老婆の名前
あれから、半年がたった。
といっても、日が落ちて、暗くなって、次の日を迎えたのを繰り返しただけで、緩やかな流れの小川のボートに乗り流れに沿って進んでいるような、まったりとした日々の進み方だった。
家の中はごみはなく、整理整頓された家になった。
老婆とともに過ごす中でこの世界のことが少しわかった。
ぼんやりと、いままでわかったことを振り返る。
この世界はいまのところ、自分が過ごした地球にとても似ている。
日が昇り、月が上がり夜がきて、また日が昇り一日が経っていく。
腹は減るし、のどは乾く。水分や食事をしないと苦しい。
跳躍力も、元居た世界と変わりがない気がする。
決定的に違うことは、魔法があること。
ただ、一度老婆が暖炉に向かって、杖を振ると火がついた。たぶんそれが魔法だと思う。
老婆が一瞬で火をつけられる方法は魔法しかないと思って。ライターなんてないし。
でも、それ以降、魔法のようなものを見ることはなかった。
なんでって、老婆が以降「はて?どうやるんじゃったっけ、、、。考えてると頭が痛いんじゃ、、、。」と魔法が使えなくなってしまったからだ。
だから、ほんとに魔法だったのか、いまはうっすら気のせいだったのではないかと思い始めているくらいだ。
それと、元居た世界と違うのは、青いキタキツネのようなぷぎゅりとなく生き物。
老婆が一度だけなでながら、名前をメアと呼んでいた。メアがいることだろうか。
そうえば、家の中の食料はほとんどなく、整理整頓する中で、じゃがいもやニンジン、たまねぎに似た根菜やパンはあったが、ほか肉などのたんぱく源はなく。食料保管庫がないのか老婆に尋ねても「そんなものはあったことない。しらない。」ときっぱり。こんな森の中で一人暮らしの老婆が食料の備蓄なくどうやって生活していたのだろう。
仕方なく、メアと一緒に森の中に探索に向かったっけ。食べられそうなものを探したり、水を汲んだり
魚を取ってみたり、罠を仕掛けて食べれそうな小さな動物をとって調理してみたり
家の中を整理したり、畑を整えたり、それから老婆の身の回りのことをしたり、メアをなでてみたら、カプリと歯形が手に残ったりなど、最初の3か月ほどは一日の中で座ってほっとする暇もなくずっと動いていたな。
苦戦していたが、場所がわかり、自分が動かしやすい位置になったり、テンポが決まってくると
仕事でしていたように、掃除、洗濯、食事準備、片付け、入浴準備、片付け、老婆の起床と就眠の手伝い
など生活の流れを手際よく行うことができていった。
一体、老婆はいままでどうやって一人で暮らしていたのか。
助けてもらった身で失礼かもしれないが、自分が来ていなければ、いまこの世にいないのではないか。
老婆は目覚めて一度火を魔法?で付けた後、一度も魔法をみせていないし、魔法なんて知らない。使ったことがないと話す。老婆自身の名前がわからなかったり、書けないなど、認知症状がみられる。
自分の名前も覚えることができない。なんどもレイだ。と伝えても次の日には思い出せない。
けど、顔は覚えているみたいで、不安そうな顔で朝起きるが、自分の顔を見ると安心したように少女のようににこりと微笑む。
食事をなんどもねだるなどの様子はなく、日中は本を読んだり椅子に座ってうなだれて傾眠するなど穏やかに過ごしていた。
が、半年ほど経ったいま、下半身の失敗があったり、歩いている途中で転ぶなど明らかに状態が低下していっていた。
老婆がベッドで横になる時間も増えていき、食事の量も減っていった。
明らかな状態低下だ。
医師も看護師も薬剤師もいない。医療関係の相談できる人がいない。
こんな無力感の中で介護をするのは初めてだった。
助けてくれた人へ恩返しをする間もなく、したいはずの恩返しもできず
そのまま見殺しにしていいのか。
ただ悔しさをかみしめていた。
老婆がすやすやと眠りについたあと、ベッドの横の椅子に座り物思いにふける。
部屋にあった、ろうそくに火をともし、ベッドサイドのテーブルの上の皿に乗せる。
ろうそくの淡い暖色の光が老婆の寝顔を照らす。
考えていた。老婆と出会ってから。いままで。
ふと疑問に思ったのは、老婆の動作だ。
自分があってからの老婆の動作と部屋の食料や散らかり具合がかみ合わない気がしていた。
老婆の普段の生活とそれまで過ごしてきただろう生活がかみ合わない。
まるで、急に老婆になったかのように。
動くのがやっとで、自分の手がないと生活が難しいくらいなのに
この家を出て、デッキを歩いて、木の中のベッドに寝ていた?この老婆がどうやって自分をベッドに寝かせたのか。そもそも、どうやって、なにもなかったら死んでいたはずの自分をベッドに寝かせることができたのか。
おかしいとは思っていた。けれど、老婆以外の誰かがいる可能性もあるかなと思った。
けど、誰もこなかったし、誰かが来るような、だれか親しいだれかが来るような動作や言葉は
老婆の普段からは見られなかった。
たぶん、一人で生活していたんだと思う。
一緒に過ごす中で一人の生活の家だと感じていた。
もので溢れていても、一人分通れる道、雑然と散らかっていても机の上の食べるものを置く空間、貯蔵された食べ物、こじんまりとした調理道具。
一人で暮らしていたはずなのに、一人で暮らせなくなってる。
自分のせいなのだろうか。自分を治療したせいで、影響がでているのか。
いやそしたら、木の中のベッドまで一人で行くことはできない。
たぶん、急性的な、なにかしらの症状が出現したのだろう。
たぶん、ここに来た最初の日のウッドデッキの苔むした床の滑ったあと。
老婆が時折、頭が痛いということ。
身体状態の急激な低下。
頭部の打撲による症状がでて、いまの老婆の状態になっているのだろう。
かといって自分になにができるというわけでもない。
老婆はすやすやと寝息を立てている。
またか、、、。また、おれはなにもできないのか。
手に冷たいものが垂れるのを感じて目線を下げる。赤かった。
いつの間にか口から垂れていたようだ。強く口をかみしめすぎたらしい。
どうでもいい。自分を助けてくれた人に、なにもできずに終わるなんて、自分が許せない。
どうしたらいい?どうしたら?
ぷぎゅるぅ。と鳴き声が聞こえたと思った。メアが膝に乗り、口から垂れた血をぺろりと舐める。
すると、血の滴りは止まり、傷口は癒えているようだ。もしかしたら、、。メアが?
「なあ、メア。もしかして、君は癒せる力があるのかな?」
「メア、ごめん、きっとわからないと思う。けど、すがらせてくれないかな、可能性は君だけなんだ。」
メアに話しかける。どうかしてる。でも、これしか浮かばない。いま、自分にできるのは。
「メア。もともとなかったこの命なんだ。使っていい。だから。癒しを。」
老婆を見る。
膝に乗っていたメアが肩に乗ってきて、そのフンワリとした体毛で頬に触れてくる。
なにかがぐっと身体からなくなる感覚がある。長時間入浴した後湯船から出た時の身体の重み。
その数倍の重みを身体の中、中心からなくなる感覚がある。
多分、魂というものではないのかな。いい。もっと使うといい。
それで救えるものがあるなら。それで。
身体の重みがなくなり、軽くなるとともに、悪寒がして、この寒さは一生消えないような刻みなんじゃないかと思うくらい震えを感じた。身に着けている石のネックレスが熱く感じるくらいに。
が、それとともに、目の前の光景をみて、どうでもよくなった。
いつの間にか移動したメアが老婆の頭部に触れる。蜃気楼のようにモヤが明るく照らしたあと
火が付いたように光が躍る。点滅し、収縮した。
老婆は、いや、老婆ではなかった。
皺なんてものはなく、ふっくらと赤みを帯びたやわらかな頬と
丸みを帯び、柔軟な肢体、そこに川の流れの中に光の反射を包んでいるような金色の髪がさらりとある。
若さ。がそこにあった。その姿がもともと正しいかのように、老婆が眠っていた家は活気を取り戻したような温かみを感じた。
その姿を見て、驚きはしたが、老婆が老婆でないことはなんとなく感じていたので芯まで驚かなかった。
くらくらとめまいがして、夜勤後の水を含んだ服を着て泳ぐような重い眠気、もう目を覚まさないんじゃないかという眠気にとらわれていた自分がその言葉を聞いて、心底驚いた。
「フイラレイ。君のそれは、自己犠牲というよりも、ゆがんだ自己愛に思えるよ。」
冷えた冬の石のような声色で青いキタキツネがゆらりゆらりと海中を漂う海藻のように揺らめきながらくつくつと笑って言う。
「ぼくの名前は正しくメア。この後できっと君は意識を失うよ。失ったものは意識だけじゃないけれどね。」
メアがすうっと老婆だった娘を見る。
「きっと、これから君の旅が始まる。運命は始まった。ちなみに君の両親は事故で亡くなったんじゃないよ。その運命じゃなかったんだ。本来ならね。ゆがめられた君の運命をぼくはずっと見守ってた。」
目がフイラレイに向き直る。
「大丈夫。でも、もう行かなくちゃ。この娘が正しく目を覚ますから。またね。フイラレイ。
ぼくはもう一方についているからね。」
なにを言ってるんだ?なにを?意味が、、、。
「またね。」
そういって、視界から青が消える。視界もぼんやりして、椅子に座ってられない。
耐えようとするが、無理そうだ。運命がなんだって?てか、メア喋れたなら。もっと、、、。はやく、、、。
そうして意識がなくなり床に倒れこみそうになる身体をあたたかな手が支えてくれた。
耳の長い、エルフと呼ばれる種族の特徴をもつ。美しいその人の声を聴く。
「おおっと?大丈夫かえ?なんでこんなところで座ってるのじゃ?」
すうっと意識がなくなる。
「わしの名前はオレンジ。おぬしは何じゃったかのぉ?」
と鈴のようなきれいな声で聞かれたと思ったのを最後に意識がなくなった。