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使いどき

作者: 竹村航
掲載日:2026/08/27



「肺。丸ごと。明後日の午前六時から」


申請書は、置かれたというよりカウンターの天板に叩きつけられた。市民課の窓口には朝いちばんの乾いた紙の匂いと、床用ワックスの甘ったるい匂いが溜まっていて、三好はその紙を裏返しかけた手を止め、指の腹で角を揃えてから、ようやく顔を上げた。


「苅田スエさん。器官のご指定が……肺、両方、ですね」


「両方じゃなきゃ困るだろう。片っぽだけ十倍にして、もう片っぽがそのままだったら、胸の中で喧嘩になる」


「いえ、そういう理屈では動かないんですが」


「動かないならなおさら両方でいい。書き直させないでちょうだい。字を書くのは嫌いなんだ」


嫌いだと言った手が同意書の欄に伸びて、ボールペンをひどく短く持った。親指の付け根に、消しゴムを埋めたような固い盛り上がりがある。署名は思いのほか速く、線が濃かった。


「発効のご指定は、申請日の翌々日以降になっております。本日が水曜ですので」


「だから明後日って書いたんだ。金曜の午前六時。読めない字だった?」


「……読めます」


三好は端末に打ち込みながら、暗記している文言を順番どおりに並べていった。効力は発効時刻からまるまる二十四時間。指定できる器官はひとつだけ。医師の承認は要らないが、同意書の署名は本人がすること。台帳の記録は消えないし、二度目はない。


「それ、何回言うの」


「規定でして。読み上げないと私が怒られます」


三好は台帳の画面をこちらに向けかけて、やめた。何度も見てきた欄に、見慣れない語が入っている。肺。しかも両方。


「あの、皆さん、だいたい目か耳を選ばれるんです。あとは、脚とか」


「あたしは四十年、クレーンで荷を吊ってきたの。見るのはもう十分」


「クレーン」


「ガントリー。脚の長いやつ。あそこの、港の」


窓の外は見えなかったが、スエは親指で背中の方角を指した。三好はその親指を見た。爪が平たく、幅が広かった。


「目を十倍にしたところで、見えるのは隣の亭主の鼻毛くらいだろう。あんなもの、十倍にしてどうする」


隣の窓口で印鑑証明を待っていた男が、顔を上げた。そのまま、下げなかった。


**2**


部屋は港のすぐ裏手、二階建ての角部屋だった。台所の流しの脇にフィンが二枚立てかけてあって、洗ったあとの水が床に落ちないよう、下に新聞が敷いてある。ゴムの匂いは乾くほど強くなる。スエはその匂いのする台所でやかんを火にかけ、湯が鳴りだすまでのあいだに、押し入れの段ボールを引き出した。


出てきたのは鼻クリップと、埃をかぶった水中眼鏡だった。ガラスに白く曇りが焼きついている。スエはそれを指で拭いて、また箱に戻し、蓋を閉じた。


椅子には、会社から持って帰った運転席のクッションを敷いてある。尻の形に凹んだまま戻らない。座ると、体のどこがどう乗るかを尻のほうが先に思い出す。窓の外には、朝の光の中でガントリークレーンが四基、脚を並べて立っていた。いちばん右の一基だけ、ブームがまだ上がったままだ。あの上げ方は勇の親父の癖だと思いながら、スエは机の抽斗から罫線の潰れたノートを引っ張り出した。


鉛筆で書きつけてあるのは、その日に潜った深さの列だ。一八。二一。二一。二四。日付と、そのときの水温と、耳の抜け方の丸とばつ。二四のところで列が終わっている。


鼻をつまんで、耳の奥へゆっくり押した。左は素直に開いた。右がひと呼吸遅れて、こもった膜の向こうで小さく鳴った。二度、三度。三度目でようやく揃った。


四十年吊って、手で触ったコンテナは一つもない。運転席のガラスの床越しに、荷はいつも真下にあった。触るのは操作桿とワイヤーの張りで、荷の重心はそこから読んだ。指がそれを覚えている。


やかんが鳴った。スエは火を止めず、鉛筆を握り直した。


四〇、と書いて、丸で囲んだ。


**3**


諸岡ダイビングサービスの事務所は、岸壁の倉庫を半分に区切った造りだった。ネオプレンと塩と消毒液の匂いが層になって溜まっている。スエは一升瓶を机に置いた。


「氷、ある?」


「じゃあ持ってきて。話はそれからだ」


諸岡は三十半ばで、日に灼けた首と、ほとんど白いままの額をしていた。冷凍庫からアイスペールを出し、グラスをふたつ置いた。一杯目を注いだのはスエだ。


「青の間って呼ばれてる部屋があるだろう。湾の外の壁、入口が四十メートル」


「よくご存じで」


「あんたの店のブログに書いてあった」


「消しときゃよかった」


「朝のいっときだけ天井が滲むって書いてたね。あれ、いつ」


諸岡はグラスを持ったまま、指を斜めに立てた。


「天井の穴が、まっすぐ上に抜けてないんですよ、斜めに刺さってる。だから太陽が低いうちだけ光が穴の軸に乗って、上がっちまえば壁を舐めて終わり、一時間ってとこですね」


「その一時間に入る」


「無理です」


即答だった。諸岡はグラスを置き、二杯目を自分で注いだ。


「入口から部屋まで、横穴が一本。狭いところで幅一メートル。タンクを背負ってると引っかかるんで、うちは年二回しか入れません。年二回ってのは、行きたくないって意味です」


「息は要らない。二十四時間、十倍の肺で行く」


「知ってます。役所の姉ちゃんが飲み屋で喋ってました」


「あの子、あとで叱っとくよ」


諸岡は笑わずに自分の店の壁を見ていた。免許証と、保険の証書と、講習の修了証が額に入って並んでいる。


「苅田さん。俺が船を出して、俺の名前で潜らせて、何かあったら、この壁が全部紙屑です。あんたのためじゃない。俺の話をしてます」


「そうだろうね」


「わかってて来たんでしょう」


「わかってて来た。断るのも仕事のうちだ」


スエは三杯目を注いだ。氷が鳴って少し溶けた。それから、思い出したふうに訊いた。


「部屋の奥に、まだ穴があるって書いてたのは本当かい」


「床のほうに、もう一本下がってます。誰も入ってない」


「ふうん」


「行きませんよ」


「訊いただけだ」


四杯目のあと、諸岡がマスクの話を始めた。度付きの貸出しもある、視界がないと方向感覚が飛ぶ、と。


「マスクは要らない。持っていかない」


「なに言ってんですか。真っ暗ですよ。何も見えない」


「ガラス越しは、四十年やった」


諸岡は口を開けて、そのまま閉じた。スエは五杯目を自分で注いで飲み干した。一升瓶は初めから置いていくつもりで提げてきた。


立ち上がって、上着の内から札を二枚出して机の隅に置いた。


「氷代」


「いや、氷は」


「取っときな」


戸は建て付けが悪くて、閉めるのに腰を使った。


**4**


岡部内科の診察室は消毒薬とプラスチックの匂いがして、聴診器の金属が背中に当たった瞬間、スエは短く息を吸った。冷たい。岡部は無言でカフを巻き、圧を上げ、目盛りを読み、それから聴診器を首にかけたまま椅子を回した。


「服、上まで捲ってください」


「六十八の裸なんて誰も見やしないよ。見た奴が損するだけだ」


「私はもう見てます」


「じゃあ損したね」


岡部は笑わずに、机の上のカルテを叩いた。口の左端だけ動く癖がある。


「肺が大きくなるわけじゃないんですよ。胸郭は同じだ。入った酸素の扱いが変わるだけで」


「窒素だろ」


岡部の口の端が止まった。


「深いところで血に溶けて、上がるときに泡になる。だから五メートルで三分止まる。若い子をそこに一人置く。以上」


「……それは、二つ目に言うつもりでした」


「一つ目は」


「心臓です」


岡部は指を一本立てて、それから面倒くさそうに手を開いた。


「深いところに行くと血圧が跳ねます。冷たい水に顔をつけただけで脈が落ちる人もいる。肺だけでしょう、十倍になるのは。心臓は六十八のままだ」


「知ってるよ」


「三つ目は耳だ。抜けない耳で下りると鼓膜が」


「右が渋い。三回目で揃う」


「……三回もやるんですか」


「一回で揃う耳のほうが珍しいだろう」


岡部は口を開いて、四つ目を言おうとした。言おうとして、言葉を探して、探しているあいだにスエが先に喋った。


「先生、金曜の朝、空いてる?」


「木曜が当直ですが」


「じゃあ空いてる。船に乗って」


「は?」


「乗って、そこで見てりゃいい。時計を持って。あたしがいつ潜って、いつ上がったか、秒まで書きな。書くだけでいい。文句は上がってから聞く」


「私は止める側で呼ばれたつもりなんですが」


「呼んだのはあたしだよ。自分で予約を入れた。止まらないんだから、書くほうが役に立つ」


岡部は聴診器を外して机に置いた。ゴムの管が輪になって、ゆっくりほどけていった。


「ウェットスーツは着てくださいよ。冷えると脈がおかしくなる」


「着るよ。着てなきゃ寒くて話にならない」


診察室の外で、番号を呼ぶブザーが鳴るのを待っている人の気配がした。岡部が次の患者を呼ぶまでに、いつもより長くかかった。


**5**


岸壁のコンクリートは昼のあいだ焼けて、夕方になっても足の裏に熱を返してくる。スエは倉庫の前にブルーシートを広げ、借りてきた器材を全部並べさせた。


大地と勇と凛は、大地の親父の漁船で沖の網を手伝っている連中だった。三人とも人の話を途中までしか聞かない癖がある。


「船は明日の朝、四時半に。燃料はこっち持ち」


スエは封筒を大地の胸に押しつけた。大地が中を見て、目を丸くした。


「多いって」


「親父さんに渡す分と、あんたらの分。文句は親父さんに言って」


「いや文句じゃなくて」


「じゃあ黙って取っときな」


「これ、どこの器材」


「諸岡んとこ。金は置いてきた」


ロープは自分で買った。膝で押さえて端を焼き、輪を作る。作り方が三人の知っているどれとも違った。


「それ何結び」


「巻き結びの尻を殺したやつ。荷を吊るときの。テープ、寄越して」


赤いテープを巻きつけていく。等間隔なのは目分量ではなく、腕の長さで測っているからだ。


「これが目印。凛、あんたが待つのはここ。赤が二本続いてるところ」


「五メートル?」


「そう。あたしが上がってきたら、そこで三分止める。あたしが行こうとしても止める。腕でも髪でも掴んで止めな」


「掴んでいいの」


「掴まないほうが怒る」


大地がウェットスーツを持ち上げて、厚みを指で潰した。


「これ、けっこう浮くよ」


「浮くよ。だから鉛を足す」


スエは鉛のブロックをベルトに通し、腰に当てて、また外した。位置を三度変えた。


「多く足しゃいいってもんじゃない。この生地は深いところで潰れて、潰れた分だけ浮く力が減る」


「減ると?」


「荷が軽くなるんじゃない、こっちが重くなるの。下りるほど落ちる速さが増える。水面でぎりぎり沈むだけにしといて、あとはロープを手で手繰る」


勇が首をひねった。


「そんな細かいこと、水ん中でわかる?」


「わかるよ。重心を腹に置いとけばね」


スエは鉛の位置を直した。腰骨の少し前へずらして締め直す。そこなら体が前のめりにならずに立つ。


それから三人に手信号を教えた。握った拳を上げれば巻け。掌を下に向けて押せば下げろ。指を揃えて横に切れば、止め。


「声は届かない。手だけだ。覚えな」


「覚えるって、三つだけ?」


「三つで四十年やった」


日が落ちて、岸壁の照明が点いた。凛が水際でロープの赤い印を数え、数え終わって振り返り、手を上げて、握った。


止め、の合図だった。


**6**


木曜の夜、風は北西から来ていた。


スエは岸壁の先端に立って、頬の右側にそれを当てていた。海面は細かく立って照明の光を割り、防波堤の向こうで波が同じ間隔で崩れている。


「北西だと、朝はどうなるの」


凛が横に来て、同じように顔を向けた。


「このまま吹き続けりゃ、朝は外洋が立つ。でも夜半に落ちて、夜明け前には陸から吹きだす。陸が冷えるからね」


「わかるの、それ」


「頬で分かる。強い風は当たった側が痺れるだろう。落ちる風は痺れない、撫でて終わる。四十メートル上でスプレッダが振られるかどうか、朝いちばんに頬で決めてたの。当たったら吊らない、撫でたら吊る」


「当たったらどうすんの」


「休憩。缶コーヒー飲んで、風が落ちるまで待つ」


エンジンの音が入ってきたのは、そのときだった。


低い音が防波堤の内側を回り込んで、岸壁に沿って落ちていく。スエは振り返らなかった。凛が先に走っていって、投げられた舫いを受け取った。


諸岡の船だった。船縁に、彼のタンクが二本、固定されている。


「そこ、うちの係留じゃないですよ」


大地が言うと、諸岡は聞かなかったふりをして、舫いをビットに掛け直した。掛け方がやたら丁寧だった。


「タンクは積んどく」


「使うの」


「使わない」


それだけ言って、諸岡は船尾に座り、レギュレーターの点検を始めた。スエは岸壁の先端に立ったまま、彼の背中へ目をやり、また海のほうを向いた。


「先生は」


「当直明けでそのまま来るって」


大地が船の時計を覗きこんで、指を折った。


「六時に効くんでしょ。なんで六時四十分なの。すぐ行けば」


「四時半に出て、着けるのが五時半。効くのが六時。船を壁の上まで寄せて位置を掛け直して、あとは慣らす分だ」


「慣らす」


「一発目でいきなり潜る馬鹿があるか。息の勝手が変わってるのに、変わり方も知らずに沈むのかい」


諸岡がレギュレーターを置いた。


「日が乗るのは、早いほうです」


「知ってる」


スエは頬をもう一度、風のほうへ向けた。風は当たらなかった。撫でて、そのまま抜けていった。


「六時四十分。それで行く」


**7**


金曜の朝、船は湾の外に出て、壁の上で止まっていた。空はまだ灰色から抜けきらず、水平線のあたりだけが金属を薄く延ばした色をしている。エンジンを落とすと、船体が波に当たる音だけが残った。


岡部が腕時計を見て、指を立てた。


「五時五十九分」


「はいはい」


スエは船縁に腰かけ、両手を膝に置いた。凛が息を詰めているのが背中で分かった。


六時が来て、そのまま何事もなく過ぎていき、痛みも熱も震えも来ないので、スエは試しに一つ吸ってみたのだが、息はいつもどおりに入ってきて、胸が広がる幅も、肋のあいだが引っ張られる感じも、鼻の奥をひやりと通っていく空気の量も、なにひとつ変わってはいなかった。


変わったのは、入った先だった。


吸った空気は胸のところで止まらずに、肩の付け根を抜け、肘を通り、指の先まで行って、そこまでは分かるのに、分からないのはそこから戻ってこないことで、行ったきり身体のどこかへ沁みて消えてしまい、喉のほうへ押し返してくる分がない。


そして匂いが、一度に来た。軽油と、勇の整髪料の下にある汗と、凛の弁当の海苔と、岡部の白衣に残った消毒薬と、遠くの市場の氷が、ふだんなら順番に届いて強いものだけが残るはずなのに、全部いっぺんに、同じ濃さで並んで届いた。層になっていない。棚に並べたみたいに全部見えている。


スエは口を開け、そのまま吐かずにいた。吐く理由が、いつまでも来ない。


「苅田さん」


岡部の声がしたが、答えるには一度吐かなければならないので、スエは答えなかった。


そのあいだに風が向きを変え、空が灰色から抜けて白み、誰かがロープの結び目を確かめる音がして、凛が二度鼻を鳴らし、船が波の背に乗って下りても、胸のどこにも吐きたい場所ができてこなかった。


「八分」と岡部が言った。


スエはそこで、吐いた。長い、細い、途切れない息だった。吐き終わって、ようやく喋った。


「二十五分は保つね」


「なぜ分かるんです」


「余ってる分の見当がつく。吐きたくならない時間が八分なら、こらえる分はそのあとにある」


「見当ですか」


「四十年、吊る前に荷の重さを見当で言ってたよ。外したことはない」


スエは立ち上がってウェットスーツの襟を引き上げた。生地が濡れた素肌に貼りつく感触は嫌いだが、寒いよりましだ。凛が背中のファスナーを上げてくれた。鉛のベルトを腰骨の少し前で締め、フィンを持って船縁に足をかけた。


諸岡が船尾から近づいてきて、片手を出した。乗り移るときに掴む、あの出し方だった。


スエはその手を見て、何も言わなかった。言わないまま掌を重ね、鉛の重みごと体を預けて、舷を跨いだ。


**8**


「先に小便させて。着てからだと、あんたら誰かが、この辺だけ温かいなって思うことになる」


「もう着てるじゃないですか」


「だから船縁でやるんだよ。見るなよ」


三人が背を向けた。岡部だけが手帳に何か書いている。


それが済んで、スエは船縁に腰かけ、フィンを履いた。マスクはない。鼻クリップだけを鼻梁の柔らかいところに嵌める。水面は滑らかで、東の空の低いところに太陽が薄く出ている。


腕を上げ、握った。凛が同じ形を返した。


「六時四十分」と岡部が言った。


背中から落ちた。


冷たさは首から入ってきて、スーツの中を一周してから止まった。ロープを両手で掴み、頭を下に向け、足を抜く。裸眼の水は近いところだけが妙にはっきりして、少し離れると輪郭を失う。スエは見ようとせず、ロープの太さとテープの段差だけを指で数えて落ちていった。


耳が来た。左は素直に抜けた。右が渋る。二度、三度。三度目で揃って、そこからまた落ちた。


途中で、温度が切れた。上と下が別の水になっていて、境目には厚みがあった。顔の上半分が下の水に入り、下半分がまだ上の水に残っている、その数秒。冷たさの縁が皮膚を下から上へ滑っていって、額を越えたときに、頭の芯が一度きゅっと縮んだ。


ロープの終わりに、壁があった。


四十メートル。手が岩に触れて、それが岩だと分かる。指の腹に来るのは、削れた砂の粒と、ぬめりの薄い膜と、貝の縁の鋭さだ。左へ探ると、壁が途切れて、空いた。


横穴に入った。肩を斜めにして片腕を前に伸ばし、指で天と地を交互に確かめながら進む。腰の鉛が岩に当たって鈍く鳴った。フィンは煽らない、砂が立てば戻り道が分からなくなる。指で送る。指で送る。壁の凹凸が指の腹の下を後ろへ流れていく。


抜けた。


抜けた瞬間が体で分かった。両側から押していた岩が消え、水が急に広くなり、水温がまた一段落ちた。青の間だ。


上のほうに、滲みがあった。


色は分からない。裸眼の水に色は残らない。暗さが薄い場所がそこにあって、輪郭を持たないまま揺れている。


諸岡のライトが後ろから追いついて、壁を舐めた。岩が白く跳ねて、影が動いた。


スエは振り返り、掌を諸岡のほうへ向け、指を揃えて横に切った。


止め。


ライトが消えた。


スエは目を閉じた。


閉じてしまえば暗さの質は変わらなかったが、頭の中で何かが持ち場を交代した。まず来たのは耳で、両耳にかかる圧が左右でわずかに違っていて、体をゆっくり回すと右の圧が抜けて左が増した。次に来たのは額と手の甲だった。上から細い冷たさが落ちてきている。一本ではない。中央に太いのが一本と、そこから外れたところにもう二本、どれも真下には落ちず、少し斜めに逃げている。天井の穴が斜めなのだ、と指が言った。冷たい筋のあいだには動かない水の柱があって、掌で撫でると境目が指をわずかに押し返してくる。壁のほうへ寄っていくと、こんどは横向きの流れが手首に当たって体を右へ運ぼうとして、その流れは壁に沿って走り、どこかの角にぶつかって、押し戻されて戻ってくる。戻ってくる分の弱さで、角までの遠さが分かる。その全部を並べていくと、部屋は形になった。丸くない。奥のほうが低く落ちて、そこだけ水が淀んでいる。頭の上は逆に持ち上がっていて、いちばん高いところが少し前方にずれている。冷たい筋の根元は、そこだ。


十分、目を閉じていた。


スエは足を一つ煽った。


体が上がった。二階ぶんも上がらないうちに、掌が岩に当たった。


天井は、冷たくなかった。周りの水よりわずかに温い。表面はざらついて細かい粒が並んでいるが、削れてはいない。指を這わせると真ん中に窪みがあって、そこから斜め上へ丸い口が抜けている。縁だけがぬるりと滑らかだった。長いこと水が同じ向きに撫でてきた手ざわりだ。


スエは掌全体をそこに置いた。


それから、指を揃えて横に切った。


天井は、手の届くところにあった。


**9**


戻りの横穴は、行きより短く感じた。指が道を覚えていて、凹凸を数えなくても手が先に動く。腰の鉛はもう一度も岩に当たらなかった。


壁に出て、ロープを掴んだ。上を向くと遠いところに水面が丸くあって、そこだけが明るい。船底は黒い染みにしか見えなかったが、そこへ向かえばいいことは分かった。


手繰った。今度は下から上へ、テープの段差が指を通っていく。赤が一本。しばらくあって、赤が二本続いた。


そこに凛がいた。


凛はスエの手首を両手で掴んで、自分の腰のあたりまで引き下ろした。掴む力が強すぎて、指の跡がつくと思った。片手を離し、指を三本立てて、一本ずつ折っていく。


三分。


スエは吊られたまま動かずにいた。冷たさは足の先から順に入ってきて、太腿の裏がしびれ始めていたが、息のほうはまだ何も言ってこない。スエは掌を凛のほうへ向け、指を揃えて横に切った。


止め。凛が頷いて、指を一本だけにした。


その一本が折れて、二人で上がった。


水面は、思ったより静かに割れた。


音が戻ってきたのが先だった。エンジンのアイドリング、船腹に当たる波、大地の声。それから匂いが来て、空気の匂いは水よりずっと騒がしかった。


「上がった!」


「掴め、腕、腕!」


船縁に手をかけると、上から二本の腕が伸びてきて、脇の下を挟んだ。引き上げられて、甲板に転がった。凛が背中のファスナーを下ろしてくれる。空気が背中に触れて、そこだけ痛いほど冷たかった。


岡部が屈みこんで、まず手首を取った。脈を数え、目を覗きこみ、それから手帳を開いた。


「十七分三十三秒」


「秒まで書いたのかい」


「書けと言ったのはそっちです」


「偉いね、先生は」


岡部は手帳を閉じ、書きつけたページの端を指で押さえてから、スエの背中に毛布を掛けた。


諸岡が上がってきたのはそのあとだった。マスクを額に上げ、レギュレーターを外して甲板に座りこみ、しばらく肩で息をして、顔を上げた。


「光ってたか」


スエは毛布の端を引き寄せた。


「知らないよ」


「知らないって」


「目、閉じてたからね」


諸岡はスエを見た。それから自分の手にあるライトを見て、スイッチのところを親指でこすった。


「なんで消させたんです」


「邪魔だった」


「邪魔」


「そう」


勇がタオルを投げてよこし、大地が魔法瓶の蓋を回した。湯気が風にすぐ持っていかれた。凛はまだフィンも脱がずに隣に座っている。


「スエさん」


「なに」


「腕、痛かった?」


「痛かったよ。あんた、握力いくつあるんだ」


凛が笑って、そのまま鼻をすすった。


コーヒーが蓋に注がれて、スエの手に渡された。両手で包むと掌の感覚がじわりと戻ってくる。啜って、飲み下して、息をついた。


まだ、息は余っていた。


**10**


一週間後の水曜、市民課の窓口には同じ紙の匂いと、同じワックスの匂いが溜まっていた。


三好は番号を呼んで、顔を上げて、それから背筋を伸ばした。


「苅田さん」


「住民票。写しを一通。本籍は要らない」


「かしこまりました。……ご用途は」


「あんたに関係あるかい」


「いえ、申請書の欄に」


「じゃあ書いといて。試験の願書に付けるんだ」


三好は請求書を受け取って、端末を叩き始めた。打ちながら、視線が一度だけ動いた。カウンターに置かれたスエの布の鞄から、薄い冊子が半分ほど覗いている。表紙に、潜水士、と印刷されているのが読めた。


三好はそれ以上そちらを見なかった。印刷の終わった証明書を封筒に入れ、手数料の額を告げ、釣り銭を数え、判を押した。渡すときになって、封筒を持った手が少し止まった。


「あの」


「なに」


「天井、見えましたか」


窓口の外で、誰かの子どもがベンチの上を走っていた。乾いた紙の匂いのなかに、外から入ってきた潮の匂いがひと筋だけ混じっている。スエは封筒を受け取って、鞄の口に押しこんだ。冊子の背が、その拍子に少し沈んだ。


「触ったよ」


「触った」


「掌ぜんぶ。ざらざらしてた。ふちだけつるつるでね」


三好は口を開けたまま、次の言葉を探した。スエは鞄を肩にかけ直して、背を向けかけ、それから振り返った。


「あんた、飲み屋で人の申請の話をするのはやめときな」


「……すみません」


「今度は、あたしが先に喋る」


三好が何か言う前に、スエはもう歩き出していた。自動ドアが開いて、外の光と潮の匂いが一緒に入ってきた。その光のほうへ二歩進んで、スエは肩越しに言った。


「見るのは、もう十分」


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