オレンジ号、発進。
折り畳み式バスケットゴールのフックに、銀色の操作ハンドルをひっかけ、取っ手をくるくると回す。ゆっくりと骨が折りたたまれていくのを眺めながら、ふぅっとため息をついた。
授業終了後、体育教師に片づけを頼まれて、暑苦しい体育館の中、一人で後始末をしていた。クマは扇風機の電源を切ると、「あとはよろしく。」とばかりにそそくさといなくなってしまった。
手伝おうかと声をかけてきたクラスメートもいたが、断った。もちろん、一人でやるのは面倒ではあったのだが、それよりも一人になりたかった。
俺は、面倒ごとを押し付けられたことよりも、先ほどの自分の行動に対して嘆息していた。
教室に戻れば、昼食中何か言及されるかもしれない。一人でゴールを決めたこと、終始小林を徹底マークしていたこと、その理由を聴取されるのが億劫で、一人体育館に残ったのだ。
先ほどまで音で溢れていた体育館はシーンと静かだ。たまに外から生徒の笑い声が聞こえてきたが、すぐに遠くへ離れていってまた静寂になる。くるくると回る音だけが静かに鳴っていた。
時間を稼ごうと、わざとゆっくりハンドルを回す。運動後だったが(運動後だったからこそかもしれないが)、昼食を取りたい気分ではなかった。体育の授業中は、サウナ状態のこの場所からすぐにでも飛び出したいと思っていたのに、今はエアコンの効いた教室に行くほうが気が重かった。
すぐ横にある、白いスライド式の扉は全開にされている。そこからたびたび流れてくるやわらかいそよ風が、汗だくの体をほのかにひんやりとさせた。
その風に感じ入っていると、ゴールの折り畳みが終わってしまった。銀の棒をフックから外すと、のろのろと体育館のステージ前へと歩く。そこには、茶色のくすんだボールが山積みにされていた。
棒を持っていないほうの左手で、じんわりと熱い鉄の持ち手を握り、その車輪付きのかごを軽く押す。しかし、少し斜めに曲がっただけで前進しなかった。質量のあるボールが、何十個と敷き詰められているだけはある。
仕方がないので一度ステージの上に操作ハンドルを置いてから、再度持ち手を両手で握った。グイッと力を込めて押し出す。すると、たちまちかごは前へ動き始めた。進むにつれて、生暖かい風を感じる。
勢いが付きすぎたのか、上に積まれていたボールの一つがころんとこぼれ落ちる。「あっ」と立ち止まろうとしたが、前へ進むかごに引っ張られてすぐには止まれなかった。慣性に逆らうように足と手で後ろ側へ引っ張ると、少しして停止した。
振り返ると、こぼれたボールは日差しで白く照らされたあの場所に佇んでいた。光の中には、オレンジがぽつんと一つ。
それを見てあることをひらめき、かごを反対方向へくるっと回転させる。そのまま押し進めて光の前までくると、かごから手を放す。そして、こぼれ落ちたそれを拾い上げるために光の中に入った。
その中はやはり、あつくてまぶしくて、長くはいられない。目を細めて息を止めながら、それを拾い上げると、すぐに外へ出た。
生暖かいボールを、そっと一番上に積む。そして、そのぎゅうぎゅうに敷き詰められたものをゆっくりと光の中へと押し出し、少し離れて眺める。
みずみずしい、オレンジのやまがあった。
うん、と一人うなづく。やはり、青果売り場でみる、あのオレンジの山積みだ。
日に照らされて新鮮な橙色に輝くそれらに、頭の中で浮かんだのは、スーパーの青果コーナー。
思い出したのは、うず高く積まれたブラジル産オレンジの山盛り。国産よりも大きめで、ごろごろとした山。それらが、ツンとしていて苦い柑橘の匂いを漂わせ、鼻を刺激してくる。それを嗅いだ気がした。
それからよく効いた冷房。スーパーの生鮮コーナーは、肌寒いほどに冷やされている。外気との温度差で鳥肌が立つほどの、あの冷たい温度感を思い出して、汗だくの身体が冷却されていく気になる。
思い出された匂いと温度に、暑苦しい体育館を涼しいスーパーのように錯覚している自分にクスッと笑った。
少し近づいて、眺める。また、新たな発見を想起したかった。
近くで見ると、光の中に浮かぶ粒子が見えた。目に見えないはずのほこりや塵が、照らされて可視化されている。それらが降り注ぐ、オレンジの山に注視した。
すると山の中に一つ、こすり付けたような黒い汚れのあるものを発見した。遠目からは、新鮮なオレンジの山に紛れ込んで一体になっていたそれは、近目で見ると、日に照らされてもなお(あるいは照らされたからこそ)、小汚く見えた。それが無粋だった。
けれど同時に、それが却って青果の山積みの中にあるキズもの(主婦の目によって選別され、コーナーに最後まで残ってしまうもの)のようで、オレンジの山然として見えて、胸がきゅうっと締め付けられた。
そのキズものを光の中からそっと取り出し、手元で眺めた。それは、間近で見ると、黒ずんで傷だらけで薄汚くて、見るに堪えなかった。
柑橘の匂いと、生鮮の冷気が霧散していく。スーパーが体育館に戻っていく。
今まで気にならなかった、汗のにおいやボールの黴臭さが強く意識されて口呼吸に切り替える。口で息を吸うと、サウナの熱気を吸い込むようだった。べたついた身体はさらに発汗していく。
その熱い空気が、おなかの中にずしんと落ちる。黒くて丸い重たいものを、丸呑みしてしまったようだった。暑さと重さで、チカチカとめまいがする。
ギュッと目をつむり、かごをグイッと引っ張り出して、グルンッと回転する。瞼は閉じたまま、両手に限界まで力を込めてかごを押す。そして、重たい足を無理やり上げて、走った。
ものすごい速さでかごが前進し始める。肌に感じる生暖かい風が気持ち悪くて足を速めると、さらに生暖かさに包まれた。我慢ができなくて目を開いた時に、気が付いた。壁が目の前まで来ていた。
両手で持ち手を全力で引っ張り、足で必死にブレーキをかける。しかし、オレンジを積んだ暴走貨物列車は止まらなかった。
ガンッ!
木製の壁と鉄製のかごがぶつかり、鈍い音が鳴る。衝突の反動で両手に強い力が返ってきて、肩のあたりまでしびれた。そして次には、ボールの跳ねる音が何重にもなって響き渡った。スーパーは、完全に体育館へもどる。
振り返ると、はじけ飛んでばらまかれた茶色いボールたちが、四方に散乱していた。それぞれがごろごろと転がって、自分から離れていく。
じわっと視界がにじみ、ボールが茶色い体育館と同化して、見えなくなった。すぐに腕で目元を乱暴にこすり、走る。
端のほうから倉庫側へ、捕まえたボールを転がしていく。かがんで手を伸ばすと、ぽたぽたとなにかが落ちていく。かがむたびに床に垂れるそれを足で拭いながら、端からはしへ。
十何個目かを転がした時に、また視界がにじみ始めて、腕で目元を強くこすった。しかし、それは拭えなかった。
おかしいな、と再度こするが、やはりぼやけたまま。今度はさらに、ふらふらと視界がゆれはじめる。
ぬぐうのをあきらめて、次の茶色に手をのばした時、足がもつれて、たおれた。にぶい音が聞こえた気がしたが、痛みはあまり感じなかった。
ぬれた床にすべったのであろう自分にあきれて、苦笑いをする。うつ伏せの体勢から立ち上がろうと、両手に力をこめた。しかし、うまくいかない。
何度力を込めても腕は上がらず、視界は一向にかすみがかったままだ。
目の前には、茶色いボール。それが、あの小汚いボールかどうかはわからない。ただ、ひだり頬にふれるひんやりとした床が心地よくて、ゆっくりとまぶたを閉じた。からだの熱がつめたい床にすわれていくようだ。
暗やみの中、とおくからドタドタと近づいてくる足音がきこえる。けれど、そんなことはどうでもよかった。
左ほほ、うでと手のひら、ひざとすね、はだに伝わる床のかんかくが、きもちいい。今はそのひんやりを、ただかんじていたかった。