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【前編 雪の咳、恋は瓶詰めにできない】

挿絵(By みてみん)

 くしゃみ一粒――それだけで、王都ラメルクロムの空気は霜色に濁る。

 凍梁(いてばし)冬芽(ふゆめ)は、薬香がほの青く漂う調剤所の裏窓を少しだけ開け、(しば)れた息を小瓶へ収めた。ビン底で白い霧が渦を巻くたび、胸の奥がひゅうと縮む。鼻腔を刺す薄荷の冷香は、風邪薬よりも苦い――これは“恋”の未分化な疼きだ。

 感情が〈情結晶(エモジェム)〉として採掘・流通するこの世界で、冬芽の吐息だけは例外的にすべての色を凍らせ“透明”へ初期化してしまう。だから彼女は恋を誰より欲しながら、誰より恐れていた。


 「――夜勤明けの涙隠しには寒すぎない?」

 不意に背後の木戸が軋み、低く甘い声が胸骨を震わせる。

 振り向けば、雪柳(ゆきやなぎ)昴光(あきら)。蒼銀の外套をまとった吟遊の青年が、竪琴の弦を指で弾きながら微笑んでいた。彼の吐く息は柑橘と白檀をまぜた匂いで、冬芽の冷え切った肺に柔らかい熱を吹き込む。

 「泣いてなんか――いない。ただ……凍っただけ」

 震えが混じる声を自覚し、冬芽は慌ててマスクを押さえる。だが昴光はその動作すら愛おしむように手を伸ばした。

 「凍りついた想いは、解かないと味が分からない」

 彼は小瓶をそっと奪い、竪琴の空洞へ抱かせる。琥珀色の木地に霜が咲き、静かなアルペジオが響いた。

 「ほら、きみの恋の初音(はつね)だ」

 鼓膜を撫でるかすかな高音。頬が華灯(かとう)に染まり、世界に真紅が滲む。


 だが甘い余韻をかき消すかのように、硬質な軍靴が調剤所の床を鳴らした。

 黒漆の制服、銀の三雪片徽章――情結晶庁監察官、通称〈整列長〉Conductor(コンダクター)

 「非正規凍結物の反応確認。即時没収を命ずる」

 彼が掲げた光学書令から、黄線の警告が床板へ滲むように伸びていく。列車ホームの“足型シール”そっくりの配置標が、部屋中を“整列”モードに染め替える。


 昴光が冬芽の手を強く握った。

 「逃げよう。君の透明は、僕の旋律で色づけられる」

 掌に宿る脈拍が直に伝わり、冬芽の胸が雪融け水の音をたてる。逃げれば列を踏み外す。けれど――彼の体温が恐れより熱い。

 整列長の鉄笛が悲鳴のように鳴り、カウントが落ちる。

 「三」――床の黄線が帯電し、凍気を噴く。

 「二」――鼻腔がこそばゆい。冬芽はくしゃみを堪えきれない。

 昴光が竪琴を大きくかき鳴らした。水晶めいた高音が室内を跳ね、黄線の光を一瞬だけパステルに揺らす。

 「一」直前、冬芽はマスクを外し、息を思い切り吐き出した。


 吹雪。

 凍気が白い渦となり、黄線を覆う床そのものを瞬時に凍らせる。次いで透明が虹へ分光し、瓶詰めの恋が解凍色を放つ。

 「仕様外の色還元だと?」整列長が叫び、ネクタイ鞭を振り下ろすが、昴光の竪琴が放つ第二波の音が氷片を散弾のように跳ね返す。

 「冬芽、走れ!」

 二人は指を絡め、破れた硝子窓へ身を投げた。夜気が頬を斬り、背後で整列長の号令が汽笛と交じる。


 石畳の裏路地に着地する瞬間、冬芽の膝が笑った。昴光が支え、耳元で低く囁く。

 「大丈夫、僕がいる。――君の息は僕の歌で温まる」

 胸が破裂しそうに高鳴り、再びくしゃみが込み上げる。でも今度は甘い香りが混ざった。昴光の襟元から零れた柑橘と白檀の匂いだ。

 「どうして……助けに?」

 問いは震え、答えはひどく静かだった。

 「恋を盗みに来たんだ。瓶に詰まったままじゃ、もったいないから」

 夜街のランタンが二人を琥珀色に染める。雪片のように舞う情結晶の欠片が、まるで花弁。


 「行こう、〈封凍核〉を壊しに」

 昴光が差し出す手を、冬芽は迷わず取った。掌の温度は血潮の色を指し示す灯台だ。

 遠くで整列長の追跡笛が鳴り、王都の上空に白い信号光が走る。逃げ道は雪で閉ざされても、二人の行き先だけは春の匂いがした。

 くしゃみ一粒で蒸発した三パーセントを、彼の旋律で九十七パーセントと溶かし合わせ――恋の新色を描き直す旅が、いま始まる。

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