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003 初めての契約

 翌朝、〈筋肉応援団〉の扉を開けた瞬間、私は熱波のような人波の圧力に直面した。


 元倉庫の広い空間が、男たちの怒号と熱気で埋め尽くされている。

 案の定、新聞でカイの一件が広まっていた。


「並んでください! 順番です! ああもう、押さないでください!」


 受付カウンターの向こうで、リリナが悲鳴を上げている。

 小柄な彼女の体は、革鎧や鉄板の防具で武装した冒険者たちの壁に埋もれそうだ。


 通常、ギルドの受付嬢といえば、冒険者たちにとって癒やしの象徴である。

 だが今の彼女は、腹を空かせた猛獣の前に放り出された小動物同然に扱われていた。


「おい、次は俺だろ!」


「ふざけんな、俺が先に来てたんだよ!」


「俺にも筋肉をくれ!」


 秩序がない。

 筋肉を鍛える以前に、精神の規律がなっていない。

 つまり、頭の筋肉が足りていないのだ。


 私は大きく息を吸い込み、腹に力を込めて声を張り上げた。


「騒がない! 筋肉相談は一人ずつです!」


 私の声は決して怒鳴り声ではない。

 だが、よく通る低い響きは喧騒を切り裂き、一瞬で場を凍りつかせた。


「あれが噂の聖女か」


「見たところただのいい女にしか見えんが……」


 全員の視線が私に集まる。

 私は無言のまま、傍に転がっていた角材を掴んだ。

 元からあったもので、次のゴミ収集日に捨てる予定だった。


「いいですか? 秩序の乱れは筋肉の乱れ。私の力を借りたければ、規律を守りましょう」


 私は角材を握る力を強めた。


 ミシッ……。

 バキバキ……。


 グシャッ!


 破砕音とともに角材が砕け散った。

 冒険者たちは「嘘だろ……」と青ざめた。


 彼らが驚くのも無理はない。

 私は今回、筋肉魔法を使わなかったのだ。

 純粋な握力だけで、角材を粉々に砕いてみせた。


「私の言葉に従い、秩序を守ってもらえますね?」


 私が微笑むと、皆が一斉に動き出した。

 まるで訓練された兵士のように整列を始めた。


「は、はい! 並びます!」


「すんません、姉御!」


 静まり返った受付で、リリナが涙目で私を見上げた。


「だ、団長……ありがとうございます。死ぬかと思いました……」


「リリナ、これが筋肉のすごさです」


「筋肉は言葉より雄弁に語るわけですね!」


「そのとおりです」


 話が終わると、私は業務に取りかかった。

 昨日までとは違い、長い一日になりそうだ。


 ◇


 昼休憩の時間になっても、客足は途絶えなかった。

 だが、私は一時的に相談を中断し、当ギルドの奥にある応接スペースへ客人を招き入れた。


 相手は、このグレンデルでも指折りの実力者。

 交易商会連盟の代表――セルマ・グレイノールだ。


 上質な絹のドレスを纏い、品の良い宝石をあしらったその姿は、埃っぽい元倉庫には不釣り合いだ。

 だが、その鋭い眼光は、ここが商談という戦場であることを理解していた。


「単刀直入に言うわ。ミレイユ、あなたのギルドのスポンサーになりたいの」


 セルマは優雅に足を組み、テーブルの上に革袋を置いた。

 金属同士が触れ合う重い音がした。


 中身は金貨だろう。

 ギルドの運営資金としては、数ヶ月は遊んで暮らせそうな額だ。


「光栄なお話です。ですが、条件は?」


 タダで金を出す商人などいない。

 セルマは艶然と微笑んだ。


「当商会との専属契約よ。他商会や利害が対立する派閥からの依頼は後回しにしてほしいのよ。あなたの『筋肉魔法』を駆使すれば、物流改善や護衛の仕事が捗ると思うわ。それらを私が独占的に運用したい」


「なるほど、囲い込みですね」


 セルマの目の付けどころは確かだ。

 私の魔法は戦闘だけでなく、運搬や土木においても革命的な効率を生む。

 それを独占できれば、彼女の商会は莫大な利益を得るだろう。

 頭の筋肉が鍛えられている証拠だ。


 だが――。


「お断りします。筋肉の安売りはいたしません」


 私は即座に首を横に振った。

 セルマが片眉を上げる。


「あら、強気ね。お金は積むわよ? 今の倍でも構わないわ」


「金額の問題ではありません。筋肉は、努力するすべての者に平等に開かれた救済手段です。特定の誰かのためだけに囲われれば、筋肉の自由が死にます」


 筋肉は平等――それは私の信念だ。

 というのも、回復魔法がしばしばその反対に位置づけられるのを見てきたからだ。


 回復魔法そのものが悪いのではない。

 ただ、聖務庁の権威や「聖女」という看板に結びついた途端、回復魔法は“希少な札”になりやすい。

 認定や監察の名目で縛られ、寄進や後ろ盾のある者ほど、より良い回復に近づける――そんな図式が生まれている。


 セルマが提案してきた囲い込みも構造は似ている。

 だから私は、同じ轍を踏むつもりはなかった。


「それに、私は現場を見て判断します。机上の契約で縛られれば、本当に助けが必要な現場に行けなくなる」


「……ふふ、言うわね。でも、後ろ盾がなくてやっていけるの? 王都からの圧力も来るかもしれないわよ?」


「私は結果で黙らせます。相談料と成果報酬、それが筋肉の対価です。それ以上の紐付きは不要です」


 空気が張り詰める。

 交渉決裂かと思われたそのとき、応接スペースの入口から軽い足音が響いた。


「お話中、失礼しまーす。ちょっと面白いネタが入ったんでね」


 入ってきたのは、新聞記者のペンネだ。

 彼女はセルマを見ても物怖じせず、手に持っていた王都新聞の最新号をテーブルに広げた。


「筋肉聖女の団長さん、見てよこれ。王都の〈ブラッディ・ナイトメアーズ〉、ラグナスたちの活躍記事。『国境付近の魔物群、英雄的撃退』だってさ」


 見出しには、ラグナスの勇ましい姿が躍っている。

 王都の民衆はこれを見て熱狂するのだろう。

 だが、私は記事の本文を一瞥し、鼻を鳴らした。


「……この記事の書き方、必死に〈ブラッディ・ナイトメアーズ〉を褒める内容にしているけど、かなり苦しいですね」


 例えば、『三日かけて敵を撃退した』という表現がある。

 裏を返せば、三日間も魔物の被害が続いていたということだ。


 ペンネがニヤリと笑う。


「へえ、わかる? さすがね。実はこれ、周辺の農村で畑が荒らされて、相当な被害が出てる。記事じゃ『被害最小限』って書いてるけど、現場の不満は尋常じゃないらしいわ」


「筋肉不足ですね」


 私は断言した。

 全盛期の〈ブラッディ・ナイトメアーズ〉なら半日で終わっていた案件だ。

 私が筋肉の壁となって敵を抑え込み、仲間たちが最大火力を叩き込む。

 しかし、その“壁”を失った彼らは、敵の侵攻を食い止めきれなかった。


「回復役のフィオナさんの負担も増えているはずです。彼女が倒れるのも時間の問題でしょうね」


「そこまで読めちゃうんだ? 裏の情報じゃ、治療薬の大量発注が入ってるって話。もうボロボロなんだろうね」


 私はセルマに向き直った。


「さて、話に戻りましょう。残念ながらセルマさんのご要望にはお応えできませんが、代わりに、こちらから提案があります」


 私は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 昨晩、リリナに作らせた『優先契約書』の雛形だ。

 いずれ今回のような機会が訪れると思い、事前に用意しておいた。


「この契約書は、セルマさんの囲い込みよりも条件を緩和したものです」


「というと?」


 セルマが契約書を手に取る。


「私は特別枠を設けて、その枠内に限ってはセルマさんの依頼を優先的に受けます。一方、セルマさんには特別枠の維持費として、毎月一定額をお支払いしていただきます」


「なるほど。独占は認めないが、優先は認めるということね。私の提示したものより、リスクとリターンを引き下げたわけだ?」


「そのとおりです。独占ではなく優先――それが私の提案です」


 セルマは羊皮紙を手に取り、しばらく沈黙した。

 それから小さく笑った。


「……面白いわ。乗った」


 彼女は革袋を収め、代わりに羊皮紙を懐に入れた。

 そしてペンを取り出し、その場で契約書にサインした。


「まずは一件、試させてもらうわよ。もし口だけなら、この街にいられなくしてあげる」


「望むところです。筋肉は裏切りませんから」


 契約成立だ。

 私とセルマは、互いに不敵な笑みを浮かべながら握手した。

 その様子を、ペンネは素早く手帳にメモする。


 私を追放した者たちが落ちぶれる一方、我が〈筋肉応援団〉は羽ばたこうとしていた。


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