木が群生しており、お静達の隠れる場所には困らなかった。気配を殺して声の聞こえる所まで寄ろうと努めた。不意の来客に騒がしくなった閻魔蟋蟀の鳴き声が湿った空気を震わせる。惣太は虫が苦手なことを思い出したのか、お静にぴったりとくっついている。腰を落とし四つん這いになって進む惣太の肩に虫が跳ねてきた。惣太が口を押さえて悶えるのを幼馴染で心得たお静がすばやく摘まんで投げ捨ててやった。涙目で息の荒くなった惣太がちょこんと下げた頭を、怒り心頭のお静は惣太が声を上げない限度まで加減して強かに殴った。

「弥七さん、姉さんがこうなっちゃったから、店を持つって夢が遠のいたと思ってる?」

「あっしはそんなことどうでもよくなりました。このまま深川に住んでいるのが辛い」

「弥七さん……」

「何もかも捨てて生まれ故郷の潮来に帰ろうかと思ってやす」

「だめ! 駄目よ、それは。だって弥七さんは商売の才覚があるんだもの。ゆくゆくはうちの店を継いで、そして小さくてもいいから小間物屋も出すんだって話してたじゃない」

「でも、お佳代さんが死んじまった」

「私と……私と所帯を持てばいいじゃない。夢を叶えるために!」

「お満津ちゃん、気持ちは嬉しいがそいつぁできねぇ。まして今日はお佳代さんの初七日じゃねぇか。とてもそんな気になるもんじゃないよ」

「初七日じゃなきゃ、言ってもいいの?」

 弥七が黙った。

「ほら、やっぱり夢は捨てられないんだ。ね、いいだろ? 私と一緒に所帯を持とうよ」

 お満津が弥七の両腕を掴んで激しく揺すった。弥七はお満津から顔を逸らそうと身をくねらせている。

 色男は辛いねェと呟いた惣太の頭を殴ろうとして振り上げた手をお静は自分の口に持ってきて噛んだ。お静の火のような睨みに惣太が首を竦めた。

「いい加減にしねぇか! おいら、心底お佳代ちゃんに惚れていたんだ」

「嘘吐き! そんなはずない」

 弥七がお満津に掴まれた袖を振りほどこうと邪険に払った。

 勢いに耐えられずお満津は転んで庭の灯篭に強かぶつかっていった。

「おいら、お満津ちゃんと一緒になるわけにはいかねぇんだ。お前さんはお佳代とは違うんだ。今迄通り妹のままでいてくれ。妹としてならいくらでもお満津ちゃんのことは大事にするよ」

 転んだお満津に手を貸そうとした弥七だったが、お満津はその手を振り払った。

「妹なんてまっぴらよ。一緒になれないんだったら、弥七さんを殺して私も死ぬ」

 台所に飛び込んだお満津は包丁を握り締めて戻ってきた。弥七にもお静たちにも一瞬何が起こったかわからなかった。

 泣きながらお満津は包丁を振り下ろした。慌てながらも弥七は何とか避けた。弥七はその場から逃げずに何とかお満津を落ち着かせようと必死な形相を見せた。

「姉さんは死ぬ前に一度も弥七さんの名を呼ばなかったじゃない! そんな人、好きなわけないでしょ」

「何だって……、お満津ちゃん」

 思わず口走ったお満津に弥七の動きが止まった。その弥七の脇腹に向かって包丁が突き出された。

 お満津の悲鳴が聞こえた。

 弥七が手で払う前にお満津が左手を押さえて蹲った。お静の投げた簪が手首にしっかりと刺さっていた。

「しっかり聞いたぜ。お満津!」

 惣太が威勢良く飛び出した。

 お静が母親の形見の簪をお満津の腕から引き抜いた。

 お満津は腕を押さえたまま表情を失くして蹲ったままである。

「お佳代殺しの下手人としてしょっ引け」

 いつの間にか清十郎と五本松の徳次が並んで立っていた。姉妹の父、清兵衛も言葉を失って定廻り同心の陰に立ち竦んでいる。

 清十郎がかけた捕り縄の端を持って惣太が意気揚々とお満津を引き摺るように番屋へ連れて行った。お満津の父清兵衛も弥七もおろおろと惣太の後に続いた。

「お静ちゃん、お手柄だ。まるで死んだお仙さんが現れたかと思ったぜ。随分修練したみてぇだな」

 老岡引きの徳次が目を細めて優しい声をかけると下っ引きを従えて番屋へ向かった。お静は黙って頭を下げただけだった。

「ご苦労だったな、金太郎。お満津の悋気がお佳代殺しの動機ってことか。これにて一件落着かい」

 清十郎の労いを無視してお静はお満津の落した包丁を拾って調べていた。

 自分で顔色が変わっていくのがわかった。

「お佳代殺しの下手人はお満津じゃねぇ」

「何だって?」

「お満津は一言も私が殺ったとは、言ってねぇ。旦那、この出刃包丁を見てごらんよ。お満津って名前が彫ってある、あの娘の特製包丁だ」

 清十郎は差し出された包丁の刃を見て声を上げた。刃の研ぎ方が逆になっていた。

 お静はお満津が包丁を取り出した勝手場へ飛び込んだ。

 出刃も柳刃も菜切りも包丁はそれぞれ二本ずつ並んでいた。どの組み合わせも鏡のように研ぎが対になっている。普段見慣れない研ぎを施した方にはお満津の名が彫り込まれていた。

「お満津は左利きか?」

「お佳代の傷口、覚えているかい? 体の左側に刺し傷が集まっていた。いいかい、旦那! お佳代は仰向けに転がされて、殺した奴はお佳代の上に馬乗りになっていたんだ。だから胸より上にしか傷がねぇ。なんでおいらが刃渡り七寸の柳葉包丁だって見立てたかわかるかい?」

「傷の形を見たからだろう? 見せ掛けにわざと右でやったとは考えられねぇのか」

「ありえねぇ。弥七を襲った時も咄嗟に利き手で構えていた。仮に右利きの包丁を使ったとしても左手に持ちゃあ、できる傷が逆だ」

 苛々した様子で台所を歩き回る清十郎と、真一文字に口を閉ざしてじっと流しを見つめるお静だった。

「おい、右用の柳刃包丁は?」

「あるよ。綺麗なもんさ。よく手入れされてるぜ」

 馬鹿なことを聞くなといったお静の冷たい声の響きに、がっくりと首を落とした清十郎は竈にもたれて深くて長い息を吐いた。

「何だらけてるんだい! 仕事だろ、番屋へ行くよ。お満津にゃ聞きてぇこともあるんだ。あの日、お佳代を追いかけて西亥堀河岸に向かうお満津を見た夜泣き蕎麦屋の親仁がいるんだよ」

「金太郎、てめぇそれを先に言わねぇか!」

 既に勝手口から出て行ったお静を長十郎は怒って追いかけた。




 番屋の土間に座らされたお満津は簪の刺さった所が痛むのか左腕を押さえて時々苦痛に顔を歪めた。

 一緒についてきた父親の清兵衛と弥七は、お満津も話し辛かろうとお静の反対を押し切り、長十郎の独断で家へ帰した。

「どうして姉さんの死ぬ前のことを知ってるんだい?」

 長十郎が無口になったお満津になんとか喋らせようと優しい声をかけた。

「私が殺したからです」

 何度聞いてもお満津は同じ言葉を繰り返した。

「小さな時に母親を亡くしてからはお佳代さんがおめぇさんの母親代わりだったんじゃねぇのかい? よっくおめぇさんの面倒を見ていたって、近所で評判だぜ。かわいがってもらったんだろ? そんな姉さんをどうして殺さなきゃならなかったのかい?」

 眉を顰めたお満津が長十郎から顔を背けた。

「おめぇが、横合いから弥七に惚れて嫉妬に狂った果ての殺しかい? 姉さんが死ねば弥七が自分のモノにでもなると思ったか? 人の気持ちはそんなことで変わるもんじゃねぇだろ? そんなことが分別できねぇほど子供じゃないだろうに」

 ずっと何かを言いたくて、それを我慢していた様子のお満津が、厳しい面持ちで清十郎を睨み上げた。

「そうじゃねぇと言うのなら、きっちりと言ってみろ! お佳代を殺したのはお前さんじゃねぇってことは先刻承知してるんだ」

「私です!」

 それでもお満津はきっぱりと言い切った。

「おめぇは左利きだ! お佳代に残された傷口はおめぇがつけたもんじゃねぇ。こっちは、全部お見通しなんだ。いい加減にしやがれっ」

 お満津が自分の左腕を押さえて、黙った。

「下手人はまだわからねぇが、おめぇじゃねぇことだけは、確かだぜ」

 唇を噛んで項垂れたお満津の肩を後ろからお静がそっと抱いた。

「あの晩、お満津さんが姉さんの後を追って行くのを見た奴がいるんだ。ひょっとしてお佳代さんが殺されるのをどっかで見ていたね? 殺したのは知った顔だった。まさかそいつを庇っているのかい?」

 耳元で囁くお静の静かな声に優しさがあった。まるで仲の良い女友達のような風情であった。

 端近にのんびりと胡坐を組んで茶を啜っていた徳次が初めて聞く話に顔色を変えて飛び降りた。

「親分さんも岡崎様も、本当の姉を御存じありません。……私はずっと姉が恐かった」

「外面と家の中じゃ違ったって言いてぇのか?」

 清十郎が自分で茶を入れてお満津に差し出した。最初から下手人だと思っていたわけではない。お佳代の人物を探るために、お満津と姉との関係を知りたかっただけなのだ。

「知ってるぜ。豆腐屋の娘と仲がよかったらしいじゃねぇか。よくお佳代さんに苛められてたって聞いたからな」

 お静の話にお満津は深いため息を吐いた。

「何でも私が持ってるものを陰で取り上げられた。弥七さんだって、そうだ。私が好きだって知るとチョッカイかけて、本当に好きだったかどうかわかりゃしない」

 お満津は一気にまくし立てた。

「どうしてそう言いきれるんだい?」

 お静の問いにしばらく考え込んでいたお満津は、思いを巡らせる内に気が昂って来たようだ。さらに早口で吐き捨てた。

「あの晩だって自分で弥七さんを呼び出したんだ。弥七さんの里のお父っさんとおっ母さんが貧しくてみすぼらしいからって理由で祝言には代役を立ててくれって頼みに……、いえ、指図しに行ったんだ」

「ホントならとんでもねぇ話だな」

 大袈裟に首肯して長十郎がお満津を憐れんだ。

「ホントですよ、旦那。姉さんがお父っつぁんと話しているのを聞いたんだ。もちろんお父っつぁんは承知しなかった。見栄えのいい深川中の娘が憧れる弥七さんのことを、自分が身につける簪ぐらいにしか思っていない。本当に好きじゃないからそんなこと考えつくんだ。まわりに見せびらかしたいだけ……」

 勝手に得心した清十郎が勢い込んでお満津の話を継いだ。お静が舌打ちしたのにも気付かなかったようだった。

「それで呼び出された弥七が頭にきて、お佳代さんをメッタ刺しにしたってわけだな。それを見ていたおめぇは好きな弥七をお縄にしたくねぇばっかりに庇おうと、自分がやったってつい言っちまったわけだ」

「違う。弥七さんじゃない! 確かに弥七さんもその場にいたけど……」

「他に誰がいたっ!」

 予想外の答えに清十郎が思わず十手をお満津に向けて厳しく詰問した。お静の所まで清十郎の唾が飛んできた。

 お満津が十手から顔を背けて、口を噤んだ。

「だから帰すなって言ったじゃねぇか……、岡崎の旦那、いつまでそんな素っ頓狂な顔してるんだい? 落ち着きな!」

 長十郎に罵声を浴びせるお静の手にお満津の体の震えが伝わってくる。

「……弥七さんじゃない。たくさんいた。女もいた。でも誰だかわからない。知らない人……、弥七さんじゃない」

 喪心したお満津の目が虚ろに定まる所を失い、何度も同じ言葉を繰り返した。

「帰ェすんじゃなかったぜ、糞っ。金太郎! 弥七をしょ引いて来い。今すぐにだ」

 お静は「弥七さんじゃない!」と泣き叫び、行かせまいと再び血の噴出した手で縋りつくお満津を払いのけた。

「徳次親分、お満津の家へ回ってください。まだ二人でお満津の帰りを待っているかもしれやせん。おいら達は藤紅屋へ走ってみやす」

 そう言ってお静は徳次に頭を下げた。

「そうだ、若い者が走れ!」

 長十郎の罵声を聞き流してお静は番屋を飛び出した。

 菊川町の番屋から永代寺門前山本町にある小間物屋藤紅屋まで惣太と競うように走った。

 途中、駆けながら惣太が不安を口にした。お静にも嫌な胸騒ぎがしていた。

「高飛びしやしねえでしょうか?」

「黙って走れ!」

 藤紅屋を叩き起してそのまま弥七の部屋に踏み込んだお静達であったが、案の定弥七はいなかった。

 店の主人が何事かと寝巻のまま出てきたが、弥七の荷物が無くなっていることに気付いて慌て始めた。

 遅れて徳次も藤紅屋に辿りついた。清兵衛からはとっくに別れて帰ったと告げられたらしい。

「木戸はもう閉まっている。まだどっかに隠れているかもしれねぇ。別れて捜そうぜ、金太……いや、お静坊」

「親爺さん、岡崎の旦那に知らせてください。あっしらこの近所から当たってみます」

 徳次が渋い顔で頷く後ろに、鶏冠の先から抜けるような甲高い声で騒ぐ背の高い男がいた。

 ほろ酔い気分で帰って来たばかりの仙太郎だった。

「弥七がどうしたって? なんで岡っ引きが夜中に騒ぎやがる! 誰が勝手に入れた? 藤紅屋は人気商売だ。悪い噂が立ったらどうするんだ!」

 いつまでも続く仙太郎の尖り声にお静の頭へ血が上った。爆発寸前のお静の顔つきに長い付き合いの惣太が慌てた。

「静かにしやがれ、この唐変木! おめぇは弥七がどこに行ったか知ってるんだろう? えっ!」

 薄紅房の十手を仙太郎の首筋にぐっと押しつけてお静は凄んだ。

「……知り……ません」

 か細い声で仙太郎が逃げようともがいた。ゴロツキを気取ってみても所詮は弥七と同じ優男だ。

「本当か? 嘘を吐いちゃてめぇにもお咎めがあるぜ。え、おいっ!」

 大袈裟に咳き込みながら仙太郎は首を激しく横に振った。

「舐めるんじゃねぇぞ。どっから帰ってきた!」

 果てしなく続く詮議とは言い難い振る舞いを五本松の徳次から窘められて、お静はやっと締めあげていた手を乱暴に放した。

「親父は穏やかだったてぇのに、お仙さんに生き写しだぜ」

 思わず出た徳次の呟きが勝手にお静の耳へ入って来た。

 

 その夜、清十郎のお手先とその下っ引きが総動員されたが、弥七の行方は分らなかった。

 そして、あの夜お満津が見たというお佳代殺しの下手人の姿も杳として浮かび上がらなかった。本当に居たのかどうかも判らない。弥七を庇って咄嗟に吐いた嘘なのかもしれない。

 何と言っても弥七が姿を消したことが一番きな臭いのだ。

「もう江戸にはいねぇかもしれねぇな。惣太、あいつの生まれ故郷に飛んでみる気はねぇかい?」

 床の中の源造はお静の報告を聞きながらじっと天井の滲みを見つめていた。弥七の故郷は潮来である。框に腰かけた惣太は、鬱陶しいような素振りを見せたが、旅に出ることに決して吝かではない気持ちが表情から毀れている。

「姉さん、掛かりのお手当」

 惣太が掌を上に向けてお静に差し出した。

「ちゃんと使った金は使い道と一緒に腰の帳面に書いときな。帰ってから勘定してやる。立て替えとけ。そうだ、受け取りも忘れんなよ」

「そんなぁ、かわいい子分に野宿させるのかい?」

 源造が二人のやり取りを笑いながら桟留革で仕立てた煙草入れに手を伸ばした。

「お父っつぁん、煙草は体に毒だって良斎先生も言ってたじゃねぇか」

 しかし、源造が煙草入れから取り出したのは一両小判だった。惣太の目が光ったが、源造は半分引っ張り出したところでまた元に戻した。

「やっぱり潮来のことは岡崎の旦那を通じて、八州廻りのお役人にお願いしてみちゃあくれねぇか。弥七が馬鹿じゃなければ自分の生まれ故郷にゃ帰るめぇ。まだ江戸にいた方が人混みに紛れて隠れやすいだろう。惣太、すまねぇな、期待させて悪かった」

 八州回りは、関東取締出役と呼ばれ、勘定奉行配下の役職である。広域的な関八州を諸大名旗本寺社領、及び天領の区別なく巡回し、犯罪を取り締まった。

「ええっ、そりゃないよ。せっかくその気になっていたのに……、潮来名物鯉の洗いが……」

「弥七を見つけりゃ鰻の蒲焼、喰わせてやるよ」

 惣太がお静から殴られた後ろ頭を押さえながら、約束ですよと涙目で念を押した時だった。

 お静が奉公に出ていた川並鳶「天竜」組の若い衆が訪ねてきた。

「頭が至急にお静坊に会いてぇって言付かりましたんで、お知らせにあがりやした」

「頭が? また何か探し物かい。自分で仕舞っといてすぐ忘れちまうんだから」

「馬鹿野郎! 善次郎の頭に何て言い草だ」

 源造が本気で叱りつけたが、お静はちょろっと舌を出しただけで立ち上がった。

 善次郎は過ぎた夏二十七になったばかりの天竜組三代目である。まだ独り者だが男気の良さで気の荒い鳶の連中をしっかりと束ねていた。奥は善次郎の母親が取り仕切っていた。礼儀作法に厳しくて長屋育ちのお静には苦手だったが気分転換の早さと負けん気だけで何とか凌いできたような気がする。

 お静の父親である源造が二代目の頭と懇意でありその伝手でお静は奉公に上がった。男勝りのお静を何とか躾直して恥ずかしくない娘に育てたいという親心からであったが、結果的には荒くれ者達に囲まれて男らしさに改めて磨きがかかったといってもよいかもしれない。


 木場の天竜組に着いた時、八つを過ぎていた。

 惣太を玄関に待たせたまま、お静は勝手知った奥座敷に通された。歳の近いお初がお静の好物の金鍔と茶を出してひとしきり女将さんの悪口を早口で捲し立てて出て行った。女将さんは頭の母親である。なんでも小田原の方の材木商の娘だと噂に聞いているが、確かめたわけではない。

 目の前に置かれた欅の長火鉢が新しくなっている。木目の多い玉杢であった。素人が見ても高価で良いものだとわかるものだ。

「私がいた時は、先代のをそのまま使っていたのに……」

 源造の看病に暇を貰ってから半年が過ぎていたことをお静は、改めて思い直した。

「すまねぇ、すまねぇ」

 善次郎は着流しに天竜の文字を染め抜いた半纏を羽織り、笑いながら入って来た。

「おっ、気がついたかい。別においらの趣味じゃねぇんだが、どうしても使ってくれってもんがいてよ。断り切れなかったのさ」

「てっきり頭が偉くなって新調したのかと思いましたよ」

「相変わらず口の減らねぇガキだな。おいらに面と向かってそんなこと言うのはお袋かお前ェだけだぜ」

 滅多に白い歯を見せない善次郎が楽しそうに笑っていると、遅れて先代から仕えている組頭の忠吉が見知らぬ若者を連れて入って来た。おそらくお静が出て行った後に入った若者だろう。

「挨拶は抜きだ。お静坊もうちが博打を御法度にしてることは知ってるな。それをこの新三が、だ」

 頭を掻きながらぺこりと頭を下げた若者を見て思い出した。お佳代の死骸を最初に見つけた若者だった。天竜組の半纏を着ていたので気には掛かっていたが、現場の吟味を最優先にしていたため声をかけ損ねてしまった。

「それも深川蛤町の賭場に行きやがった。胴元はどうも胸糞の悪い噂しかねぇ高田屋繁蔵っていう口入屋だ。この馬鹿も禁じた博打に興じたからにはすぐにもここから叩き出すつもりだったが、とんでもねぇ話を聞いてきちまったのさ。何はさておき若親分さんにご注進申し上げねばと、御足労願ったわけだ」

 お静が話の流れに着いて行けず戸惑っていると善次郎が勿体をつけて冷めかかった茶を啜った。善次郎は粋な身ごなしに似合わず猫舌だった。

「西亥堀河岸の下手人を追ってるんだろ?」

 善次郎が小さく笑うのを見てお静が振り返ると、新三が首を竦めて頭を掻いていた。

 質屋の娘、西亥堀河岸、金を取り損ねた……などと話す声が盆御座に隣接した部屋から漏れてきたという。

 負けがこみ始めた新三が、ちょっと休憩のつもりで後ろの襖に寄りかかった時に聞いてしまったのだ。西亥堀河岸の死体を最初に発見したので耳に入ったのかもしれない。

 どうも高田屋の手下達のようだった。

 新三はついつい襖越しに聞こえる会話に聞き耳を立てた。

――死んじまったんじゃ仕方がねぇな。

――殺しちまった、でしょう? 

 お静の体が、戦慄を覚えて一瞬震えた。

 新三の話が本当ならば、お満津は嘘を言っていなかったことになる。弥七を庇っていたのではない。

 お静は薄紅色の房がついた十手を強く握って、新三を睨みつけた。

「他にどんな話をしてやがった? 誰が手を下したか言ってなかったか! 女がいたろう!」

 新三がお静に気圧され、大きな音を立てて唾液を飲み込むと組頭の忠吉から気合を入れろと、愛用の喧嘩煙管で殴られた。

「それは、……子分衆の名前までは知らねぇもんですから……」

 おぼろげな記憶を頼りに新三が汗を掻きながら懸命に話を続け始めた。

――あんなに頑固な女だったとは、見かけによらねぇもんだ。計算が狂っちまった

――性根は悪かったが顔もからだも一級品だったな。姐御さえいなけりゃみんなで輪姦してから殺したのによ

――尤もだ。しかし、もう少し相手の男の方も骨があると思ってたが、自分の女なのに言うこともきかせられねぇ

――意外と尻に敷かれていたんじゃねぇのかい? それにしても、色男も姐さんの美人局にかかっちゃ蜘蛛の巣に捕まった虫みたいなもんだぜ

 それ以上は誰かがその部屋に入って来たらしく、話題が逸れてしまった。

「美人局?」

 お静が怪訝な顔をして首を傾げた。

「美人局も知らねぇオボコ娘だったのかい? 説明してやろうか?」

「し、知ってるよ!」

 善次郎のからかいにお静はむきになって腹を立てた。

「お前ェ、金太郎って呼ばれてるんだって? そっくりだな、真っ赤な顔して」

「本物の金太郎、見たことがあんのかよぅ!」

 善次郎とお静のやり取りを眺めながら組頭の忠吉が目を細めている。

「お静坊も変わらねぇな。頭の笑い声を久しぶりに聞いたぜ」

 先代から仕えていて善次郎の教育に携わって来た忠吉を善次郎も信頼している分だけ頭が上がらない。わざとらしく咳払いして真顔に戻った。

「そいで、仙台堀の金太郎親分さんに新三を預けるからよ。面倒見てくんな」

 お静の返事を聞かずさらに新三にも声をかけた。

「下手人をきちんと上げてきたらもう一度天竜の敷居を跨がせてやる。しっかりはげめよ」

 新三が気合の入った大きな返事を返して畳に手をついている。

「勝手に決めるなよ。下っ引きをそんなに雇う余裕はねぇぜ」

 慌てて長火鉢の向こうに陣取る善次郎へお静は詰め寄り抗議した。

「尻の穴の小せえ女だな。細けぇことに心配するな。それに殺しの目星はついたじゃねぇか。高田屋をお縄にすりゃ終いだ」

「そんなに簡単に行くけぇ、きちんと裏を取らなきゃならねぇ」

「何、眉間に皺寄せていやがる。そいつがお前ェの仕事だろうが? 帰って今聞いたことを親父さんにきちんと話して指図を仰げ」

 言うことだけ言って寄り合いがあるからと善次郎が出て行った。お静の横を通り過ぎた時、川風に吹かれた気がした。善次郎とすれ違うといつもそうだった。

 頭のいなくなったのを見計らって、忠吉がずっと項垂れていた新三の頭を拳骨で殴った。

「頭の顔、潰しちゃ承知しねぇぞ」

 新三が顔を上げて、「へいっ」と、調子よく応じていた。

 新三の見るからに軽薄な物腰がお静を不安にする。

 新三の歳は二十一だと忠吉に教えられた。お静や惣太よりも年上だったが、そんなことはお静にとって関係ない。

「新三は役に立つぜ。まだ高田屋の賭場にも顔が利く。中の様子を探らせるにゃもってこいだ」

 忠吉に諭されるように促されてそれも尤もだと思ったお静は新三を連れて帰ることにしぶしぶ承知した。

「頭は、お静坊が心配で堪らねぇんだな。おいら達もみんな応援してるからよ。だが、あんまり無茶するんじゃねぇぞ」

 帰り際に忠吉から耳打ちされた。

 善次郎がお静のことを心配していると聞かされて、訳合いもなく胸が熱くなった。心の中でお静は善次郎のことを男の中の男だと認めている。それなのに何故か善次郎の前に立つと憎まれ口しか言えなくなる自分が悲しかった。何年か前に善次郎が大店の娘とお見合いしたと聞いてからそれが一層ひどくなった気がする。貧乏長屋暮らしのお静と大店の娘と見合いをするような善次郎とでは家柄の釣り合いが取れないことぐらいわかっている。

 組頭に対して、お静は素直にありがとうと頭を下げると、天竜組を後にした。



 帰り道、一人増えた道行に惣太は解せない顔をしていたが、年上の新三に「兄貴、兄貴……」と呼ばれてそれなりに嬉しそうだった。

 三十間川に架かった要橋を渡って吉永町の材木置き場付近まで戻った。まだ暮れ六つにはだいぶ早かったが、あいにくの曇り空で辺りは薄暗くなり始めている。

「どうやって高田屋の裏を取るか、だな」

 善次郎を通じて新三から聞いた話を掻い摘んで惣太に話しながら、お静は思案に暮れた。川風がお静の髪を軽く吹き散らかしていったがお静は構わず歩いた。

「親分、さっきは気づかなかったが、結構別嬪さんなんでやすねぇ」

 軽口をたたく愛想笑いの新三にはお静のこめかみにできた筋に気付かなかった。

 惣太が慌てて二人の間に割り込み、大声で新三を叱った。

「馬鹿野郎! 姐さんに何て事いいやがるんだ。今度つまらねぇこと喋ったらただじゃおかねぇぞ」

 お静より先に声を荒げたのは新三を守るためである。作り笑顔の惣太の額から一筋の汗が流れ落ちた。惣太の気持ちを察したお静は握りしめていた拳をそっと開いた。

「とりあえず源造親分に相談しやしょう。しらばっくれて花札の鹿みてぇにしかとされたんじゃ手も足も出せませんや。なおさら相手が高田屋繁蔵だ。お上のお偉いさん方にもたんまり袖の下を渡しているって確かな筋から話を聞いたことがありやすぜ。一筋縄じゃいかねぇかも……」

 寝たきりだからというだけでなく何でもかでも父親に相談したくはないお静ではあったが、いくら無鉄砲で手の方が早いと言われようが何の証拠もなしに高田屋の開く賭場へ踏み込めないことぐらいの常識は持っている。

「やっかいだな。でも許しちゃおけねぇ。尻尾を切らせねぇで、絶対お縄にするぜ」

「へいっ!」

 惣太と新三が声を揃えて気合の入った返事を返した。新三も一端の下っ引き気分である。

「ところで、惣太。美人局ってなんだ?」

「え? ああ……、そいつぁあ男と示し合わせた女が他の男を誑かし、茶店か自分の家に引き込んじゃうんですよ。いよいよってとこで強面の旦那が登場。銭をゆすり取るって寸法でさぁ」

 惣太が、殴られないように注意して言葉を選びながらお静に説き明かした。

 お静が聞いて不快になる言葉は避けなければならない。

「なんだ、親分、さっき頭の前で百も承知だって顔してたくせに……」

 新三の言葉が終らぬ内にお静の鉄拳が新三の横っ面をぶち抜いた。意表を突かれ目を白黒させる新三に惣太が同情した。

「姐さんには口のきき方に気をつけておきなって言ったばかりじゃねぇか。手の方が早ェんだからよ」

 頬を押さえあんぐりと口を開けたまま新三が何度もはしこく頷いた。

「新三の話を聞いていると弥七が高田屋の姐さんってやつに騙されたってことになるな」

「しかし、何で祝言の決まった弥七が、美人局なんかに引っ掛かるんで? 普通ありえねぇでしょうに」

 惣太の疑問も尤もである。ましてや職業柄客の誘いのかわし方も十分に身につけた小間物屋の人気手代である。高田屋の姐さんとは、それほどいい女だったのだろうか。それとも自分勝手でわがままなお佳代の正体が判って、他の女へ逃げ出したかったのか、弥七のいなくなった今となっては謎である。

「そいつがどうも判らねぇ。とにかく弥七を捜し出してぇもんだ」

「弥七って?」

 口の中を切って血を吐き捨てた新三が寝ぼけた声で惣太に聞いた。

「殺された質屋の娘と祝言を上げるはずだった男だよ。何にも知らねぇのに俄か下っ引きになってついてきたのかい? 小間物扱いの藤紅屋の看板手代だよ。覚えときな」

 偉そうに解説する惣太を無視するように新三が勢い込んでお静に歩み寄った。

「弥七って野郎は知らねぇが、藤紅屋の、背が高くって甲高けェ声を出す男がよく賭場に顔を出してましたぜ。襖の後ろから聞こえてきた声の中にもそいつの声が混じってました。間違いねぇ」

 お静と惣太が顔を見合わせた。

「仙太郎だ。あの野郎! なんか臭いやがると思ってたぜ」

 お静と惣太が同時に声を上げた。新三が取り残されたようにポカンとしている。

「仙太郎って、誰です?」

「黙っていろ! お前ェはそいつの顔、ちゃんと覚えているだろうな」

 お静が一喝した。

 新三がおずおずと頷く。

「いいか、新三。今から案内するからそいつを見つけたら惣太の肩を三べん叩いて合図しろ。惣太もいいな!」

「大丈夫でさあ、引っ張れるだけのネタは持っていやす」

 惣太が威張って腰の大福帳を力強く叩いた。

「永代寺さんまで走るぜ」

 まだ事情の呑みこめていない新三の背中をお静が強く叩いて押し出した。

「姐さんに遅れたら後のことは知らねぇぞ」

 惣太に追い抜かれた新三がお静の鉄拳の痛さを思い出したのか頬に手を当てるや、「天竜組の兄さんの方がまだましだ」と言い捨て、すぐに惣太を追った。

 三人は、藤紅屋までの道程を競って駆けた。



 鬼のような形相で藤紅屋へ飛び込んだお静達に店の中は騒然となった。

 店の主人が出てくるのと同時にそそくさと客が引き上げて行った。誰も薄紅色の房のついた十手を振りかざすお静の勢いを止めることはできない。

「仙台堀の親分さん、穏やかにまいりましょう! 穏やかに……」

 そう言っておひねりを袖の中に押込もうとする主人を振り切って、お静は荒々しく無遠慮に店の奥へ入って行こうとした。

 すぐに突っ立っている仙太郎と出くわした。喧しい店内に何が起こったのか判らない様子で戸惑った顔をしている。

 お静と惣太が仙太郎の前に立ちふさがった。

 後ろに控えた新三が、惣太の肩を三回、軽く突くやいなや、お静と惣太が目にも止まらぬ速さで仙太郎の腕を捻り上げた。

「番屋まで来な!」

 店の主人が慌てて罪状を問い質した。

「こいつにかどわかされた娘から訴えがあったのよ」

 惣太が口から出まかせに大声で叫んだ。

「親分さん、恨まれるようなことをした覚えはありませんよ。どこの娘なんです? そんな根も葉もない嘘八百並べるのは……」

 仙太郎が身をくねらせて、逃げようと足掻いた。

「紺屋の娘だよ。覚えがねぇとは言わせねェ!」

 訴えなぞ出てはいないが、惣太の大福帳には後二三人は仙太郎から騙されて無理やり犯されたり、そのことをネタに金を強請られたりしている女達の名前が記載されている。いつでも引っ張れるだけの調べはついているのだ。

 仙太郎の顔色が変わった。身に覚えがあったのか、案外素直に諦めたようだ。

 彼の態度の変貌ぶりを見た藤紅屋の主人も苦虫をつぶした表情で、仙太郎を庇うことを止めた。

 玄関先に集まって来た野次馬を新三が得意げに追い散らしながら道をあけた。



 小者の提灯に先導された清十郎が押っ取り刀で駆け付けた。

 すぐにお静が番屋の外に連れ出して中に聞こえないよう、事の顛末を報告した。

「何! するってぇと、殺したのは弥七じゃねぇと言い張ったお満津の話は、騙りじゃなかったのかい」

 夜の暗がりの中に清十郎の間抜けな顔が浮かんだ。単なる痴情の縺れぐらいにしか思っていなかった事件が予想外の広がりを見せ始めたことに八丁堀の同心は困惑の色を隠せなかった。

「仙太郎は、別の嫌疑でしょっ引きやしたが、仙太郎と高田屋がどうしても繋がっているとしか思えねぇ。そこんとこ含んで、お取り調べを」

 唸り声を上げた清十郎が腕を組み、心細い顔で夜空を仰いだ。

「なんだい、なんだい。おいらの言ったことがわからなかったのか? それとも仙太郎を落とす自信がねぇのか? わざわざ八丁堀の顔を立てて話をしてやったんだ。おいらが取り調べをやってもいいんだぜ」

「ふざけんじゃねぇ、作戦を練っていただけだ。お前ェがやるにゃ二十年早ェや」

 腰高障子を乱暴に開けて、清十郎が番屋の中に入った。お静が続いて入ろうとした瞬間、清十郎が障子を後ろ手にさっと閉めた。危うく鼻を挟まれるところだった。

「わざとやりやがったな……、下手な調べをしたら承知しねぇぞ」

 中では外のやり取りなど知らぬ顔で惣太が仙太郎を甚振っていた。

 捕り物道具が立てかけられた土間に直接正座させられて仙太郎はだいぶ参っているようであった。

「惣太、変わろう。ご苦労だったな。どこまで調べた?」

 清十郎は、威厳を保ちつつ書役の記録を覗き込みながら、番屋に召し抱えられている男が出した座布団の上にゆっくりと腰を下ろした。

「このお千代って女は、弥七目当てに藤紅屋へ通っていた客だって? 何々……弥七が待っていると呼び出して、そのまま手籠にしたってっか」

 仙太郎の供述した調書に目を通した清十郎は仙太郎に向き直って睨みつけた。仙太郎は顔をそむけたまま小刻みに震えている。

「こらぁ!」

 清十郎が大声を上げて威嚇した。仙太郎がビクッと固まって清十郎をおずおずと下から見上げた。絵に描いたように判りやすい仙太郎の心の動きにお静は笑いが毀れそうになるのを堪えた。

「てめぇは弥七に嫉妬して、弥七の持っているものはみんな取り上げるつもりだったんだろう!」

「滅相もございません……」

「人気も店の売り上げも弥七の方が上。妬ましかったんだな。どっかでやつの足を引っ張ろうと考えたわけだ」

「そんなことありませんよ……」

「嘘つけ! 弥七と祝言の決まっていた質屋の娘お佳代を殺したのもてめぇだろう。お佳代に岡惚れしていたことはちゃんと掴んでいるんだ。さぁ、とっとと白状しやがれ。獄門台に送ってやる」

 仙太郎の性格を読み切った清十郎が、脅し上げている。そして、期待通りの反応を仙太郎は示してくれた。縋るような泣き顔になっている。

「あっしじゃございません。本当です。信じて下さい。旦那っ」

 必死な目で媚びる仙太郎を清十郎は突き放した。

「それじゃ、あの日、おめぇはどこにいた? そうだよ、お佳代が殺されたあの日だよ。てめぇがやったんじゃねぇっていうのなら、身の証を立ててみろ!」

「それは…………」

 仙太郎が口ごもった。

「俺が代わりに言ってやろうか。弥七と一緒に西亥堀河岸にいただろう。垂れ込みもあったんだ!」

「あっしじゃねぇ。あっしは別の所で待っていただけだ。誓ってそこにゃ、顔出してねぇ」

 縛られている仙太郎が体を震わせて否定した。

「誰と待っていやがった!」

 長十郎は裸足のまま土間へ飛び降りるや、仙太郎の襟を掴み、首を締めあげた。

「誰と、どこで待っていやがった。白状しやがれ!」

 問われるままに喋っていた仙太郎がここに来て貝のように口を噤んだ。

「言えねぇ……」

「言えば、誰かに殺されるっていうのか!」

 仙太郎が首を背けた。仙太郎の心の中で大きく広がった恐怖が表情に出るとそのまま固く口を閉ざした。

「言いたくなければ、言わなくてもいい。てめぇの体に聞いてやる」

 立ち上がった長十郎は小者に指示を出した。

「こいつを大番屋へ連れて行け。石を抱かせて喋らせてやる」

 震えながら後退さりする仙太郎を惣太が後ろから蹴り上げる。

 お静が番屋の壁を拳で殴った。

「肝心なところは口を割らせられねぇままかよ。下手くそが! 弛んでるじゃねぇぞ」

 お静の詰る声に長十郎が振り向いた。

「これからだ。後は俺等に任せて、帰れ! おめぇらはここまでだ。着いて来なくていいぞ」

 お静の歯に衣着せぬ物言いに自尊心を踏みにじられたのか、顔を真っ赤にした長十郎は番屋の入り口の建て付けを壊して出て行った。


 仙太郎が引かれて行った後、お静達は近くの居酒屋に入った。ずっと飯も食わずにいたこともあったが、事件解決の目処がたったことで、ささやかな祝勝会も兼ねたつもりだった。酒を頼もうとした新三が「まだお務めの最中だ」とお静から殴られた。

「しかし、無理くり岡崎の旦那に着いて行かなくってよかったんですかい?」

 焼き魚に大盛りの飯を掻き込みながら他人事のように惣太が嘯いた。

「そんなことは、飯を食う前に言わねぇと言葉に力がねぇぜ。大丈夫さ。旦那もああ見えて牢問で口を割らせるのが得意なんだ」

 牢問とは、容疑者が白状しない場合、拷問の前に行われるものである。正座させて腿の上に一枚十二貫(四十五キロ)の石を抱かせる「算盤責め」、胡坐をかかせて足首から首に縄を掛けて徐々に締め上げる「海老責め」があった。それでも自白しないものについてのみ、幕府から拷問の許可が下された。ただし、拷問にかけてよいのは火付け、盗賊、人殺しなど死罪になることが決まった者に限られている。

「ま、それしかできねぇってとこもあるがな。こうなることは計算済みよ。仙太郎が甲高けぇ声上げて石を抱いてるところなんざぁ、空きっ腹で見てられるもんじゃねぇよ」

「まったくだ。仙太郎のあの怖気づき様じゃ時は掛かりませんね。それに周りでおいら達があれこれ口を出したんじゃ、旦那も落ち着かねぇか。ま、取りあえずは新三さんのお手柄ってわけですね」

 お静の前で口を開くのが恐くなった新三が、もくもくと漬物で飯を食っている。

「姐さん、漬物だけじゃ可哀そうだよ。魚ぐらいつけてやんなよ」

 つい惣太が同情してみせた。おそらくお佳代殺しが解決した安堵感に心も広くなったのだろう。

「そうだな、新三。好きな物、一品頼んでいいぜ。そろそろ捕り方を引き連れて奉行所が高田屋に乗り込んでる時分だ。よかったな。これでおめぇも明日には晴れて天竜に帰ぇれるぜ」

 お静の話を最後まで聞かずに新三は店の小僧を呼んで、品書きの一番端で一際大きく貼り出された鯛の味噌漬けを頼んだ。

「おいら達も高田屋に向かわなくていいんですかい?」

 一番高い物を頼みやがったと睨んだ惣太に新三が、言い訳がましく聞いてきた。

「いいんですって。お佳代殺しの一件はこれでケリつく。まさか奉行所に取りこぼしはねぇ。お手先があんまり目立っちゃ十手を預けてくれた八丁堀の旦那に申し訳ねぇってもんだ。それに姐さんは本式に旦那から十手を預かってるわけじゃねぇし」

 そんなものかと納得しながら新三が頷いているが、肴をつつく手は休めない。

「ところで新三さんよぅ。賭場は蛤町のどこでやってるんです?」

 賭場に足を踏み入れたことのない惣太が興味深そうに新三へ話を向けた。

「陽岳寺。蛤町にある高田屋から江川橋を渡ってすぐの寺の中でさあ」

「知ってるよ。おいらの長屋のすぐ近くじゃねぇか。ほとんど目と鼻の先だぜ」

 お静は、藤紅屋のある永代寺門前山本町と口入屋高田屋繁蔵の店のある蛤町、それに平野町の陽岳寺とお静は頭の中で辿ってみた。永代寺門前山本町と蛤町は十五間川に阻まれているが、油掘に架かった富岡橋を廻ればすぐである。子供の頃、惣太等近所の悪ガキを従え捕り物の真似をして遊んでいた場所内であった。

「繁蔵んとこの若い衆は何人いる?」

「さぁ、ざっと三十人くらいですかね。目立った子分衆は、代貸の松五郎、若頭の安助……用心棒の浪人者も何人かいやす」

「姐さんってのはどんな奴だい?」

「おそらく親分の女だと思いますが、滅多に賭場へは顔を出してねぇようです。弁天様みてぇに綺麗だと子分の誰かが話しているのを聞いたこともありやすが、あっしはまだ会ったことがねぇ」

 繁蔵の妾で、岡場所で女郎をしていたのを身受けされたらしい。吉原の散茶だったという噂もあるが確かなことは誰も知らない。歳は三十を少し出たところで、五十に近い繁蔵から可愛がられていることをいいことに高田屋の稼業を一手に引き受け、その手段を選ばない遣り口から、外面似菩薩、内心如夜叉そのものだといわれている。新三が知っているのはそれくらいだった。

「そいつぁ御利益がありそうだ。一度拝んで見たかったな」

「あっしもそれが残念なんで……」

「そうだな。てめぇも男っぷりがいいから、ひょっとしたら惚れられたかもな」

 いい加減なお静の言葉に新三が嬉しそうに相好を崩した。

「新三さんって素直なんだね。姐さんの皮肉も通じねぇや」

「木場の男は惣太と違って真っ直ぐなんだよ」

 大きな音を立てて蕪の漬物を噛み砕きながら何気なく呟いたお静の言葉に、惣太も新三もそれぞれ別の思いを胸に抱え、口を尖らせて何か言いたげであった。

「とにかく、あんまり遅くなんねぇうちに、今までの首尾を源造親分に知らせましょうよ」

 飯の御代りをしようとした新三を遮って惣太が立ち上がった。

「そうだな、新三、飯代、払っといてくれ。出掛けに組頭から小遣い貰ってたろ? 見てたぜ」

「ええっ、そりゃないよ、親分」

 甘えた声を張り上げた新三だったが、すでにお静と惣太はその居酒屋を出た後だった。


 万年町の甚兵衛長屋に戻ったのは、四つを四半時過ぎていた。

「お父っつぁん、遅くなってごめん。天狗って居酒屋覚えてるかい? そこの親仁がお父っつぁんにって、土産くれたよ。ホタルイカの沖漬けだって。腹減ってねぇかい?」

「ご機嫌だな。腹は大丈夫。隣のお松さんがおめぇの代わりに晩飯の支度をしてくれたよ。明日の朝飯に取っときな」

 惣太に続いて入って来た新三が源造に挨拶した。

「善次郎さんとこの若い衆かい。どうしたい? こんな時分に」

 お静があらましを説明した。

 少しばかり高揚したお静に比べ、源造はいつものように惣太の大福帳を捲りながら黙って聞いていた。

「そんな次第で、下手人を上げるまでこいつぁ頭ンとこの敷居が跨げねぇ約束なのさ」

「そいつぁよかったじゃねぇですかい、新三さんとやら。明日にゃ奉行所で顛末がわかると思いますぜ」

 源造が一番の功労者である新三を労った。

 惣太が框から体をせり出すようにして源造の方を向いた。

「親分、高田屋の繁蔵ってどんな悪い奴なんです?」

「ああ……。おめぇ等の話を聞いても俄かに信じられねェんだが、俺の知っている繁蔵はケチな小悪党で、大それたことのできる奴じゃなかった」

 繁蔵は口入れ屋稼業の合間の手慰み程度に賭場を開いている男だった。永年連れ添っていた女房とも数年前に死に別れ、二三年前、気風のいい夜鷹の女に入れ上げてしまい、挙句の果てに後添いとして店に入れたという。駒吉という名だった。よく働く女で、信用を得てからは、口入れ屋の勘定から仕切りまで全て任されるようになっているようだ。

「駒吉って、源氏名ですね? 男名を名乗るってことは、羽織芸者の落ちこぼれかもしれねぇな」

 源造の頬が緩んだ。惣太の勘繰りが正しかったからだ。

「よく気がついた。何年か前に日本橋の置屋で客を取った取らねぇで芸者同士の大喧嘩があった。あんまり仁義を欠いたひでェやり口なんで、前からその女を快く思ってなかった芸者達も客を巻き込んで大騒ぎになったそうだ。とどのつまり、女は袋だたきにされて、追ン出された」

「それが駒吉で?」

 顔を輝かせた惣太と新三が膝をすすめて源造に近づいた。

「その後、置屋から日本橋はおろか深川、浅草にも回状が廻って、駒吉はどこの店でも雇ってもらえず夜鷹になったっていう話だ。気の強えェ女だったってよ。いくら金を積んでも気に入らねぇ男とは寝なかったそうだ。最初は繁蔵も肘鉄砲を喰わされていたらしい」

 気の強いと言った源造の言葉に反応して、新三と惣太が思わすお静の顔を見た。

 しかし、お静はふつふつと湧いてきた疑問に夢中で、二人の視線が気づかなかったようだ。

「その女がどうして弥七に美人局なんかしたんだろうね? お父っつぁん、言っちゃあ悪いが、弥七なんか別に小間物屋の手代で金持ってるとは思えねぇ。店の金に手をつけさせようとしたんだろうか……、何考えて繁蔵は弥七を罠にかけたりしたんだろう?」

「繁蔵は関係ねぇはずだ。奴は俺より早く中気で寝たきりになってる。俺ァ見舞いに行ったことがあるぜ。島内だからな」

「……寝たきりの爺ィよりも……若けェツバメが欲しくなったんじゃねぇだろうか」

 新三が遠慮がちに口の中でぼそっと呟いた。無意識に腕が自分の顔を防御している。そんな新三に「親父さんの前じゃ淑やかにしてるよ」と惣太が耳元で囁いた。

「これで弥七も姿を現しゃあ、本当に姐さん、鰻の蒲焼喰わしてくださいよ」

「あっしも喰いてぇ。なんだか鼻の辺りがムズムズしてきた」

「静かにしねぇか。周りはもう、みんな休んでる。朝の早ぇのもいるんだ…………」

 確かに長屋でまだ行燈が灯っているのはお静の棟だけだった。

 はしゃぐ惣太と新三を叱りながらお静は衝撃を受けた。そのまましばらく考え込んでしまった。惣太が訝しそうにお静の顔を覗く。

 動機はまだ解らないがお佳代殺しは高田屋だ。そのことを突きとめて有頂天になっていた自分が情けなくなった。

 あのまま姿を消した弥七はどこに行ったのだろう。

 お満津の話では、弥七もあの西亥堀河岸にいたのだ。どこかで必ずこの事件に絡んでいる。まさか先手を打った高田屋に殺されてしまったか?

 それも今夜高田屋へ手入れに入った長十郎が戻ってくれば、すべてわかるかもしれない。

 そんなことを考えている内に、建てつけの悪い腰高障子が癇に障る大きな音を立てて開いた。


 仏頂面の岡崎長十郎が肩を落として棒立ちしていた。

 惣太も新三も思わず身を乗り出して長十郎を歓迎したが、事の顛末を知らせに来てくれたとしたら早すぎる。お静の勘では、まだ高田屋で捕り物の最中のはずだった。

「金太郎、茶を一杯入れてくれ」

 腰の刀を大小ごと引き抜くと長十郎は、上がり框にどっかと腰を下ろした。

「おめぇなんぞに飲ませる茶はねぇ。もう捕り物は済んだのかい? 早すぎやしねぇか。しっかり高田屋の連中をお縄にしたんだろうな」

 そうお静が低い声で唸る横で、惣太が長十郎に座布団を出すと小まめに動き茶の支度を始めた。

「口のきき方に気をつけねぇと、仙太郎の調書、見せてやらねぇぞ」

 わざと不遜な振る舞いでひらひらさせる書付の束をお静が引っ手繰った。源造が床の中から平身低頭謝ったが、長十郎は調書を取られた手で少し伸びかけた顎の髭をさして気にする様子もなく触った。

 ひどく疲れて見えるのは取り調べの後だからであろう。

「これによると、仙太郎が弥七を美人局に引きこんだってことかい」

 お静は体を半分起こした源造にも見えるようにと床の上に小机を置いて、その上で読み進めて行った。惣太と新三もお静の後ろから行燈の灯が上手くあたるように加減しながら覗きこんでいる。

 新三は意外と機転が利くのか長十郎の湯呑みが空になると出涸らしの茶を注いでいた。茶葉を変えようとしてお静から睨まれてから申し訳なさそうにしているが、考え事をしているように遠くを見つめる長十郎には一向に気にした風はない。

「最初は、藤紅屋へ花名刺と紅を買いに来た駒吉を誰なのか知らずに仙太郎がちょっかいを出して、賭場に引っ張り込まれたわけか……」

 若い女の持っていない色気と女郎衆にはない品と気風の良さに、女誑しを自認していた仙太郎の食指が動いた。しかし、逢瀬を重ねて行くうちに、褥を共にすることもなく、気がついてみるといつの間にか繁蔵の賭場に入り浸るようになっていた。そして、はじめは博才があるのではないかと誤解するほど勝ち続けていたものの、そこには賭場の中盆と壺振りが仕組んだからくりがあった。何時しか五十両の借財を拵えるに至った。散々高田屋のやくざ者に脅されてその頃には駒吉がどんな立場の女なのか仙太郎も理解し始めていたようだ。

 そんな中、仙太郎からの話で、弥七が菊川町の質屋に入り婿で入ることを駒吉が知った。

 仙太郎によると、どうも駒吉は口入れ屋だけでなく、正業を拡大しようとしている節があった。それも地道に店を立ち上げてというのではなく、既存の店を客ごと根こそぎ奪おうという相当乱暴で危ないものであった。

 実際何店かそうして手に入れ、気の利いた若い者に運営を任せているようだ。そして、見切りも早く上手くいかないとわかったらすぐに店をたたんで中身ごと一切合財売り捌く。


「常磐町の古着屋って、去年親爺が首吊ったところだろう? 借金で首が回らなくなったって聞いたが、後に高田屋が入ったのかよ」

 意表を突かれたのか、惣太が身を乗り出して調書の同じ所を読み返した。

「死ぬほどのことじゃなかったってあの界隈じゃ、その噂でもちきりだったんだ……。あん時、気付いていれば……」

 惣太と目の合った源造が黙って頷いた。惣太が唇を噛んだ。裏まで読めず看過した自分を責めずにいられない悔しさがお静にも伝わって来た。

「……先を読むぞ」

 お静に促された惣太が震える手で書付けを捲った。


 仙太郎のことを当初邪険にしなかったのはどうも藤紅屋を狙っていたせいらしい。店の情報を取れるだけ取って、仙太郎が店の中でただの手代であることや店に何の影響力もないとわかると、いきなり仙太郎の相手は若頭の安助に移った。それから何度も店の売り上げを誤魔化して安助に渡さねばならなかったという。

 帳簿を弥七から調べられて、追求された仙太郎は、安助に相談した。そして安助の指示通り弥七を騙して茶屋に連れ出したのだ。

 横領した金を返し、店に詫びを入れる相談をしたいという嘘に一人で出かけた弥七だったが、さらに 仙太郎は不足の金を用立ててくれる後ろ盾にも会ってくれと懇願した。

――弥七、すまねえが、おいらが橋渡しするんで、お前さんの都合のつく日をこの紙に書いてくれねぇか。晦日は忙しいから、三日か四日がいいか。そうそう、日付の隣に場所も書いてくれ、……この店でいいやね、人目につかねぇにこしたことはねぇ。そうだ、『はなちるさと』だ。「不如帰花散る里を訪ねてぞ」の『花散る里』だ。宵の五つでいいだろ? 膳も用意しなくちゃならねぇ。いらねぇだって? お前さんに用意するんじゃないよ。後ろ盾になって下さるお方に粗相があっちゃあいけねぇからだよ。大事なお方だ。おいらも一緒にいるから心配ねぇよ。最後に弥七って書いてくれ、相手に失礼だからな。後生だ。恩に着るぜ。そうそう、忘れていた。宛名だ。ここんとこへ、駒吉さんへと書いてくれ

 その時はまだ、弥七は駒吉を男だと勘違いしていた。

 仙太郎は弥七が書き終わるや、その書付を引っ手繰り、慌ただしく折りたたんで懐に仕舞い込んだ。

 何をしてるお人だい? どこに住んでいるんだい? と、仙太郎は何度もその日が来るまでしつこく聞かれたという。

 そして、翌月の月初め、仙太郎と弥七は藤紅屋をこっそりと抜けだして柳橋の茶屋へ出向いた。

 襖を開くと、そこには妖艶な女が片膝を立てて手酌で酒を飲んでいた。駒吉のことを十分承知の仙太郎もその時はその妖しい美しさに息を飲んだほどであったようだ。

 駒吉が女だと判った時の弥七は困惑したが、それでもまだ仙太郎の後ろ盾だということを信じて、露も疑っていない素振りであった。

 しばらくしてから駒吉の合図で手洗いに行くふりをしてその場から帰ったために、二人がどうなったかわからないと仙太郎は供述していた。もちろん少し離れた廊下には安助をはじめ高田屋の若い衆が駒吉からの踏み込む合図を今や遅しと待っていた。


「弥七も迂闊だったね。七月三日、花散る里に宵の五つ、駒吉さんへか……まるで、付け文だ。しっかり証拠を残しちまったなぁ。それで、仙太郎のように手枷首枷、雁字搦めの弥七が婿として質屋に入った後、乗っ取る算段だったんですかね」

 惣太が導き出した考えにその場にいた者達は異論を挿まなかった。

「しかし、振り切って帰れねぇもんですかねぇ」

 新三の声に弥七を少し軽蔑した所があった。それにはお静も同じ気持ちだったらしい。

「優男はみんな同じようなもんだ。そんなことより誰に、そして、どうしてお佳代が殺されなきゃならなかったってことだ」

 お静にとって弥七が美人局に遭遇しようがしまいがどうでもよかった。

「その先、仙太郎は絡んじゃいねぇよ」

 調書の先を読み進めようとしたお静が手を止めた。確かにその後は仙太郎の追及に携わった面々の名前がずらりと記されているだけだった。

「旦那、調べが甘ェんじゃねぇのかい? お佳代が殺された日、弥七が帰ってくるのを待っていたって番屋で言ってたじゃねぇか!」

「弥七とお佳代の逢い引きに気付いた仙太郎がわざわざ高田屋へご注進に走ったそうだよ。そこで待たされていたらしい」

「だったらこの山も終いじゃねぇか! そんなとこで出涸らしなんか飲んでねぇでトットと駒吉をしょっ引いて石でも何でも抱かせやがれ!」

 いきり立つお静から眼を逸らした長十郎が体を震わせて大声を出した。

「そうもいかねぇんだよ! 手回しよく遊び人の若造が、てめぇがやりましたと血糊のついた柳刃包丁持って奉行所へ自訴して来やがった。一目惚れして追いかけまわしている内に、男と密会している現場に出くわし、カッとなって殺っちまったんだと」

「そんなもん身代りに決まってるじゃねぇか! 新三の話を聞いただろ!」

 今にも長十郎を殴りつけそうなお静が何でそんな簡単な嘘も見抜けないのかと詰る。

 惣太が後ろから抱きとめるようにお静を宥めながら間に入った。

「どんな野郎なんで、旦那?」

「浅吉って、上州訛りのある男だ。高田屋なんぞ関係ねぇとほざきやがった」

 浅吉の尋問を思い出したのか、長十郎が拳で柱を殴った。

 惣太の後ろで遠慮がちにお静の帯を掴んでいた新三が思わずその手を放した。

「ひょっとしてその男は、右足を引きずってなかったですかい?」

 いきなり立ち上がった新三が引き攣った声で長十郎に詰め寄った。

「てめぇ、どうしてそれを知っている?」

「浅吉は石切り場で足に怪我したんだ。それにずっと臥せったおっ母さんがいるはずだ」

「新三!」

 お静が新三の襟を締め上げた。

 新三が腰から落ちるようにその場に座り込んだ。

 働けなくなった浅吉は自暴自棄になり高田屋の賭場に入り浸っていた。江戸に仕事を探しにきて口入屋の高田屋に顔を出したのが賭場に出入りするきっかけになったようだった。言葉は交わしたことはないが、会えば挨拶はする新三であった。いつも虚勢を張って苛々していたが、代貸しの松五郎に声を掛けられると従順にしていた。噂だが、松五郎に母親の膏薬代の面倒を見てもらっているらしかった。

「かなり負けがこんでやがるのに何で遊ばせてもらってるのか、不思議でしょうがなかったんだ」

「どっかで仙太郎がしょっ引かれたのを見られちまったか……。身代りを立てやがった」

 惣太が悔しそうに拳で畳を打ちつけた。

「西亥堀河岸の殺しは一件落着。これ以上の探索無用と上からお達しが出た。仙太郎もお咎めなしで解き放ちだ」

 お静は怒りで体が震えた。

「誰でぇ! お奉行がそう言ってきたのか! てめぇ誰の味方だい? どっちを向いて仕事してやがる。八丁堀はもっと骨のある男の集まりだと思っていたぜ。偉そうに朱房の十手なんか振り回しやがって、上の奴に尻尾振る野郎には、そんなもん持つ資格はねぇ。返上しろィ!」

 襟を掴んで首を絞めるお静を長十郎は突き放した。飲みさしの茶が毀れ、土間に落ちた茶碗が割れた。

 惣太と新三が源造に頼まれて必死にお静を押さえ込んでいる。

「今夜は、もう手を引けと言いに来た。奉行所の命令だ。ご苦労だったな、金太郎。今までよくやった」

「気安く金太郎なんて呼ぶな! 袖の下、いくら貰ったか知らねぇが、おいらヤメねぇぞ。きっと駒吉をお縄にしてやる。お縄にするまでは引っ込めねぇ」

「すまねぇ、旦那。お静にゃよっく言い聞かせておくから、あっしに免じて今夜はお帰りくだせぇ」

 源造が必死に床から這い出して長十郎に詫びた。すぐ横で顔を真っ赤にしたお静が男二人に押さえつけられた畳の上で唸っている。

 荒々しく戸を開けて出て行った長十郎の背中が悔しさで震えているのはお静に見えなかった。

 押さえつけている二人の腕の力が緩んだ途端、お静はいきなり惣太と新三を殴り飛ばした。

「お父っつぁんも見損なった。病気して気も弱くなっちまったかい!」

「お静、座れ! 岡崎の旦那がどうして門外に持ち出せねぇ書付を見せてくれたか考えてみやがれ。岡崎の旦那も辛ェんだ。みんな集まれ。さ、もう一度手配りをやり直すぞ。みんなこのままじゃ気が済まねぇことぐらい判っている。駒吉に喧嘩売られて黙ってるのか!」

 座れっ、ともう一度叫ぶ声がお静の体を貫いた。冷静なのは源造ただひとりだった。

 惣太も新三もやりきれない憤りに震えている。二人の熱い怒りがお静に切々と伝わって来た。

「駒吉は先手を打ってトカゲの尻尾を切りやがった。こうなったら駒吉の悪事を広く世間に晒すしかあの女をとっ捕まえる方法はねぇ。奉行所がどうしても引括らなきゃならねぇ仕掛けをつくりだすことだ。しばらくは新三さんとお静達は別行動にするぜ。新三さんが俺達の仲間だと知れちゃあいけねぇ。わかったな」

「それであっしは?」

 新三が源造の真意を必死で読み取ろうと膝を乗り出した。

「新三さんには、高田屋の賭場へ入り込んでもらいてぇ。俺の勘じゃ今の高田屋を仕切っているのは駒吉じゃねぇかと思う。きっと代貸の松五郎か若頭の安助あたりを抱き込んで悪さをしているような気がするんだが、その辺りの事情を探ることができるかね」

 源造のしくじりを許さない険しい目がきらりと光った。

 新三が唾を飲み込みながら頷いたのを見て、次に惣太へ向き直った。

「浅吉のおっ母さんの様子を見て来い。近所の聞き込みに廻れ」

「おいらは何をすればいい?」

 お静が不満そうに父親へ食ってかかった。

 だが、腹をくくった新三が無言で何度も頷くのを横で見ているうちに、お静は不思議と落ち着いてきた。何故か善次郎の顔が頭の中に浮かんできたのだ。このままではお静も天竜の敷居を跨げないと思った。



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