001 プロローグ
王都セリオル、聖務庁前広間――。
磨き抜かれた大理石の床は、靴底を鳴らすことさえ躊躇われるほどに冷たく、硬い。
天井を見上げれば、光環正教の教義を描いた宗教画が、極彩色の威圧感を放って眼下を睥睨している。
この場所は、権威と秩序の象徴だ。
だが私には、ただの石と絵の具の集積にしか見えなかった。
なぜならここには、真に信ずべきものが欠けているからだ。
すなわち、筋肉である。
私の目の前には、この国で最も名誉あるとされるSランク勇者パーティーの面々が並んでいた。
〈ブラッディ・ナイトメアーズ〉――それがパーティーの名前だ。
私も所属しているが、どうにも筋肉を軽視する傾向にあって困っていた。
〈ブラッディ・ナイトメアーズ〉の傍らには、聖務庁から派遣された黒衣の監察官がいた。
イグナート・レオンハルトという男で、感情の読めない顔で控えている。
重苦しい沈黙を破ったのは、勇者にしてパーティーのリーダー、ラグナス・ヴァレンだった。
「ミレイユ、今日をもってお前をパーティーから追放する」
朗々たるその声には、英雄としての自負と、私への軽蔑がない交ぜになっていた。
私は瞬きもせず、彼を真っ直ぐに見返す。
Sランク装備に身を包んでいるが、その鎧の下にある大胸筋の張りがいささか甘い。
最近、式典続きで鍛錬をサボっている証拠だ。
「……理由は、やはり回復魔法を使えないからですか?」
静かに問い返すと、ラグナスは鼻を鳴らした。
「そうだ。聖女のくせに回復できないなど、詐欺に等しい。聖女は回復するもの! 回復こそ聖女の使命! それなのにお前ときたら『筋肉が足りない』だの『筋肉をつけましょう』だの、口を開けば『筋肉』の一点張りだ」
「筋肉は大事ですから……」
「いや、我々に必要なのは癒やし――回復だ! 断じて筋肉などではない!」
「全くもって同感だ! お前の筋肉講座は暑苦しいんだよ! 聖女は黙って回復だけしてりゃいいんだよ!」
前衛戦士のグレイド・ザークが、私の横で床に唾を吐く。
彼の大剣を振るう上腕二頭筋は悪くないが、持久力を支える体幹のブレが常々気になっていた。
もちろん何度も指摘している。
「暑苦しいのではありません。筋肉が熱を発するのは、生命が燃焼している証です」
「そういう理屈を捏ねるところが鬱陶しいんだよ! ちょっと顔がいいからって偉そうにするなよ!」
グレイドが大剣で地面を叩いて怒鳴る。
「顔の良さは生まれつきの骨格と筋肉によって……」
「ミレイユ、諦めなさい」
術師のセリアン・ミュールが、話に割り込んだ。
彼女は眼鏡の位置を直しながら、冷淡に告げる。
「あなたの筋肉魔法とやらは、魔法理論としても非効率よ。戦闘で負った怪我を治せない支援職に、何の意味があるの? 我々は結果を求められているのだから」
「お言葉ですが、結果に応えるためにも筋肉は必要なのです。私の『筋肉魔法』があれば、怪我のリスクを抑えて、なおかつスピーディーに敵を殲滅できます。それが筋肉の理であり、筋肉は攻守に役立つ万能なものなんです!」
「それが机上の空論だと言うのよォオオオオオ!」
悲鳴を上げたのは、回復役の聖女フィオナ・リースだ。
その顔色は青白く、目の下には深い隈が刻まれていた。
過度な魔力消費による消耗は明らかだ。
その理由は、当然ながら筋肉不足にある。
全員が私の筋肉魔法を拒絶しているため、フィオナが魔法を使う頻度が大幅に増えていた。
私の筋肉魔法を受け入れていた頃は、もっと血色がよかったものだ。
「フィオナさん、あなたは筋肉だけでなく睡眠も足りていません。筋肉による魔力回復の観点から、もっとタンパク質を摂り、スクワットを……」
「……っ、もう嫌! 筋肉、筋肉、筋肉って! 自分が回復魔法を使えないからって、筋肉崇拝を周りに押しつけるのはやめて!」
フィオナが頭を抱えて叫ぶ。
そのまま泣き崩れる彼女を、斥候のノアール・ベインが肩を抱いて支える。
彼は皮肉げな笑みを私に向け、こう告げた。
「ま、そういうこった。お前のおかしな筋肉魔法より、フィオナの癒やしのほうが大事なんだよ。元気でな、筋肉女」
四対一。
いや、監察官を含めれば、この場のすべてが私の敵だった。
「パーティー離脱の手続きは完了している。速やかに退去を」
イグナートが一歩進み出て、事務的に羊皮紙の束を差し出してくる。
書類一式だ。
そこには、筋肉理論など、筋肉について私が書いてきた論文の数々も綴じ込まれている。
彼らは――いや、王国政府が言っている。
お前の筋肉理論には価値がない、と。
「……わかりました」
私は短く答え、書類を懐にしまう。
これ以上の議論は無意味だ。
彼らの筋肉は、まだ私の言葉を理解できる段階にまで育っていない。
諦めて去るとしよう。
そう思い踵を返そうとしたが、私は足を止めた。
背後にいる彼らへ、最後の忠告だけは残しておかねばならない。
それが、同じ戦場に立った者への最低限の礼儀だ。
「私を追放するのは結構です。しかし、これだけは覚えておいてください」
ラグナスが「なんだ?」と私を睨む。
「筋肉がなくなればおしまいですよ」
「「「……は?」」」
ラグナスが怪訝な顔をする。
私は彼らに背を向けたまま、筋肉魔法〈マッスル・ボルテージ〉を発動した。
体内で練り上げた魔力が全身の筋繊維に行き渡り、筋肉のオーラが全身から漂う。
他者に筋肉の差を見せつける――いわば、生物としてのマウントだ。
「ぐっ……!?」
「相変わらずすごい威圧感だ……!」
「でも、所詮は威圧感だけよ!」
連中は本能的な恐怖を感じている。
それでも、筋肉の優位性を認めることはなかった。
「誰も筋肉の万能性を理解していない……ならば、証明するまでです」
勇者パーティーはどうでもいいが、筋肉に対する侮辱は許せない。
私は振り返ることなく、静かに王都を去った。
◇
それから数日後――。
私は王都から馬車を乗り継いで、辺境交易都市グレンデルへと辿り着いていた。
ここの空気は王都とまるで違う。
街道の結節点であるこの街は、常に人や荷馬車が行き交い、熱気と砂埃に満ちている。
洗練された石畳はないが、代わりに生きるための逞しさが溢れていた。
筋肉が疼く……私が求めていたのは、こういう場所だ。
夕日が差し込む、裏通りの一角。
元は倉庫だったという空き店舗の中で、私は二人の人物と対面していた。
一人は、ギルド協会のグレンデル支部長、ガルン・ヴォルグ。
熊のような巨躯に無精髭を生やした、いかにも現場叩き上げの男だ。
もう一人は、ギルドの受付嬢リリナ・フェル。
現地常駐の連絡窓口として、今後は私と一緒に働いてもらう。
小柄で愛らしい栗色の髪をしているが、その瞳は不安げに揺れていた。
「……で、ここで冒険者支援ギルドを開きたいと?」
ガルンが、埃っぽい店内を見回しながら呆れたように問うた。
床にはまだ木屑が散らばり、壁には前の借主が残したであろう謎のシミがある。
角材やら何やらといったゴミまで残っていた。
だが、二階建てで、広さは十分だ。
ここなら、数十人で筋トレをすることができる。
「はい。その名も〈筋肉応援団〉です」
「き、筋肉……? あの、聖女様、普通は『癒やしの家』とか『聖女の祝福亭』とか、そういうお名前になるのでは……?」
リリナがおずおずと尋ねてくる。
私は彼女に向き直り、きっぱりと告げた。
「癒やしなどという曖昧な言葉では、危機感は伝わりません。筋肉、筋肉です。筋肉こそが、冒険者が生きて帰るための唯一の資本なのです」
「ええと……つまり、回復魔法は……」
「使いませんし、使えません」
私は即答した。
リリナが「やっぱり」という顔で天を仰ぐ。
「ですが、筋肉を極限まで引き上げます。攻撃、防御、持久、俊敏……それらを向上させれば、そもそもダメージを受ける前に敵を倒せます。仮に受けても耐えられます。回復など不要です」
「あのなあ、嬢ちゃん」
ガルンが太い腕を組み、渋い顔で私を見下ろした。
彼のような歴戦の男なら私の理屈を理解できるかと思ったが、どうやらまだ認識が甘いらしい。
脳内の筋肉不足を疑わざるを得ない発言をしてきた。
「辺境は実力主義だ。王都の飾りみたいな聖女サマが何しに来たか知らねえが、回復なしの支援なんて誰も見向きもしねえぞ。冒険者ってのはな、いつだって怪我が怖いんだ」
「ええ、知っています。だからこそ、怪我をしない強さを提供するのです。それこそ聖女の務めです」
「それが理想論だっつってんだよ」
ガルンは嘆息し、頭を掻いた。
「まあいい。家賃の前払いとギルド登録料、それに改装費。きっちり払えるなら場所は貸す。だがな、閑古鳥が鳴いて一ヶ月で潰れても、俺は知らんぞ」
「ご忠告、感謝します。ですが、心配は無用です」
私は懐から革袋を取り出し、テーブル代わりの木箱の上に置いた。
中身はずっしりと重い。
これだけの資金があれば、当面の運営と、最低限のトレーニング器具は揃えられる。
「見ていてください。そして、筋肉を信じなさい」
私は倉庫の入り口に立てかけてあった、手書きの看板を拾い上げた。
そこには、私が昨晩、徹夜で書き上げた力強い文字が躍っている。
『冒険者支援ギルド〈筋肉応援団〉――あなたの筋肉、裏切りません』
それを入り口のフックに掛けると、私は満足げに頷いた。
今はまだ、ただの埃っぽい倉庫に過ぎない。
客もゼロだ。
だが、私の胸はこの都市の筋肉をすべて掌握し、最適化していく野心に燃えていた。
「さあ、証明しましょうか。筋肉こそ正義であると」
回復か、筋肉か。
世界の常識を覆すための活動が、昂ぶる筋肉とともに幕を開けた。
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