皿のなかには何がある?
筋肉痛のようになったおなかを押さえながら家へ到着した。玄関のドアを開けると、ほのかに香ばしい香りがした。薄暗い廊下の奥には、リビングのドアガラスから光が差し込んでいる。
靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。ひんやりとした廊下を歩いていくと、小さく軋んだ。ドアの前で息を整える。
「ただいまー。」
ドアを開けた瞬間、暖かいあまめのスパイスの香りが、ぶわっと自分を包み込んだ。リビングと廊下はまったく別空間であった。くつずりで後ずさりしそうになると、奥側からすぐに声が返ってきた。
「お帰り、文一。」
キッチンでお玉をかき回していた母は手を止めて、振り返って言った。スクールバックの持ち手をぎゅっと握りしめ、くつずりを超える。後ろ手にガチャリとドアを閉めると、その空気をかき分けるように、ズンズンと中へ進んだ。
母親のほうへ近づくと、強くなるあたたかな香りを振り切るように、先ほどのことを思い出して話した。
「母さん聞いて!今日帰りの電車で、同級生の小林君がー。」
俺が話し始めると、母はコンロの火を消して鍋に蓋をし、テーブル席についた。ホッと息をついて俺もその反対側の椅子に座る。それから、電車での愉快な出来事を身振り手振りで母に語り聞かせた。
うんうん、とうなづいて話を聞いていた母は、途中から耐えきれないといった風にくすくすと笑い始めた。その顔に声が弾み、面白おかしく少し誇張して話す。母は目に涙が浮かぶほど笑って、それを指で拭った。
「小林君、面白くて優しい子だね。よかった、そんな楽しい友達ができたんだね。」
目を細めて、胸をなでおろすように母は言う。
俺はあいまいに笑った。....小林が友達?そんな風に話したつもりはなかったけど。母にはそう感じられたのだろうか。
けれど、そのことよりも、母のその笑顔にどう笑い返せばいいかが、わからなかった。同じ笑顔が返せずに、あいまいに笑うしかできなかった。しかし、目の前の顔から目を背けられなかった。
開いた目の裏側がほのかにチリッとした気がしたからだ。
やけどの跡がひりつくような、けれど決して痛くも、不快でもなく、ただやさしく掻きたくなるようなかゆみ、みたいな感覚が、微かにした気がしたのだ。
ぐうーっ
母の顔を見つめ返す、短い静寂の中に、間の抜けた音がする。発生源の方向を向くと、俺は真下を向いていた。
しばらく固まって、けれど頭は白いまま、再び顔を上げた。そこには、目を見張った母がいた。そして、次にはふわっと頬を緩ませた母がキッチンのほうへ向かおうと、席から立ち上がった。
それを見て、固まっていた思考が動き始めた。そして己のピンチを悟った。おなかに力が入る。
一瞬遅れて、自分も腰を浮かせて、その後ろ姿に手を伸ばしかける。伸ばしかけて、話す話題が思いつかないことに気が付いた。手は宙を切り、浮いていた腰はペタンと落ちた。
テーブルで一人座っていると、先ほどまでのにぎやかさが、嘘のように静かに感じられた。そこに会話がなくなったからだ。
キッチンからは、チッチッチとコンロの火が付く音。食器がカチャカチャと鳴る音。そんな小さな音が耳に届く。
意識し始めると、小さな音が大きな音のように感じられ始める。それを振り払うために、母に話しかけたいのに、やはり何も思いつかず、また、準備中の母の邪魔をするのもためらわれた。
ぐつぐつと何かが煮える音がし始めた。
喉が渇いて、つばを飲み込む。リビングを見渡すと、整頓されているはずの部屋が狭く感じられた。窓やドアが閉め切られているせいかもしれない。
ポケットからスマホを取り出し、LINEを確認した。新着メッセージは一件もない。なんとなく、普段は見ないLINEニュースの記事を開く。おしどり夫婦で有名な芸能人夫婦が破局した、みたいなゴシップ記事だった。
しかし、早く・大きくなるマグマのような音が気になって、文章を目で追っても内容は一切入ってこなかった。目元につたう汗をぬぐいもせず、ただ目を動かしていた。
耳からおなかに、重たいものが流れ込んでくる。吐き出そうと、スーッと息を吐いても、やはり軽くはならなかった。
母が鍋を開き、お鍋でぐるぐるとかき回す。
息を吸おうすると、ぶわっとした熱い香りを吸い込んだ。母のぐるぐるで、たちまち、部屋中は香りで包まれていた。
額の汗をぬぐいながら、窓を開けようと立ち上がろうとしたとき、母が料理を運んでくる。
カタン、と目の前におかれた。
「うわ、おいしそ!」
身体がおもりのようになって、口は反射で動いた。白い湯気がゆらゆらと立ち上り、自分の顔にふりかかる。
口呼吸で吸った湯気が鼻腔に入り、その香りが鼻の奥に広がった。ほのかにツンとしたスパイスの香り、野菜の甘い匂い。
ごくりとつばを飲み込む。お腹が限界で、我慢ができなくなった。
「いただきます!」
そういうと、待ちきれないといった風にバクバクとスプーンでかっこんだ。口の中に入った出来立てのカレーとほかほかのご飯は熱々だった。しかし、そんなことはお構いなしに、喉へと流し込む。おなかの中に熱く、重たいものが溜まっていく。
それは、トロリとした舌ざわりなのに、スープカレーを水で薄めているかのような味がする。ピリリと舌を刺激することもなかった。我が家は昔、中辛だった。
味よりも、口腔から鼻腔を刺激する香りが強く感じられた。
香ばしいクミン、爽やかで甘いコリアンダー、少し苦みのあるターメリック。そこに焦がした玉ねぎ・バター・りんごのまろやかでコクのあるフルーティな香り。また、奥にはハチミツらしき、キャラメルのような匂いも感じた。
刺激的なスパイスは抑えられた、優しくて甘い香り、お子様カレーの匂いだった。
そのむせ返るほどむわんと甘い匂いに、香水を振りまいた女性が自分の横を通り過ぎる、あの感覚を思い出してしまって、すぐさま首を横に振った。思考をシャットアウトして、流し込むのに集中する。
あまり噛まずに食べていたせいか、ゴロゴロと入っている人参とジャガイモが喉に突っかかった。むせそうになるのを、お茶をゴクゴクと飲んで防いだ。
飲み干したコップをテーブルに置くとき、前の席で食べている母がこちらの様子を見ていたことに気が付いた。喉が渇いて、空のコップを口元につけて、また置いた。そのカタッという音が嫌に大きく聞こえた。
顔を半分覆うように食器を持って、カッカッカと勢いよくかきこむ。喉のあたりまで迫ってきた何かを、熱いカレーで押し返すように、必死で詰め込む。お腹の中が熱くて重くてたまらなかった。
「ほいひい!」
おいしい、と口をいっぱいに頬張りながらいった。お皿で母の顔は見えなかった。
顔を隠したまま、スプーンをかき鳴らす。最後の一粒を食べ終わるまで、お皿を机にはおかなかった。
「ごちそうさま!」
限界まで掬って茶色い線が引かれたようになったお皿を持ち、足早にキッチンの流しへ向かう。サッと水で流すと、茶色はすぐに消えた。
スポンジに洗剤をかけて揉む。強く揉んだせいか、小さなシャボンが浮かんで、すぐにはじけた。
目に見えないお皿のぬるぬるは、なかなか取れなかった。皿をシンクに置いて、左手で押さえつけ、右手で力強くこそぐ。そうしてようやく、油は取れた。
再度水で流しあげ、食器置きに並べる。背中に感じる視線に気が付かないふりをして、濡れた手をタオルで素早く拭き、脇目も振らずドアに急いだ。
「お弁当箱、出した?」
俺がドアノブに手を置き半分開けたところで、母がテーブルから声をかけてきた。ドアの隙間から、廊下のひんやりとした空気をスーッと吸い込んで、振り返る。
軽くなったお弁当箱をカバンから取り出し、渡す。母はそれを受け取ると、パカリと蓋を開け、少しの間その中を見つめた。
「今日のお弁当もおいしかった、いつもありがとう!」
俺の声に、母は空になった箱から視線を外すと、ニコリと笑って「よかった。」と返してきた。
俺もそれにニコリと笑って見せて、それからドアの方へ背いた。
リビングからのぞく廊下は、もう真っ暗になっている。しかし、構わずくつずりを超え、その中へと進み、ガチャリとドアを閉める。
足を動かせば、軋みの音が微かにしたが、止まれば深閑だった。外気に近い廊下の空気は、居間との差で涼しく感じた。鼻腔をかすめるものも、その差によって薄まり、ただ「廊下の匂い」だった。
ぼんやりとした暗闇の中には、リビングから光が一筋、差し込んでいるだけである。
その光をよけて、横の暗がりに移動する。そして、ひんやりとした、その夜の空気をめいっぱい吸い込んだ。
それは、喉元から全身を冷ましていく。何かが迫ってくる感覚が霧散していく。おなかの中のマグマだまりも、冷えて固まって小さくなっていった。
しばらくそうやって深呼吸をした後、電気もつけずに自室へと向かった。