【中編 柑雪の森、鼓動に融ける】
逃亡から二夜。王都の灯が背後で瞬き、凍梁冬芽は雪柳昴光の掌に指を絡めたまま〈香雪の森〉へ踏み入れた。夜霧は蜜柑と針葉の樹脂を溶かし、胸いっぱいに甘い冷気を押し込んでくる。鼻腔がむずむずと痒むが、くしゃみをしたら森ごと凍らせてしまいそうで、唇を噛んで堪える。
王都中心街では、感情が毎朝“市場価格”で取引される。恋の結晶は桜色の粉、失恋は群青の欠片。整列長はそれらを透明なフィルムに封じ、誰にも過度な高揚や絶望が行き渡らぬよう配給する――いや、押し付ける。その均質な幸福が好きだと、かつての冬芽は信じていた。だが昴光が歌う虹色の音を知った夜から、世界は不揃いな色で爆ぜはじめた。
「平気?」昴光が囁く。橙のランタンを掲げた横顔には旅塵より深い優しさが宿り、冬芽の胸に熱を注ぎ込む。
「……うん。でも柑橘の匂い、くしゃみを誘う」
「誘われてもいいさ。僕がぜんぶ受け止める」
昴光はマフラーを解き、そっと冬芽の首に巻き付けた。白い羊毛が雪のように柔らかく頬を撫で、彼の体温が静かに移る。マフラーの端が風に揺れ、結晶化しかけた吐息を絡め取っては融かす。脳裏で「好き」がカーテンレールのように軋み、心臓はそこへぶら下がる星飾りみたいに揺れた。
森を抜ければ〈共鳴坑〉、そして封凍核。そこを砕けば列も包装も終わる――昴光の言葉は希望の火種だが、同時に世界秩序ごと燃やす炎でもある。幼いころから「透明でいなさい」と教えられた冬芽の心は揺れ、くしゃみの衝動と同じ速さで脈を乱した。幼少期、霜宮綺硝が差し出した白いハンカチの温もりを思い出す。あのとき彼は「色は怖くない」と笑ったのに、今は秩序の鎧を纏う――その変化に自分も加担したと気づき、舌の裏が苦い。
踏み石が湿り気を帯びるあたりで風向きが変わる。冷たい笛声。樹間に黒制服が揺れた。
「……綺硝?」
眼鏡が月光を弾き、白い吐息が硬く揺れる。
「迎えに来た。冬芽、戻ろう。隊列から外れた君は、凍えて折れてしまう」
静かな声に滲む微かな震えが胸を刺す。
昴光が一歩前へ。竪琴の胴に抱かせた小瓶が澄んだ音を鳴らす。
「彼女は自分の色を選んだ。凍れる息でさえ“恋”の彩りに変えようとしている」
「詩的だが無謀だ」
枯葉がざわめき、白い鴉の群れが音もなく舞い上がる。嘴は雪片のように鋭く、翼を振るたび〈未練喰い〉は逃亡者の“恐れ”を啄む。冬芽の肩に一羽が止まり、胸に空洞が穿たれた。
昴光の竪琴が氷晶の高音を放つが数が多い。綺硝の瞳が揺れ、「僕は君を守りたい」と息で刻む。その優しさが鎖のように重い。
恋と友情。凍える息と彩りの詩。どちらか片方では呼吸ができない。冬芽はマフラーを握り、肺いっぱいに森の甘い空気――柑橘と樹脂、そして昴光の体温の匂いを吸い込む。鼻腔が痺れ、くしゃみが滲む。
「綺硝、見ていて……!」
マスクを外し、息を放つ。空気が白薔薇のように咲き、鴉は凍結し砕けた。凍気の花弁が夜光に照らされ虹を孕む。
霧氷が眼鏡に咲いたまま、綺硝が唇を噛み、それでも微かに笑う。
「こんなに美しい凍結、初めて見た……冬芽、君は透明じゃない。誰より鮮やかだ」
「行け。封凍核は奥だろう? 君の色で世界を塗り替えてこい」
涙が頬を伝う。昴光がそっと拭い、「彼の祝福も僕らの恋の一色になる」と囁く。
森の出口が風で揺れ、甘い霧は薄れ、地下へ続く鉱石の匂いが漂う。冬芽は振り返り、言葉にならぬ感謝を瞳で告げ、昴光と並んで歩き出した。指と指が絡み、脈が溶け合うたび胸の奥で新しい色が灯る。
封凍核の心臓音が地底から微かに響く。列の外で拾った愛は、凍った世界を打ち破る刃にも融かす焔にもなる――冬芽はそう確信し、震える足首にまで恋の血を送り込み、次の一歩を踏み出した。